▼ 01-7.君を死なせたりなんかしない
既にほとんどの人間が避難してしまった無人の地区……ほとんどゴーストタウンと化したその地域。そのせいか周囲の雑音はほとんど無く、あるとしたら吹きすさぶ風の音だとか瓦礫の崩れる音とか、あるいは小動物達の鳴き声や空を飛び周る鳥たちの声だろう。
夜明けのまだ訪れる事の無いその街を、口笛を響かせながら軽い足取りで歩きまわるのはハイドラであった。ハイドラはマントをたなびかせながら瓦礫と化したその街をスキップしている。
彼が鼻歌代わりに口ずさんでいるのは<荒野の用心棒>でお馴染のテーマソング、<さすらいの口笛>だった。彼の年齢から考えると若干渋いチョイスではあるが。
「……あのクソ忌々しい九十九の薄汚いガキンチョがようやく動き出したみたいだが、ちょっと煽りすぎたかね。僕にはまだどうもこのネクロノミコンとのシンクロ率が低いようだから……おっと」
右手に抱えていた山科の頭部が低く唸るのを聞いてハイドラがそれをひょいと持ち上げた。
「どうしたのかな? 山科くん」
「何も感じない……何も感じない……痛くないし痒くも無い……? 何故だ? それに喉も乾かないし腹も減らないしションベンだってしたくない……そんな事があるわけが……」
「そりゃあーた、身体が無いのに腹が減るわけもないしましてやトイレなんか行きたくなるわけがないじゃないよ。ンン? どっからションベンやクソが出てくるってゆーんだい」
掴んだ山科の頭部をゆっさゆさと振りながらハイドラが彼の顔を覗きこむが、極めてその反応は薄い。もうほとんど狂いかけているのだと思って、ハイドラはつまらなさそうにフウっとため息をついた。
「おもんな〜。ね、ね、シッカリしてよね。君には寸前まで恐怖をその目にこびりつけておいてもらわなきゃならないのに。ほーらっ、起きてよ」
ハイドラがぺしんと山科の頬を軽く叩けば山科の虚ろだった目がかっと冴えた。まどろんでいたようだが、山科はそれではっきりと覚醒したようだった。そして見開かれた目を必死に動かしながらハイドラを見て再び絶望の色が差しこんだ。
「起きた〜? まぁ君が狂って逃げようったって、そうはいかないんだけどね」
その言葉で、絶望感に更なる拍車をかけられてしまったのか山科の両目に見る見るうちに涙が浮かんだ。……こんな状態になっても泣けるんだなあ、涙は出てくるんだなあ、というか何でもありなんだなあ、と山科は頭の隅でどこか冷静に納得しながらやがて滝の様な涙をドバドバと流し始めた。
勿論鼻水もセットで、山科は大いに顔を崩して泣いた。
ハイドラにとっちゃあ、もうこんな顔は飽きるほど見たが山科のそれなりに整った面立ちがグシャグシャに歪んでいくのはやはり愉快痛快である。
「も、いいよぉ……俺が悪かったよ。俺が一番悪いんでしょ? はい終了、しゅーりょー、も、これ、終わろうよぉ」
何も聞いちゃいないのに山科がべらべらと喋り始めた。ばかじゃねーの、とハイドラが吹き出しかけたが微笑ましく見守る事にしておいてウンウン、と頷いてあげた。子どもの泣言を聞いてあげる母親がごとく、それはそれは優しげな表情で。
それに気を許したのか山科は益々饒舌になってべらべらと喋り始めた。
「俺もさぁ、退屈してたのよ。うん。はっきり言うと、退屈しのぎだったの。お前をいじめたのは。だって学校生活って暇じゃん? 超つまんないじゃん? 勉強も人間関係も色々とストレスもたまるしそれで」
ハイドラはもう片方の手の小指で耳クソをかっぽじりながらそれを聞いていた。そうしてから小指についたゴミをふーっと吹き飛ばして再び山科に向き直った。山科はもはや見てくれなどは気にしている様子は無く鼻水まで垂らして、そしてそれを拭う事も腕が無い今は許されず、結果として醜く嗚咽を上げている。
「俺だってぇ、疲れるんだよぉ……ストレスとかあったんだよ。親の事とか友達づきあいとかそれで」
「うっせぇんだよ、糞バカ野郎」
ハイドラが小首を傾げながら満面の笑顔で突き返すのだった。
「で、な〜にが言いたいのお前? お前のぉ、そのぉ、カスみたいな言い分を分かってくれよ、俺だって可哀想だったんだよ、ママァーって? ふざけるんじゃないよ脳天パー。そんな作文以下の言い分が通用しますか? しませーん」
