07-2.Dawn of the dead(死者達の夜明け)
素手で叩き割ったと言うのだ――男の手には当然ガラス片が突き刺さり血が滲み、ぱたぱたと滴り落ちていたが屁でも無いような様子だった。まるでそんな事には頓着した様子もない。
「は!? あぅ、うええ!? な、何ィ〜っ!?」
創介は当然びびってしまって、あやうく腰を抜かしかけた。急展開がこの一瞬のうちに凝縮されすぎて理解が追いつかないといえばいいのだろうか、とにかくどこから片付けて行けばいいのか分からない。
「なっ、何やねん、何こいつ……!」
慌てふためく間にも、男は割れたガラス戸から躊躇することなく足を踏み入れた。部屋の灯りで男の全体像が何となく薄ぼんやりと浮かんだ――なるほど、ピンクちゃんの好きそうないかにも遊んでそうなちゃらけた若者といった感じの男が佇んでいる。
男の拳にはガラスの破片が突き刺さっていて血がいくつも滴っているのに、男は物ともしていなさそうだった。
「ヒッ……、こ、こーちゃん……!?」
男の名前であろう、ピンクちゃんはその名を口にしながら恐れおののいた。ストーカーに乗りこまれ、更にその男の見た目の異常さも加わりピンクちゃんは二重に恐怖した。服代わりに巻いて来たシーツを握り締めながらピンクちゃんは逃げようにも脚に力が入らないという感じでその場に硬直している。
創介は何とかかんとか壁に手を突いて起き上がると、後ろにあったルームランプの柄を掴んで男に振り被る。確かな手ごたえと共にソレは男の腰辺りに命中した。が、男は僅かに身じろぎしただけでやっぱり何とも無さそうだ。
創介は殴った時の姿勢のまま、その視線をおずおずと上げた。
「な、何で……?」
男は相変わらずウー、とかフシュー、とか呻り声の様なモノを漏らすばかりであった。今のダメージなんかは屁でも無さそうだ、怯みもしない。
「えぇい、こん畜生の糞ったれ!」
今度はその身で掴みかかろうとしたが男は動く事もこちらへ向く事もせず、その左腕だけを動かして創介の顔辺りをぶん殴った。
「ぁがっ!?」
「きゃあ! 創介ッ……」
は、鼻の奥がつーんとしてメチャクチャに痛い……背中を思いっ切りぶつけながら、創介は鼻の奥から溢れて来る生温かい血液の存在を知った。手の平で押さえた。一瞬意識が朦朧としたがすぐに向き直った。
「ぴ、ピンクちゃん逃げろ! こここ、こいつ何かヘンだ!」
「わ……分かってるけど、あ、あ、足がすくんで動けないのぉおっ!」
男の視線は創介なんかよりも、ピンクちゃんの方へと向いている。ピンクちゃんはすっかり腰を抜かしてその場にへたり込んでしまっている。
――くっそ! こんな時に女を守るのが男の役目だろ……!?
創介はその身を奮い立たせて、一歩踏み出そうとする男の足元にしがみついた。
「おらっ! このくそ変態がっ! 警察に突き出したる、こちとらジム通って身体鍛えとんじゃボケェ!」
ピンクちゃんは両目を覆って悲鳴を漏らすばかりだ。創介は暴れる男の上に馬乗りになる、くんずほぐれつを繰り返した後……やっぱり男に吹っ飛ばされた。
そらあ、別に何か格闘技を習ったとかの経験があるわけじゃないし喧嘩なんかした事ないけどそれなりに力は……まあ人並みにはある筈なのだが。何だというのだろう、この力の差は。
「うんわぁっ!?」
横手に投げ飛ばされて創介はでんぐり返しみたいなポーズにさせられた。気付けばもう視界が逆転している。
――ど、どこだあの野郎!?
慌てて立ち上がろうとした瞬間にはもう遅かったのか、ピンクちゃんの悲痛な叫びが上がった。
「きゃああああああっ!?」
「ピンクちゃん!」
起き上がり、創介は咽ながらピンクちゃんの安否を見た。男は、何のつもりなのかピンクちゃんのその華奢な腕を捻り上げてそして……噛みついた。犬なんかがじゃれつく時によくやる、甘噛みなんかじゃなくてそれはもう、食い物にでも噛みつくのと同じくらいの勢いだ。
ピンクちゃんの悲鳴には恐怖と、それと疑問形が混ざっているようだった。それもその筈だ、ある程度何かされる覚悟はあったにせよまさか文字通りに食われるなんて思ってもいない。
「なっ!? 何だこのやろ……」
「きゃあああ! 痛い! いたぁああぁああっい!」
男は美味しそうにバリバリと食い千切ったピンクちゃんの肉を堪能している。くちゃくちゃという咀嚼音がとにかく不愉快で、男は半分白目を剥きながら口元から血液、千切れた線維のようなものを垂らしながら口を動かしている。何とも下品な食い方で。
――まさか……そんなまさか、だろ?
