三、理性の眠りは怪物を生む

「……おい、起きろよ! まだ終わって無いんだぜ!」
「兄貴、もうほとんど伸びちまってますよこいつ」

 責め苦は未だに続いていた。何度も殴り飛ばされるうちに、次第に痛みに対して鈍くなっていくのが分かった。

「ち……歯応えの無い野郎だぜ」

 男たちもアーノルドの反応を面白がって暴力を重ねたが、アーノルドの意識が遠のくにつれて真新しい反応も見せなくなった。男はぐったりと首を垂れるアーノルドの顎を掴んで持ち上げると、どこか満足気に笑った。相手の口臭が分かるくらいの距離にまで近づかれ、不愉快になったが。

「いい気味だぜ。俺は貴様みたいな坊ちゃんヅラした奴が大嫌いでよ、さぞかしいい人生を送ったんだろうな。いいモン食って、いい女も沢山抱いてきたに違いねえ」
「……」

 アーノルドは一度咽た後、口の中にたまった血を吐き出して置いて、それから男の顔を睨みつけた。

「とことんムカつく目つきだぜ。いっそのことその両目とも見えなくしてやろうか、それともこっちを潰して一生使い物にならねえようにしてやるか……ん、や、待てよ。男のソイツのなんか触りたくもねぇが……」
「あ、兄貴ぃ。そりゃあマズイっすよ」
「――そうだ。そっちにいる奴の言う事は正しい」

 虚ろな目つきでアーノルドが呟く。

「あぁ?」
「流石に、一生使い物にならないのは困るね。……は、はは……。何だ、さっきまではアンタの方が多少知恵のある奴だと思ってたが……どうも俺の考えは逆だったらしいな。そっちの奥にいるアンタの方が賢い奴だ」
「ンだと? どういう意味だぁ、そりゃあ」
「命が惜しいのならこれ以上俺に手出しするのは止せ。言っただろう、俺はこのシャンテクレール家の養女の身内だ。もしそれがここの主人にばれたとなれば……」

 アーノルドが不敵に微笑んだ。その顔には完全に勝算めいたものがちらついているように見え、暴行を働いていた二人はぞっとしてしまう。

「は・犯罪者ふぜいが何ほざいてやがるってんだ」
「兄貴、止めましょうって、勝手に早とちりしたのはこっちですよ。もし本当に主人の身内だとしたら……」
「いや、もう遅いね。俺には『視えてる』からな。アンタの未来の顔が。今からでも遅く無い、俺をさっさとこの薄暗い場所から解放した後にこの非礼を詫びてくれるならアンタの身の安全を考えた証言をしてやってもいい」
「薄気味悪ぃ事を……クソ、何にせよ気に食わねえ。こいつを牢にぶち込んどけや!」
「あ、兄貴ってば、まだ意地はるんですか? こいつの言う通り解放しないと……」
「ビビりやがって。タマの小せぇ男だ、だったら俺が放り込んでやるよ」

 アーノルドの腹部に男の容赦ない一撃がお見舞いされた。
 アーノルドは再び咽込んだ後、その場に透明な胃液を嘔吐する。朝から何も食べてなくて良かった。しかしどうにも酸っぱい胃液に耐えきれなくなり腹を抱え込み蹲った。倒れこもうとするのを男が許してはくれない。男は乱暴にアーノルドの髪を鷲掴みにすると息も絶え絶えの彼を無理やりに立たせて歩かせた。意識を保っているのがやっとの状態であった。ふらつくアーノルドを、男は更に光に乏しい地下へと引っ張って行く。

「ここで寝てな! 旦那が戻るまでくたばっちまわねえ事だな」

 男の大きな声は静まり返った地下によく響き渡った。男が下品な笑い声をあげる。その声が段々と遠ざかるのを耳にしながらも、アーノルドは指先を動かすので精一杯であった。

「くそ、待て。出せ」

 思うように身体は動いてはくれそうにない。言葉を発する都度、口の中に鉄くさい血の味が広がるのが不愉快で仕方が無い。――力がうまく入らない。傷の治癒を少しでも自分に施したいのだが、『ヒーリング』能力は自分自身には使えないのがネックだった。

