03-1.何が彼らに起こったか?
ふと、食堂の建てつけの悪い扉が開く音がした。自分達以外のお客だろうか、ミミューはいつのものか分からないその新聞から顔を上げる。
「矢野さァん。いるんでしょーう?」
ガラガラ、と扉が閉まる音がする。そこにいたのは再び降り始めた豪雨のせいなのか、全身まるで海で泳いできたあとのようにビショ濡れの男だった。男は警察なんであろう、濡れたままの制服を身に着けて薄ら笑いを浮かべている。
ずぶ濡れのまま、警官は食堂の中へと足を踏み入れて来る。中年太りの体型で、丸々とした顔に、にこやかな笑い顔。それは元から笑っているように見える顔つき、とでも言えばいいのだろうか。だけど目元は何だか笑っていない感じで、その笑顔が何だか一同には異質なものに映った。
「矢野さーん。ご飯ちょうだいよぅ」
中年がもう一度叫ぶと、奥に引っ込んでいた女性が再び飛び出して来た。中年が歩くたびに靴底に沈んでいるんであろう水がグジュグジュと音を立てる。
「いつもの一つ。あと、今日はご飯大盛りにしといて」
席に腰掛けながら中年が人差し指を一本立てつつ、呟いた。
「……ここの村人かなぁ」
一真が凛太郎に耳打ちする。
「おや」
その声にようやく気付いたのかのように、初めて中年がこちらを見る。物珍しそうに目を丸めながら中年が呟いた。
「お客さんかね。珍しい」
中年は相変わらずにこにことしながらこちらへと近づいて来た。
「道にでも迷われたかな、それともこの悪天候に足止めを食らったのかね」
――何だかその牧歌的な台詞には、こっちまで今の状況を忘れそうになる……それとも、本当に知らないのだろうか? 今の世界の状態を。
訝るように一同が見つめていると、中年は小首を傾げつつしばし何か考え込んでいたようであったがすぐに何か気付いたように「あ」といった顔をさせた。
「これね。うん、雨で。おたくらと一緒だよ、雨で全身濡れてるだけだから」
「いや、あ、あの……」
セラがおずおずとして声を上げた。
「失礼なのですが――この村は何ともないのですか?」
その言葉に少しばかり中年のその笑っているようで笑っていない細い目がすっと鋭くなった。……ような気がした。だがすぐに、元のにこやかな顔へと立ち戻り言うのだった。
「何とも……とは?」
中年は後ろに手を組んだ格好で一行の周りをゆっくりと回り始めた。背もたれにべったりと背を預ける姿勢で座っていた創介だが、投げ出してあった腕に中年のそのでっぷり肥った腹が当たるのが何ともイヤな気分だった……失礼だが。
中年が見定めでもするように自分達の周りをグルグルと歩きまわるのを見ながら、セラは気付いた事があった。
――こいつ、わざと腰の拳銃見せつけるために歩いてる……?
セラだけでなくミミューも、ナンシーも雛木にも分かっていた。有沢もその研ぎ澄まされた勘のお陰なのか、この中年をあまり好意的な者には思っていなさそうである。雛木に至っては、腕と膝を組む格好で通り過ぎる中年を横目で静かに睨みつけているようだった。
「都会の事はよく分からないので、なぁ……それにしても何だか凄い格好だなあ君は」
「そりゃどーもォ〜」
慇懃無礼な雛木の声がした。相手にされないと知るや中年は僅かに眉根を吊り上げたが、今度は唯一の女性であるナンシーの傍で立ち止まった。ナンシーはやはり雛木と同じように腕を組んでクールに構えている。
「ほお、女の子もいるじゃないか。それにまだ若いときた。こんな男ばかりの中で、どうしてだい?」
「別に……」
ナンシーは目も合わせたくない、と言った感じで冷たく返した。雛木の時とは違い、その態度が気に入らなかったのかはたまた何をどう誤解したのか、脈ありだと思ったのかは知らないが中年は椅子を引きながらナンシーの隣に腰掛けるのだから皆ぎょっとする。何をするつもりなのか気が気でならない。
「これ、何て言うか知ってる? 拳銃。本物だよ」
中年が腰のホルスターに差し込まれたリボルバーを指差して言った。
「……」
「モデルガンじゃないよ。ちゃーんと弾が出るんだよ。ねえ、撃ってみたくない? おじさんのリボルバー。いくらがいいんだ?」
それで一同脱力しかけたが、言いながら中年が下卑た笑みを浮かべつつナンシーに近づくので思わず創介が立ち上がった。
「おいおいアホかオッサン! 何言って……」
「どういうつもりか知りませんが、それ以上彼女を侮辱する言葉を吐くのは止してもらいましょうか。僕らだって、それなりの対応というものをさせてもらいますよ」
怒りに駆られた創介とは違ってミミューは、流石は大人というべきかひどく落ち着いていた。有沢もその刀に目立たせないように手を添えていたのだが、ミミューの冷静さを前にしてかゆっくりと手を離した。やがて、肩を竦める。セラも同調するように中年を無言で睨み据えた。
