五、光届かぬ所

 アーノルドは節々が痛むのを堪えながら、街の中をとぼとぼと何の気はなしに歩いていた。目的のない放浪、あてのない散歩がてらに。……そういえばすっかり忘れてはいたが今日一回も食事をしていない事に気が付いてアーノルドは簡単にパンと林檎を一つずつ買い、中央の広場で腰を降ろして食べることにした。

「……さぁさぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも怪奇な見世物屋が不思議な世界へと誘って差し上げましょう」

 道化師の格好をした男が明るい声で叫ぶのが耳に届いた。広場中に響き渡る程の音量で男が呼びかける。アーノルドは見る気など無かったのだが、その声にひきつけられるようについ視線を送ってしまった。

「こちらはナイフ投げの達人、的にしているのは何と、か弱い美女……」

 子ども達のはしゃぐ声に遮られながら、道化師は何とか大きな声を張り上げているようだった。やがて人だかりができ、完全に隠れて状況は見えなかったが歓声だけが時折わっと上がるのが聞こえる。

――キティーを連れてくれば喜ぶだろうか? いや、子ども騙しと言って鼻で笑うかもしれないな……

 そんな事を思いながら盛り上がる群衆を見つめていると、ふと怒鳴り声が混ざるのが聞こえた。

「……おいッ、アレクトー。お前また失敗か!」

 道化師の明るい声をかき消す様な怒号が混ざる。観衆から出た声なのか分かりかねるがアーノルドは何となく気になって覗きこんだ。

「何度失敗すりゃ気が済むんだ、客が白けてんじゃねえか馬鹿野郎!」

 親方と思しき大柄な男にどやされているのは、華奢な少年だった。銀色の髪には見覚えがあった……まさか、とアーノルドが息を飲む。

「すいませんねえ……こいつ、まだ見習いでして……アレクトー、泣いてないでさっさと裏へ引っ込め!」
「……ごめんなさい……」

 やはり、声も、何もかもが一致していた。間違いなく、あれは……アーノルドが少年を追いかけようとした時であった。突如、見知らぬ声に呼び止められる。

「す、すみません……あの……」
「え?」

 見覚えの無い人物が、立っている。一見すると老人の様な出で立ちの男であったが、きっと恐らくまだ働き盛りの年頃であろう。身につけているものは衣服、というよりボロそのもので、足取りもふらついており、視線も虚ろである。強烈な悪臭が鼻をついて、すぐに浮浪者だと分かった。男と、自分の周りから人々が露骨に嫌な顔をしてさっと離れていく。アーノルドはそんな人々の様子が癇に障ったが、すぐに男へと向き直った。

「何でしょうか?」
「すみません……もう、もう幾日も者を食べておらず……一口でいいんです、どうかそのパンを頂けませんか……」

 ともすれば男は今にも倒れそうな程に弱っているようだった。ふと、アーノルドが男のその木の枝のような手に目をやり違和感に気付く。

――水かき?

 男の手には何故か水かきのようなものがついていて、更には――袖から微かに除く腕には魚類の鱗のようなものが見え隠れしている。何か皮膚病のようなものだと少々厄介だ。そう思いつつ、アーノルドはもし自分に治癒できるものならばと男に向き直った。

「ああ。パンもあるし林檎も良かったら食べるといい、パンだけじゃ口が渇いて辛いだろうさ」
「す……すまねえ……ありがてえ……」
「いいさ。全部食べてくれ」

 アーノルドは手に持っていた食事を全て手渡した。それから、やはりどう見ても魚鱗(の、ように見えるもの)と水かきのついた手を何度も見つめた。その視線にすら気付く事なく男は夢中でパンと林檎に齧りつく。

「その――失礼だが、イーストエンドの方だろうか……」
「は、はい……。家族にどうしても食べさせてやりたくて、稼ぎを求めてロンドンへ出て来たもののまっとうな職にありつけずこのザマで……かれこれもう何日彷徨ったか」

 男は涙を浮かべながらパンと林檎を頬張っている。

「……そうか。それはさぞかし辛かったろうに。すまない、俺もあまり裕福じゃない。代わりと言っちゃなんだが、貴方の腕のその『湿疹』について診察させてもらうことはできないかな」
「!!」

 そう告げると男は明らかに動揺したように立ち上がり、食べかけのパンも林檎も置き去りにしてその場を後にしてしまった。

「! ま、待ってくれ!」

 逃げ出そうとした男を追いかけようとしたその時、今度は群衆から悲鳴が上がるのを聞いてアーノルドはそちらに顔を上げた。金属が擦れ合う様な、子どもの悲鳴がこだまする。

「……し、しっかりしてトーマス! ああ、神様……っ」

 続いて聞こえて来たのは女性の泣き声だった。アーノルドが群衆を掻きわけるようにして辿りついてみれば、まだ小さな子どもが倒れている。子どもは痙攣を起こしているのか、あぶくのような物を口から吹き出して気絶している。