「クソッ……」

 憤り、アーノルドは握りしめた拳を力任せに床へ殴り付けた。鈍い音が一つだけ反響しながら響くばかりだ。

「畜生……こんな場所で、野垂れ死んで……たまるか」

 残る力を振り絞り、アーノルドは腕を突き立ち上がろうとする。這うようにして身体を動かしてみても、全身を突きぬける痛みは予想以上に凄まじかった。短い苦痛の声を洩らしてアーノルドは再びその場に力を失ったように倒れた。

「畜生、あいつら、殺す気か……本気で、好き勝手殴りやがって……ッ。うぅ」

 動かす部位が悲鳴を上げる。せめて立ち上がるくらいはしたかったのだが、それも叶わぬ願いとなりそうだ。

「――誰なの」
「……っ?」

 暗がりから、か細い声が一つ聞こえた。

「誰か、そこにいるの?」

 初めは痛みのあまり頭がおかしくなって幻聴まで聞いてしまったのかと返事をしなかった。だが、それは幻聴にしてはあまりにもはっきりと、鮮明に耳に届いた。

「そっちに行ってもいい?」

 アーノルドは、出来すぎた偶然に危惧に近い気持ちが沸いているのを否定出来ずにいた。これまでに何度か死にかけた事はあったが、アーノルドはその度にこうやって今にも途絶えそうな意識の中に置き去りにされた。

 ひょっとしたら、今自分は死の間際にいて、その迎えがやってきたのかもしれない。いわゆる死神というそれだ。

「今死ぬわけにはいかないのに、」

 地を這ってでも生き延びなくては――ほんの一瞬、この苦しみから解放されるのならば、と魂を差し出しかけた自分にアーノルドは憤りを覚えた。

「だぁれ? 大丈夫なの?」

 優しげなその声は、自分が思い描く天使の声そのものであったが、果たしてその姿はどうであろうか。かつて作家志望だった時の名残か、こんな時であろうとも悠長な事ばかり思いついて止まない。
 アーノルドは自分のつまらない半生を呪いながらランプを片手に現れたその人物を見上げた。思わず言葉を失った。アーノルドを抱きかかえたのは紛れも無く天使に見えた。まるで美術品から抜けだした天使そのものだ、とアーノルドは何度もいつの過去だったか、妹が宝物だと言って見せてくれたカメオのブローチに刻まれていた微笑を浮かべた天使を思い出す。

 息を呑むほどに美しき姿にアーノルドはしばし全身を支配する痛みを忘れ、魅入ってしまうのだった。赤色の髪が眩しいその子はまだ十代半ばくらいに見える少年であろう。

「ねえキミ、酷い怪我してるよ……一体何があったの?」
「……き、君は……」
「ちょっと待っててね。簡単な処置しかできないけど」

 しばらく間を置いて再びその天使のような少年が姿を見せる。

「痛いかもしれないけど我慢してね」

 殴打され、熱を持ち腫れた頬に冷たい手のひらが触れた。ひんやりとした感触が心地よく、アーノルドは微かな安堵を覚えた。母親が子にそうするかのような(もっとも自分には母親と呼べる母親はいないが)、優しい抱擁。

「もうしばらくすれば旦那様も戻ってくる筈だから。そうすればここを出られるよ」
「ああ……、有難う」
「もう少しの辛抱だから。大丈夫、傍にいるからね……」

 薄暗い地下の中、その声だけがアーノルドの救いとなっていた。未だ止まない鈍痛に歪む視界の中、声の主はアーノルドを膝に乗せ、彼の頭を愛しげに撫でる。母親の腕の中でまどろむ幼子のように、アーノルドはいつしか痛みを忘れ心地よい眠気に誘われてゆく。

