四、百年の窒息

 そこだけ世界から切り離されたようなあの街にはそれぞれ貧民、極貧民、ホームレスの段階がある。貧民は労務者や工員で、彼らには職があり何より住む場所があった。その下にいる極貧民は職が無く、臨時の仕事を請け負う事で生計を立て時間払いの部屋を借りて暮らす。更にその下にいるのがホームレス、華やかなロンドンに目がくらんだものの職も家も無い連中は無一文となり、やがてイースト・エンドへと流れつく。

 彼らは食いぶちを稼ごうにも職も無く、働こうにも才覚が無い。やがて住まいの無い彼らはホームレスとなり、それぞれ物乞い、浮浪者、非行に手を染め犯罪者となってゆく者……アーノルドは、イースト・エンドのあの『匂い』が鮮明に蘇って来るのに身震いした。不衛生極まりないあの街は常に悪臭が漂っていた。排水設備のほとんど整っていない街では糞尿などは垂れ流しに等しかったし、汚水の匂いがいつも充満していた。
 どぶのような匂いの漂う水を口にしていた日々を思い出してアーノルドは額に冷たい汗が流れるのを感じた。

「……その、シャンテクレール公」
「何だね?」
「あの二人に関してですが……どうか、処罰は免除にしてやって頂きたい」
「何と? 面白い事を言うね、君は」

 シャンテクレール公は半ば大袈裟なくらいに肩を竦めて見せ、こちらの様子を窺うようにしている。

「今思えば僕側にも非があったからです。わざとらしく屋敷の前をうろついていたのは確かでした、彼らの目から見ては不審者も同然だったのでしょう。加えて、ロンドンでは妙な連中が溢れかえっているし、疑うのも当然だと言えます。彼らは彼らの仕事を全うしただけで、そう思うと罪は無い筈ですが」
「……おお。何と慈悲深いお方だろうか、アーノルド。君と言う男は」
「どうか頼みます。彼らに関しては……」
「だがしかし、もう遅いよ。君を特に痛めつけたあの大男の方は、ついさきほど地下の牢獄にて死よりもなお苦しい刑罰に処されていた。きっともう生きてはいまい」

 そう話すシャンテクレール公は飽くまでも笑顔を切り崩さないのだから、アーノルドは少々恐怖を覚えてしまった。

「なら、もう一人の男だけでも助けてはくれないでしょうか。彼は最後まで僕を助けようと口添えをしてくれたのです……」
「――ふむう……私から見れば少々甘い意見の気もしますが。わたくしも野蛮な事は好かぬのでな、当人がそう言うのであれば今からでも止めに行って来ましょうぞ」
「ええ、どうかお願いします……」

 そう言ってもう一度頭を下げるアーノルドを制した後、シャンテクレール公はステッキを持ち立ち上がる。振り向きざまに傍らにかけてあったボウラー・ハットを手に取ると、キチンと整えられた頭の上に被せた。

「お兄ちゃま」

 シャンテクレール公が部屋の外に出るのとほぼ同じタイミングでキティーが声を上げた。

「再会の喜びを分かち合うことも、愚か挨拶を交わす事も出来ませんでしたの。ようやくゆっくりとお話しができますわね」
「……ああ、キティー。俺もずっとお前に会いたかった」
「ごめんなさい、皆さま。ちょっとだけで良いので、席を外して下さらないかしら。お兄ちゃまと二人きりでお話がしたいの」

 キティーの申し出を皆は黙って受け入れたようであった。立ちあがった一人に続き皆続々と部屋を出て行く。最後の一人がいなくなったのを見届けた後、キティーは再び視線をこちらへ向けた。

「……お兄ちゃま、どうしてずっと会いに来て下さらなかったの? ずっとお手紙を書き続けていたのに」
「寂しい思いをさせてすまなかったよ、キティー。仕事ばかりで返事を書く事が出来なかった。けど、お前からの手紙は全て目を通した後で、大切に取ってある」
「本当に?」
「ああ」
「本当に本当に本当?」
「ああ、嘘はつかないよ」

