二、いつか王子様が

 空の最も低い部分で、紅蓮に燃える夕映えの雲が瞬いた。今にも闇の刻限が周囲を支配しようという寸前の時刻、その劇場にひっそりと明かりが灯る――、
 慇懃な支配人の会釈を受け、足を運んだのは贅を凝らした広いホール内だった。たっぷりと広く、うんと高い天井。壇上は黒檀と水晶をふんだんにあしらった装飾が施され、柱には黄金色で彩られた大理石がきめ細やかに使われているようだった。

 例えようのない、豪華絢爛な空間。大地にへばりつき、息をするのもやっとの思いで生きている人間達はおよそ踏み入れる事のない領域のように思えた。舞台の上では役者達の纏う衣装が、装飾品が、星明りに慎ましく輝いているのが分かった。

「芝居は良いですねえ、心が洗われるようです」

 そんな優しげな男の声には、心を深く突き刺す棘の様なものがあった。同時に神経性の毒気を孕んでいるようで、こちらの正しい判断力を奪ってゆく。惑わされてなるものか、と嘆息する。きらびやかな舞台とは裏腹に、こちらの心境は酷く不安で落ち着かないものだった。

「こんな場所へ呼び出して、一体どういうつもりだ?」
「おや、お好きではありませんでしたか?」

 すぐ背後から、役者達の台詞を掻い潜るかのように男の声が響いてきた。物々しい取引きの最中であるにも関わらず、男は声を潜めるどころか一層張り上げる様な調子でさえあった。周囲の視線などには目もくれないでいるし、周囲もそんなこちらには見向きもせずに皆舞台に集中している。……注意しろよ、特にこんな相手は――と心の中の自分が言い放つ。

 自分にとって有害なものほど、表面上は笑顔を浮かべて近づいてくるものだ。

「こんな場所で遊んでいる場合じゃないだろう」
「演目をご存知で?」

 驚きを通り過ぎもはや憤りを覚え振り返れば、男は意に介す様子もなく問いかけてきた。奇妙なのはその様子だけではなく、出で立ちもまた同じだった。深く帽子を被り、衣装は燕尾服。その顔には白塗りの上に色とりどりのラインが引かれており、一言でまとめるなら奇抜だった。道化師でも意識しているのだろうが、笑うどころか却って不気味さを覚えてしまう。こちらが竦んでいるのを良いことに、男は恭しく小首を傾げた。

「演目を、ご存知で?」

 更には笑みさえ浮かべながら男が同じ質問を、今度は強調するかのように繰り返した。その笑顔を易々と受け入れるには、如何せんまだ情報が少なすぎた。――薄ら寒ささえ感じ肩を竦めつつ、舞台の方をちらりと一瞥した。
 ふと、香でも焚かれているのか濃い薔薇の匂いが鼻を通り抜けた。

「サロメだと聞いている。演劇に興味などないし、詳しい事は知らない。俺には聞きかじった知識があるだけだ」

 そのぞんざいな受け答えにも関わらずに、男は満足そうに一人頷いた。底の知れない笑い方は、大いにこちらの不安を煽った。毒を含んだ蜜の口調で、男はにっこりと唇を三日月型に折り曲げる。

「では、最後まで見た事は?」

 仕方がなしに、「いや」とだけ手短に答えてやる。正直言って戯曲の内容など、まるで耳に入ってなどいないのが本音だった。男に促され、もう一度正面を向く。煌びやかな衣裳を纏った俳優を丁度視界に留めた瞬間、覆い被さるような男の声が聞こえた。何の心境の変化があったのか今度は堂々とした調子は成りを潜め、幾分か辺りを気にしたような小声になった。どちらかと言えばそれは、独り言に近い様子だった。

「――結局、男と言う生き物がどれほど浅はかで馬鹿な事か、このサロメという作品は我々に問いかけて来るかのようです。哀れな生き物の儚さ――しかしまあ、その欲望に逆らえないのもまた我々の本能なのでしょうか」
「……、何が言いたいんだ、結局?」

 男の言葉は的を得ているようで、着地点を知らずに飛び交っているような口ぶりだった。いや或いは、全てを知った上でニコニコと道化を演じているのかもしれなかった。――この時点で自分は、あらゆる事に気付くべきだったのかもしれない。

「最高だったでしょう、昨晩の女は」

 うっそりと笑う男の唇の隙間に、骨のように白い歯が覗けた。男がその視線を、舞台の上に向かわせた。言葉よりもまず、その視線の方が気がかった。意味深に向かう視線の先を辿ると、舞台上でサロメを演じている役者を見つめているのが分かった。その意味をしばし考え、一つの結論に至る――驚いたように目を丸くしながら、慌てて男を見つめ返す。若干睨んでいるような感じになったかもしれない。何故か挑みかかるような調子で言い返していた。

