今はただそれだけで
緩く波打つ髪を靡かせて、白いセーラー服を纏った背中が小走りで駆けていく。遠ざかっていく後ろ姿を、紡はペンキを塗る手を止めて見つめた。

(さっき、またこっちを見てたな)

最近、視線を感じることが増えた。目が合うと、すぐに逸らされてしまうが、気付くとまたこちらを見ている。
そこに、なにか意味はあるのだろうか。それとも、たまたま視線の先に自分がいただけで、本当は他のものを見ていたのだろうか。

「どうした?」

と、狭山に声をかけられてはっとする。こんなことで一喜一憂してしまう自分に嘆息し、紡はなんでもない、と返して作業を再開した。
もうずっと、彼女への想いを持て余している。あの日もそうだった。


******


進級したばかりの頃、守鏡でちさきを見かけたことがあった。ちさきは珍しく一人で、所在なさげにきょろきょろと立ち並ぶ建物を見上げながら歩いていた。なにしてるんだ、と近付いて背後から声をかけると、ひゃっと跳ね上がって振り返った。

「なんだ、紡くんか」

ちさきは紡を認めて胸を撫で下ろしたが、驚き過ぎてしまったことがきまり悪いのか、恥じ入るように頬を染めた。

「なんか探してたのか?」

「うん。修理に出してたお父さんの腕時計をとりにきたんだけど、お店が見当たらなくて」

なんて店? と尋ねると、手に持っていたメモを見せてきた。店の名前と一緒に簡単な地図も描いてあったが、この辺りは少し入り組んでいるから、慣れてなければ迷うのも無理はないだろう。

「それならこっち」

口で説明するよりも歩いて案内した方がはやい。踵を返して歩き出すと、ちさきは慌てて隣に並び、覗き込むように見上げてきた。

「あの、いいの? 紡くんもなにか用事があるんじゃ……」

「もうすんだから」

いつものことながら気乗りしないが、母親に顔を見せにきただけだ。それも早々に切り上げて、電車がくるまでの時間をどう潰そうか考えていたところだった。
ちさきは事情を察したらしくなにか言いかけたが、呑み込んで、代わりに「じゃあ、お願い」と口にした。

一歩前を歩きながら、紡は時折盗み見るように横目でちさきを見やった。春らしいカーディガンを羽織った姿は、制服の時よりもずいぶんと大人びて見える。私服を見たことは何度かあったが、そのたびに雰囲気が変わるのだから不思議だった。

しばらくして、目的の時計店に着いた。ちさきが店員と話している間、腕時計が並んだガラスケースの前で待つ。さして時間をかけずに、ちさきは店の紙袋を手にして戻ってきた。

「お待たせ。ありがとう、案内してくれて」

「べつに、暇だったし。他にも行くとこあるなら、付き合うけど」

ちさきは少し躊躇うように目を泳がせてから、おずおずと「服も見たいんだけど」と口にした。頷いて、一緒にデパートに向かう。
流石に日曜日なだけあって、デパートは混んでいた。運よく空いていたエレベーターで若者向けの店が多くある階に上がる。色々と見て回りながら、ちさきは楽しげに瞳を輝かせた。

「ねえ、紡くんはどんな色が好き?」

「青」

何故そんなことを訊くのかと首をひねりながら答えると、ちさきは「やっぱり海の色なんだ」と納得したように笑みを浮かべた。
それから少し歩いたところで、気になるものを見つけたらしく、足を止めて店先にかけられたワンピースを手にとった。

「これとこれなら、どっちがいいと思う?」

そう言ってちさきが掲げたのは、どちらも青色のワンピースだった。

「なにが違うんだ」

「違うでしょ、襟の形とか、袖口とか。こっちはウエストをリボンで絞ってるし」

言われてみると確かに違うが、だからといって、どちらがいいのかまではわからない。正直に「どっちでも」と答えると、「そうだよね……」と諦めたように肩を落とされた。こういう時、どうにも気の利いた言葉がでてこない。

結局ちさきは話しかけてきた店員に勧められた方を試着することになった。
厚手のカーテンで仕切られているとはいえ、近くで着替えを待っているのはなんとなく落ち着かない。手持ち無沙汰に宙を眺めていると、そっと試着室のカーテンが開けられた。

「どう、かな?」

膝丈のワンピースを身に纏ったちさきは、清楚で涼やかに見えた。淡い青も白い肌や青い瞳によく合っている。
一瞬見惚れて言葉を失っている間に、横で店員が「よくお似合いですよ」とにこやかに褒めた。

「彼氏さんもそう思いますよね?」

笑顔のまま、店員は紡の方を向いた。
その呼称が自分のことだとは思えなくて、反応が遅れた。

「ち、違います! 友達です!」

紡が訂正するよりも先にちさきの方が必死に否定する。からかうような、それでいて微笑ましいものを見るような目を向けられると、真っ赤な顔で「これ、買います!」と言い置いて、逃げるようにカーテンを閉めた。
閉ざされたカーテンを紡は眉を顰めて見つめた。
ちさきの言葉は、ただの事実だ。それなのに、何故か胸がもやついた。

元の服に着替えたちさきは気まずそうな顔で会計を済ませた。
「荷物、持とうか」と手を差し出すが、目も合わさずに「軽いから平気」と断られる。「そろそろ電車の時間だし、帰ろうか」と先に歩きだす背中が、まるで自分のことを避けているように思えて、追いかける足が重くなった。
そんなに誤解されたのが嫌だったのだろうか。
沈黙が苦手なわけではないが、今は少し息苦しい。この空気をどうにかしたくて口を開く。だが、でてきたのは先程言えなかったものだけだった。

「さっきは言いそびれたけど、あの服、すごく似合ってた」

口にしてから、間違えたと思った。そのつもりはなかったが、先程の誤解を蒸し返しかねない発言だった。
だが、ちさきは目を見張ったかと思うと、照れたように俯いて、ありがとう、と囁くように礼を言った。滑らかな頬が色づいて、形のよい唇が弧を描く。相変わらず目は合わなかったが、先程の気まずさはもうなかった。
なんだ、これでよかったのか。
ほのかな微笑みに、靄も晴れていった。

鴛大師の駅に着いた時には、もう日が暮れていた。
埠頭までちさきを送る道すがら、他愛もない話をする。気まずい空気はもうないはずなのに、埠頭が近付くごとに足取りが鈍くなった。

「今日は本当にありがとう」

埠頭に着くと、ちさきは柔らかに微笑んで背を向けた。階段を降りて、夕陽に輝いた波に混じっていこうする。
離れていく背を、紡は思わず呼び止めた。

「どうしたの?」

と、首を傾げて振り返られ、紡は自分のしたことに戸惑った。
いったい、なにをしようとしたのか。
わからないまま、当たり障りのないことを口にした。

「……気を付けて帰れよ」

「うん、紡くんも」

ゆっくりと、ちさきが海に帰っていく。
見送りながら、帰したくないと思っている自分に気付いて愕然とした。
だが、本当はずっと前からそうだったのかもしれない。エナを持たず、海の中では生きられない者がこの想いを叶えるということは、そういうことなのだ。変わりたくないと泣くような臆病な少女を海から引き離すことになるのだ。
それは、はたして正しいことなのだろうか。
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