突然降ってきた雨から逃れるために、紡はちさきと近くの倉庫の軒先に駆け込んだ。
見上げた空は分厚い雲に覆われ、バケツを引っくり返したように激しく雨を降らせる。髪も服も濡れて肌に張り付き気持ちが悪かった。
「さっきまであんなに晴れてたのにね」
隣でちさきがため息を零す。
ああ、と頷きながら紡はちさきを見やり目を見開いた。
濡れて彼女の肌に張り付いたブラウスが透けてうっすらと下着が見えてしまっていたのだ。慌てて視線を外すものの心臓は大きく高鳴る。
「……タオルとかあるか?」
「うん? ないよ。私だっていきなりだったから準備してなかったし」
「そうだよな……」
どうやらちさきは全く気付いていないらしい。しかし、この場で指摘するのは憚られた。
仕方なく紡は自分の上着を脱いでちさきに差し出す。
「これ使え」
「え……でもそれじゃあ紡が寒いんじゃ……それに汚れちゃうかもしれないし……」
「別に構わない。風邪引くよりマシだろ」
「それはそうだけど……ありがとう」
おずおずと受け取ったのち、申し訳なさそうな表情を浮かべながらもちさきはそれを受け取った。彼女が袖を通したところで紡はそっと胸元を隠すようにしてやる。
「悪いけど少しだけ我慢してくれ」
「ううん。大丈夫だよ」
微笑んで首を振る彼女を見てほっとすると同時に罪悪感を覚える。さっき見えた水色の下着がどうしても頭から離れない。
(ちさきは俺がこんなこと考えているなんて思いもしないだろうな)
いつものことだが、ちさきは警戒心がまるでない。自分のことを異性として意識しているとは微塵にも思っていないはずだ。だからこそ無防備なのだけれど。
「……ねえ、紡ってば!」
はっと我に返ると目の前にちさきの顔があった。彼女は頬を膨らませている。
「何ぼーっとしてるの! もうすぐ止むかな?」
「いや……まだしばらく降り続けるんじゃないか? 」
見上げた雨雲は空一面を覆っている。しばらくは止まないだろう。
「困ったね……。早く帰らないと夕飯の準備に間に合わないかも」
「先に帰って傘とってこようか?」
「いいよ。そんなことしたら紡がびしょぬれになるでしょ。それよりここで待とう。そのうち止むだろうし」
「わかった」
結局そのまま二人でぼんやりと雨宿りを続けた。時折、風が強く吹いては屋根の端から雨水が流れ落ちる。その間、会話はなかった。ただ黙々と時間が過ぎていくだけだ。それでも不思議と居心地の悪さはない。むしろこのままずっとこうしていたいとさえ思うほどに穏やかで静かな時間だった。
ふと横を見るとちさきの横顔が見える。長いまつげに縁取られた瞳は何を考えるでもなく虚空に向けられていた。薄く色づいた唇からは小さな吐息だけが漏れ聞こえる。
(綺麗だ……)
思わず見惚れてしまうほどの美しさに紡の心音が大きく跳ね上がった。
それと同時に今まで感じたことのない感情が湧き上がる。
触れたい―――。
衝動的に手を伸ばしかけた時だった。突然強い突風に煽られ、ちさきの上体がぐらりと揺れた。咄嵯に腕を掴むことで転倒は免れたものの、彼女の身体は完全に紡の方へと倒れ込んでくる。
「きゃっ!?」
「ちさき!」
間一髪、抱き留めることには成功したものの勢いを殺しきれず二人はそのまま地面の上に転がってしまった。幸い下草に覆われていたため痛みはほとんどない。しかし、密着した体勢のままでは心臓の音まで伝わってしまいそうだった。
「ごめん! 怪我しなかった!?」
慌てたちさきはすぐに起き上がって紡の身を案じてくる。一方の紡はまだ動けずにいるというのにだ。
「俺は平気だから気にするな」
動揺を隠しながらなんとかそれだけを口にすると、ちさきは安堵のため息をつく。そして、再び謝罪の言葉を繰り返した。