 女性は少年の母親であろう。少年を抱きかかえながら彼女は助けを求めている。

「お願い、誰か! トーマスを助けて……」
「……どけ!」

 アーノルドが突っ立ったままそれを眺めている人間たちを掻きわけ、少年の元へと駆け寄った。

「一体何があった!?」
「わ、分からないの……落ちていたその焼き菓子を齧って……拾い食いは駄目だって言ってるのに……あぁあ……」
「このままじゃ、舌を噛む。口をこじ開ける。この子はまだ乳歯だな」
「ええ、そうよ、つい先日抜けたばかりなの、下の歯だから上に投げて……」
「だったら折る、いいな」

 アーノルドがポケットに手を突っ込んだのを見て、母親は彼の言葉を理解したらしい。慄いて彼女はアーノルドに飛びかかった。

「やめて! 乱暴しないで、そんな事……っ」
「生死がかかってるんだ、このまま死んだら元も子も無いだろう! 異物が喉に引っかかってるんだ、無理にでもこじ開けないと!」

 アーノルドが母親の懇願を遮るように叫ぶと母親は泣き顔のままどうしていいか分からずにただただ、首を振った。

「くそ……」

 アーノルドも流石に躊躇してしまい、少年に中々それを行使することが出来ない。

「どいて」

 ふと、そんなアーノルドの前に現れたのは、先程の銀髪の少年だった。あまりにも突然の現れで、アーノルドは言葉を失って少年を見た。やはり、美しい少年だった。暗がりで見た時よりそれは一層神々しくあってある種恐れに近い感情さえ覚えるほどだ。歳にしてみればまだ二十歳にも満たないに違いない。少年は膝をつくと、アーノルドの腕の中にいる子どもを覗きこんだ。

「大丈夫だよ」

 少年が子どもの喉にそっと手を置いた。

「すぐ治るから」

 少年の手が間も無くしてそっと離れる。少年の言った通りに、子どもは咽込んで、その場に飲み込んだ焼き菓子をげっと吐きだした。

「ああ……、トーマス……トーマス!」

 母親がアーノルドの腕から子どもをもらうと、そのまま泣き崩れた。子どもも一緒になって大声で泣いている。奇跡だとしか言いようがない――アーノルドはすぐに少年を追い掛けた。

「き、君……!」
「――深入りしちゃ駄目なんでしょ」

 アーノルドが問い掛けるよりも少年が口を開いた。

「あの地下での話は黙っていてあげる。だから、ね。さよなら」

 一方的にそう告げて、少年はサーカス団へと戻って行った。アーノルドは釘でも刺された様な気になり、それ以上深く追いかけることが出来なかった。

「酷いもんだ。落ちていた焼き菓子に、最近この辺りで出回ってる変な薬が入ってたんだ」

 ぽつりと呟いたのは、民衆のうちの一人であった。

「薬……?」
「ああ。阿片なんかと一緒に、高い値で出回ってるのさ……。本来は痛みなんかを抑えるのに使うものらしいが、直接口にするもんじゃない。それが何でこんなとこに」

 納得のいかない事は数点あった。その薬にしろ、さっきの少年にしろ、少年の起こした奇跡にしろ……地下で少年に触れられた箇所が、今ではちっとも痛んでいない事に気が付いてアーノルドは不思議になり肋骨や、酷く殴られた個所に触れた――……。

 奇妙な出来事に、煮え切らないままアーノルドが屋敷へと戻る。

「お帰りなさい、お兄ちゃま! 焼き菓子は?」

 キティーが無邪気な表情で飛び込んでくる。

「ごめんな、キティー。焼き菓子は無しだ」
「まぁ、私、いい子にしてましたのよ!」
「すまない……今度、ケーキを作ってあげるから」

 アーノルドの返事にキティーはわざとらしく大きなため息を吐くばかりだった。




映画によく緊急時に聞かれてもない事まで
ぺらぺら喋り出す女キャラいるよね。
「輸血するからこの子の血液型はなんだ!?」って
聞かれたら「Aよ……そうだわ、この子はAなの!
Aなのに大雑把で私は几帳面なのに……」とか
多弁になる奴。海外映画によくいる。
それにしてもアーちゃん(って当時呼ばれてた気がする)
とても真面目そうでいい青年じゃないか。
どうしてあんな女装子になったんだ。
まっ、可愛いからいっか

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