一年くらい前に、封鎖された第七地区を中心にゾンビが発生したのは忘れ難い記憶だ。だがあの事件はもう収束した筈だろう? もう一年も前の話なのに!?
確かにあの痛ましい事件の記憶はあるが、位置的にもそれなりに離れた場所で起きた事故だ。創介はどこかそれを他人事のように眺めていた。というか今も正直、半信半疑だ。何かの悪い冗談のような気がしてならない。
「痛い! 痛いよぉおっ! 血がいっぱい出てるーっ! 止まらないよー!」
が、ピンクちゃんの尋常でない叫び声がこれを夢でも冗談でも無い事を決定づけている。何かのサプライズじゃないのかと期待していたりもしたが、この自分の腕に突き刺さったガラス片やら背中に受けた痛みやらはイタズラの範囲じゃ済まされない。というかこれでイタズラでした〜! とか言われたらそれはそれで殺意しか沸かないんだけど。
相手はゾンビだとしたら、有効な手立ては……創介は先程の折れたルームスタンドの柄を握り締めた。
――ゾンビだったら殺人にはならないよな!? つうか仮にこれが人間でも、いきなり他人に食らいついたとなりゃ正当防衛だろ? くそっ! 民事じゃすまさねえぞこのっ!
行儀の悪い食事を終えた男は加えてゲェっときったならしいゲップをし、再び泣き喚くピンクちゃんへと向き直った。
「……ヒッ!?」
「う、うおおおおおっ!」
その瞬間には創介は勢いを付けて走り、その折れた柄をヤリ投げでもするみたいに握り締めていた。そして男の脳天めがけて思い切り振り降ろした――
「きゃぁあっ!?」
「ごべっ、」
男は短い悲鳴を漏らして、何度か痙攣を繰り返した後その場に倒れ込んだ。その脳天からは、突き刺さった棒っきれが頭上高くに聳え立っている。
「は……は、ぁ」
「いやああ! し、死んで……死んじゃったの!? ね、ねえこれって殺じ……ッ」
「――も、元々死んでたんだよ、たぶん」
そう答えるのが精いっぱいで、全身の力が抜け落ちた様に創介はその場にへたり込んだ。男の頭からドボドボと溢れる赤黒い血液が、薄いピンクのカーペットにシミを作っていく。
「い、今はそれよりもピンクちゃん、腕の怪我……見せて」
創介はすっかり怯えきっているピンクちゃんの前にしゃがみこむととりあえず応急処置を取ることにした。腰に巻いていたバスタオルを外すと(すっぽんぽんになってしまったがまあ向こうは見慣れてる訳だしいいでしょ?)、ピンクちゃんの腕にきつく縛ってやった。それでピンクちゃんは痛そうに顔を歪めた。
「これが例の元カレなの……?」
ピンクちゃんはぷるぷると小刻みに何度も何度も頷いた。涙のせいで、すっかり目元のラインやマスカラが剥がれおちていて、その大きな瞳の下には真っ黒な線がいくつも出来ていた。事前にシャワーに入ったのだが化粧は取っていなかったんだろう、いつも大体そうなのだ。
「創介……」
「ん?」
「あたし、何だか頭がぼうっとする」
バスタオルをきつく縛り終えて、創介がピンクちゃんに向き直った。創介が優しくその頬に手を添えてやり呟いた。
「こんな事が起きたからちょっと精神が昂ぶってるんだな。大丈夫、今すぐ救急車呼ぶから。……大丈夫、ピンクちゃんは何も心配しなくていい。あとは俺が上手く説明してやる」
「うん……」
創介は立ち上がると先程投げだしたスマホを手にしてもう一度番号を押した。が、やはり先程と同じアナウンスが流れてくるだけである。
舌打ちしながら今度は備え付けの家電に手を伸ばす。が、受話器を耳に当てて、無音である事に気がついた。
「ンだぁ? まさか、この元カレに回線食い千切られたっていうんじゃ……」
「創介」
「ちょっと待っててピンクちゃん、大人しくしてて……くそ、何だって言うんだよ」
「すごく頭いたい」
「分かってるよ、だからすぐに……あれ?」
創介が半ば乱暴に番号をカチカチと押しまくるが当然のことながら無反応だ。
「ね、ぇ、もう、無理だよ……」
「――だからっ! 静かにしててくれってば! 今頑張ってんだろうが!」
それまで冷静さを保つのに必死だった創介もいよいよ語尾を荒げて、乱暴にその受話器を置いた。
「クソッ、一体何が起きやがったって言うんだよ!」
ついつい苛立ってしまい、口調が荒くなる。見苦しいと思いつつ、流血沙汰を前にして取り乱し気味なのだ。
「怒鳴らないでよぉ……」
「あーもー、悪かったよ。けど、俺だってパニクって……」
