六章





 ――――天使が住む天界、悪魔が住む魔界。それは人間が知らない世界。








 火の付いた暖炉のある部屋にいる、2人の青年。

 短い金髪に若菜色の瞳の青年は、椅子に座っているもう1人の青年に背後から抱きついた。

 抱きつかれた腰まである長い銀髪の青年は、それでも振り向かない。

 「どうしました? ミーシャ」

 銀髪の青年の、感情は感じさせないのに柔らかい声色。彼の手には分厚い本。紫水晶のような薄い青――美女桜の瞳はその本に向けられている。

 ミハイルの愛称形、ミーシャと呼ばれた美貌の青年。

 「こっち向いて? コーリャ」

 ニコライの愛称形、コーリャと呼ばれた青年は黙って本に目を落としたままだ。

 彼の長い銀髪に唇を落とすミハイル。

 「どうしてつれなくするの?」

 その長い指がニコライの白い首筋をなぞる。その先にあったシャツの襟を滑り、閉じられた釦(ボタン)に触れた。

 そこでようやくの振り返ったニコライ。交わるミハイルの若菜色の瞳と彼の美女桜の瞳。

 「まだ朝ですよ」

 「関係ないね」

 1つ、釦が外された。

 「俺のやりたいようにするだけ」

 「…………」

 口を閉ざすニコライのシャツの釦を、ミハイルがまた1つ開ける。白い肌が、鎖骨が露になっていく。

 「君が欲しくて堪らない。いいでしょ? 昨晩は1回しかやってないんだから」

 「…………」

 赤いミハイルの唇が、ニコライの首筋に触れる。そして指先が釦をどんどん開けていく。

 彼の行為にに対して、ニコライの抵抗は何もない。

 「お好きになさい」

 ただそう言った。諦めと慈しみを含んだ口調で。

 笑みを浮かべるミハイル。

 「当然だよ」

 シャツの釦が後ろから全て外され、露出されたニコライの鍛えられた白い胸元、腹部。ミハイルの手は彼のシャツを脱がし、上半身を全て露にしてしまう。

 椅子に座ったニコライの後ろから前へ回るミハイル。彼の首元に顔をうずめ、舌を這わせ、キスを繰り返す。

 ニコライが手にしていた分厚い本が、床に落とされた。

 ミハイルの手は彼の背中に回された。肩甲骨の辺りにある赤い一対の痣を、見てもいないのに指先でなぞる。

 「……ミーシャっ…………」

 ニコライが初めて僅かに表情を変えた。

 眉間に皺を寄せた彼に、ミハイル。

 「いつも翼痕(よくこん)触られるとそういう顔するのは、俺が悪魔だから?」

 「ち、が……」

 否定しようとするニコライの中性的な顔に、ミハイルは顔を近づける。

 「まだ思ってるの?自分が高潔な天使だとかさ」

 そして彼の唇を唇で塞いだ。つ、と彼の【翼痕】を撫でながら。

 翼痕は遥か昔、天使や悪魔がその背中に純白、あるいは漆黒の翼を背負っていた証。

 天使のニコライ、悪魔のミハイル。運命は交わることのないはずの2人を結び合わせてしまった。

 「……ん、はっ…………ぁ」

 クチュ、と2人の舌と唾液が絡み合う。ニコライの上顎を滑るミハイルの舌。ゾクリとするような感覚に彼が唇を離そうとするのを、ミハイルが片手で止める。

 「は、ぁんっ……」

 唇の間から度々息が漏れる。

 ニコライはミハイルのシャツの中に手を差し込んだ。その背中を這い上がり、そこにあるはずの痣に触れる。悪魔である証に。

 「…………!」

 翼痕に触れられたミハイル。若菜色の双眸を見開く。銀色の糸を引いて唇を離した。

 「何、するの……いきなりやめてよ」

 「あなたも、ここは嫌なんですか?」

 そう言って痣を指で撫でていくニコライ。頬はやや上気しているが無表情で見つめてくるその天使を、ミハイルは見つめ返した。

 「嫌、じゃないよ……君に触れられるなら」

 そしてニコライの左肩に唇を押し付けた。

 白い肌を赤い唇と舌が滑る。肩から鎖骨の下の窪みへ、そのまま下に。胸筋の輪郭を、真ん中からなぞる。ミハイルの右手は彼の背中にあったが、左手は彼の腰のベルトへと向かっていた。