ハイドラがわざとらしく語尾を伸ばすように言って首をぶんぶんと横に振って意地悪く笑った。再び山科の顔がぐしゃっと泣き崩れて、子どもみたいに喚き始めた。
「……ん? 何だ」
山科の嗚咽とは別に人の言葉が聞こえたのでハイドラは耳ざとくそれを察知した。泣き喚く山科に黙るよう促してから、山科は声のする方に振り返る。自分の配下にしているゾンビ達かとも思ったのだがそうじゃなさそうだ、ハイドラはもう一度耳を澄ませると声のする方へと向かった。
「……これはこれは」
街の中央に佇む、ちゃちな街頭モニターのようであった。画面もそんなに大きくは無いし映りも悪く、声だってくぐもっていて聞き取り辛いがハイドラはその画面に釘付けになった。
『神からのご遺志を受け継いだ私になら分かる! これは! 神が! 我々に与えた試練! 神は乗り越えられない試練をお与えはしない、だから! これを乗り越えるべくして我々がやらなくてはならないのは只、ひとぉーつ!』
「はん、只のキチガイか」
今まさに何人かの人間からお前が言うべきことではない、と突っ込まれている事は露知らず、ハイドラはマントを翻して立ち去ろうとした――が、足を止めた。
『街に現れたあの少年は神が天より遣わせた天子であるのです!』
――あぁん? それって……
眉をひそめながらハイドラは真っ黒に縁取られた両目を細めてもう一度画面を見据える。
『世はまさに今! 混沌と無秩序の時代を迎えようと……』
「ああもう、ンなのはどうだっていいんだよ脳天パー。僕が知りたいのはその前、その前だよクソ」
地団太を踏みながらハイドラが喚く。
『そう、あの少年が天よりもたらしたのは混沌そして恐怖と災い! これが意味するものはズバリ何か! 私には分かる、神は人々の愚行を嘆き、そして怒っておられる!』
「ちょっとちょっと、勝手に僕の名前で新しいブランド建ち上げないでくれる? 気に入らねえなあこのオッサン、ジークフリード竹垣? けったいな名前だ。ふざけてやがる。不死身の英雄ってガラか? てめえ」
機嫌悪くハイドラが罵りたてた。
『私には分かる! あの少年の怒りが! 憎悪が! 同じ神の血を分けたわたしには分か〜〜る!』
「なーに言ってやがる。面白い顔してんじゃねえぞこら」
やや大袈裟な演技を織り交ぜて絶叫し始めるジークフリードの姿を見ながらハイドラが更に罵り言葉を並べるのだった。
『――ご覧下さい! 私の後ろには、賢明な最善の選択をされた市民たちが集まっておられる! 見えますか? ちょっとカメラさーん。もっと寄って寄って。はい、オッケー! 今日も男前よ安部ちゃん!……えー、皆様、どうでしょうか? 彼らの祈りをささげる姿……まっこと神聖なるこの光景!』
カメラに映し出されたのは彼の演説に心を動かされたのかあるいは元々の信者でありいわゆるサクラみたいな存在なのかは知らないが、かなりの人数の、老若男女ありとあらゆる人種だった。
どれも皆白いローブを身に纏い、その周りには聖火に見立てられた背丈がばらばらのキャンドルがいくつも囲むようにして置かれていた。薄暗い室内に、その炎が揺らめいた。
『英知ある民たちに告ぐ!』
ジークフリードがカメラを自分の所に無理やり持ってきて叫んだ。
『すぐにでも私の元へ来なさい。私はあなた方をこの恐怖から! すぐに救いへと導こう! そして約束しましょうぞ、希望ある未来を』
「ヒャハハァ、見てみなよ。山科くん。こいつぁとんだ悪役が出て来たね。キーッ、食い漁るしか能の無いブタ野郎め、僕の造り出した世界の素晴らしさを何とまあ陳腐な理論で片付けてくれたじゃないの」
ハイドラはモニターに向かって悪態を突いた。
「おまけに僕は貴様の引き立て役か! 糞食らえ過ぎるぜこーのチンカスが!」
ついでにペッと唾を一つ吐いておいた。
「でもまあ、しばらくは泳がせてやるのもいいかもしれないね。色々とこの僕のシナリオを盛り上げてくれるのに一役買ってくれるかもしれないし? ね、山科く〜ん」
そこでまた山科の首を持ち上げて微笑みかけると山科はもはや憔悴しきった表情で、うつろなその両目は宙を虚しく見つめるだけだ。
「いい働きを期待してるよ、教祖様。飽きたらつーぶそっと」
そう言ってクスクス笑い、ハイドラはまた街の中へと繰り出すのであった。
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