 ふと、彼が歌を口ずさんでいる事に気が付いた。

「……綺麗な……声だな」

 安らぎの中で、アーノルドが尋ねる。気付くとどういうわけなのか全身殴られた箇所や傷を負った部分が少しずつ治癒されていっているではないか。アーノルドははっとしたように横たえていた身体を持ち上げた。

「あ……鬱陶しかった? 耳障りだったよね。ごめんなさい」
「違うんだ、そうじゃない。本当にそう思ったんだ――それに、不思議な歌だ。怪我がさっきよりも引いて……」
「――僕、役者になりたかったから……でも、ヘタクソでしょう」
「そうか……素質がある、きっとなれるさ。いい役者に」
「ほんとうに?」
「続けて欲しい、もう少し聞かせてもらえるか?」
「うん……いいよ」

 ほんの少し笑いながら、再び歌が薄暗い地下室の中へと響き渡る。ともすれば消え入りそうなほどに儚い旋律に伴われるように、アーノルドはゆっくりと眠りの底へと落ちて行った……。やがて、アーノルドは不思議な夢を見る。

 古ぼけた木造の家の中、そこにアーノルドは一人でいた。室内は狭く、そしてランプが一つ置かれているだけで薄暗い。強風にでも煽られればすぐに壊れてしまうそうな質素な家――……アーノルドは唾を飲み込んだ。この場所には覚えがある。

「母さん……」

 いつの間にか、そこにはアーノルドだけでは無く母親の姿も見えた。母親はぐったりとテーブルに項垂れている。髪も結わず、母親は両の耳を覆うような格好で頭を抱え込んでいた。

「母さん、風邪引くよ」

 話しかけようとも、彼女からの反応は無い。代わりに、赤子の泣き声が響いて来た。獣でも思わせるような泣き方であった、けたたましい泣き声に彼女は煩わしそうに顔を持ち上げた。

 赤子の泣き声は一層激しさを増すばかりだ。

「エリオットがまた泣いてる。お腹が減ったのかもしれない」

 アーノルドが彼女の肩に手を置きながら諭すように呟くも、その言葉は届いていないようだった。忌々しそうな表情を上手べたまま、母親は泣き声のする方向を睨みつけた。

「ああ、分かった。また赤痢に苦しんでるんだ。……母さん、ここの水はとても不衛生で飲めたものじゃないんだ、汚染された水は病原菌がいっぱいいる――」
「……何が気に入らないのよ!」
「母さん、お願いだ。聞いてくれ。母さん」
「いつもいつも泣いて何が気に入らないのよ! 腹が減った? そんなの私だって同じよ! ああ、阿片チンキはどこへやったかしら。あれを飲ませれば、静かになってくれる! こんな時にアーノルドはどこにいるの? ああ……っ」

 突然として家中の明かりが消えてしまったようだった。視界が暗くなったかと思うと、アーノルドは闇の中へと一人置き去りにされてしまった。

「……どうして」

 その場に座り込むほかなくなり、アーノルドは力無く腰を落とした。

――生きる目的は見つかりそうかい?

 聞き覚えは無いが、嘲笑するようなその声にアーノルドは不快感を覚えた。

「誰だ?」
――誰だっていいじゃないか。会話をするのには、誰である必要も無ぇんだ
「そうか。俺は知らない人から声を掛けられても相手にするなって教えられたものでね」
――その割には面白い事やって生きて来たんだから、ざまあねえな
「何?」
――俺は全部知ってるんだ。お前が何をして生きて来たのか、全部お見通しなのさ
「……」
――悲観的になるなよ。別に悪い事じゃ無いだろう、生きてくために必要な事だったのさ。変態どもの慰み者になるくらい、大した問題じゃない
「黙れよ、他の奴らだってやってた」
――ああ、そうさ。その通りだよアーノルド。だが、問題はそこでは無い。君のやり口だ。君は、治癒能力や念動力。軽い予知能力に、催眠術。いわゆるオカルトじみた異能を持って生まれた子だ。
「……」
――その力を乱用して、死の近い人間にばかり近付く習性。そこが良くない、実に良くない。記者となった今だってそうだ。その能力を利用して、都合良く死の現場ばかり抑えては記事を提出する……そんなやり方ばかりするから、二流だなんて不名誉なよばれをするんじゃないか?
「黙れって言っているだろう! 俺は仕事に関してはそんな卑怯な方法を使わない」
――だけど、二流なのは確かだ。君が今上手い事取り入ったつもりでいる、あの少女だって……真相を知ればきっと蔑むよ。身体ばかりか心までも汚れた兄だとね
「……一体誰なんだお前は。姿も見せずにつべこべと! 言いたい事があるなら俺の目を見てちゃんと言えよ!」