「女だと? 昨日よこしたのは男だったじゃないか!」
「舞台の上では変わるんですよ。よく出来た子でしょう」

 昨夜の情交を思い返しながら今まさに舞台上にいる、どう見ても少女としか思えないその姿を何度も見つめた。怒鳴りながら我を忘れていた自分に気恥ずかしくなり(しかしどういうわけなのか、それでも周囲はこちらに見向きもしない。まるでいないものを取り扱うかのように)、声を潜めた。男は事も無げに笑い、流れる水のように癖がない動作で続けた。

「――さて、そろそろ商談に移りましょうか……こちらが欲していたものはきちんと持ってきて頂けた、という事ですかな?」

 男は両手を擦り合わせた。今一つ感情の読み取れない真っ白の仮面の向こう、歪んだ感情の籠った眼差しは未だしっかりとこちらに向けられたままだ。

「ああ。だが、覚悟はしていたがあの魔術師共の結界を掻い潜るのは骨が折れた――お陰でこちらの代償はとても大きい。相応の報酬を望むのだが?」
「ふふふ、まぁ待ちなさいよ。あの辺りの領域は私もあまり明るくない部分なもので、もうばかり少し話を聞かせて貰おうじゃないですか――どうやって突破したのかくらいは聞かせて貰えないか? まさか力押しだけであの魔術師や牧師どもをねじ伏せたわけではあるまい」

 切迫したこちらの思いとは相反するよう、男は飄々とした調子を崩さず続ける。こんな奴とは一刻も早く別離したい、辺りに漂う香の匂いを吸い込むと少しだけ頭が整う。

「無論だ。――こちらも強力な術師を雇わせてもらい、あちらの幻術を突貫させたのだ。それで得たのがこの、不気味な装丁の本一冊だった」
「ほほう。強力な魔術師……ですか? 実に興味深いです話、ですな」
「ああ。……東洋の巫女服を身に着けた女だ、見た事も聞いた事もないような奇妙なまじないを行うと話を聞いていたのだがその前評判通りであった。まあ仕事をしておいてもらってあんまりな言い草だが胡散臭い女だったな……仕事以外では関わり合いたくないというか、敵に回したくない感じ、とでもいえばいいのか」

 一息に話し終えたこちらの言葉を、男はふんふんと言った具合に面白そうに耳を傾けている。それで、男がまたにっこりと笑みを広げた。組んでいた膝を組み替えて、男は相変わらず食えない様子で続けた。

「ふむぅ。そのような腕の立つ人物がいるなどとは――いやはや、世界広しと言えどもあの奇怪な術で出来た鉄壁を瞬時にして破る事が出来る……末恐ろしいですなぁ」
「まあ、そんな与太話は後にしてそろそろ仕事の話に移らないかい?」

 目的はそんな部分にはない。そう、仕事だ――ようやく商談の話へと移行すれば、男は布にくるまれたその物体を取り出した。中に入っているのは金ではなく――この時代には貴重な品物である、薬物の“阿片(アヘン)”だった。堂々とその包みを差し出され、慌てるようにそれを引っ手繰る。

「いかがでしょうか。混ぜ物で上げ底のない、中々に上等な物を用意させて頂きましたが、お気に召されませんかね?」
「……ふん。確かに立派な本物のようだ。だが……」

 含みのあるこちらの視線にも、男はさして動じる気配もなかった。そんな彼に向かい、コートの下から出てきた武器は二十二口径に連発デリンジャーだった。カートリッジはマグナム仕様で至近距離からなら致命傷を与えられるだろう。――が、撃ち合いに向く銃ではない。そしてその意味を理解しているのかいないのか――男は、おやおやとばかりに肩を竦めた。嫌味のない中傷。そんなものは認めない。

「こんなぼろぼろの本を一冊得る為だけに、こちらが失くした部下の数は大きい。そのツケを支払いな、てめえ」
「――つまり……えーと……、ああ、破談。と、いう意味で宜しいのでしょうか?」

 小首を傾げながら、わざとらしいくらいの疑問形をつけて男が問う。

「その気味の悪い妙な本はくれてやるさ。阿片もこちらが頂いていく。しかしそれでは割に合わない。ついでにあの舞台女優――あー、いや、男か。……あいつも中々に面白い玩具になる、売りさばけば最高の値が付くだろう?」