 それを聞いてキティーは嬉しそうに微笑んで見せた。こうやって笑う顔は、その歳の少女らしいものなのだが。

「キティーがここへ来て、もうそろそろ一年ほど経つか?」
「ええ。お兄ちゃまと離れたのは十三の時。それからわたくしは十四という歳を迎えましたの。もうじき十五となりますわ」

 キティーはどこか誇らしげに言って見せる。

「あ、申し遅れてしまいましたわ。改めまして御機嫌よう、お兄ちゃま。わたくし十四歳のエカテリーナですの。先程までのは、十三歳のエカテリーナよ」

 言いながらスカートの裾をつまんで持ち上げて、キティーが小さくお辞儀した。

「もうわたくしも立派な淑女ですもの」
「はは。そうだな。ちゃんと挨拶もできるようになったじゃないか」

 笑いながら、アーノルドがキティーの頭を撫で回す。

「あとはもう少し背が大きくなって……この綺麗な髪もそろそろ上にまとめないとな」
「もう、お兄ちゃまったら! わたくし真剣ですのよ。……相変わらず子ども扱いしかしてくださらないのですね」
「そんな事無いさ。とても美しくなったよ。……本当に」

 不貞腐れたように口を尖らせていたキティーの表情が次第にやわらいでいったかと思うと、彼女はふうっと大きなため息を吐き出した。

「……もう……、惚れた弱みですのね。敵いませんわ」

 独り言のように呟くとキティーは上目遣いにアーノルドを見つめた。

「そんなお顔をされては、わたくし上手に拗ねられなくなりますわ。お兄ちゃまはずるいですの、いつだって私を悩ませてばかり……」
「キティー、俺だってお前の事でいつも頭がいっぱいさ。こっちの生活には慣れたか、いじめられていないか、おかしな男に言い寄られていないか、好き嫌いをせずにご飯を食べているか……そうやって考えてるうちに気付けば一日が終わってしまうよ」
「す、好き嫌い……ですって? やっぱりお兄ちゃんなんて知りませんわっ!」
「ははは。まあ冗談は抜きに、こっちの生活はどうだい?」

 そっぽを向いたキティーにアーノルドが優しげな口調で問い掛けた。

「……まあまあ、ですわ。小説を書くには良い環境ですし、ご飯もまずますわたくしの口に合いますもの。お兄ちゃまお手製のヴィクトリアン・ケーキには遠く及びませんけど」
「そうか、なら安心だ」
「シャンテクレール公もちょっと変わってらっしゃるけどいいお方よ。優しいですもの。ただ……」

 そこでキティーが一旦言葉を飲み込んだ。

「ん? どうした?」
「お兄ちゃまはまだ見られてないと思うけれど、その奥様のエマ様は少し苦手ですわ。とても聡明で、気品あふれる美しい淑女なのですけど……わたくしは、あの方の女神像のような笑顔の下には何か隠されているような気がしてなりませんの」

 昔からキティーには洞察力に優れている部分があった。彼女が特定の人物と出会うごとに察知する『嫌な感じ』は大体的中している。

「キティーが言うのなら警戒するに越した事は無いな」
「単なる思い違いであればいいのですけど……かつてこれほどまで、杞憂に終わる事を願った出来事はありませんわ」

 キティーの口ぶりや表情から察するに、そのエマと言う人物は先に述べた様に普段見せる姿は心優しい人なのだろう。

「さ、そろそろ解放してあげますわ、お兄ちゃま。どうせお兄ちゃまの本当の目的はわたくしじゃありませんのでしょう?」
「……違うよキティー。俺は本当にお前に会いたかった」
「――お兄ちゃまは本当にお優しい方ですのね。私が初めて出会った頃と変わらず……」
「キティー」
「じゃあ、お兄ちゃま。エカテリーナはこの辺りでお暇いたしますわ。今シャンテクレール公を呼んできますから、お兄ちゃまはここでお休みになっていて」