「本当にごめんなさい。まさかあんなに強い風が来るなんて思ってなくて……」
しゅんとした様子を見せる彼女に紡は何も言えなくなる。確かに驚いたが、別に怒るようなことではないのだ。なのにどうしてそこまで謝る必要があるのか理解できなかった。
「……別に怒ってないからそんなに落ち込むな」
そう言うとちさきは大きな目をぱちくりとさせる。それからようやく安心したように笑みを浮かべてくれた。
「うん、ありがとう」
その笑顔を見た途端、どくん、と大きく鼓動が鳴る。同時に先程までの苛立ちが嘘のように消えていった。ちさきの表情一つでこんなにも簡単に気持ちが変わるなんて自分でも信じられないくらいだ。
「……そろそろ帰るか」
気付けば辺りは既に薄暗くなっていた。これ以上遅くなるわけにはいかない。そう思い立ち上がると、ちさきもまた腰を上げる。
「うん、そうだね」
そうして歩き出したのだが、すぐにちさきが立ち止まる気配を感じた。振り返ると彼女は何か言いたそうにしている。
「どうした?」
「えっと……あの……さっきは助けてくれてありがとう」
「ああ」
「それと……その……庇ってくれたこと嬉しかったよ」
ちさきは照れたような表情を浮かべながら告げる。しかし、紡は首を傾げた。
「別に当たり前のことをしただけだ」
「でも、私はすごく助かったから。だから、お礼がしたいの」
「お礼?」
「そう。紡はいつも私を助けてくれるから……私だって紡の力になりたい」
ちさきは真剣そのものといった表情を浮かべている。紡は呆然と彼女を見つめ返した。
「お礼なんかいい」
「よくない。私だって紡のためにできることが……」
「じゃあ」
紡はちさきの言葉を遮るように口を開く。
「手、貸して」
「え?」
戸惑う彼女をよそに紡は自分の右手を差し出す。意図がわからず困惑しているようだが、ちさきは恐る恐るというふうに手を重ねてきた。それをしっかりと握ると、彼女はますます混乱したようだった。
「つ、紡……?」
「こうしたらお互い冷えずにすむだろ?」
そんなのはただの口実だ。本当はただこうして手を繋ぎたかっただけなのだから。
「……っ!」
ちさきの顔がみるみると赤くなっていく。恥ずかしいのだろう。けれど、振り解こうとはしない。それがとても愛しく思えた。
「行こうか」
「……うん」
雨上がりの夜道を二人で歩く。繋いだ手の温もりを感じながらゆっくりと。
雲の切れ間からは月が覗いていた。
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ベタですけど、濡れたブラウスが透けて意識してしまったり、上着を貸して隠したりするのいいですよね。
雨宿りしてる間の二人きりの沈黙に心地よさを感じてる描写も好き。
なにも言わなくてもそばにいるだけで落ち着くんでしょうね。
ちさきの横顔に見惚れて綺麗だって思うのも紡っぽいし、触れたいって気持ちが抑えきれないのもよき。
その瞬間にちさきが倒れそうになって、意図しない形で触れることになったのもじれったくていいですね。
いつも助けてもらってるからお礼がしたいと言うちさきもいいですね。
好きだとは言えないし認められないちさきの紡にあげられる精一杯の気持ちが「紡の力になりたい」なんでしょうね。
それに対する紡の返答は最初「キスしてくれ」だったんですが、流石にこの状況で言わないだろうなーと思ったので、こっちで「手、貸してくれ」に変えました。「俺はちさき以外なにもいらない」ときっぱり言い切る紡もよかったんですけどね。でも、冷えないようにという口実で手を繋ぐ紡も全然意識してないようで手を繋ぐのは照れるちさきも可愛かったので、今回はこっちでよかったです。両片想いの二人の雨宿りとして綺麗に纏まってましたしね。
(2022/07/14)