 「まだ勃ってないんだ?」

 口元をニコライの胸元に近づけたままそう言ったミハイルに、彼は眉をひそめた。

 「今までの行為のどこに勃つ要素がありましたか?」

 「冷たいね、コーリャ」

 笑みを浮かべ、ミハイルはニコライの太ももに自分の股間を押し付けた。

 「俺、君に触れるだけでこうなるんだけれど」

 「淫乱」

 「そう?君が好きなだけだよ」

 そう言ってミハイルは、ニコライの乳首に吸い付いた。

 「ん、」

 その僅かなニコライの反応を楽しむように、ミハイルは舌を動かす。左手を外したニコライのベルトからもう片方の乳首へと移動させた。

 指と舌に弄られるサーモンピンクの乳首。乳輪をくるりと撫で、突起を押さえたり摘んだりする。

 ミハイルのシャツを握り締めたニコライ。

 「……くっ」

 「ここ、案外感じるんだよね。コーリャ」

 「あっ、お黙りなさい……」

 「やらしい。勃ってるよ?」

 反応し始めたニコライの性器を下着の上から左手で掴むミハイル。

 「ニコライの大きいから、この中じゃ苦しいでしょ?」

 「んぁ、あなたこそ、」

 ニコライの片手がミハイルのベルトに伸びる。

 「え? 脱がせてくれるの?」

 答えずに、カチャカチャとニコライの片手が器用に彼のベルトを外す。ファスナーも下ろし、下着の中で完全に勃っている彼の性器を取り出した。

 「あんっ、コーリャの手、冷たいっ……」

 テノールの美声で艶かしく言ったミハイルに、ニコライの性器が下着の中で更に大きくなる。ソレを掴んでいたミハイルは悪戯っぽく微笑した。

 「俺に欲情しちゃった?」

 「なっ、あなたって人は……!」

 少し憤慨するニコライ。ミハイルは彼の性器を下着の中から取り出した。

 「おっきいね?」

 「黙ってできないんですか……、ん、あっ!」

 ミハイルの長い指がニコライの性器を弄り始めたので、ニコライも彼の性器を抜くように手を動かす。

 「あぁん、キス……しよ」

 「ミーシャ、んぁ……」

 性器を刺激し合いながら唇を深く重ねる。片手はお互いの背中に回し、体を密着させていく。

 絡み合う舌。快感と熱を求め合う体。2人の美貌の男が欲しがるのはお互いの存在。認め合えるはずのない天使と悪魔。

 「コーリャっ……離し、て」

 ミハイルがニコライの性器を抜く手を離させ、もう達してしまいそうな自分のソレをニコライの性器に擦り付けた。

 「ミーシャ? く、あっ!」

 「ねぇ、も、イく……一緒にイきたい」

 「はい、うあっ……」

 ミハイルが腰を振りながらニコライを抱きしめた。

 「イく、よ? ……ああっ!」

 「ああぁんっ!」

 2人はほとんど同時に達した。

 ニコライを離したミハイルは彼の顔を覗き込む。息が上がり、目を潤ませて頬は赤した彼の顔が扇情的だ。

 「コーリャ、エロいね」

 「はい?」

 ミハイルにズボンに手をかけられ、ニコライ。

 「待ってください、最後までやる気ですか」

 「駄目なの?」

 「まだ朝ですし、こんな場所ですよ」

 「……ん〜〜」

 やや不機嫌そうな顔をして、ミハイルはすぐ横のテーブルにあったティッシュを手に取る。

 「仕方ないな。じゃあ続きは夜ね」

 「は、はい……」

 ミハイルに薄笑いで言われたニコライは、少し戸惑いながらも返事をした。あまり良い予感がしない。

 彼にティッシュを手渡され、精液を拭き取ってベルトを締めるニコライ。床に落ちた本を拾いながら立ち上がった。

 ミハイルと並んだニコライは、彼よりも背が高く体格も良いのが直ぐに分かる。

 ニコライが持つ本を見て、ミハイル。

 「トルストイ?」

 「ええ。『戦争と平和』」

 「どう? 人間界の本は」

 「……少し不思議を感じることが多いです」

 「だろうね」

 2人がいるのは人間界。寒い地域の山奥に建てられた一軒家だ。人間に見つからないようにここに住み、食料の買い出しの時だけ山から下りる。ミハイルはずっとそうやってここで暮らしてきたのだ。

 恋人は何人もいたらしい。それでもニコライがこの家に来るまで、彼はただ1人でこの家に住んでいた。

 ただ、1人で。








 「退、隊……?」

 ナターリヤ・クリベーク−−通称ナターシャは、愕然とした目で目の前の大男を見ていた。

 そのくすんだ金髪の大男がいる開いたドアの向こうには彼の部屋があり、中から眼鏡をかけた背の低めの男も彼女の方を見ている。そこは4人部屋だったはずだが、現在はその2人しかいない。

 彼女が立っている廊下は、今が消灯後だということもあり、ほとんど人通りはない。

 大男は目の前の美女を怪訝そうな目で見下げる。

 「あんた看護師か?わかってんだろうな、ここ男子寮だぞ。しかも消灯後。見つかったら……」

 「わかってるわ」

 ナターシャが男子寮に忍び込みこの部屋に来たことには、勿論わけがあった。レオとディーマのことを聞きに来たのだ。彼らはこの部屋で生活をしていた。

 ニコライがミハイルに連れ去られた日。あれからこの基地では−−−−何もなかった。ここ、レキア東方軍基地で何が起こったのか、本当のことは上の者は全く公表せず、あの警報は誤作動だったということにされた。ナターシャのような当事者にはあの時のことは誰にも話さないようにと指示された。話せばおそらく除隊処分だろう。

 しかしナターシャはレオやディーマが連れ去られたニコライをそのままにしておくはずがないと思った。だからこうしてここに来たのだ。

 「クルツ伍長も、ダニロフ軍曹も退隊したの……?」

 「レオのやつは除隊処分だと。そういやモローゾフ中尉も辞めたって聞いたな」

 「モローゾフ中尉も?……あなた方、あの日何があったか知ってるの?」

 「ああ、2人から聞いたよ。絶対に誰にも話すなともな。あいつらは助けに行ったんだ……連れてかれちまったヴィノクール特務曹長をな」

 男の顔が少し険しくなる。彼らへの懸念のせいだろうか。それともミハイルへの怒りだろうか。軍の上層部への不信感かも知れない。

 逡巡して、ナターシャは唇を開く。

 「そもそも、何故上層部はヴィノクール特務曹長を1人でミハイルのところへ行かせるような危険なことをしたのかしら?」

 「さあ。ヴィノクール特務曹長なら1人でミハイルを倒せる、少なくとも死にはしないと思ったんじゃないか?ミハイルと接触して少しでも情報を得ることが目的だったのかも知れない」

 「……そうかしら…………」

 ナターシャは納得できないと言いたげな顔をする。

 そもそも、ミハイルが最強の悪魔として天界にも知れ渡るようになったのには何かしらわけがあるはずだし、ある程度の情報も無ければおかしい。大体の住処もわかっていたならやはりニコライが殺されないで済むと思ってしまうほど情報がなかったとは思えないのだ。

 ナターシャの顔を見て口を開く大男。

 「そんなに気になるなら特務曹長がいた中隊の隊長にでも聞いたらどうだ?それかポリトコフスカヤ大佐に聞くんだな」

 勿論彼は本気で言ったわけではなかった。彼女が直接彼らに聴いて彼らが取り合ってくれるはずがない。

 しかし彼はナターシャの言葉に驚かされることになる。

 「そうね……、そうするわ」

 「はぁ?!」

 「ねぇ、特務曹長がいた中隊の隊長の部屋はどこだか知っている?」

 「ちょっと待て、本気で言ってるのか?」

 「ええ、あなたが言ったんじゃない」

 さも当然そうに返答する彼女に、大男は眉を眉間に寄せる。

 「冗談だ。こんな時間にリース大尉の部屋に行って特務曹長があの任務を任された理由を聞いてくるってのか?速攻で女子寮に返されて終わりだぞ」

 「中隊長はリース大尉っていうの?」

 「聞いてんのか手前ぇ」

 忠告を聞こうとしないナターシャの態度に苛立ち気味の男。それを察してか、彼女は軽く肩を竦めた。

 「リース大尉、優しそうな方だったわ。きっと教えてくれる」

 「んなわけあるか。真面目な方だ」

 「だからこそ、軍のやり方に納得できないところがあるんじゃない?リース大尉にも。ねぇ、彼の部屋を教えて。いいじゃない、あなたが被害被ることなんて何もないわ」

 矢鱈と根拠の希薄な自信を持っているナターシャに、大男はわざとらしくため息をついた。

 「たしか特務曹長の部屋の隣……207号室だったと思う」

 「本当?」

 「そんなに関わりも無い人の部屋なんてちゃんと覚えてるはずないだろ。間違えてても恨むなよ。多分合ってるがな」

 「わかったわ。行ってくる」

 ナターシャは笑顔で踵を返す。すると大男が彼女の手首を掴んだ。

 「ちょっと待て」

 「何?」

 「あんた、神通力使えるんだよな?」

 「ええ」

 ある程度の神通力を使うことが出来なければ、軍に入ることはできない。しかし彼にはずっと引っかかっていたことがあったのだ。

 「お前、全く神通力の気配が感じられない。そのレベルじゃ軍に入れるほど神通力を使えないはずだ」

 通常、使える神通力が強ければ強いほどその天使の体から発される神通力の気配も強くなるはずだ。

 彼を見上げるナターシャ。

 「神通力の気配を発したままじゃ、すぐに見つかっちゃうじゃない。もう消灯後だし男子寮だから見つかっちゃまずいでしょ?」

 「…………!気配を消せるってのか?」

 「看護師だからってナメてもらっちゃ困るわ」

 神通力の気配を軍人が感じ取れないほどほぼ完璧に消せるということは、相当の神通力の使い手だ。普通の看護師にできる技ではない。

 ナターシャは男の手を振りほどいた。

 「じゃあね」

 「あ、ああ……」

 そして彼女は、リース大尉のいる部屋に歩いていった。






 暗い土器(かわらけ)色の髪にヘーゼルの瞳、鼻の下に髭を蓄えた40代前半の男、リース大尉。寮ではニコライの隣の1人部屋で生活している。

 彼は真面目で部下想い、上司にはあまり媚びない軍人だ。そのため上より下の者に好かれやすい。また、一定の数の友人はいるが交友関係をあまり広く持ちたがらず、1人の時間が好きな男だ。

 消灯後、彼は部屋で1人ワインを飲みながらある男に想いを馳せていた。
ニコライ・フォン・ヴィノクール。

 自分が隊長を務める中隊に所属しながら、単独での任務の方が多かった特殊な兵士。その実力は自分より下の階級の特務曹長でありながらこの基地では一番強かった。千人に1人の逸材と言って良いだろう。

 容姿端麗で頭の良い天使。彼を信望するものはたくさんいたが、彼は同じ中隊にいる仲間達にすら心を開いていないように見えた。表情の乏しい男だった。

 1週間前、その天使が悪魔に連れ去られた。
リースは彼が連れ去られるのを目の前で見ていた。見ていながら何もできなかった。

 最強と言われる美しい悪魔、ミハイルに拘束されていたニコライ。彼は見たこともないくらい窶(やつ)れ、憔悴した様子だった。誰にも負けることなどなかった美しい天使が、肉体的にも精神的にも痛めつけられ疲弊していた。

 あの強い男が、自分の目の前で、悪魔に殴られ、接吻されている−−−−リースは、内心では異常に興奮していた。

 ニコライは男だが、リースは元々男として見ていなかった。かといって女というわけでもなく、寧ろ生物とすら思えなかった。1つの美麗な芸術品。消して穢されてはいけないもの。

 あんなに美しいものが悪魔にぞんざいに扱われ穢されていることに興奮したのだ。自分でも異常とわかっていたが、自分もニコライを傷つけたくて堪らなくなった。同性愛者ではないから消して愛しているわけでも欲情したわけでもないが、彼を犯したくなった。

 彼のいつもきっちりと着ている軍服を脱がし、あの白い肌に傷をつけ、存分に甚振り犯したい。もう止めてくれと泣いて自分に縋る姿を見たい。

 リースは自分のあまりに残虐性の高い異常な妄想に恐ろしくなった。
自分の中にこんな欲望が眠っていたなんて知らなかった。男を犯したいだなんて、我ながらに吐き気がする。自己嫌悪し、この欲望を目覚めさせてしまった美貌の天使に憎しみすら覚えた。

 だからリースは、ニコライが連れ去られて少し安心したのだ。もし彼が自分の中隊に戻って来たら彼を犯したくなってしまう。しかし彼に勝てるはずがないから、襲おうとすれば自分は怪我をするかも知れない。殺されるかも知れない。そんな事件を起こすわけにはいかない。



 唐突に部屋のドアをノックされ、リースは俯いていた顔を上げた。

 こんな時間に、一体誰だろうか。何かあったのだろうか。

 椅子から立ち上がり、更に2回ノックされたドアを開けた。

 「……?!君は……」

 「こんばんは、リース大尉。こんな時間にごめんなさい」

 そこにいたのは金髪の美女だった。この看護師にはリースは見覚えがあった。

 「君はあの時の、」

 「ナターリヤ・クリベークです」

 「そうか……いや、何故こんなところにいる。ここは女人禁制だぞ」

 「すみません、大尉にどうしてもお聞きしたいことが」

 「駄目だ。今なら誰にも言わんから早く女子寮に帰りたまえ」

 リースはドアを閉めようとしたが、彼女はそのドアを押さえ体を割り込ませる。彼女に怪我をさせるわけにもいかずドアを押す力を緩めるリース。

 「何なんだ、人を呼ぶぞ」

 「お願いですリース大尉。ニコライ・フォン・ヴィノクール特務曹長のことですの」

 「……ヴィノクール特務曹長?」

 丁度先ほどまで考えていた男の名前を出され、リースは目を見開く。

 ナターシャがここぞとばかりに彼の部屋の中に滑り込み、ドアを閉める。

 「ええ、大尉ならご存知かと」

 「何だ?」

 「何故特務曹長にあのような任務が与えられたのです?」

 「あのような……?」

 「ミハイルを始末しろという任務です」

 ナターシャの青い双眸がリースを睨むように見上げる。彼はわざとらしくため息を吐く。

 「いや……やはり帰りたまえ。もう消灯後だぞ」

 リースは閉められたドアを開け、ナターシャの肩を押す。しかし彼女は彼の腕を掴んで出るのを拒んだ。

 「お答えください。何か答えられないような理由でもお有りなんですか?」

 強情な彼女の態度に、彼は彼女の肩を押したまま言う。

 「特務曹長ならあの悪魔を倒せるかも知れないと判断されたからさ。他に何がある」

 「嘘です。ミハイルが最強とまで言われるのは何か過去にミハイルの強さを見せつけられるようなことがあったからでしょう?あの悪魔の非常識な強さはある程度わかっていたはずです」

 ナターシャがそこまで考えていたことに、リースは驚いた。この看護師は生半可な気持ちでここに来たわけではない。恐らくかなり明確な目標がある。

 リースが彼女の肩から手を離すと、彼女はドアを再び閉めた。

 「本当のことを教えてください、リース大尉」

 「……私が質問に答えられるとして、何故君に教えなければならない」

 リースはそう言ってナターシャに背を向け、先程まで座っていた椅子に座った。

 彼にまだ答える気は無さそうだ。おそらくあの任務やミハイルについての情報は軍の機密なのだろう。

 彼を追うように近づくナターシャ。

 「あなたが天使だからです」

 「何?」

 「クルツ伍長とダニロフ軍曹、モローゾフ中尉はヴィノクール特務曹長を助けに行きましたわ。同じ天使として、悪魔に好きにさせないために。あなたも高潔な天使としての誇りがお有りなら、せめてあの悪魔について教えてください。あなたは軍人である前に天使でしょう」

 凛としたナターシャの訴え。

 僅かに目を細めたリース。目の前の美女の、その若さが眩しい。まだ天使を高潔なものと信じている。

 「君、幾つだ?いつこの軍に入った」

 唐突なリースの質問に、不思議そうな顔をするナターシャ。

 「……23です…………この軍に入ったのは3年前ですが」

 「23、か。若いな。天使を悪魔より高潔なものと思うか」

 「勿論ですわ。悪魔は野蛮で凶暴なもの。私たちは神から授かりし力で彼らを抑える義務があります」

 「模範解答だな」

 どこか悲しげにナターシャの言葉を聞くリース。ワインを一口飲んだ。

 「私も君くらいの時はそう思っていた。だが最近は……8年前くらいから、そうは思い難くなってきた」

 「8年前……?先の大戦が終わった頃、ですか?」

 「ああ」

 8年前、5年に及んだ天使と悪魔の幾度目かの大戦は停戦となり、今は間界での小さな小競り合いが度々あるだけだ。ナターシャとニコライが軍に入ったのはその後なので、大戦には参加していない。レオとディーマはその頃軍に入ったばかりで、最前線には行っていなかった。

 ナターシャは怪訝そうにリースを見下ろす。

 「天使は高潔なものではないと?」

 「そうとは言わんが……本当に悪魔は我々が倒すべきものなのか、わからなくなったんだ」

 「何故です?」

 「先の大戦を終結させたのはあの悪魔、ミハイルだ」

 「…………?!」

 どういう意味なのだろう。大戦の終結にミハイルが絡んでいたなど、聞いたこともない。本当にそうならば誰もが彼のことを知っていてもいいはずだが、ミハイルのことは軍人の中の細(ささ)やかな噂程度で、一般の天使にはほとんど知られていない。

 「どういうことですか、リース大尉」

 尋ねられたリースは、また一口ワインを口にして、語り出した。

 「当時まだ16歳だったと言われるあの悪魔は、戦闘の真っ最中だった間界のある地域に突如として現れた。私は偶然そこに居合わせたが、幻かと思ったよ。背中に真っ黒な翼を付けた綺麗な少年が、戦争をする私たちの上空を舞っていた。そして彼の前面、直径3キロメートルほどを、白い炎で一瞬で焼き尽くしたんだ。

 私は彼の後ろ側にいたので、奇跡的に助かった。私の周りの者、天使も悪魔も、呆然として戦争を中断し、美しい悪魔を見上げた。彼は天使も悪魔も、もしかしたら軍人でない者も、その場にいた生物を無差別に一瞬で灰にしたんだ。

 そしてこう言った、‘俺はミハイル。俺はまだ生きてる君達も、軍の上層部の人達も、今すぐさっきみたいに殺すことが出来る。もしそれが嫌なら、この戦争をすぐに止めて’。後から知ったことだが、ミハイルはその瞬間の映像を、魔界軍と天界軍の上層部に自分自身で送りながらやっていたらしい。

 悪魔が自分を‘大天使(ミハイル)’と名乗り、突然大量殺戮を行った挙句、戦争を止めろと言うなど馬鹿げている。そう思ったが、演出で翼を背負いその無慈悲な正義を掲げる姿はまさに大天使だった。それから直ぐに天使にも悪魔にも間界からの撤退命令が下され、停戦協議がまとまり、停戦に至った。

 その後ミハイルの姿を見た者はいなかった。こんな形で停戦など、あの場面を見ていない者には理解されない。天使と悪魔はお互いにお互いを滅ぼすことを望んでいるのだから停戦は望まない者の方が多い。ミハイルのことは極力隠され、停戦の理由はお互いの戦力の疲弊などと有耶無耶にされた。

 そしてミハイルは、天界からも魔界からも脅威とされた。軍の上層部同士で情報をやりとりし合い、ミハイルの大体の居場所を突き止めた。天界軍と魔界軍がそんな繋がりを持っていることも、上層部以外の者には知られたくないことだった。今でも恐らく……上層部同士でミハイルを殺す計画が練られているんだ」

 リースの話の後半、ナターシャは呆然としていた。

 つまり天界軍と魔界軍の上層部は協力してミハイルを殺し、お互いの殺し合いをまた再開しようとしているということではないか。天使と悪魔が滅ぼし合おうとすることは血の定めであるが、そのためとはいえ上層部が協力しているとは吐き気がする。

 「そんな……上層部同士が協力してるなんてあってはならないことです」

 「戦争を再開するためさ」

 「殺しあうために話し合うなんて……」

 矛盾している気がするが、合理的な真実。下劣で凶暴な悪魔と協力するなんて、上層部の行動が理解できない。それに、ミハイルが戦争を止めさせたかった理由もわからない。

 「リース大尉、それでは何故ヴィノクール特務曹長にあのような任務が?それほど強い悪魔だということが分かっていたということじゃないですか」

 「君は、ヴィノクール特務曹長がどれくらい強いか知っているのかね?」

 「え……普通の兵士100人分と聞いていますが?」

 それがはっきりした回答ではないことはナターシャも分かっている。しかしその噂くらいしか聞いたことがなかった。

 苦笑するリース。

 「単純な攻撃力としてはそんなもんだろう。あの日ミハイルがやった大量殺戮程度ならおそらく全力を出せば彼にもできる。しかし彼の強さはそれだけじゃない」

 「と、いいますと?」

 「例えば……ミハイルは自分の家がある山に‘目隠し’という術をかけて他者に認識できないようにしている。それを特務曹長は数時間で見破った。魔力や神通力を感じ、その術を読み解く力が非常にある人だ。普通の兵士が何人いたって‘目隠し’は読み解けないし、優秀な奴でも1日はかかる」

 「そうなんですか」

 「しかし、そういうのが得意なのは君とて同じだろう」

 リースにそう言われ、ナターシャはその大きな目を見開いた。

 「どういう意味です?」

 「随分上手く自分の神通力の気配を消している。そういう奴は大抵神通力や魔力を感じたり術を読み解くのも上手い。君、本当にただの看護師かね」

 「……私のことはどうだっていいでしょう。それより、つまりヴィノクール特務曹長は本当にミハイルを殺すほどの強さがあると判断されて任務が与えられたということなんですか?」

 自身のことは隠そうとするナターシャに、僅かな不信感を抱きながらもリースは頷く。

 「半分はそうだよ。その時のミハイルの情報だけなら特務曹長が彼を倒せる可能性もあった。無論かなり危険だったし、少しでも情報を得るために実験的に行かせたというのが事実だ」

 「半分は?もう半分はなんです?」

 「……君のことを教えてくれたら教えよう」

 リースはナターシャが明らかに唯の看護師としては強いことを怪訝に思った。彼はかなり神通力や魔力を感じ易い性質の天使だから彼女が神通力の気配を抑えていることがわかったが、これを見破るのは相当難しいだろう。

 だから尋ねたが、彼女は苦々しい表情になった。

 「私は唯の看護師ですわ」

 「士官学校には行っていたのかね?」

 「いいえ、他のここにいる看護師と同じ。1年間の訓練を受けただけですわ」

 「なら、生まれつきそんなに神通力の扱いが上手いのか?」

 そんなわけがない、リースは質問しながらそう思った。神通力の使える量は天性のものだが、扱い方は努力しなけば上手くなるものではない。

 困ったように暫し黙ってから、ナターシャ。

 「……父は軍人でした。神通力の扱い方は父から教わりましたわ」

 「ああ………なるほどね。お父さんは今は軍人じゃないのかね?」

 ナターシャの暗い顔つきから、父親に何か良くないことがあったことは伺える。また暫く黙ってから、彼女は言う。

 「大戦中、悪魔に捕まって暴行され……仲間に助けられて生きて帰っては来ましたが、心に受けた傷が大きかったんです。軍には戻りませんでした」

 「…………君、まさかエゴール・クリベーク少尉の娘さんか」

 リースのその言葉に、ナターシャは何も言わず俯いた。

 彼は神妙な表情を作る。

 「だから言わなかったのか……顔を上げなさい。君のお父さんを責めるつもりはないよ」

 柔らかい口調で彼に言われ、彼女は泣きそうな顔を上げた。

 「軽蔑しないんですか。悪魔に命乞いした男の娘ですよ」

 「君がどこまで親御さん達から聞かされているか知らないが……クリベーク少尉は悪魔達に両手両足を切断され一晩中暴力を受け……陵辱された。天使としての尊厳も男としての尊厳も傷つけられ、最後には命乞いをするしかなかった。命乞いするくらいなら殺されればよかったなどという者もいるが、私は仕方がなかったと思うよ」

 リースの話に、ナターシャは驚愕した。そんなに詳しいことは聞かされていない。父親の両手両足は神通力で元どおりになっていたし、暴行だけでなく強姦までされていたなんて知らなかった。

 「……リース大尉は、優しいんですね」

 小さな声でナターシャにそう言われ、リースは絶句して少し照れたように頭を引っ掻く。

 悪魔に深く傷つけられた父親を持つナターシャ。悪魔に対する嫌悪が他の天使よりも強いのかも知れない。ニコライを助けたいと思うのもそれが理由か。

 俯き気味の彼女の顔を眺め、リースは彼女の父親、クリベーク少尉を思い出す。

 当時30代半ばで、リースより少し年上だったクリベーク少尉。目の前の彼女同様、金髪で端麗な顔の男。彼が悪魔に暴行を受けた時は別の中隊だったが、1度同じ中隊にいたことがあり、気の合う良い仲間だった。

 銃が使えるほど扱える神通力の量は多かったが、防御に関しての術が苦手で遠距離攻撃専門の兵士だった。特にスナイピングの腕はかなりのものだった。

 彼は元気にしているだろうか。そう思ったとき、唐突なノスタルジアに包まれた。湧き上がる気持ちを押さえつけるように口を開くリース。

 「それじゃあ、ヴィノクール特務曹長があの任務を与えられたもう1つの理由を教えよう」

 「ええ、教えてください」

 顔を上げたナターシャに、リースは一拍置いて言う。

 「あの任務を出したポリトコフスカヤ大佐は、ヴィノクール特務曹長を好いていなかった」

 「え……?」

 「元々、彼が強いのになかなか昇進できないのもポリトコフスカヤ大佐のせいだった。彼に出世欲がないのも理由だったがね。そして大佐は思ったんだろう。‘実験的にヴィノクール特務曹長をミハイルの所に行かせてしまえばいい。本当にミハイルを殺せれば儲け物だしヴィノクール特務曹長は勝手に殺されてくれるかも知れない’とね」

 「そんな、酷いっ!」

 ナターシャは拳を握り締めた。ただのポリトコフスカヤ大佐の私情でニコライはあんな危険な任務に就かされたということか。今回のことでミハイルの情報は多く得られ、ニコライはこの軍から消すことができた。ポリトコフスカヤ大佐の思う壺だった。

 「許さない……!大体、どうして大佐は特務曹長がそんなに嫌い何です?!」

 「私も大佐と話したことなんてほとんどないからよく知らないが……大方、あの完璧さに嫉妬してるんだろう。特務曹長の実力は大佐以上だし、地位を奪われることを恐れていたのかも知れんね。まあ特務曹長に出世する気は無かったからそんな心配は必要なかったと思うが。特務曹長は身分的にも高い」

 「身分?」

 「ニコライ・フォン・ヴィノクール。貴族の生まれだろう」

 昔に比べ、天界に身分差は少ない。しかし一般的に言って、名前に‘フォン’が付く貴族は生まれつき扱える神通力の量が多く、裕福な家柄の天使が多い。軍でも少佐以上の天使はほとんどが貴族だ。

 「ポリトコフスカヤ大佐は大佐という階級にしては珍しく貴族じゃない。だからかも知れないが、あまり貴族を好いていないんだ。本当に努力して上に上がった人だから直ぐに上に上がることができてしまう貴族が嫌なんだろう」

 貴族であるというだけでそれ以外の天使を馬鹿にするような天使はいる。しかしニコライは、ナターシャもリースも知っているが、孤児だ。貴族らしい裕福な暮らしもしていなければ自分の優秀さを鼻に掛けるようなこともない。

 それなのにポリトコフスカヤ大佐は私情でニコライを実験材料に使ったのだ。ナターシャの中に沸々と怒りが湧き上がる。

 「……リース大尉は何も思わないんですか?!」

 ナターシャに顔を寄せて強い口調でそう言われ、リースは驚いて少し仰け反った。

 「お、落ち着きなさい……無論何も思わんことはないよ。私だって大佐は酷いと思う。おかげで優秀な部下を1人失ったんだ」

 「ポリトコフスカヤ大佐に報復したいとは?ヴィノクール特務曹長を助けたいとは?思いますか?」

 「勿論思うよ。しかしね、私にはその思い以上に守るべきものがある」

 「何です?」

 「家族だよ」

 リースの答えに、ナターシャは一瞬目を見開き、次に少し悲しげな顔をした。

 「……だから何もできない、と?」

 「ああ。軍は辞められないし、何か問題を起こすわけにはいかない」

 彼には守るべき家族が、立場がある。養う者も愛する者もいないナターシャのように自由ではない。

 自分の感情や思い、信念だけで簡単に動ける者の方が少ない。レオやディーマはナターシャと同じようなものだったかも知れないが、モローゾフ中尉はとても悩んだことだろう。

 「わかりました。色々教えてくださってありがとうございました」

 ナターシャはそう言って頭を下げた。

 漸く引き下がる様子の彼女にリースは溜息をついた。いきなり部屋に来てこんな質問をしてくるなんて、失礼を越して勇敢というべきか。

 「ああ、そうだ。君、ヴィノクール特務曹長を助けに行くのかね?」

 ふとリースはそう尋ねた。ドアの方にも向かっていたナターシャは振り返る。

 「ええ。直ぐにでもここを辞めるつもりです」

 「それなら、これを」

 リースは本棚から1冊の本を出して彼女に差し出した。

 「魔力が天使の体に与える影響について書いてある。君に貸そう」

 「魔力が天使の体に与える影響?」

 彼女は本を受け取りながら鸚鵡返しをした。その本はハードカバーだがそれ程厚くはない。

 頷くリース。

 「ああ、天使は結界や神通力封じなどの魔力がかかった場所にい続けるだけでも微弱にだが体に影響を受ける。その本に詳しく書いてあるから、読んでおくといい」

 ニコライはずっと魔力がかかった場所にいる。もしかしたらその影響で弱っているかも知れないということだ。

 「わかりました」

 「ああ、必ずその本を返しに来たまえ。君の手でな」

 その言葉には、死ぬなという意味が込められていることがナターシャにはわかった。必ず生きてここに帰ってこい、そういうことだろう。

 笑顔を作るナターシャ。

 「 はい、必ず。ありがとうございます」

 そして彼女は、その部屋を後にした。







 ミハイルは、空を見ていた。

 煉瓦作りの家の前、白い雪の絨毯の上。そこに佇む豊麗なる悪魔。

 この地域では久しぶりに見る蒼天だった。若菜色の瞳は、その美しい青空を映していた。

 冷え切った世界で、冷え切った表情で、彼は唯、空を見上げた。

 「この空の向こうに神や天使がいると、ヒトは思うのか」

 この空に近づけばあるのは宇宙だと知っていながら。

 天界があるのは空ではなく別世界。天界と魔界は間界(かんかい)を挟んで繋がっているが、人間界は他のどの世界とも繋がっていない。

 「この空に憧れるのか、ヒトは」

 ヒトは翼を持ったことはない。

 天使と悪魔は、遠い昔に翼を失った。ヒトと同様に地を這う存在。神通力や魔力を使わなけれは宙を舞うことはできない。宙に浮くのは高次の技であり、できる者はごくわずかだ。

 「結局、天使も悪魔も空に憧れるんだ」

 どこまでも美しく、無限の空に。

 この世界を見下ろす空に。



 不意にミハイルは空から目を離した。

 少し険しい顔をして家を取り囲む森林に視線を向ける。そこにあるのは木々と暗闇だけ。

 自分の右の掌に目を落とすミハイル。その掌から、直径10センチメートルほどの水の球を浮かび上がらせた。

 水と光の魔力。他の空間の一部の様子を水の球の中に映像として映すのだ。かなりレベルの高い技である。

 その球の中には、3人の男性が映っていた。20代半ばの男性が2人、30代半ばの男性が1人。全員真剣な表情だ。

 3人がいるのはミハイルの家がある山の麓。しかし山道に入る前で止まって何か話している。

 その3人の青年の姿に目を細めるミハイル。

 「もう見つけるなんて、思ったより早いじゃない」

 球の中で、1人の青年の顔がアップになる。20代半ばの鋭い目つきをした青年。短くカットされたウェーブした黒い髪と、白い肌のコントラストが印象的だ。

 その時、彼の黒い瞳とミハイルの翡翠の瞳が、数秒交わった。彼をミハイルが魔力で見ていることは、彼が知るはずもないのに。

 「俺が見えるのかい? レオ君」

 そう言って笑みを作る悪魔。

 「君が探しているコーリャはもういない。君はそれでもここにくるかい?」

 水の球を掌の上から消した。

 「まあ、ここまで来れるかどうかって話だけれどね」

 そして悪魔、ミハイルは踵を返す。家のドアへと歩いていく。中にはまだ本を読んでいる天使、ニコライがいるはずだ。

 腕に抱きたい。あの愛おしく思えて堪らない、脆い男を。






 私は、何故ここにいるのだろう。

 天使である私が何故悪魔の家にいる?あの強大な力を持つ悪魔の魔力で、神通力も使えず何の抵抗もできずに。何故、私はあの悪魔に服従し、あの悪魔を受け入れているのだろう。

 ーーーー愛しているからだ。

 あの悪魔を?

 ーーーーそう、ミハイル……ミーシャを。



 私の名は?

 ーーーーニコライ・フォン・ヴィノクール。

 職業は?

 ーーーー天界軍の軍人だったが、ミーシャのために辞めた。

 歳は?

 ーーーー24歳。

 家族は?

 ーーーーいない。孤児だった。



 そう、私は独りだった。ミハイルほど私を求める者はいなかった。

 そして私が、いや、天使の誰もが知る限り、ミハイルほど強大な力を持つ悪魔はいない。

 天界軍で、私は恐らく優秀な方だったと思う。所属した基地に私以上の神通力の使い手はいないと言われたこともあった。

 周りの者に尊敬の眼差しで見られたが、私は孤独だった。私が心を開ける者はいなかった。



 ーーーーいや、そんなことはない。



 誰だ? 私の記憶に見え隠れするあの男は。

 思い出せない。唯、必死に私の方を見ていて、私に手を伸ばしている。その姿だけが、私の記憶の奥深くにある。

 ウェーブした黒髪で、濃紺の軍服を着た男。しかし顔も名前も思い出せない。でも彼は忘れてはいけない男だったような気がする。

 彼のことは、一体いつの記憶だ?

 いや、私はいつからこの悪魔の家にいる?私は何故ミハイルと出会った?

 『コーリャ』以外に私の愛称は無かったか?

 私は何故、彼を愛している?

 私はいつ彼を愛するようになった?

 私は……

 私はーーーー…………





 ニコライは、目を覚ました。

 目の前には分厚い本。どうやら本を読んでいたら机に突っ伏して寝てしまったらしい。

 体を起こしたニコライ。その時、後ろから誰かに抱きつかれた。

 「…………?!」

 「起きたんだね、コーリャ」

 それは聞き慣れたミハイルの声だった。

 ニコライは頭を少し傾ける。

 「驚くじゃありませんか」

 「ふふ、ごめん。よく寝てたね、何か夢を見ていた?」

 「…………ええ、まあ」

 夢の中で過ぎった数々の疑問を、ニコライは口に出さなかった。何となく言ってはいけない気がしたのだ。

 彼の首筋に口付けするミハイル。

 「ねぇ、愛してるよ。コーリャ」

 「はい……、私もあなたを愛しています」

 振り返りながらそう返答したニコライの唇を、ミハイルが唇で塞ぐ。その時、芳(こう)ばしいような香りがニコライの嗅覚を刺激した。

 「……珈琲、ですか?」

 「ん?ああ、さっき飲んだ」

 そう言ってニコライから離した自分の唇に舌を滑らせるミハイル。

 「そっか、コーリャは苦いの好きじゃなかったね」

 「ブラックの珈琲が飲めるあなたは理解に苦しみます」

 「ふふ、可愛い」

 子供みたいだ、と付け足してミハイルは椅子に座ったままの彼の頭を撫でる。

 「でも君が俺を理解できないと思うのは味覚だけじゃないでしょ?」

 そう言われて目を見開くニコライ。どういう意味だろうか。

 急にミハイルへの恐怖が心に芽生えた。全てを見透かすような目の前の悪魔の双眸に、背筋が寒くなった。

 そうだ、理解できない。この男の思考も感覚も、何もかも。

 固まったニコライに、ミハイルの手が伸びる。その白い頬に掌を付けた。

 「俺が怖い?」

 「……や、」

 身体を震わせ、逃げるように立ち上がったニコライ。何故この悪魔がこんなにも怖いのだろう。愛しているのに。愛しているはずなのに。

 ミハイルは怯えた顔の天使に、両手を広げる。

 「大丈夫、愛してるよ。ねえ、愛してるでしょ?俺のこと」

 「ミー、シャ……」

 真後ろの机に手を付くニコライ。そうだ、愛している。この悪魔に好かれたい。受け入れられたい。逆らおうなんて気はない。それを分かって貰わなくてはーーーーこの悪魔に。

 ニコライは、腕を広げたミハイルに抱きついた。

 「愛して、います」

 体は震えていた。怖い。この悪魔が。

 震える彼の体を抱きしめるミハイル。

 「うん。絶対離さないよ、コーリャ」

 そして体を離し、ニコライの薄い青紫色の双眸を見上げるミハイル。幽玄な笑みを見せる。

 「そろそろ夕飯作ろうか?」

 「はい」

 窓の外は群青が広がろうとしていた。








 ミハイルは先程食べた夕食で使った皿を台所の食器棚に戻していた。

 木で出来た皿。ニコライがこの家に来てから何枚か増やした。

 水や火など、自然界のものは大抵操れる彼にとって家事は大変なことではない。作り方と材料さえ分かれば魔力で生成できるものが多い。皿洗いも洗濯も直ぐに終わる。

 最後の皿が棚に戻された時、台所にニコライが来た。そちらに振り返るミハイル。

 「コーリャ……」

 そこにいるニコライの姿に息を呑んだ。

 彼はシャワーから上がってきたばかりで、長い銀髪がまだ湿っており、その頬は僅かに上気している。そして着ているのは昨日ミハイルが彼に与えた藍色のワイシャツのみのようだ。白く筋肉質で長い両足が全て晒されている。

 彼はいつもこんなに無防備な姿をミハイルにわざわざ見せたりしない。

 「ミーシャ」

 ニコライは低く呟くようにミハイルの名を呼び、彼に近づく。
いつもと様子が違う天使に、彼は戸惑う。

 「どうしたの?」

 ミハイルのその呼びかけはニコライに届いていたのだろうか。そのまま近づいてきた彼は、何も言わずミハイルに正面から抱きついた。

 突然のことに驚くミハイル。シャワーを浴びてきたばかりのはずだが、その天使の身体は少し冷えているように思えた。僅かに震えているようにも感じる。

 「……ミーシャ、怖いです」

 また呟くように吐き出されたニコライの言葉に、彼の髪を撫でるミハイル。

 「怖い?何が?」

 「自分が消えてしまいそうだ」

 「消える?コーリャはちゃんとここにいるよ」

 「違う。違うんです」

 本当に苦しげなニコライの声。

 ミハイルは両腕を彼の背中に回す。自分より大きなこの男が、とても弱々しく感じる。

 彼は精神も身体も正常な状態ではなく、確かに消えてしまいそうな存在だ。そんなことはその原因であるミハイルが一番よくわかっていた。

 「大丈夫だよ。君はここにいて、俺に愛されてる。それで充分でしょ」

 「……ミーシャ…………」

 ぐっ、とニコライがミハイルを抱きしめる力が強くなる。

 彼の腕の中で笑みを浮かべるミハイル。今の彼には自分という悪魔しかいない。自分にも彼しかいない。1度壊してしまった彼の心に自分を植え付けていく。自分のことしか考えられなくなってしまえばいい。

 「愛してるよ、コーリャ」

 「はい。ミーシャ……愛しています。……抱いてください」

 「え……?」

 ニコライからミハイルの体を求める言葉を伝えたのは初めてのことだ。

 ミハイルはニコライを抱きしめるのをやめて、まじまじとその端整な顔を見た。表情の乏しい美女桜色の両目。すっと通った鼻筋に、薄い唇。男にしては細めの顎の下には、胸鎖乳突筋と喉仏のはっきり見える首。そしてシャツの隙間から覗く鎖骨。

 そこまで見た瞬間、ミハイルの中に欲望が湧き上がってきた。

 「セックス、したいの?」

 「はい。……自分の存在が不安なんです。あなたと繋がりたい」

 「そう」

 ニコライがミハイルの体を求めるのは性欲からではない。ミハイルと触れ合うことで自分という存在を確認したいのだ。

 ミハイルは少し背伸びをして、彼の唇に自分の唇を軽く重ねる。

 「寝室に行く?それともこのまま?」

 「あなたの好きにしてください」

 「台所では、したことないね」

 そして今度は深く口づけするミハイル。それはここでしたいという意味なのだろう。

 ミハイルの舌先がニコライの唇を軽く撫で、その口内へと滑り込む。するとニコライの舌がその舌に絡まされた。ミハイルの舌より冷たい舌。熱は触れ合ううちに同一に近付いていく。

 キスをしたまま、ニコライはミハイルに体重をかけられ、真後ろにあった調理台に押し付けられた。

 淫らに水音を立てながら唇を離す。口元に笑みを浮かべ、ニコライを見上げるミハイル。調理台を掌でたたいた。

 「この上、乗ってよ」

 「上にですか?」

 ニコライは言われた通り調理台の上に座って、何故ミハイルがそれを命じたのか理解した。この高さなら恐らく正面から挿入し易い。

 ミハイルの片手が優しくニコライの銀髪に触れてきた。背後の窓からの月光に照らされ、青白く輝く長い髪。

 もう片方の手は、彼のワイシャツの釦(ボタン)を外していく。

 「いつもコーリャに触れたくて堪らないんだ。俺は君の全てが見たい」

 「……羨ましいです」

 ニコライの言葉に、首を傾げるミハイル。

 「羨ましい?俺が?」

 「ええ。そんな風に欲望を持てるあなたが」

 無表情のニコライ。いつものことだが、美しいその顔は少し怖くも見える。ワイシャツの最後の釦が外された。彼は自分の髪を撫でてくるミハイル
の桜色の頬を両手で包んで、言う。

 「絶対こうなりたいとか、これが欲しいとか、凄くこれが食べたいとか……、凄くこの人とセックスしたいとか。私は思ったことがないんです。遠い昔はあったのかも知れませんが、覚えていない。強い欲望が、欲しいんです。あなたのように」

 ニコライの両手に挟まれたミハイルの顔は、驚いているようだった。する、とニコライの手はその悪魔の首筋へと降りていく。

 ミハイルは口を開いた。

 「君にも他者を羨むことがあるんだね」

 「そうですね。それすらも随分久しぶりだった気がします」

 ニコライの手が悪魔の喉元を撫で、白いシャツの釦を外す。

 「こんな風に誰かとセックスしたいと思う日が来るなんて思いもしませんでした」

 「……でもそれは愛欲からじゃない、でしょ?」

 ミハイルはそう言いながらニコライの白い胸元に触れた。

 「君が欲しいのは俺じゃない。君という存在の確証だ」

 そして鎖骨の下の窪みに爪を立てる。

 ニコライが小さく声を上げた。爪を立てられたところから滲む紅い血。
恍惚とした笑みでその血液を見るミハイル。

 「痛い?君はこの強い感覚が欲しいはずだ。現実と自分を結びつける、感覚。痛みでも快感でも、寒さでも暑さでも同じ。やることはセックスでも暴力でもいいんでしょ」

 「あ、痛いです……」

 更にもう一箇所傷が増やされる。白い肌に新鮮な血はよく映える。

 堪らずニコライは爪を立てるミハイルの片手を両手で包んだ。

 「ミーシャ、もう」

 「優しくしてあげられる気分じゃないんだ。……綺麗だよ、コーリャ」

 豊麗な笑みを浮かべたりまま、ニコライの手を振り払うミハイル。滲み出ている天使の血を舌で舐めあげた。



 悪魔の指先が天使の後孔に触れる。その指先から魔力で水が溢れ出し、その冷たさと恐怖で天使は身を引こうとした。しかし狭い調理台の上ではほとんど動くこともできない。

 「寝室に行かないとローションはないからね。水で我慢して」

 ニコライの耳元でそう言い、ミハイルは彼の後孔に2本の指を一気に差し込んだ。

 「痛っ……!」

 下腹部を突き抜ける痛みに、ニコライは侵入してきた指を強く締め付けた。ほぼ反射的に片方の膝でミハイルの脇腹を蹴ると、彼にその太ももを叩かれた。高い音が上がり、叩かれた部分が赤くなる。

 「大人しくしてね」

 「や、動かさないで……痛い!うっ!」

 無闇に中を動くミハイルの指。その異物感と鈍痛にニコライは喘ぐが、抵抗はせず大人しくしていた。抵抗が何の意味も成さないことは知っているし、こういう時は我慢しているのが1番いいこともわかっている。

 ミハイルは指を中から引き抜き、自分のベルトを外し始めた。まさかもう挿れる気かとニコライは戦慄したが、彼の下着の中から取り出された陰茎はまだ挿入できるほど勃起してはいなかった。

 「コーリャ、フェラしてくれる?」

 「え……」

 「1度そこから降りて」

 ニコライは戸惑いながらも調理台の上から降りる。口淫した後は間違いなく挿入されるとわかっているが、彼に従わずにはいられない。彼が怖いのだ。

 跪いて震える手でミハイルの性器の根元を支えた。まだあまり硬くなっていないそれ。雄の匂いが嗅覚を刺激する。

 亀頭に舌を這わせ、括れを舌先でなぞり、裏筋を下から上に舐め上げる。
舌の動きを見せつけるかのような扇情的なやり方に、ミハイルは眉を眉間に寄せた。

 「……っ、コーリャ、奥まで咥えて」

 そう言われて彼の性器を口に咥え込むニコライ。全体を吸い、少し激しめに頭を上下させた。

 陰茎が硬さを増してくると、今度は先の方だけ口に含みながら舌先で敏感な亀頭をチロチロと刺激する。手では時頼陰嚢を揉んだ。

 ミハイルがニコライの頭を撫で、指に髪を絡ませる。

 「ん……凄い、上手だよ……もういいよ」

 肩を軽く押され、ニコライは彼の完全に勃起した陰茎を口から出した。そして促されるままに再び調理台の上に乗る。その体は震えていた。
怯えた顔の天使を前に、ミハイルがにっこりと微笑む。

 「脚、開いて」

 「……挿れるんですか」

 「うん。勿論」

 ミハイルの手がニコライの白い太腿を這う。それから逃れるようにニコライは脚を左右に開いた。

 ミハイルが調理台に手をつく。ニコライの後孔に陰茎が押し付けられる。閉ざされていたそこが、先端に無理矢理押し広げられる。

 「い、うぅっ……!」

 痛みに呻くニコライ。歯を食いしばり、ミハイルの背中に手を回し、その白いシャツを握りしめた。

 容赦なく開口部をこじ開け、陰茎が中に入ってくる。途中から一気に押し込まれ、下腹部に鈍痛が響いた。

 太い陰茎を咥え込む後孔。繊細で弱いそこが無理に開かされ無事なはずもなく、裂けた開口部から出血する。それでも容赦なくミハイルは天使を突き上げた。

 「後でちゃんと治してあげるから大丈夫だよ」

 「ぐっ……ん、……!」

 叩きつけられる熱。痛みに耐えるように、ミハイルのシャツを掴む力を強めるニコライ。噛みしめる歯が軋む。全身に汗が滲む。

 激しい出し入れを続けながら、ミハイルはニコライの耳元で囁くように言う。

 「痛いでしょ?叫んでもいいんだよ」

 乱暴な動きとは裏腹にゆったりと紡がれた言葉。甘いテノールの声。
張り詰めていたものが突然崩れたように、ニコライの双眸から涙が溢れた。

 「うあああっ!あ゛あ!!」

 小さく首を横に振り、叫ぶニコライ。脚をミハイルの腰の後ろでクロスさせ、更に密着する。彼に痛みから逃げる気など無いのだ。

 滴る血液が性器と開口部との摩擦を軽減し、滑りが良くなっている。

 ガンガン奥を突かれるのが痛い。痛みという現実。記憶が曖昧で何が真実なのか分からないとしても、今ここで痛みを感じていることは疑いようもないことなのだ。

 「ああっ!!ミーシャ!ミーシャ……!」

 「コーリャ、痛い?」

 「痛いですっ……ああ!あ゛あうっ!!」

 「んっ……いい締め付け」

 ミハイルがニコライの首筋に舌を這わせる。それは肩に落ち、そこに軽く噛み付いた。白い皮膚に刻まれる赤い歯型。

 「ああっ!」

 「あ、もう無理……」

 ミハイルは熱い吐息混じりにそう言い、ニコライの中から性器を抜いた。手でそれをあと数回抜くと射精し、精液がニコライの下腹部にかけられた。

 血と尿道球腺液で滑る性器から自分の腹部に白い液体が落ちるのを、ニコライは涙で歪む視界の中で見た。

 「……気持ちよかったですか?」

 「うん、凄く」

 そう答えたミハイルは、無邪気な笑顔を作った。散々痛めつけられたニコライを前に、その笑顔はさながら子供のような残酷さを孕んでいる。

 しかしニコライは眉を顰めながらも彼の笑顔に笑顔を返した。

 「そうですか」

 「コーリャ、痛い?」

 「はい」

 「うん、忘れないでね。その痛みは現実だよ」

 「……はい」

 刹那、ニコライの体を支配していた痛みが消えた。ミハイルの魔力で傷が治癒されたのだ。先程までの強い痛みが嘘のようだ。

 溜め息を吐くニコライ。現実を失ったような気分だ。痛みによって感じた現実が遠のく。また曖昧な世界になる。

 「降りていいよ」

 ミハイルにそう言われ、ニコライは調理台の上から降りる。

 足が床に着いた瞬間、強い目眩と吐き気が彼を襲った。世界が歪む。揺れる。視線の焦点が合わない。気持ちが悪い。胃が揺さぶられるような感覚。

 気づくと床に座り込み、ミハイルに後ろから肩を抱かれていた。

 「大丈夫?コーリャ。どうしたの?」

 「…………すみません、少し目眩が」

 「そう、ごめんね」

 「いえ……」

 ニコライは何故ミハイルが謝るのか疑問に感じながらも、立ち上がろうとする。しかしまだ揺れる世界の中ではふらつくばかりで立つことができない。

 倒れそうになる彼を抱きとめるミハイル。

 「無理しないでいいよ。俺の首に手を回せる?」

 ニコライが頷いて言われた通りにした。するとミハイルは彼を横抱きにして持ち上げる。

 ミハイル自身にあまり腕力はないが、魔力で僅かながらに重力を操ることができるので自分より10キログラム以上も重いニコライを持ち上げることができるのだ。

 寝室へ向かうミハイル。ニコライは彼の胸元に顔を寄せた。心臓の鼓動が聞こえる。温かい。

 「ミーシャ、私はあなたがわからない」

 「ん?」

 「あなたは優しいです。でも……凄く怖い」

 「俺が怖い?」

 「ええ」

 前を向いていたミハイルがニコライの顔を見下げて微笑んだ。そして片手で寝室のドアを開ける。

 「俺は君を愛してる。それだけ分かっていればいいよ」

 「どうして私をそんなに愛してると言えるんですか?」

 飽くまで平坦な口調で問うニコライを、ミハイルはベッドに下ろす。そして彼の額に口付けした。

 「何でも理由が分からないと不安なんだね、君は。嘘でも仮説でも、何でもいいから理由がないと気が済まないんだ」

 そう言って彼はベッドに仰向けに横たわったニコライの首筋に手を這わせた。その手は徐々に下へと下ろされる。

 「君は軍人で、これだけ鍛えていながら首から下のことをほとんど気にしていなかったんでしょ?今、自分の頭が信じられなくなって初めてそこから下……つまり体に感じるものを意識し出した」

 「体に感じるもの……?」

 「そう。大切なのは感覚だよ、コーリャ。理屈で愛なんて説明できない」

 「……分かりません」

 「分かるはずだ。さっき君は痛みによって現実を認識した。頭で考えるものじゃなくて、体で感じたものが現実なんだよ」

 ミハイルの手がニコライの腹部まで到達する。

 温かい悪魔の手。確かにこれは現実だと、ニコライは認識した。自分の記憶も知識も確かなものとは限らないが、この悪魔の手の温かさは確かに現実。

 仮に何故彼が自分を愛しているのか説明したとしても、それで得られるのはきっと虚偽の安心感だけで、本当の愛情ではない。

 確かに愛は感じるしか無いのかも知れない。

 「…………そうですね、わかりました」

 「うん」

 ミハイルは微笑して、猫のような動作でニコライの胸に顔を擦り寄せる。

 「ねぇコーリャ。俺、君と一緒に街に行きたいな」

 「街?人間界のですか?」

 「うん、勿論。街に行って人間達に混じって……ご飯食べたり買い物したり。人間達は誰も俺達のことなんて気にしないよ、天使だとか悪魔だとか思わない」

 ミハイルの少年のように輝く瞳。彼は人間界に夢を持っているのだろうか。確かに魔界や天界なら2人で街を歩くことは叶わないだろう。

 ニコライは彼の頭を撫でた。

 「ええ。あなたが望むのならば行きましょう」

 「明日が楽しみだね」

 ミハイルはニコライに撫でられて気持ちよさそうに目を細める。彼は子供のように甘え、子供のように無邪気に人を傷つける。美しい悪魔だ。

 2人の間に沈黙が降りる。ニコライは口を閉ざしたままミハイルの頭を撫で続けた。とても穏やかな時間。徐々にニコライは眠気を感じ始める。

 すると急に顔を上げるミハイル。

 「……さて、今度はちゃんとセックスしようか」

 「え……?」

 突然の彼の言葉に目を丸くするニコライ。その彼の薄い唇に、悪魔は赤い唇を重ねた。

 長い夜は、まだ続く。

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