幾分か霧が晴れて良好になった視界、足場の悪さは変わらずだったが一同が息を潜めながら足を進めていた。
「確認しておくけれどね」
先頭の梓だった。彼女は振り向く事もせずに、つかつかと足を進めながらともすれば漆黒に溶け込みそうなその髪の毛を揺らして続けた。
「これ以上、あんなのはごめんよ。もう噛まれている可能性がある者はいないわね」
「――いないよ」
もはや答えるのも億劫そうな、緒川の返事。
「それとこれから先、噛まれたり襲われた者は容赦なく殺すわ。いいわね」
「……」
返事は無かった。代わりに、明歩がため息混じりの反論を寄越した。
「南雲さん達は、クラスで馴染んでなかったから平気でそんな事が出来るのね」
この言葉には、言われた梓本人だけでなく隣で彼女の手を取って歩いていた緒川も足を止めていた。驚いて、明歩を見つめるばかりだった。
「――どういう意味かしら」
振り返る梓に、明歩は憔悴しきった顔のままで答える。
「仲のいい友達がいたらそんな事は軽々しく言えないわ。……誰も信頼できる人間がいなかった証拠よ」
「明歩」
緒川がそれを遮るように彼女の肩を掴んで振り向かせた。
普段の彼女とは違う攻撃的な態度にせよそうだが、論点のずれたその言葉は単なる八つ当たりにしか思えなかった。苛立ち、口論になるのはよくある話だ。よくある話だが、今やるべき事じゃない。
「……落ち着け、な?」
諭されて我に返ったのか、明歩はそれで幾分か驚いたみたいに緒川を見つめ返してくる。
「……ごめんなさい」
それから慌てて目を逸らし、梓にも言った。
「南雲さんも。何か……イラついてて……」
「――」
梓は手にしていたデザートイーグルを握り直しながら、肩を竦めた。
「まあいいわ、気にしていないから」
それから正面へと向き直り、進行を再開させるのであった。崩壊は内部から――とはよくある話だが、溜まったものではなかった。ゾンビや未知の化け物よりもまず、生きた人間によってパーティーが全滅だなんて。
「とても笑えた話じゃないよ」
気付けば独り言をぼやき、緒川はすたすたと先を行く上原の背中を見つめた。
気のせい、だろうか。上原が何だかまるで違う生き物のように感じてならないのは――別人のように落ち着いていて、やけに堂々として見えたのは。
――氷みたいだな、何か
この僅かな時のうちに精神が急成長を遂げました、なんてそんな事は有り得るだろうか。有り得て欲しくないが、とにかくまあ、自分の勘違いであって欲しい。
「……緒川? 何か言ったか」
「いや……」
今はそんな事を考えている場合じゃない。とにかく、この狂気じみた状況から脱さなくちゃいけない。
しばしの間、無言の行進が続けられていたがやがて何かを目にしたのか暁が声を上げた。
「――あ」
それから、上原もそれに続いて歩き出した。
「どうした?」
「……緒川……これ……」
「――?」
鬱蒼と生い茂る草木を越えた先にて緒川が目にしたのは、彼らもよく知る――。
「泉……水?」
横たわる詰襟の胴体には、首から上が綺麗になくなっていた。それなのにそれが泉水であると判断出来た理由は、断線されたコードと繋げられた彼の愛用していた音楽プレーヤー。そして彼自身と、彼が作り上げたのであろう切り刻まれたゾンビの山によって出来た血溜まりの中、転がっていた日本刀。
緒川が戦慄し、明歩に極力見えないような体勢を取ったもののそれも無駄な足掻きにしかならず明歩の小さな悲鳴がした。
「――泉水」
上原はそれを見てもやはり、何も感じることが出来ないでいる。
何とも言い表せないような哀愁を浮かべたままの上原は、血の海に転がるその刀を拾い上げていた。
「頭を齧られたか、奴に」
「奴?」
「そう。俺達が嫌がっていた、例の相手にさ」
明歩は緒川に泣きつきながら、何とかしてその足を進めている。
上原も上原でその刀についた血を払いながら、もはや仲間の死体などには関心も持っていないように振る舞っていた。
ゾンビ達は、着実に数を増やし続けている。
襲い掛かってくる疲れ知らずのそいつらとは違い、こちらは人間だ――精神的にすり減らされていたのもあってか感じる負担は何倍にも感じた。
「明歩、大丈夫か」
「……」
何せ普通の女の子なのだ、彼女は――部活で日々鍛錬を積んでいた上原達とは違いもう歩くのだってやっとだった。
「なぁ、少しだけ休めないのか?」
「――そんな暇は無い。置いていってもいいっていうんなら話は別だが」
暁があっさりとその受け入れを却下すれば、何か反論してやりたいと緒川は思ったがその拳銃をぶっ放されても困るので何も言わずにいた。
「……」
不服げに緒川が暁を睨むと、入れ替わるように上原がやってきた。
「俺が背負おうか? 何だったら」
「え……」
「緒川ももう疲れてるんだろ。なら俺がやるけど」
しれっとして話す上原にはきっと何の悪気も無いのだろうが、何故か空恐ろしいものを覚えたのか明歩が身じろぎする。ここへ来るまでに、襲ってきたゾンビの相手をしていて返り血まみれになった彼の姿に恐れをなしたのもあるが。
緒川も緒川で、自分の体力の限界を見下されたように感じてしまい(彼にそんなつもりはないにせよ)、腹が立つのを感じてしまった。
好きな相手の前だったのもあってなのか、半ばムキにでもなったかのように緒川が明歩の前に身を乗り出した。
「心配されなくとも俺はまだ大丈夫だ」
「そうか。余計な心配だったか、すまん」
そして気にも留めていない風に返されれば、緒川のその些細な苛立ちだってやり場が分からなくなるというものだ。あっさりと引き下がっていく上原に、やはり緒川は何か先程までの彼とは何か違うと思わずにはいられなくなっていた。
「お、緒川君」
「……」
「私は平気だから、その……行きましょう」
「ん……あ、ああ」
明歩はそう言ったものの、正直彼女の精神も体力も、ほとんど空っぽに近いような状態にまできていた。極限にまですり減らされた神経と、別段何か運動をしていたりもしない平均的体力は底を尽きそうだ。
「緒川君」
「……ん?」
「――これだけは話させて、くれる?」
「……ああ」
その言い方がどうにも、遺言めいたものに思えて快諾とはいかなかったが。
構わずに明歩は続けた。
「私……ね。ほんとは、もうすぐ引っ越すのが決まってた。学校も変わると思う」
「――え?」
唐突に切り出されたその話に、緒川が眉を顰めた。
「……うちの両親、元々仲も良くなかったの。でもせめて、子どもが安定するまでは一緒にいるって言う条件でここまでやってきたみたい。子どもの安定って何、って感じなんだけどさ……私から言わせてみれば」
「――」
言葉を失う緒川に、明歩は疲れのせいで逆に高揚でもしているのか喋り続けていた。
「大人の喧嘩って本当によく分からないよね。私も大人になれば、それも理解できるのかもしれないけど――とにかく、お父さんもお母さんも、もう一緒にはいられないからって。日取りがいつになるのかははっきりと決まっていなかったけど、今年中にはここを離れなくちゃいけなかったかもしれないの。……進路も多分、私はそのまま就職っていう形に落ち着きそうだったんだ。みんなが受験とかであれこれ悩み出す頃には私は多分もうあのクラスにいなかった筈だったんだろうけど」
進路。受験。クラス。何だか今となってはそのどれも、懐かしい言葉であった。自分達学生からは切り離す事の出来ない筈だったもの。今は遠いところにあるように感じて仕方ないが。
「だからこの宿泊行事がさ、思い出になるのかなって漠然と思ってたのにね……」
「……」
かける言葉も見当たらずに、緒川は何て気の利かない男だろうかと自分を責めた。好きな女の子相手に、慰める事も出来ないなんて。無論、明歩自身はそんなもの望んじゃいないのかもしれなかったけど。
「――明歩、」
何とか言葉を紡ぎかけたその時に、前にいた三人が立ち止まるのが分かった。