音のない森の中、左胸に手を当てる。何ひとつ、生き物として稼働していることを知らせてくれない。息を止めようとすれば、それはどこまでも可能で、身じろぎしなければ、自らの作り出す音は皆無となる。
(やっと、見つけた……!)
人里離れた、という表現は正しくない。どれだけ離れても、人里は存在しないからだ。
かつては近くに里もあり、人も住んでいたのだけれど。
(……ずっとここに在ったのか)
かつて見知った面影はどこにも残っていない。現在、たった二人が暮らしている小屋の形も、周囲に生える樹木も、五百年前の景色とは似ても似つかない。植物が数十年で変わることはないが、何百年ともあれば、流石に地形を変えるくらいの変化が表れる。喜ばしいことか知らぬが、樹が増えたようだ。
「――誰か、居るのか」
「!!」
鳥が羽ばたいた。
修行をしているとはいえ、忍でもない人間に存在を悟られることがあるとは、油断しきっていた。気配を消し忘れていたとも思えない、今更そのような愚行を冒すとは。
「…貴殿、あの小屋の主と見受ける。違いないか?」
「……ふむ。そうであるとして、」
「ならば問う。貴殿、水鏡を知っているか」
動揺した様子がこちらまで伝わってくる。声から察するに、若い男性ではない。顔が見られれば一番良いのだが、こちらが顔を見せないからには、それを望むのは酷というものだ。見せることに躊躇はない。しかし、今はまだその時ではない。
「みずかがみ、か? みかがみではなく?」
「みかがみ…? ああ、今はそうなったのか」
「……何奴」
足元が揺れる。樹の根元を攻撃したらしく、ゆっくりと倒れていく。
相手が違うのだ。そして時は満ちておらぬ。
「今は名乗れん」
そう、今は。
「…そうか」
「すまない。…危害を加える気はない、確認に来ただけだ」
小屋の中から、小さな人影が飛び出してくる。涼しげに透き通った蒼い銀髪を後ろでくくった、年端もいかぬ少年が駆けてくる。同じような瞳と、整った線の細い顔立ちに息をのむ。
「師匠!」
「凍季也?」
声の主に駆け寄った少年に手を引かれ、声の主が小屋の中へ連れて行かれる。名残惜しそうに振り返った顔は、怪訝そうにこちらを捉える老人のそれだった。
「……巡、」
凍季也と呼ばれた、懐かしい人によく似た少年を見つめる老人は、ひどく優しい目をしていた。
「御仁、何故この場所を知られたか存じませぬが、どうかくれぐれも内密に」
「案ずるな。私は、誰にも言うつもりはない」
「それは安心した…」
水鏡一族は、柔らかく笑うようになったようだ。何百年も経って、変わるものと、変わらないものがあるらしい。
「邪魔したな。……水鏡凍季也、時が来たれば、いずれ会おう」
今はその魂に出会えたことを喜ぶべきだろう。あの人が最後まで守ろうとしたものは、今も守られている。今は、それだけで十分だ。
《桔梗、そろそろ戻らねば》
「ああ、わかっている」
左胸に手を当てる。やはり、あるべき鼓動は刻まれていない。
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