08-4.手紙
凛太郎の手の中には、あの時のハサミがあった。あれからもやって来るどうでもいい毎日に、もううんざりしていたけど、あのハサミだけは何だか時が止まったままで自分の中にあるようで、手放せなくなっていた。
気付けばそれを学校にまで持ってくるようになっていた。
別にナイフを持ち歩くわけじゃないんだ。それにハサミは日常で使う場面だってあるし、持っていても危険人物扱いはされないだろうし――凛太郎は故意ではなくともムカデの命を奪った、その草刈用のハサミを鞄から取り出した。
大きさにしてみれば手芸用の裁ちばさみくらいのそれを、凛太郎は周囲に見つからないようにそっと机の中に忍ばせた。
ムカデの体液がしみついた刃を丁寧に洗って、凛太郎はそのハサミを何かお守りにでもするみたいにして肌身離さず持ち歩く事にした。
それを持つと強くなった気がするだとか、カッコいいからだとか、ましてや誰かを傷つけたいだとか、そんな陳腐な理由ではない。
本当に誰かを傷つけたいのなら、ハサミなんかよりももっと強い武器を持ち歩いただろう。これで誰かを、それこそあの時のムカデのように殺すのは簡単なのかもしれないが実はもっともっと難しい事がある。
――手紙
そう、手紙だった。
頼んでもいないのに毎日毎日届けられる、あの可愛い手紙の封筒を、いつかはこのハサミで開く事。
今の自分にはもっとも難しいことだった。
「お前がいると教室の空気が悪くなるな」
心臓が、早鐘を打った。
そいつは何かにつけて、凛太郎が教室に戻る前からずっとずっと彼らを嫌い続けた男子生徒であった。そいつが影で自分達のことを「キモイ」と呼んで笑っていたのを凛太郎は知っていたし、でも取るに足らない相手だと思って気にした事はなかった。
「弟と揃ってどこか行けよ、マジで」
「何で警察に捕まらないの?」
「悪い事したら刑務所入るんだよね。一生出てこなくていいのに」
「ひとごろし」
女子の甲高い声が覆い被さり、それに連なるように無機質な声が響き始めた。ひとごろし、ひとごろし、ひとごろし……誰かがふざけて教室の隅っこのオルガンで出鱈目なリズムを奏でた。めちゃくちゃなその伴奏に合わせて、人殺し人殺しと歌い始める生徒達の大合唱が辺りを包んだ。
凛太郎はそっと手の平の中のハサミに視線を落とした。やっぱり変わらずにハサミはそこにいて、朽ち果てることもなく存在し続けている。物質的な意味じゃなくて、もっと精神に関する意味合いで――駄目だ。堪えるんだ。
こいつらは全員馬鹿なんだ。
取るに足らないカスなんだ。
相手にするだけ時間の無駄なんだ――、いつかの下卑た大人たちの声と、少年少女たちの歌声が重なり、溶け合い、そして、自分の中で何かが弾けたのが分かった。
気付くと、汗のにおいと、その年頃特有の子どもの成長期のにおい、その家で使われているんであろう衣類用洗剤のにおい、そしてそれから、金属のようなにおい――血のにおいが凛太郎の鼻腔に広がっていた。
悲鳴は遅れて響き渡った。
きゃー、とか、うおー、とか、悲鳴にも色々と個人差があるのだなとボンヤリと小学校六年生当時の自分は呑気に考えていた。
「先生呼んできて、誰か!」
凛太郎の足元、リノリウムの床に倒れたのは胴体の真っ二つになった巨大なムカデ――は自分のいかれた精神が見せた白昼夢だったようで。
まばたきをしてもう一度見ると、そこには腹部に赤いシミを作ったその男子生徒が胎児のような姿勢で丸まっていた。
「痛い、痛い……」
わき腹の辺りを抱えながら、男子生徒は情けない泣き声を漏らした。悲鳴は他のクラスにも響き渡っていたようで、続々と野次馬が集まってきたのが分かった。
「やべぇ、血が出てるぞ!」
「どうしよう、血って止めないとやばいんでしょ!?」
「保健委員、何とかしろよぉ」
慌てふためくクラスの中で、凛太郎だけは血のついたハサミを手にしたままで硬直していた。忘れかけていたあの感触がまた、指先からひた走る。
何気なく凛太郎が顔を扉の方に向けると、こちらを覗きこんでいる一真の人形のような双眸と目が合った。いつ見ても恐ろしく生気の通っていないその目は光がなく、こういう時にもやっぱり同じだった。
その日、どうやって帰宅したのか、それからの時間をどんな風にして過ごしたのかほとんど記憶がない。記憶がないんだけど、何故か施設の人からは「一真とは離して生活させた方がいいのかもしれない」と言われて、それだけはやめてくれと泣きついた事はしっかりと覚えている。
それこそ自分の半身を失うみたいな気がして、下半身をなくしてもがく自分の姿が思い浮かんだ。取るに足らない小さな存在の自分を、巨大なムカデはハサミを持って見下ろしている――。
そしてやっぱりその日も、手紙は届いていた。
結局手紙が開かれることは、これまでに一度もなかった。
一度もないままにこんな事になってしまったんだけど、今になってどうして読まなかったのかと後悔している自分がいる。でも、読んだら読んだでそれも後悔してしまいそうな気がした。
『りんたろうと一真へ。
げんきですか。
もうすぐ夏休みになるね。プールと海にはもういった?
しゅくだいとかゆううつだけど、りんたろうも一真も、あたまがいいから楽しょうだよね。
あのね、きょうはお話しがあるんです。
というのも、まえまえからいっていることなのですけど、そろそろ一しょにくらさないのかなということです。
前まではおなじ家にいたのに、急にはなればなれになるなんて変だよね。
だから、りんたろうも一真もまた家ぞくになりましょう。
しゅう一お兄ちゃんもそうしたいといつも言っています。ふたりがかえってきたら、今どはナオちゃんもつれてくるよ。ぜっ対に。
いやならそれでもいいから、どうかおへんじください。
理央より』
リオちゃん……。
教室のオルガンでショーコーショーコショコショコショッコ♪のリズムを
直感で編み出して、それ以来受け狙いで
弾きまくってると先生が飛び込んできてめっちゃキレられる事って
小学生時代あるあるだよね(ただしアラサーに限る)
あの時代は『しょうこ』って名前の女子は
有無を言わさずあだ名が麻原と呼ばれからかいの対象だったな。
オームに大震災、ノストラダムスの世界滅亡予言の影響で空前のオカルトブーム。
世紀末なのもあり何か色々とオカルトな時代だったなあ。