五章






 看護師達は、兵士達の健康調査の書類をまとめていた。

 基地の兵士達の健康を確認、管理し、食事のメニューを決めるのは看護師や栄養士の仕事だ。毎朝の体調を確認することも欠かせない。

 そんな中、ナターシャは他の看護師達とから離れて、ある軍医のところにいた。現在ニコライを担当している男性の軍医だ。

 彼女は先程、モローゾフ中尉をニコライの病室に案内しに行っていた。そして今は軍医と芳(かんば)しくない彼の容態について話しているのだ。

 「では今朝はちゃんと食べてくれたのだね?」

 「はい、漸(ようや)く……。後で吐かなければいいんですが」

 「そうだね。だけれど、一先ず食べられたのなら安心した」

 僅かに笑みを浮かべる軍医。昨日からのニコライの様子についてナターシャから聞いた軍医は、徐々に彼が衰弱していっていることに不安を覚えていたのだ。

 だが、食事がやっとできたとはいえ、それだけは根本的な解決にはならない。

 「……せめて彼の神通力を解放してやれればいいんだが」

 今の状況は彼のプライドを傷つけ続けていて、ストレスを溜める原因となっている。それは軍医にもナターシャにもわかることだ。

 「ええ。あれでは可哀想です……。でもこの基地には、あれを解ける程の神通力を持つ天使はいないんでしょう?」

 「そうだね。下手にやったら特務曹長を殺しかねない。その悪魔自身に解かせるのが本当は一番いいんだ」

 「無理な話、ですね」

 「うん。特務曹長の神通力をあそこまで拘束できる悪魔が簡単に殺されたり天使の言うことを聞いたりするはずがないね」

 話せば話す程に、二人の表情は辛辣なものになっていく。

 大抵のものが治癒の神通力で治る天界では、神通力を使わない医療の設備があまりに乏しい。ニコライにどういった対処をして良いものか分からないのが現状。モローゾフとの会話で、彼の精神状態だけでも改善されることを祈るばかりだ。

 「クルツ伍長は、また彼のところに来るつもりなのかね?」

 軍医の言葉に、一瞬ナターシャの口元が緩んだ。

 「それは聞いていませんが、来るんじゃないでしょうか。伍長はかなり特務曹長のことを心配してらっしゃるようでしたから」

 「そうかね。できることなら来てほしいね。幼馴染みなんだろう?」

 「ええ、そうらしいです。特務曹長も彼には心を開いているようですよ」

 「……不思議なものだね。私には彼等はまるで似つかない性格に思える」

 「はい……そうかも、知れませんね」

 本当に、性格も態度も雰囲気もまるで似ていないニコライとレオ。同じ場所で育ったとは思えない。

 しかし、微かながらに同じような真面目さは感じさせることを、2人のやり取りを見ていたナターシャは知っている。根にあるものは似ているのかも知れない。

 「それでは、またお昼頃に来ますね。ドク」

 「ああ、頼んだよ」

 ナターシャは軍医に挨拶をして医務室を出て行こうとした。



 その刹那、基地内の警報が鳴った。



 ナターシャと軍医は驚愕して顔を見合わせる。何が起きているというのだろう。

 鳴り響くサイレンの中、2人が固まっていると、医務室の前を何人かの天使が通りすぎる音がした。ドアを開けて外を確認するナターシャ。

 部屋の前を通りすぎた数人の兵士の後ろ姿を見付ける。彼らは医務室の近くにある少将、この基地の最高権力者の部屋の前で止まった。

 「な、何でしょうか……ドク?」

 「少将に何かあったのか?」

 医務室から外の様子を覗く2人。

 再び何人かの兵士達が少将の部屋へと走っていく。それで部屋の前に集まった兵士は20人程度になった。階級が高めな兵士が多いように思える。

 下の階が騒がしくなってきた。病棟のあるこの階は人が少ないが、下の階では警報による混乱が起きているようだ。

 「少し出てみるか」

 軍医にそう言われ、了解するナターシャ。2人は部屋の外へ出て、兵士達の方へ向かう。

 1人の兵士が2人に気づき、真剣な表情を更に険しくする。

 「来るなっ」

 その兵士が強く言った次の瞬間、少将の部屋のドアの一番近くにいた兵士がドアを開けた。

 途端、何発かの銃声が響く。



 タンッ、タンッ、タンッ!