 そう言ってキティーは少しばかり悲しげな微笑を口元に浮かべた後、部屋を静かに後にした。
「……」

 少し見ぬ間に本当によく成長したものだとアーノルドは去って行くキティーの背中を見つめながら思った。およそ一年前までの彼女ならば、駄々をこねてこの場を離れなかった筈だ。無理やり引っ張ろうものなら自分が泣き疲れるまで大声を上げて泣き続けた。

「やあ。キティーとの再会はどうだったかね」
「ええ。すっかり大人になったようで……これも皆、貴方のお陰ですかね」

 何の何の、とシャンテクレール公は静かに微笑んだ。

「どれ。何だか妹さんの今後の事で私に話があるとキティー本人から聞きましたが」
「……あ、ああ。大した話では無いのですが」
「答えられる事ならば、何でも答えますとも。わたくしと貴方は、もう友も同然だ」
「……」

 そこで、アーノルドは咳払いを一つした。

「……少し、折り入って相談したい事が」
「何だね。気軽に言いたまえよ」

 シャンテクレール公が優しげにそう言ってアーノルドの前に腰掛けた。

「……キティーはああ見えて少々寂しがり屋でして……、その」

 言葉を濁しながらアーノルドが言うとシャンテクレール公は黙って頷いた。

「大丈夫でしょうか? 私といた頃には、母がいないと言っては夜泣きする子でした」
「ええ、まぁ……多少そのきらいはありますな。まぁ、夜泣きはしませんが」
「そうでしょうか。あと、キティーは時々酷く咳き込みます。今現在、症状は落ち着いているのでしょうか?」
「はて……確かに持病で発作があるとは事前に聞いていましたが、今のところ特には」

 アーノルドは布団から出ると三つ指を突いて頭を下げた。

「あの……厚かましいとは思うのですがどうか、僅かでいいのです。空き部屋でも、いえ、倉庫の隅でも構いません。妹の傍に置いて頂くのは出来ませんか?」
「おお、何とそのような真似……どうか面を上げておくれないか、アーノルド」
「いえ。無理な願いをしているのです、このくらいは……」

 言いながらアーノルドは深々と頭を下げるばかりであった。

「構わんよ、家族としては当然だ。だがアーノルド。君が心配する様な事は何も無いよ。キティーはしっかりとした娘だ、自分の意志は自分の口でしっかりと伝えてくれる」
「はい……勿論、キティーの事は信用しているんです。しかし兄としてはやはり年頃の可愛い妹の事がどうしても気がかりで……」

 アーノルドがおずおずと顔を上げるとそれを聞いてシャンテクレール公は豪快に笑った。

「ああ。恋人の事かい? 安心したまえよ。キティーはどうも君以外の男には興味が無い、いつも男の子達と取っ組み合いの喧嘩をする程さ」
「取っ組み合いの? 怪我でもしたら大変だ。顔に傷でも作ったら……女の子なのに」
「ははは。君は冷静そうに見えて中々面白い性格だ。益々気に入ったよ、キティーの事をよほど好きだと見たね」

 シャンテクレール公は言いながら自前のその口髭を指先で整えた。

「ええ。目に入れても痛くない程に可愛い、たった一人の妹なのです」
「ふむ。私は構わんよ、アーノルド君。君は実に運がいい、ついこの前ここを出た子どもが居てね。ちなみにこここそが、その空き部屋さ。使うといい」
「有難うございます……無理強いをしてしまい、申し訳ありません。少しの間でいいのです、本当に」
「何、気の済むまでいるといい。仕事の方は?」
「ここから通えます、少々かかりはしますが……」

 なら良い、とシャンテクレール公が納得したように頷く。

「だが、一ついいかね」
「はい」

 シャンテクレール公は笑顔のままに、聞き返すアーノルドの両肩に手を置いた。

「地下部屋を不用意に覗くのは禁止だ」
「……え?」
「君の見つかったあの場所さ。あそこは屋敷の住人全てに立ち入りを禁じているのだよ。ここへ住まう者への最大の約束事なのだよ」