言いながら創介がくるっと振り返る。
「ピンクちゃん……?」
「アハ……あはは。きもちいぃ〜よぉ。創介ぇえ……何だかきもちよくなってきちゃったーー」
「……は、ぃ?」
見るとピンクちゃんはさっきまで怯えて泣いていたのはどこへやら、ヘラヘラと楽しそうに笑っているではないか! しかもほとんど白目を剥いている、そのヤバさといったら死霊のはらわたさながらの凄まじさだった。
「な、何言って……んの?」
「きゃははははっ! きゃはーっ!」
気が触れたとしか思えないような笑い方をした後、ピンクちゃんは傍らに転がるその元彼の遺体に手を伸ばした。
投げ出されたその腕をひっつかむと、今度はお返しと言わんばかりに思いっきり噛みついた――引きちぎった。血が面白いくらいにブシャッ、と飛び散って辺りを汚したが……何だかどこから突っ込めばいいのか分からなかった。
「マジで――それマジでやってんの……ね、ねえちょっと……」
ピンクちゃんの目はもう完全にイッている。美味しそうにその肉を貪りながらピンクちゃんもまたクチャクチャと行儀の悪い食事を始めた。
――ゾンビのセオリーとして、ゾンビに噛まれた奴もまたゾンビとなってしまう
それは誰しもが知っているんであろう、語り尽くされたセオリーであった。それなのに呑気に怪我の治療をしてやって、恐らく自分は心のどこかでこの事態を楽観視していたんだろう。
「ヒ……ッ、うひっ」
ピンクちゃんがくるっとこちらに目を向けた。セリフをつけるとしたらああ、こんな腐った肉よりももっと新鮮な肉がすぐソコにあったじゃないか!……というのが相応しいだろうか。
ピンクちゃんはニターッと満面の笑みを浮かべて、口元についた血液を右腕でごしごしと拭った。
「ぴ、ピンクちゃ……タンマ。落ち着いて、落ちつ……」
話し合いで解決できる相手ではなさそうだ。ピンクちゃんはその血にまみれた口をがぱっと開いて立ち上がった。今にも食らいつかんばかりの勢いだ。
「ギシャアアアアァァアッッ!」
「ぎゃああああ! だからタンマだってぇええ!」
飛びかかってきたピンクちゃんを何とかしゃがんでかわして、創介は躓きながらもなんとか玄関の方へと走った。ピンクちゃんがクルっとこちらへ振り返った。凄まじい眼光に思わず怯んでしまう。
「な、な、何なのぉお! ちょっとマジ勘弁してよぉお!」
とりあえず傍にあった傘を握った。武器代わりだが、役に立つのかどうか分からない。ピンクちゃんが笑いながらゆっくりとこちらへ向き直った。
「ひ、ひいいい」
蛇に睨まれた蛙状態、っていうヤツだろうか。
創介は竦みながらもなんとかかんとか後ろ手で背後のチェーンを外した。震える手で何とかして扉を開けた。
「ガアアアア!」
「ひゃあああ、や・やめてぇええーッ!」
ピンクちゃんが勢いを付けてジャンピング齧り付きで襲いかかってきた。女々しい悲鳴を上げながら創介は何とかかんとか扉を開けて飛び出すと無我夢中で閉めた。ドンッ、とピンクちゃんが扉にぶつかる音がして、しかも扉の隙間にはピンクちゃんの指が挟まっている。
「んなぁっ!?」
そのもはや女のそれとは言い難い怪力で、ピンクちゃんは挟まれた指を動かして扉をこじ開けようとしてくる。
「だだだっ、だわぁあああ!? か、堪忍してぇえーっ!」
心の中でごめんなさいを繰り返しながら創介はその扉を思い切り閉めた。痛いだろうな、と思いながらも何度も何度もバンバンと閉めた。けたたましく悲鳴があったがようやくその指が引っ込んだ。とりあえず扉を背中で押さえながら創介は傍に置かれていたダンボールやら工具入れ、自転車等を足先で手繰り寄せて扉の前に置いた。
――ああ、俺一体何やってんだろ!? 全裸で!
必死さゆえ忘れていたが今自分は真っ裸なのだ。だがなりふりかまっていられない。生きるか死ぬかの瀬戸際なのだ、そんなこたぁどうだっていいんだ。
扉の向こうからドンッッ! と激しい音が響いて創介はびくついたが傘を構えて走り出した。
「ちくしょー! どうなったって言うんだよばっきゃろぉお!」
せめてもの抵抗で股間を隠しながら創介が全力疾走する。
「きゃー! 何するのお父さん! やめてえええ」
「うわあああああああーーっ!! こいつ食い千切りやがったーー! 俺の、俺のぉおお!!」
途中叫び声があちこちから響いて来た。だが、今は自分の事で精いっぱいなのだ。創介は振り切るように、階段を滑り落ちる勢いで降りた。