 数人の兵士達が銃に撃たれ、床に転がる。足を撃たれて痛みに悲鳴をあげる天使達を見て、無事だった兵士は怯えた顔をする。

 兵士達を囲うように、淡い光を放つ半透明の障壁(バリア)が、その中の誰かによって作られた。

 兵士達は誰も銃を持っていない。銃を撃ったのは部屋にいた者だ。しかし誰も部屋の中に向かって神通力による攻撃を放とうとはしない。

 わけの分からない光景に、軍医はそちらへ駆ける。

 「どうしたんだ!」

 「来てはなりませんっ、ドク!」

 兵士が叫んだが、軍医はそれを聞かずに彼らに近寄る。ナターシャがそれを追った。

 障壁の中で脛を押さえ、痛みを訴える数人の負傷兵。そして無事である兵士達は部屋の中を怯えた目で見つめる。

 その部屋の中を覗いたナターシャと軍医は驚愕した。



 「――攻撃なんてふざけたこと、しちゃだめだよ?兵隊さん」



 部屋の中から聞こえたそれは、優しいテノールの美声だった。

 漂う微かな魔力の気配。

 そこにいたのは、金色の短髪と若菜色の瞳で、美しい姿をした男。その男に拘束され、顎に拳銃を突きつけられたニコライ。そして、床に伏して頭から血液を流している気絶した少将。

 ニコライは後ろで手錠をかけられているのだろうか。金属がぶつかり合う音がジャラジャラと鳴っている。

 「来てはなりません、お戻り下さい!中隊長(キャプテン)……!」

 ニコライが兵士達の一番前にいる大尉にそう言った。どうやらニコライが所属する隊の中隊長らしい。

 彼の襟を掴んだ金髪の男が銃のグリップで彼の頭を殴った。

 「ぐっ……」

 「駄目だよ、コーリャは黙ってなきゃ」

 笑顔でそう言った男。よく見ると彼が持っている拳銃は、ニコライの愛銃――ファンタジアではないか。

 赤く充血した両目で美貌の男を睨み付けるニコライ。

 「……悪魔が」

 「口が悪いね。俺はミハイルだよ」

 男に再び銃で殴り付けられたニコライは、その痛みに呻く。

 目を見開くナターシャ。どうやら金髪の男は最強の悪魔、ミハイルらしい。

 何故ここに悪魔が来ることができたのだろう。しかも銃弾を具現化するほどの魔力を使っていながら、感じる魔力は僅かだけ。こんなにも自分の魔力の気配を隠せるほどその扱いが上手い者がこの世にいるなんて。

 それに、ミハイルが着ているのはモローゾフの軍服ではないのか?彼はどうなった?