 飽くまでも紳士的なその笑顔は崩さぬよう、声色も静かに――だが、その落ち着いた調子からは言い知れぬ空恐ろしい何かが漂うのがひしひしとアーノルドには分かった。両の肩に置かれたその手を介して、それは伝わってくるようであった。

「あの地下にはどうしても立ち入りを禁ずる理由があるのだよ。了承していただけるかね?」

 その肩に掛けられた両方の手のひらに力が籠められるのが分かった。それは痛いほどで、アーノルドは思わず顔をしかめた。

「もし万が一にも、立ち入った場合にはそれ早々の罰を課さねばならないのだよ。今日の事は仕方がないさ、不可抗力というものだったからね」
「――そ、それは勿論……っ」
「あの部屋には大事なものが沢山収納してあるんだよ。分かってもらえるかい?」
「っ……」

 頷くまで解放してもらえなさそうだと思いアーノルドは声を出さずに何度も頷いて見せた。途端、肩の力が緩み、シャンテクレール公の手が離れて行った。

「条件はそれだけだよ。それさえ守ってくれれば、好きに使うといい」

 浮かべているのはやはり優しげな笑顔だけで、シャンテクレール公からは何の邪気も感じられなかった。

「じゃあ、ゆっくり休むといいよ。町をゆっくり見て来るのもいい。サーカス団が路上で見世物をやっているよ、キティーと行ってきたらどうだい?」

 それにしても見た目からは想像もつかない程の力強さで、肩が壊れるんじゃないかと恐ろしくなってしまった。自分が今満身創痍だからであろうか、アーノルドはベッドから降りると何とか歩ける事を確認して部屋を出ることにした。

「お兄ちゃま!」

 廊下に出るなりキティーが駆け寄ってくる。

「動いて大丈夫ですの? 申しつけてくだされば痛み止めのお薬をお持ちするのに! キティー、お兄ちゃまの為でしたらそれくらい厭いませんのよ」
「ああ、ありがとう、キティー……だが、少しばかり外へ行くよ」
「連れてってはくださいませんの?」
「すまない。留守番だ。いい子にしていてもらえるか?」
「……」

 キティーの柔い金髪を撫でながらたしなめるように呟くと、キティーは少しだけ残念そうにしていたがすぐに強いて作った様な笑顔を浮かべ直した。

「仕方ありませんわ。お兄ちゃまのお邪魔にだけはなりたくありませんもの、キティーはもう立派な淑女。我儘は言いません」
「……ごめんな」

 申し訳なさそうにアーノルドが呟く。

「キティーの好きな焼き菓子を帰りに買ってくるよ。今度は二人で出掛けよう、劇団を見に行くんだ」
「もう、お菓子だなんて……まぁいいわ、約束ですからね!」

 キティーが念を押すように言い、アーノルドがそれに応じる様に笑った後背を向けて歩き出した。

「……わたくしが欲しいのはお菓子なんかじゃ無くて……」

 ほとんど消え入りそうな独り言だった。

「ねえキティー、あれが噂のお兄様ね。話通り、素敵な方……けれど、貴方とは似ても似つかぬ真っ黒の御髪ね。肌も、浅く日焼けしているようだし」

 そのやり取りを無言で眺めていたのであろう、メイドのステラが問い掛けて来る。

「おまけに、顔立ちも全く違うわ」

 いぶかしむ様なステラの声は聞かないようにキティーは何も答えずにその場を去ってしまった。

「キティー……?」

 ステラが名前を呼ぼうともキティーは振り向かずに、階段を駆け上がって行った。




「いぶかしむ」って正しいのかな。
訝るが正解の気がするけど。
キティーかわゆいなあ。
こんなにいい子が何であんな病むのかw
ちょっと近親相姦チックだけど……。
この時は金髪っていう設定だったのよね。
LSDのイラストでは青髪だけど。
ベイビードールちゃんと対比的な
デザインにしたかったんですな。

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