 暗闇に向かってアーノルドが吠えると、声は途端に消えた。代わりに足元を、生温かい、湿った何かが通り過ぎるのが分かった。

 刹那の事であったがそれは生き物の感触だと思った。足元を過ぎ去ったその感触を追い視線を動かす。先に、地面をゆっくりと這って進む、金色の蛇がいた。二匹の蛇はするすると滑りを帯びたその身体で、音も無く前へ前へと突き進んだ。

「……」

 アーノルドがその様を無言で見つめていると、やがて蛇は歩行を止め、ゆっくりと鎌首をこちらへ向けた。

「あ、っ……」

 蛇の顔は確かに母親の顔をしていた。悲しそうな視線で、蛇は呆然とするアーノルドを見つめ返す。アーノルドが目をつむり、首を振るともう一つの蛇の顔はいつか自分が床の相手をした客の男にすり替わっている。男は下卑た笑いを浮かべてこちらをニヤニヤと見つめていた。

「違う。……違う、違うじゃないか、こんなのッ!」

 アーノルドが強く否定するように首を横に振った。すぐにでもこの悪夢から覚めてしまいたい。

――俺は立派なんかじゃない。生きる為に自分の誇りさえ捨てた男だ。けど、俺にだって矜持はあった。この治癒能力が少しでも誰かの役に立った時は――俺は生きていていいと特別な気持ちになれたんだ。

「お兄ちゃま……」

 すぐ背後から、妹の声がした。振り返ると、妹が憐れむような瞳をこちらへ送りながら立っている。彼女の手には、薄汚れたお包みが抱えられていた。見覚えのあるその包みからは、けだものの咆哮の如き泣き声が上がっている。おぎああああああ、あああああ、と獣じみた泣き声のように聞こえた。

「あ……」

 耳をつんざくような泣き声に堪え切れなくなりアーノルドはその場に頭を抱えてうずくまった。赤ん坊の泣き声が耳元に張り付いて放れない。アーノルドもまた、母親と同じようにして、声から逃れる様耳を塞ぎ固く目を閉じた。

「お兄ちゃま」
「……許してくれ、キティー。俺は本当に、本当にお前を妹だと……!」
「お兄ちゃま!!」
「……っ……」

 実に懐かしい声だった。
 アーノルドは見知らぬ場所で目を覚ました。どうやら自分はこの見知らぬ部屋のベッドに寝かされているようだ。飛び起きた反動からか全身に激痛が走り、アーノルドは痛む箇所を押さえて小さく呻いた。

「駄目よ、お兄ちゃま。安静になさらなくては」
「気が付いたようで良かったの、キティー」
「……ああ、神様。感謝いたしますわ!」

 そしてすぐ傍らには懐かしき顔があった。妹のエカテリーナだ。

「キティー……?」

 呼び慣れた愛称で呼ぶと、彼女は大人びた笑顔で返す。

「ええ。あなたの妹のエカテリーナですわ。お久しゅう、お兄ちゃま。こんな形ですけれども出会えて嬉しいですわ」

 アーノルドは自分を見守っている周囲の人物達を見渡した。キティー以外には誰一人として見覚えのある人物はいなかったが、とりたてて自分に危害を加えるような気配も無い。アーノルドは安堵したように胸を撫で下ろした。

「……俺はどうしてここへ? 不審者と勘違いされて……その、殴られて地下牢へと放り込まれていたのだが」

 アーノルドの問いかけに応えたのはキティーでは無く、その後ろに立っていた薄い笑顔を浮かべる中年の紳士であった。
 紳士はフィンチ型の眼鏡をかけた、物腰柔らかそうな男だ。背ばかりがひょろりと高く、ちょっと力を入れて押せばすぐに倒れてしまいそうな細身の身体付き。上下揃いの背広(ディットーズ)は腕と脚の長さゆえに袖口が足りておらず、いささか息苦しそうに見えた。

「その件に関して、私の部下が迷惑をかけたようだね」
「――部下?」
「申し遅れてすまないね。私がこの家の主、シャンテクレールだ。皆は親しみを込めてシャンテクレール公と呼んでくれている」
「あ……あなたが」

 アーノルドは被っていたキャスケットを取ると深々と頭を下げる。

「そうとは知らずに無礼な口の利き方を……」
「いやいや、止したまえよ。堅苦しいのは苦手でね。なに、まずは頭を上げなさい」
「――心遣いを有難うございます」

 礼の言葉を口にした後、アーノルドは下げていた頭を再び持ち上げた。

「ところで、話を戻しますが……やはり私は地下で倒れていたのでしょうか?」
「ああ。あの乱暴者の部下が屋敷の前をうろつく不審者をひっ捕えたと自慢げに報告するので覗きにいって見れば……運び出した後、偶然キティーが君の姿を見たもので後は大方想像どおりさ」

 言いながらシャンテクレール公は優しげに微笑んだ。

「ちなみにその治療を施してくれたのは、ここにいるメイドのフィリパだ」

 シャンテクレール公が隠れがちにこちらを覗きこむ女性の腕を引き、前へ立たせた。女性は恥ずかしそうに俯きながらたどたどしい口調で話し始める。

「わ、わたくしは、未熟ながらこのシャンテクレール家で働かせていただいております、使用人のフィリパで、す。か、勝手だとは思いましたがあなたの身体に触れさせて頂きました……そ、その、私男性の身体には免疫が無く……すっ、すみません、はうう……っ」

 話すうちにフィリパの顔に血の色が差し始め、紅潮してゆくのが分かった。

「いや、有難う。君のお陰で、命拾いをしたようだ」
「め、滅相もございませんわ! それもこれも貴方が応急処置をなさっていたお陰です。あのような状態にも関わらず、正確な処置を行えるなど……わたくし、お身体を拝見した時もそうでしたが惚れ惚れとしてしまいそうで……はわわっ、わわ・わ・私ってば何を言っているのかしらもう!」
「――……」
「……ちょっと、貴女! お兄ちゃまは怪我人ですのよ! 恩人とは言えあまりお兄ちゃまを困らすような事を言うと許しませんわ!」
「残念だったな、フィリパ。嫁入りするにはどうも相手が悪いみたいだぞ」

 今度は豪快に笑いながらシャンテクレール公が顔を赤らめたままのフィリパの肩を叩いた。

「失礼、シャンテクレール公」
「おや、何だね」
「私が地下で倒れていた時……あの地下で、私は別の人物と出会いました」

 こころなしかシャンテクレール公の表情が硬くなったように見えた。

「そして私はその人物に、可能な限りの処置をして頂いたのです。暗がりだったゆえに全貌までは分からないのですが……その人物はまるで、美しき天使のようでした」

 一同が皆不審そうに顔を見合わる中、只シャンテクレール公だけが静かに無表情を守り通していた。

「年齢はおろか性別まで分からない、美しいひとでした。あの人の優しい言葉により、私はあの場所で耐える事が出来ました。出来る事なら御礼を……」
「おらぬよ」
「え?」
「誰もいないのだ、あの場所には。いるとすればそれはあの地下牢で命を落とした者のさまよえる魂か……」