 舞台は今まさにクライマックスを迎えようとしているようだった。サロメが、切り落とした預言者の首を抱えている。続けて、預言者の首に接吻を落とす――非常におぞましく、壮絶なまでに残酷であるがゆえに優美な一場面。だが、そんなぞっとするようなシーンであるのにも関わらず自分を含め観客は皆一様に目を、同時に心をも奪われたようになっている。いや、そのグロテスクな瞬間にこそこの舞台の退廃的な美しさが際立つ事を知ってしまった。サロメの少女とも大人ともつかない冷え切った佇まいが、この舞台に漂う空気を、時間を、人々を。その全てを、支配しきっている。

 吐息さえもつかせない、まばたきさえも許されないこの時間。

「……完璧だ」

 銃口を向けられているのを忘れているのか、男は陶酔した表情のままに立ち上がり、拍手を送り続ける……。

「おい、勝手に動くんじゃねえ。――貴様は今、“死”に囲まれているぞ……」
「?」

 男がその言葉に、ようやくといった具合に辺りを見渡した。見れば観客たちの一部が立ち上がり、それぞれの手に銃を武装している。照準は当然しっかりと男に向け合わせられており、事態に気付いた辺りから悲鳴が所々上がった。しかし、舞台の演技は未だ続けられている。

 銃口が、ぐるりと男を囲む。死の放たれる暗黒が目の前に迫る――だが男は動じない。飄々としたまま、自身も片手を持ち上げた。懐に向かい、その指先がゆっくりと進む。

――おもしれえ。やりあおうってか、この詰みに詰んだ状況で……?

 が、そんなこちらの予想に反して男が取り出したのは――指で拳銃の形を作った右手であった。

「は?」

 極々自然に素の声が漏れた。男はいたずらっ子のようにニタニタと笑い、指鉄砲をこちらとあちらとそちらに向けて、それを撃つ真似をした。

「ばーん、ばーん……ばーんっ!!」
「……いかれてんのか、こいつ」

 銃を向けているうちの一人が半笑いに言った。全く持ってその通りだと思った。とんだいかれぽんちだ、頭を撃たれないと事態を理解できないらしい。くくく、と喉の奥で笑いデリンジャーを持ち上げると男はすいとその指先を動かし、すぐ隣にいたチンピラの額に指を置いた。

「まずは君からオシマイ。ば〜んっ……てね」
「は?」

 まだ若そうなチンピラが大いに顔をしかめ、潜めた眉間。男の人差し指が離れたそのほぼ同じ瞬間。チンピラの額が割れ、次の瞬間には上顎から上の部分が消滅する。チンピラは膝から崩れ落ち、まだ痙攣が収まらないのか倒れた後も指先をビクビクと動かしていた。――つまり……と、状況を整理する。撃たれたのか? こいつに? 目の前でニコニコしているこのイカレポンチにか。どうやって。銃もないのに。

「……ばーん」

 男が更に指鉄砲を向けると、そこで銃を構えていた青年の肩に弾丸が被弾した。たちまち悲鳴が殊更大きくはっきりとしたものになり、逃げだす観客もいた。逆に、怯えて逃げ出せない者も。

 青年が悲鳴と共に肩を押さえて倒れ込む。

「な……な……、何をしたんだ!? 手も触れずに銃も使わず――、っ」

 導かれるようにハッと二階席を見ると、スコープを携えたライフルを構える人影があった。通常の人間よりも二倍、いや三倍は肥大した大柄な人物でよく目立つ。扱っている狙撃中もそれなりの大きさがある代物だろうがその差を感じさせないくらい、二つとも巨躯だ。

「ほほえみおデブちゃんは、狙撃の腕前に関しては神がかりだからね。……コンチャ、肩じゃなく頭を狙え。警告はいらない」
「ウ……ウ」

 コンチャと呼ばれた大男はけったいなボルトアクション銃を操作しながら、しかしそこは緩慢な動きでもう一度狙撃の姿勢に入ろうとしている。攻撃そのものよりも、このコンチャという大男の言動や仕草にいちいち恐怖を覚える。知略的な部分は限りなく低そうで、本能のままに向かってくるような相手に見えた。話が通じないのはマズイ、動物を相手しているようで恐ろしい――

「くそ、舞台女優だけでも奪えっ!」

 闇雲になったように絶叫すると、観客たちの悲鳴が一層沸き立った。男は止めるどころか更に高笑いし、こちらを圧してくる。

「ふはははっ、アレは君らなんかに手に負える少年じゃあないよ。逆に利用されて殺されるのが落ちさ。はははっ、はっはぁ〜!」
「うるせぇ!!……くっそ、撃て!――このクラウンを今すぐ撃て、気に入らないんだこいつの全てがっ! めちゃくちゃ癇に障る!」

