それだけならまた何かが襲い掛かってきたのか、とこちらも態勢を整えるだけであったのだが――その異様な雰囲気はびりびりと突き刺すように伝わってきた。
何か只ならぬものを感じ取ったように、緒川が思わず向き直っていた。ちなみに彼の手には落ちていた死体から拾った金属バットという頼りない武器が一本握られているばかりであるのだが――まあ、そんな事はさておきに、だ。
「来たな……」
暁の視線は相手を睨み据えているようであった。そしてそんな視線をものともせずに現れるのは――同じクラスの奴だった。
「北山……」
上原が刀を提げながら呟くのが聞こえた。同じクラスなだけに面識はあっても喋った事はほとんどとして無い。何故なら北山といえば、学校一の不良だとか何だとか言われていて住む世界の違う存在だった。真面目に日々を部活と勉学に注いできた上原達には関連性の無い人間だ――少なくとも……。
「待ってたよ」
北山は何故かそう言ったが、それは自分達に向けられた言葉ではないようだった。北山の視線は南雲兄妹にだけ注がれていて、後はどうでもいいといった感じだ。
北山の周りには自分達を苦しめ続けていたゾンビの大群が後を控えていて、これは一体何のコントだ? と思わず笑い飛ばしたくなってくるほどだった。そして何より――北山はいくつもの死体で積まれた山の上に君臨していた。
学ランを、着崩したシャツの上に羽織った彼は真っ赤な月を背にして両手を広げていた。
「お前達をずっと待ってた」
血生臭い風が吹いてきて、鼻をくすぐった。
「あのゾンビ達、まさか北山に従ってるのか」
上原が問いかけると暁が頷いた。
「そうだ。……厳密に言えば北山君自身に、じゃなくて北山君の持っているネクロノミコンに、だと思うけどね」
「――ネクロノミコン?」
記憶に探りを入れるがまるで聞き覚えの無い単語だった。そんなもの、健全に生きてきた自分達には当然知っているわけもない。
「どうしてまたあれが姿を見せたのかしら」
梓が忌々しそうに呟いてから北山を見据えた。
「さぁね……ネクロノミコンは外なる世界からやってきた不定形型の知能生命体みたいなものだ。……人々の強烈な悪意や憎悪に引き寄せられればいつでもどこででも、力を取り戻す。厄介な奴だよ」
それが一体何であるのか、もはやどうでもよかった。それよりも――この四面楚歌の状況はどうするべきであろうか?
見渡す限りの、おびただしい死体の山にゾンビの群れ。制服姿の見知った顔もいれば、どこからか引き寄せられたのか学校外の人物と思われるゾンビまで。
「明歩……逃げろ」
「……え?」
「多分、まずい事になる……明歩だけでも逃げてくれ」
迫ってくる獣のような息遣いに、緒川がやがて明歩の肩を掴んだ。
「お、緒川君……無理よ、私一人じゃ……」
「守りきれる自信がない。俺がひきつけるからその隙にでも逃げろ」
「そ、そんな……!」
周囲を取り囲む獣のような臭気が一層強まったようであった。
「――暁ぁ、梓ぁあ……俺のところに来いよ。一緒に世界が変わるのを見よう……な?」
北山の腕に握られた謎の禍々しい邪気を放つ本。片手を挙げながら北山はゾンビ達に何やら指示を出したようであった。襲い掛かってくるその気配に、緒川は半ば無理やり明歩を突き飛ばしていた。
「いいから! 行けって!」
「緒川君!!」
叫んだのとほぼ同時に、大柄な体躯のゾンビが緒川に襲い掛かった。緒川はすぐさまバットで応戦していた、上原も、暁も、梓も――皆それぞれが手にしていた武器で無数に迫り来るゾンビを相手取っているようであった。
――あんなの、倒しきれるわけがないじゃない!
走りながら、明歩が振り返る。遠ざかるかつてのクラスメイト達を置いて自分だけがのうのうと逃げていくのだ。
そうは思いながらも自分に何か出来るわけでもなければ、きっと足手まといになるだけだ。それが分かっていたから彼も自分を――そう思うと無性に泣けてきて、明歩は唇を噛んだ。だがどうしようもない。自分には何か優れた武器や特技があるわけではない。
「……っ!」
夢中で走り続けていると、何かの唸り声がしてぞっとした。姿が見えたわけではないが、それで急に現実に引き戻されたようになり、且つ一人である事を改めて思い知らされた。ぞっとなり明歩は近くにあった小屋に慌てて飛び込んだ。
小屋の中にあった椅子やぼろぼろの棚で慌てて封をし、誰かがすでに開けた形跡の残されたままの工具入れから鉈を手に取った。
両手で握り締めて、明歩はずるずると壁を背にして崩れ落ちた。
それから外でけたたましい鳴き声(単なる野鳥のもののようにも聞こえる)を聞き、磨り減った精神状態ではそれが何かおぞましい地獄の始まりを告げる合図のように聞こえてならなかった。
それから、最後の審判を告げる、七つのラッパの話を思い出していた。ヨハネの黙示録が記していた世界の終末の事。天使達が与えられたそのラッパを吹くと、世界に天変地異が起こる。
神の怒りに満ちた七つの鉢。ラッパが吹かれるごとに地上には様々な禍がもたらされて、そして審判は始まる――。
「……嫌っ!」
明歩が窓を慌てて塞ぎ始めた。必死でバリケードをし、慣れない手つきで板を打ちつけ始めた。大雑把な仕事になってしまうがしょうがない事だった。
「死にたくない……死にたくない……まだ私は死にたくない……」
それから鉈を持って祈るようにそれを握り締めた。指の筋肉がおかしくなるのではないか、というくらいにきつくそれを握り続けていた。
ここまで夢中で走ってきたせいなのか気付けなかったが――夜の空気は寒く、ひどく身体を蝕んだ。だがそれ以上に、恐ろしかった。
早く、どうか早く――この夜が終わって欲しい。朝が来れば少しは事態がいい方向に向かうかもしれない。
外からはまだ悲鳴や得体の知れない呻き声が響き続けていた。
「……っ……」
だが、動くと、声を出すと危険だ――との直感だけはあった。明歩は鉈を持ったままで暗がりに身を潜めた。
もう、どのくらいそうやっていたのかは分からない。
上原や緒川達はどうしたのだろうか――自分を助けに来てくれるだろうか――それさえももはや考えるのも億劫なくらい。
明歩は大きく息を吐いた。
それから、しばらくしての事であった。どん、と扉が叩かれたのは。
「――ッ」
ここで声を上げるのはきっとまずい――明歩はそう思い必死に両手で口元を覆った。扉がもう一度だけどん、と叩かれた。
「……明歩……」
「!?」
その声は――紛れも無く先程自分を逃がしてくれた緒川のものに間違いはなかった。明歩が慌てて扉に近づこうとした。
「緒川君なのね?」
疲労しきった身体に鞭打って、明歩がゆっくりと起き上がった。
「明歩、いるのか……助けてくれ。ここを開けてくれ」
だが……、明歩は何故かすぐにそうする事が出来なかった。
ネクロノミコンは
プレデターが戦争の熱気に呼び寄せられて
人々に喧嘩売りに来るのと同じように
憎悪の集まる場所に吸い寄せられるのさ。