木洩れ日に揺蕩う
洗濯籠を持って庭に出ると、涼やかな風と澄んだ朝日がちさきのエナを包んだ。目が覚めるような空の青に、薄霞のような雲がゆっくりと流れている。
休日に天気がいいと得した気持ちになるものだ。心地のよい風と日差しに、今日は久しぶりに布団も干そうかな、と考えながら洗濯物を干していく。
しばらくして、玄関の方から紡が出てくるのが見えた。

「紡、出かけるの?」

「ああ、ちょっと船見てくる」

「そっか、いってらっしゃい」

海に向かう紡を見送り、ちさきは再び手を動かしはじめた。
勇が入院してから漁にでることはなくなったが、それでも紡は船や漁網の整備を欠かさない。前にその理由を尋ねたら、使わないと勝手に傷んでいくから、と返された。きっと勇が退院した時に、いつでも漁にでられるようにしておきたいのだろう。
紡は勇が退院する日を信じて、自分のできることをしながら待っている。ちさきも同じように信じて待ちたいと思う。勇のことも、汐鹿生の人たちのことも。

つと、ちさきは海に視線を滑らせた。
時を止めた海は空から注ぐ日の光を揺らめかしながら、ただそこにあった。前ほど怖くはなくなったが、それでも時折、凪いだ海を見ていると、現実の海とは反対に不安の波が押し寄せることがある。後悔の波の音も消えたわけではない。けれど、今はただ穏やかで綺麗だと思えた。

洗濯物を干し終えると、ちさきは居間と勇の部屋を掃除しはじめた。とはいえ、もともと物を持たない人なので、ほとんどなにもないと言っても過言ではない部屋の掃除はすぐに終わってしまう。
居間の箪笥や納屋には勇の私物も少しあるが、そう頻繁に虫干しする必要のあるものはないので、今日はなにもしなくてもいいだろう。先日生けた花はまだ艶々と咲き誇っていたので、水を換えるだけにしておいた。

廊下にある押入れから勇の布団を取りだし外に干すと、ちさきは二階に上がった。
自分の布団を窓辺に干し、部屋の掃除をする。それから、観葉植物に水と肥料をやった。
自室でやることが終わったら、紡の部屋に入り、彼の布団も窓辺に干す。本当はそれだけのつもりだったが、ついでだからと紡の部屋も掃除することにした。
紡も散らかすような性質ではないため、本人に任せていても問題はないのだが、意外と抜けたところがあることを知ってしまったせいか、つい世話を焼いてしまう。それでも以前はプライベートな空間だからと遠慮していたのだが、いつの間にか気にしなくなっていた。紡自身も、見られて困るようなものはないし、と気にしたそぶりを見せたことがないので余計にだ。

畳に掃除機をかけていると、机の下に本が落ちているのに気付いた。きっと布団の中で読んでいるうちに寝てしまって、寝返りをうった拍子に蹴飛ばすか振り払うかしたのだろう。また子供みたいなことして、と苦笑して掃除機を止め、その本を拾い上げた。
表紙には角ばった白い建物の写真と都会の大学の名前が印刷されている。どうやら大学の資料らしい。おそらく昨日の進路指導で貰ったものだろう。
大学名にも冠されている地名は、鴛大師から電車を乗り継いで数時間かかる場所だった。気が遠くなるほど離れているわけではないが、ここから通える距離でもない。

(大学に合格したら、紡もこの家から出ていっちゃうんだ)

そんなことは最初からわかっていたはずだった。なのに、今になって現実味を帯びてきたのだろうか。
嫌だ、と叫ぶように心臓が脈打つ。紡の進路を応援したいと思っていたはずなのに、いかないでほしい、と身勝手な想いが心の奥底から溢れてくる。

(だめ、こんなこと考えちゃ……)

我が儘な自分を追い出すために頭を振る。
誰かが離れていくことに過敏になっているのかもしれない。きっと、そのせいだ。なくしたくないと、ずっとそばにいてほしいと思うのは。
紡は汐鹿生の人たちのようにいつ目覚めるかわからないわけでも、勇のように病に侵されているわけでもない。ただ大学に行くだけなのだ。なにも不安になることなんてないのに。
ずっとそばにいて支えてくれたから、その時がきたら寂しいだろうけど、でも、だからこそ、笑って送り出さなければ。それが紡の選んだ道だから。

(もっと、しっかりしなくちゃ)

心配させないように。一人になっても泣かないように。
どのみち、ずっと一緒にはいられないのだから。


******


家中の掃除を終えて時計を確認すると、すでに正午を回っていた。もうそんな時間かと驚くとともに、まだ帰ってきていない紡のことが気にかかった。いつもなら、もう帰ってきている時間なのだが。
なにかあったのだろうか。船に異常があって、修理に時間がかかっているのならいい。けれど、もし紡自身になにかあったのだとしたら――。

時計の針の音がやけに大きく聞こえて、焦燥感を煽る。膨らんでいく嫌な想像にせきたてられ、ちさきは弾かれたように玄関に向かった。靴を履く手間さえもどかしい。靴紐の緩みすら気にとめず、駆け出した勢いのまま玄関の戸を開けた。
が、目の前に広がるのはいつもの景色ではなく、見覚えのある服で、止まり切れなかった足がもつれた。よろめいた身体を目の前の人が受け止めてくれる。

「大丈夫か?」

「……紡」

いつもと変わらない紡の顔を認め、ちさきは大きく息を吐いた。咄嗟に目の前の服を握り締めていた手は震えていたが、肩を掴む手の大きさとあたたかさに少しずつ落ち着いていく。紡が支えてくれていなければ、その場にへたり込んでいたかもしれない。
震えが収まってから、ごめん、と謝ってそっと身体を離す。紡は肩に置いた手はそのままに、ちさきの顔を覗き込んだ。

「なにかあったのか?」

「それはこっちのセリフ。なかなか帰ってこないから、なにかあったんじゃないかって」

「ああ。漁協の人が怪我してたから、少し手伝ってた」

これお礼にって、と紡は手に提げていたバケツを少し掲げた。中にはたくさんのイワシが入っている。きっと大漁だったのだろう。しばらくおかずには困らなさそうだ。
紡らしい理由に、ちさきは脱力して笑った。

「そう……。ほんと、なにもなくてよかった」

「そんなに心配しなくても」

「するわよ! 紡までいなくなっちゃったら、私……」

はっとして、言いかけた言葉を呑み込んだ。
しっかりしなければ、と決心した矢先に、なんて甘えたことを言っているのだろう。

「ごめん、変なこと言った。忘れて」

恥じるように目を伏せ、ちさきは背を向けた。お昼ご飯の準備しなきゃ、と誤魔化すように台所に向かう。
だから、紡が目を見張ったことにも、固く拳を握ったことにも気が付かなかった。

「俺はいなくならない」

背中にかけられた言葉の強さに息を呑む。
振り返ると、紡は玄関の戸をくぐって、ちさきのすぐそばまで歩み寄った。

「ちゃんとここに帰ってくる」

誓うように告げられた言葉は、ちさきがずっと欲しがっていたものかもしれなかった。あの日からずっと、大切な人たちの帰りをここで待ち続けているから。
目の奥が熱くなるのを感じながら、ちさきはこらえるように微笑んだ。

「きっとよ」

「絶対だ」

震える声に重ねられた言葉はやはり力強い。それだけでもう充分すぎるほどだった。
紡が固く結んでくれた約束を、ちさきはそっと胸に仕舞った。



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