一斉に睨みつけられてか中年はやや強張ったもののすぐに破顔させて、悪びれる様子も無くニタニタと笑った。あはは、と笑って見せ中年は言うのだった。
「なぁーに。冗談だよ。じょうだん」
どこか鼓膜に不愉快にまとわりつくような、粘着質な言い方なのは気のせいだっただろうか。
「それに近くで見たら、まだ子どもじゃないか。派手な格好してるからなあ、てっきり」
ぺしんっと自分のその柔らかそうな額を叩きながら中年が笑う――いちいち勘に障る言い方をする野郎だ。そのへらへらした顔をすぐにでもブン殴りたかったが……、次こいつが何を言い出すのかで今後の出方を決めようかと思った矢先に女性のか細い声が響いた。
「あ、あの……焼肉定食とご飯大盛り……お待たせしました」
「おお。腹がもうスッカラカンだよ」
何事も無かったように中年は立ち上がるとお目当ての定食めがけてすたすたと歩き出した。
「ここのお肉は美味いからなあ……本当に」
独り言のようにぼやいてから、中年は割り箸を割るとこちらには目もくれずに運ばれてきた料理にがっつきはじめた。クチャクチャと大口を開けながら中年は咀嚼し始める。そのわざとらしいくらいのクチャクチャ音は不愉快でもあるし、何だかゾンビ達が人肉を齧っている時の音を思わせる。
「あ……、お金、いいですかね。お釣りはいいので」
「あの」
ミミューが財布を取り出しかけたのだがそれを制するかのように、女性が呟いた。女性はおずおずとこちらを見上げながら、やはり起伏に乏しいその陰鬱な表情のままで言うのだった。
「この雨と霧の中、進む気ですか?」
「ああ……、そうだった。その事で少々お尋ねしたいのですが、この辺りに天候が落ち着くまで休める場所が無いかなと思いまして」
その言葉に女性は顔を上げずに呟いた。
「……。村の最奥にある斜面を登った先に屋敷があります」
「屋敷?」
山の上に佇む屋敷、というシチュエーションに凛太郎と一真は否応なしに、かつての自分達の居場所を思い起こさせられた。
「ええ。この大きな家なのですぐに分かります。時々、そうやって外部からやってきて迷われたお客様を無償で泊めておられます」
「なるほど……それはいい事を聞いた」
ミミューがにっこりとまた笑みを浮かべつつ女性に言うのだった。
「ありがとうございます。少し立ち寄ってみますね」
「あ、あの……」
女性が何か縋りつくような声を上げるので、ミミューも驚いて足を止めた。
「? 何でしょうか」
「あ、い、いえ……」
が、やはりまた元の歯切れの悪い返事と共に首を横に振ってあちらへ向いてしまうのだった。一同が食堂を後にしてから、中には中年と女だけが残っていた。
「矢野さんよー」
中年はもう食事を済ませたのか、つまようじを動かす事に夢中になっている。
「一人だけ助かろうって魂胆じゃねえのか、アンタ」
「ち、違う、わよ……だからあたしちゃんと屋敷に誘導したじゃない」
「まあそうだけどな〜……」
中年がつまようじを皿の上に捨てた。
「俺達は逃げられねえんだぜ……この村から一生、な。共犯者なのさ、俺もアンタも、いやいやこの村全体が」
「……」
「恐ろしい話だよ、全く。まあ、初めから係わり合いになんかならなけりゃあ良かったのさ。そもそも神様なんて名のつくものなんて、下手に人間が触れちゃいけないもんだったのさ……」
「や、やめましょうよその話は――、ね?」
意味深な言葉に、女の顔が目に見えてさーっと青ざめて行く。自分がして来た行いに怯えているのか、それともその男の言葉に怯えているのか。それは、誰にも分からなかった。
「ったく何だよ、あのてやんでぇなオッサンは!」
外に出るなり創介が吐き捨てるようにそう言った。すかさずナンシーに近寄ろうとするのだが、それよりも一歩早かったのはミミューであった。
「ごめんね、さっきは助けられなくて。嫌な思いさせちゃったね……」
ミミューがナンシーの隣へ行くと、申し訳なさそうに呟いた。
「――言わせたい放題に、それもあんな失礼な事を」
「平気よ、ああいう馬鹿には慣れてる」
まったく表情を崩さずに、しれっとしたままナンシーが答えた。隣で歩く彼女の横顔は随分と大人びていて、感情的になる気配は全く見られなかった。
「こんな小さな村で騒ぎを起こすわけにはいかないわ。――それに、あいつ銃を手にかけてた。多分あそこで神父たちが手を出したら多分、私を撃つつもりだった。みんなそれを分かってたんでしょう?」
弁解するつもりはなかったのだが、ナンシーは全て分かっていたようだ。ミミューが肩をすくめて笑う。が、創介と凛太郎はそれが分かっていなかったのかとりあえずみんなに合わせて、知ったかぶりをしたように笑って見せた。