 芝居がかった口調でシャンテクレール公がはぐらかしたように言った。

「し、しかし……私は確かにこの目で見たのです。そして触れもしました。優しい、慈愛に満ちた母の様な手つきで私の頬を撫でました。それに、そちらの彼女が言う私に施されていた応急処置とは恐らくその方が……」
「こんな話がありましてな」

 アーノルドの話を遮るようにシャンテクレール公がわざとらしく声を張り上げた。

「かつて、この地はペストが猛威を振るい当時の人口のおよそ六分の一を死滅させたと言う話は知っておりますかな。その当時、ここは修道院でしてな。多くの犠牲者が埋葬されたよ――その中に一人、信心深い、心の清らかな少女がいた。彼女はペストにかかった人々にも怖れを抱く事なく施しを行った」
「……」
「ある修道士が犠牲者たちの遺体を見ながら胸を痛めていると、どこからともなくその天使のようなその少女が現れたと言う。姿を現した少女は、彼らの祈りに応えるかのように微笑んだ後また消えてしまった。少女が消えたその場所には……一つの泉があったという。とても清潔で、清らかな水だったとか。何かと物資が必要となる有様の中、その泉は大いに人々を救った。だが、病もようやく下火になり人々に安穏が戻り始めた頃……泉は姿をそのまま消してしまったのだ」

 彼の口ぶりはアーノルドを小馬鹿にするでもなく、至って真剣な話しぶりであった。落ち着き払った様子で、シャンテクレール公は話を続ける。

「この話はいっさい文献には残されていない。いわゆる子どもたちの間で噂になる様なお伽話のようなものだ。だが、私はこの話を信じているんだよ」
「……つまり、私が地下で見たのは本物の天使であったと?」
「あの地下に人などいないのは確かなのだからね」

 成る程、興味深い話ではあったが……生憎、アーノルドが目指していたのは童話作家では無い。アーノルドは少し咳払いをして、ひとまずはこの話を止める事にしておいた。

「ああ、そうだ。忘れるところでした。あなたに乱暴を働いたあの二人ですが……」

 シャンテクレール公が再び静かな口調で話し始めた。先の視えてしまったアーノルドには嫌な予感をぬぐい去る事が出来なかった。

「客人、それも私の可愛い娘の親類を傷つけたとあっては謝罪の言葉だけでは私の胸の内は晴れますまい。あとでたっぷりと身体に教え込みます」
「あ、ああ……その事ですが……」
「しかしすまなかったね。不愉快な思いをさせて。あの二人組は貧民街の出でして、育ちが悪いのですよ。おまけに劣等感からかそれなりにいい身振りをしている人間を見ると、今日のような暴力沙汰を起こす事も……」
「――貧民街?」
「ええ。イースト・エンドで、窃盗や詐欺などを働いて金ぶちを稼ぐ社会の底辺のような奴らでして。見兼ねてわたくしが、腕っぷしだけは良いと聞いたので見張り役として連れて来たのです」

 イースト・エンド、少なくともアーノルドにとっては懐かしい響きだった。
 それはロンドンの光と影。繁栄のロンドンの影に潜むのがこのイースト・エンドであった。ロンドンの下層部に位置する人々が住まう社会のひずみ、貧困にあえぐ人々らの無言の叫びがこだまする貧民街……。十九世紀ロンドンの目まぐるしい急成長の最中、人口過多により切り開かれる貧富の差によって生まれた場所である。




割と結構勉強して書いたのね。
歴史もの苦手な私なりに頑張ったな。
西洋の歴史は好きなんだが日本の歴史は
凄く頭に入らない、なにがダメかって
登場人物の名前がみんな似てるのが辛いんだろうな。
森友学園ニュースの籠池さんと鴻池さんでさえ
同時に出てくると混乱するもん。
ところでこの金色の蛇って
双子の化身姿なんだろうな〜(ビヤーキー)

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