 彼に銃を向けていた周囲だったが、更に一人が突然銃を落とし首元を押さえその場に倒れ込む。倒れた男の眼球は上の方を向いておりビクビクと痙攣をおこしているようだった。やがて押さえ込んだ首元から、大量の鮮血が溢れ出すのを認めざるを得なくなってしまった。

「……何の冗談だこりゃあ。劇の演出かい?」

 茶化すように言いながらこれが夢であるようにとひたすらに願った。
 舞台の上のサロメが――儚げな少女にしか見えないその役者が、リボルバーをこちらに向けている。銃口からは今しがた発砲したものであろう、白い煙が立ち込めている。

「私からも言わせてもらうと……元からきみの事は気に食わなかった。下品で粗野で、汚らしい。こうなる事くらいは予想済みさ。最後に何か言い残す言葉があるなら聞こうか」
「び……ッ、ビヤーキー! いるんだろう、ビヤーキー!!」

 死の淵に立たされた彼が肺の底から叫び出し、『彼女』の名を呼んだ。白いショールを羽織り、どこか素顔を隠すように佇む白い装束をまとった少女が姿を見せた。周囲の血なまぐささなど、彼女にはどうでもいい事のように見えた。
 東洋の女性が身に着ける着物に酷似したその装束は、こちらからすると非常に珍しい衣装であった。

「ビヤーキー! お前の魔術であの男……クラウンを、クラウンを廃人にするなり五体のどこか削るなり手酷くやってくれないか。報酬は更に払おう」
「……」

 ビヤーキー。それが少女の名だった。顔を上げた彼女だったが、ショールが落ち素顔が大分露わになった。何といえばいいのか、その顔は美しい少女のものではあるが人工的に年齢を止めてしまったかのような、作り物じみた不気味さは漂っていた。

「……ええ、分かりました」

 言いざまビヤーキーは、その金の蛇が巻き付いた杖をかざした。苦しみだしたのはクラウンではなく、彼女の命令した筈の男の方であった。

「ッ!!」

 男は胸元を押さえ続けざま口を覆った。指の隙間から溢れ出す生々しい血液。口だけではない、鼻からも、目からも、真っ赤な血が滝のように溢れ出していた。

「人間は、本当に血の詰まった袋なのですね」

 ビヤーキーが平然と呟きながら、その杖を降ろした。

「血管を破裂させました。この男は全身の血を噴出し続けてやがて死ぬでしょう」
「残酷な殺し方だ。……敵に回さなくて良かったよ」
「……“ルルイエ異本”がある方につくのが私の使命ですから」

 まだ残党がいるのか、半狂乱となりながら舞台に逃げていく者もいる。一人が銃を持って近づいてきたのを見るなり、サロメ役の少年が長い髪のウィッグを外したのをふとビヤーキーは見た。
 サロメの時のような黒い髪では無く、地の髪はそれとは正反対の細い銀糸のような髪をしているのが印象的であった。耳元あたりで切られた髪の下、こちらを窺い見る様な冷めた目があった。昨日見た時と同じ、大人しそうなごく普通の少年がそこにはいる。少年はしゃがみ込むとその深い紫がかった瞳を細めて、憐れむようにこちらを見た。

「……相変わらず惚れ惚れする様な手際の良さだなぁ、ユーディトは」

 少年は舞台の上に登ってきた残党を、持参していたナイフで返り討ちにしたようだった。首から血を流し絶命する男を見下ろし、少年――ユーディトは哀れむような目を向けていた。

「たす、たすけ」

 血の泡を吐きながら、男が命乞いを始める。助けてだって。何の冗談だか。ユーディトは男の上に跨ると首筋にナイフを宛がった。男の更に野太い悲鳴が辺りを包み込む。抵抗しようにも筋肉のあらゆる腱を傷つけられた男には大した力も出せない。





……静寂。暗転。





「舞台を降りると途端に無口になる。違うか、この瞬間がそうさせるのか? ん?」

 クラウンが俯いたユーディトの顔を覗きこみながら尋ねても、彼はやはり口を一文字につぐんだまま何も言わなかった。ビヤーキーはそんな彼らの様子を見て、特にピンとくるでもなく只人形のような表情を向けるばかりだった。
 





うんこを我慢しながら書いています。
この話好きだから知ってる勢いたら
普通にスカイプしたいです(真顔)

前へ次へ
戻る
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -