なんでもない日
アルバムを購入すると、当然のように紡が袋を持ってくれた。私の荷物だから私が持つ、と言ったのだが、軽いから、と渡してくれず、代わりとばかりに差し出した手を掴まれた。また心臓が早鐘を打って、なにも言えなくなってしまう。手を引かれるまま、足を動かすことしかできなかった。
駅に向かう間も、駅のホームのベンチに座ってからも手は繋がれたままで、落ち着かなくて何度も時計を確認してしまう。
やっぱり、これはデートだったのだろうか。それとも、この行為にたいした意味などないのだろうか。
ぐるぐると答えのでない問いを脳内で繰り返していると、ちさき、と真面目な声で名前を呼ばれた。
「なにかあったのか? それとも、俺がなにかした?」
「な、なんで?」
突然紡に尋ねられ、返す声が上擦った。
なにかされたかといえば、今まさにされているけれど。
「今日、やけに俺のことを意識してるから」
「……っ」
自意識過剰、と言ってやりたかったが、声が詰まって言い返せなかった。
しばらくわなわなと唇を震わせて、ちさきは吐き捨てるように答えた。
「だって、デートだと思ったから」
「えっ」
紡が目を丸くする。その反応にちさきは深くため息をついた。
そんな気はしていたけれど、やっぱり紡にそのつもりはなかったのだ。
「デートなんてしたことないんだから、意識するに決まってるじゃない。途中で違うのかなって思って、いつも通りにしようとしたのに、手とか繋いでくるし。紡にそんなつもりはなかったみたいだけど」
早口で言い訳と恨み言を並べて、ちさきは顔を背けた。
自意識過剰なのは自分の方だ。勝手に空回って、勝手に拗ねて。自分の幼さが心底嫌になる。
逃げられるものなら、今すぐこの手を離して逃げ出したい。うなじの辺りに視線を感じていたたまれなかった。
「だから、わざわざ俺が選んだ服に着替えたのか」
「覚えてっ!?」
ちさきはばっと振り返った。
紡は改めてちさきを見つめて口元を緩めた。
「可愛いな、本当に」
そんなことを分析しないでほしい、とか、そういうことは最初に言ってほしい、とか、文句を言ってやりたいことは色々あるのに、覚えていてくれたことや可愛いと言ってくれたことが嬉しくて、舞い上がってしまいそうで、無性に悔しくなった。
「……私だけどきどきして、馬鹿みたい」
「俺もちさきといると、どきどきするよ」
「そんな下手な嘘つかなくていいわよ」
「嘘じゃない、ほら」
掴まれていた手を持ち上げられて、紡の胸に押しあてられる。掌からとくとくと心臓の音が伝わってきた。
「お前と一緒にいると、いつもより鼓動が速くなるし、お前に触れたくてたまらなくなる」
握られた手が熱い。その手の下で脈打つ心臓の音に、うるさいくらいに響く自分の心音が重なって、わけがわからなかった。
「わ、わからないわよ。いつものを知らないんだから」
「ああ、そうか。じゃあ、他の方法を考えてみる」
少し俯いて、紡は考え込みはじめた。盗み見るように窺った顔は真剣そのもので、ちさきはぽかんと目を丸くする。
その顔を見ていたら、しだいにおかしくなって、悪いとは思いながらも噴き出してしまった。顔を伏せて声を押し殺そうとするが、抑えきれなかった笑い声がいくつも口から零れてしまう。
「ちさき?」
訝しげに呼ばれるが、すぐには反応できず、ひとしきり笑ってから、ちさきはようやく顔を上げた。
「もういいよ。よくわかったから。考えてみたら、私も同じだった」
今日は意識しすぎて挙動不審になってしまったけれど、よくよく考えてみれば、紡と一緒にいて胸が高鳴るのなんて日常茶飯事なのだ。デートかどうかなんて、たいした問題ではなかった。
それはきっと紡も同じなのだろう。同じでいてくれるのだろう。
「本当はなんでもいいの。デートでも、そうじゃなくても、紡と一緒にいられるなら、なんだっていいの」
照れ臭そうに微笑んで、ちさきは紡を見つめた。つられるように紡も微笑を浮かべる。
また胸が高鳴ったけれど、不思議とそれが心地よかった。
その時、紡が握った手に力を込めて、そっと顔を寄せてきた。
「キスしてもいいか?」
流石にこれにはぎょっとした。
咄嗟に身を引くが、その分だけ距離を詰められる。吐息がかかりそうなくらい顔が近付いて、このまま見つめられ続けたら頷いてしまいそうだった。
だが、吹き抜けていった風にここがどこか思い出し、力の入らない左手で紡の肩を押し返した。
「だ、だめに決まってるでしょ!? 誰かに見られたらどうするの!?」
「誰もいないけど」
「誰かくるかもしれないでしょ。家に帰るまで我慢して」
「わかった」
紡がふっと微笑したかと思うと、額に柔らかなものが押しあてられた。それがなにかに気付いて、顔が熱くなる。
まだ感触が残っている気がするそこに手をあて、ちさきはわなないた。
「わかってない!」