双頭の未知なるクリーチャーが振り向きざま、その長く伸びた舌を鞭のようにしならせてから振るってくるのが分かった。いくら部活で鍛えていようが、まさかこんな未知の化け物との為に自分達は鍛錬を積んでいたわけではない。
そのイレギュラーすぎる攻撃に、緒川は咄嗟の判断を鈍らせてしまって足首を掴まれていた。
「うっ……ぁあッ!?」
足首を取られたまま、緒川の身体が不意に浮き上がったかと思うとその視界が反転する。そのまま振り回されたのだ、と気付いた時には既に身体ごと壁に叩きつけられてからだった。
「緒川君!」
明歩の悲鳴のような声が轟いて、次いで梓の舌打ちが聞こえた。
――何だ、どうなったんだ俺……
ぶつけられた衝撃で、一瞬記憶やら思考やらとかく全てが飛びそうになったが、何とか持ちこたえた。意識だけは失わないよう、立ち上がりかけた時に渡しそびれた筈の銃声が聞こえたのが分かった。
「緒川!」
それから、霞む視界の端に飛び込んできた上原の姿を捉えてようやくハッキリとした。
「大丈夫か?」
「……う……」
銃声のした方向では、その大層なデザートイーグルを堂に入った構えで持つ暁がいた。獲物を狙う目つきは、梓同様にこれまで見てきたような彼らの姿とは百八十度違うものに見えた。まあ、これまで自分達が彼らの事を知らなさ過ぎただけの事なのかもしれないが。
銃口を下げながら、全ては片付いたと言わんばかりに暁はその得体の知れないクリーチャーの遺骸を見つめていた。
「緒川……あれ、は?」
上原がどこかたどたどしい具合に尋ねれば、緒川は思い出したように胸の辺りが気持ち悪くなるのを覚えた。ぐるぐると胃でも掻きまわされるかのようなその感じに、強烈な吐き気がしてくる。あれ、というその言い方にも、何か凄まじく人間から遠のかされたようなものを感じさせてしまってどうにも耐え難い――緒川はその場に蹲るようにしながらくずおれた。
「……根室は」
それから姿の見当たらない根室を探すように上原がきょろきょろと辺りを見渡す。そして緒川の様子から察したように、上原はもう一度「あれ」と称したその物体を見た。
「さっきの話じゃないけど、変化の過程に異常が起きたんだね」
さも、何でも無い事のようにさらりと暁が呟き、それから梓の元へと近寄った。
「大丈夫か、梓」
「ええ……」
梓の腕を取りながら起こしてやると、ようやくのように上原が何かを理解した。
「――っ……」
時間差でやってきたその吐き気に上原が口元を押さえるのだった。異様な形に変形し、奇妙な肉塊と化したそれが根室だったのだと知り、上原は言いようのない不愉快さや寒気を覚える。鼓動が早まり、心臓ごと握り潰されそうになった。裂ける――、心ごと壊されてしまう。
しかしそう感じたのもほんの束の間のうちの出来事だった。
ほんの数分……いや数秒。
僅かに休んでいただけのうちに、ざわついた精神はあっという間のうちに静寂を取り戻していた。せり上がって来た筈の吐き気やらは全てほんの一瞬のうちに消え去っていた……どういうわけなのか。夢から覚めたようにはっとなっている上原に、不思議なものでも見るような緒川と明歩の視線が向けられていたが……一番に驚いているのは上原自身であった。
「……」
自分の手の平を何か、信じられないものでも見るような目つきで眺めて上原は愕然としていた。自分の中に流れる血が、奇妙で、ひどく冷たいもののように感じられた――『血』?
上原は壁づたいに腰を上げて、暁を振り返った。
「……お前」
「?」
暁の視線とぶつかるや否や、上原は暁の胸元を掴み上げた。
「お前、俺に一体何をしたんだ!」
胸倉を掴まれたままの暁は表情一つとして変えずにこちらを見据えたままだった。 震える手でしばし暁を見つめていた上原であったが、すぐに梓がその手を払いのけるように口を挟むのであった。
「お兄様から手をのけなさい」
「……っ……」
さもなければ撃つつもりだろう、梓の視線は殺気を孕んでいるのが分かる。
「――勘違いしているようだけど」
胸倉に掴まれた手を掴み返しながら暁がぼやくのが分かった。
「俺は何もしていない」
成す術もなくなったように、上原はその手をゆるゆると離した。そのやりとりを意味も分からずに見つめていた一同が、愕然とする上原に声をかけた。
「上ちゃん?」
緒川がその背中に手をやる。
「一体何だっていうんだよ」
「……な、何でも……」
明歩がそのすぐ傍で腰を降ろし、異形と化した根室の遺骸を見つめていた。手を伸ばしかけたが、迷ったようにその手を引っ込めてしまった。それから何かを堪えるように目を閉じ、首を横に振る。
「――何てひどいの」
悲痛な声が一同の耳に届けられたが、それを聞いても上原は何とも思う事が出来なかった。大切な後輩が変わり果てた姿となり死んだというのに。
同じように、何とも感じていない者は上原以外にもいるようである。
「そろそろ行こうか」
暁の声に、まず反論を寄越したのは緒川だった。
「おい!……俺達は大事な仲間が死んだんだぞ、そんなあっさり……」
「ぐずぐずしてると今度は俺達が死ぬ番だ。もう危険は去っている、とりあえず先へ進みたい。君達がここでそうしていたいんなら、別にそうすればいいだろ」
「……ッ」
緒川の反抗的な目が向けられていたが、勿論それに構うわけもなく南雲兄妹はさっさと荷物をまとめ始めていた。彼らの言うように、さっきまでは深かった霧も少しばかり薄らいでいるのが分かった。彼らが恐れをなしていたというその恐れるべき存在も、少しは遠のいたという事なのか。
「――緒川……俺達も早く行こう」
上原の声に、緒川と明歩が顔を見合わせたがすぐにそれに従った。自分の意思でそうしたというよりも従わざるを得ない、といった風であった。
上原の脳裏には、先程の暁の言葉がずっと浮かんでいた。
『この血の味に触れた人間は、もう戻れなくなるのさ。現世に』――……
なんてこったい