木洩れ日に揺蕩う
通いはじめた病院は、いつも消毒液のにおいで満ちていた。
ちさきと紡は静かに病室に入り、一番奥のベッドに向かう。おじいちゃん、と声をかけて仕切りのカーテンを少し開けると、新聞の文字を追っていた勇が顔を上げた。

「今日は調子よさそうだね」

ちさきは勇の顔を見るなり、ほっとして表情を緩めた。
手術は成功したものの、いまだ回復したとは言い難く、日によっては寝込んでいることもあった。だが、今日は容態が安定しているらしい。
紡も勇の顔色のよさを確かめ、かすかに息を吐いた。

ちさきは戸棚の中の着替えやタオルを入れ替えながら、「ここのところ、夜は冷え込むけど大丈夫?」「ご飯、ちゃんと食べてる?」と、いつものようにあれこれ尋ねた。ああ、ああ、と返事をし、勇はため息をつく。

「そこまで心配するようなもんでもない」

「そういうことは、ちゃんと治してから言ってくれ」

呆れを含ませた口振りで紡が言った。勇は紡を見やり、なんとも言えない顔をする。紡は有無を言わせないような目で勇を見返した。
戸棚の陰でちさきはくすくすと笑ってしまった。紡が勇にたしなめられている場面をよく目にしてきただけに、立場が逆転していることがおかしくて仕方がなかった。
二人はしばらく無言で見合っていたが、おもむろに勇が口を開いた。

「そっちはどうだ? そろそろ進路指導の時期だろう」

「担任は、合格圏内だろうって」

「そうなんだ。よかった」

ちさきは胸を撫で下ろした。
海洋学研究科を志望していると聞いた時も、きっと紡なら大丈夫だろうと思っていたが、こうして教師からもお墨付きを貰うと、やはり心強い。
それでも進路指導が長引いたのは、家のことについても訊かれたせいだろうか。ちさきの担任は勇が倒れたことを心配して、進路や奨学金以外のことにも相談にのると言ってくれた。紡のクラスの担任も人のいい先生だそうだから、色々と心配してくれたのかもしれない。

「ちさきも今日だったよな?」

「うん。そのことなんだけど、今の成績なら近くの看護学校への推薦もだせるって。せっかくだから、お願いしてみようと思う」

「そうか」

勇はどこか誇らしげな顔で頷いた。なんだか面映ゆくなって、ちさきはくすぐったそうに笑った。
だがその瞬間、勇が急に呻き、咳き込みだした。なにかを吐き出そうとするかのように、何度も何度も苦しげな咳を繰り返す。ちさきは慌てて丸まった背中をさすった。

「おじいちゃん、大丈夫?」

「……ああ、少しむせただけだ」

長い咳が落ち着いたところで、勇は息を切らせて答えた。ちさきが差し出した水筒のぬるいお茶を受け取り、ゆっくりと飲み下す。

「もう横になって休んだ方がいい。少し顔色悪くなってきた」

紡に言われ、勇は渋々といった様子で布団に入った。浅い呼吸はしだい深くなっていき、やがて寝息に変わった。咳き込んだせいだろう。寝顔には疲れが滲んでいた。
黄昏の濃い影が落ちる勇の顔を、ちさきと紡は心配そうに見つめた。


******


とんとん、と一定のリズムでまな板を叩く音が響く。そこに床板の軋む音が加わり、ちさきは手をとめて廊下の方を振り返った。

「紡、お風呂沸かしてくれた?」

「ああ。シャンプー切れそうだったから、詰め替えといた」

「ありがとう。ご飯、すぐできるから、もう少しだけ待っててね」

切り終わった野菜を鍋に入れて蓋をする。魚は今焼いているし、きんぴらごぼうも味を染み込ませている最中だ。
紡にはまだ敵わないが、この家に来たばかりの頃に比べれば、手際はよくなった方だろう。

「手伝うよ」

紡はサンダルを履き、土間に下りた。
勇が入院してから、紡は手が空くと料理を手伝ってくれるようになった。いや、本当は前から何度も手伝ってくれようとはしていた。そのたびにちさきが断っていただけだ。けれど、今は自然とその言葉を受け入れられる。

「じゃあ、食器だしてくれる?」

ああ、と頷き、紡は食器棚を開けた。そこから茶碗を三つ取りだし、あっ、と声を漏らす。そっと棚に戻されていく一つの茶碗を見つめ、ちさきは瞳を揺らした。

ちさきがここに来た時から、用意される茶碗はいつも三つだった。それが一つ少なくなったというだけで、この家に大きな穴が空いたように感じる。あの茶碗が再び使われる時は訪れるのだろうか。
勇は入院しているだけで、いつかはちゃんと身体を治して戻ってきてくれるはずだと信じたい。けれど、不安はいつもこの身に付き纏う。
今日の勇の寝顔を思い出し、暗い思考の海に落ちかけた時だった。

「ちさき!」

鋭い声で名前を呼ばれると同時に、焼けるような痛みが指先に走った。見開いた目に吹きこぼれた鍋が映った時にはもう横から伸びた手がコンロの火を消し、手首を掴まれ蛇口の下まで導かれる。流水が熱と痛みを持った指先を冷やし、ちさきはようやく自分の失態を理解した。

「かかったのはここだけか?」

紡は痛ましげに眉を寄せて、ちさきの顔を覗き込んだ。

「うん。……ごめん、少しぼーっとしてた」

「じいさんのことか?」

どうして、紡はなんでも見抜いてしまうのだろう。
おかげで誤魔化すこともできやしない。

「なんか、色々不安になっちゃって。……だめだね、これじゃ私がおじいちゃんに心配かけちゃう」

ちさきは俯き自嘲した。ふいに、手首を掴む力が強くなる。

「あんまり一人で抱え込もうとするなよ。じいさんが心配なのは、俺も同じだ」

「紡……」

ちさきは目を大きくして紡を見上げた。紡はまっすぐにちさきを見つめている。
紡はいつもそうだ。嘘や誤魔化しなど一切持たない。その目を恐れた時もあったけれど、今は心強く思えた。
ちさきはゆっくりと目を細め、小さく頷いた。
手首を掴む紡の手はやはり大きく、冷えたところから少しずつぬくもりが沁み込んでいった。
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