 部屋の中を覗き続けるナターシャ。するとミハイルがこちらを向き、その長い睫毛に縁取られた瞳と視線が交わってしまう。

 「あっ……」

 「可愛い子がいるじゃないか」

 ミハイルがナターシャのことを言ったのだと気づいた大尉。

 「君、下がれっ!」

 そう言われて、凍りついていた彼女はなんとか数歩、ドアから下がる。あの眼は美しく、無邪気なのにとても恐ろしかった。否、邪気が無さすぎて恐怖を感じた。

 ナターシャを注意した大尉に視線を動かすミハイル。ファンタジアをそちらに向け、引き金を引いた。

 兵士達の表情が恐怖に染まり、銃弾は半透明の障壁にぶつかる。大抵の攻撃には耐えうる障壁が、銃弾と共に一瞬にして消えた。

 「ねえ、君たちに頼みがあるんだ」

 ミハイルの一言に、一番前にいる大尉が震える唇を開く。

 「……何だ?」

 「ニコライ、俺にちょうだい」

 彼の要求に、兵士達が驚きざわめく。

 ナターシャも驚きに口元を手で押さえた。これはどういう意味だ?こんな時でも不毛な妄想が働いてしまう自分の頭を叱咤する。

 ミハイルに応答する大尉。

 「それをもし受け入れられないなら?」

 「とりあえず、そこのオッサンの命は無いね」

 そう言って拳銃を床に倒れている少将に向けたミハイル。

 「それでも受け入れられないなら、君達も1人ずつ殺してくよ? 最終的に、この基地にいる天使、みーんな死んじゃうかも」

 残酷なミハイルの言葉。そんなこと、本当に可能なのだろうか。普通なら不可能なことだが、絶大な魔力の扱いの上手さを見せるこの悪魔が言うと現実味がある。

 その時、ナターシャは大尉の後ろで通信機を出す兵士を見た。途端、ミハイルが拳銃の引き金を引き、銃弾が大尉の頬を掠める。

 銃声に驚いて通信機を落とす兵士。

 「ひぃっ……」

 「基地の天使に逃げろって伝えようとしたの? 馬鹿なこと考えると今度は大尉さんの頭に穴が開くよ」

 頬から僅かに血を流す大尉の歯がガチガチと鳴る。後ろの兵士は、顔を青くして通信機を拾おうとした手を引っ込めた。

 最早逃げ道は無いことを理解する彼らに、ミハイル。

 「さて、どうするの? ニコライ1人でこの基地の天使全員が救えるんだよ?」

 「ま、待てっ……大佐に連絡を取らせろ」

 そう言ったのは最初に足を撃たれた兵士の1人で、階級は中佐だ。倒れて軍医に治療を受けながら自分の方に目を向けている彼に、ミハイルは視線を移す。

 「大佐さん? どこにいるの?」

 「今は本部に」

 中佐の懇願にミハイルは笑みを深め、ニコライを一瞥した。

 「ふぅん? その大佐さんって、ニコライを俺のところに寄越した残忍な大佐さん?」

 その質問をされた中佐は返答に躊躇いを見せる。

 「…………ああ、ヴィノクール特務曹長をお前のところにやったのは、ポリトコフスカヤ大佐だ」

 「へぇ……、だってよ? コーリャ」

 ミハイルは片手に抱いたニコライに笑いかける。

 「その大佐さんに判断を委託するらしいよ?……ねぇ?」

 冷静で無慈悲なポリトコフスカヤ大佐は、ほぼ確実にニコライを悪魔に差し出すように言うだろう。ミハイルは彼のどんな反応を期待しているのだろうか。

 彼は怖いくらいにきつい表情で自分を拘束する悪魔を見る。

 「ポリトコフスカヤ大佐ならば誤った判断をしはしないでしょう」

 「どういう意味?」

 「……私を、切り捨てるでしょう。私1人のために犠牲を出したりはしない」

 「ふざけんな!!」

 突然別の方から聞こえた男の怒鳴り声に、皆は驚いて声がした方に振り向いた。

 そこにいたのは黒髪に白い肌の男。走ってきたらしく肩で息をしているレオだった。


 眼前にいる長身の天使、レオの姿に、ナターシャは空いた口が塞がらない。

 突然に悪魔に立ち向かうべく現れた黒髪の天使。まるで囚われの姫を取り返しに来た勇者みたいだ、と彼女は感動してしまった。

 ミハイルに腕を拘束されているニコライは、手に付けられた手錠を鳴らす。

 「レ、オ……?」

 まさか来るとは思っていなかった男の来訪。何故ここで事が起こってることが分かったのだろうか。

 1歩部屋の中に踏み出すレオ。止めろ、という上官達の声も聞かず、彼は金髪の悪魔を睨み付ける。

 「思った通りだ。あんた、モローゾフ中尉じゃなかったんだな!」

 「……やっぱり君にはバレたんだね」

 「ずっと変な感じがしてたんだよ。このサイレン聞いて、やっと気づいた! 今ディーマの奴が中尉を探しに行ってる」

 更に1歩、ミハイルとニコライに近づくレオ。

 「俺達のためにニーカが犠牲になるなんて、俺は認めねぇっ! 手前ぇも、ふざけたこと言ってんじゃねぇよ、ニーカ!!」

 そう言われたニコライは、淡い青紫の瞳に戸惑いを浮かべる。何か言おうとして開いた唇を、直ぐに閉じてしまった。

 2人のやりとりを嘲るように笑うミハイル。

 「君が認めなくても、君以外のみんなはそれで納得してるんだよ、レオ君。ねえ、大尉も中佐もそうなんでしょ?」

 問われた2人は、苦々しい表情で目を反らす。そう、大佐に分かりきった判断をさせて自分が感じる罪悪感を少しでも軽減させようとしている。ニコライを犠牲にしようとしていることに変わりはない。

 上官達の辛さも、自分の立場も理解している。そんな悲哀の籠った表情のニコライ。

 「レ……、クルツ伍長。お下がりなさい……」

 「なんだと?」

 「お下がりください。私はこの悪魔の下(もと)へ行きます」

 「何でだよ! 軍のためか?! おかしいだろ、そんなの!」

 必死な顔で、レオは中佐達の方へ振り返る。

 「中佐! あなただっておかしいと思ってんでしょう?! ニーカがいなくなるなんて、軍にとってもかなりの損害じゃないんですか!」

 彼の訴えにも、上官達は目を伏せるばかりだ。口には決して出さないが、ニコライ1人よりもより多くの天使の命が大切。結局はそういうことなのだ。

 「落ち着きたまえ……クルツ伍長」

 負い目を感じていることがありありと分かる顔のままでそう言った大尉に、レオ。

 「ここでニーカを悪魔に差し出したなんて皆が知ったら、皆は軍なんて止めますよ?! ニーカを失ったのはこの基地の責任です。体面は? 保てるんですか!!」

 「ク、クルツ伍長……」

 「黙りなさいっ! レオ!!」

 突如、ニコライの怒声が部屋に響いた。鳴り響くサイレンをも切り裂いた彼の大声に、全員は彼に視線を向ける。

 「私は今をもって軍を止めます! それでいいでしょう?! 軍も、この基地も、私とは何も関係ありません。1人の天使が悪魔のところへ行った……ただそれだけです!」

 悲痛な表情でそう言う彼の声は、泣きそうに聞こえた。

 上官達も彼がこうまで言うとは思っておらず、息を飲んだ。ニコライがミハイルのところへ基地を守るために行ったことなど、権力者なら簡単に塗りかえられる事実だ。

 一見、軍の体面を第1に考えているかのように聞こえたニコライの発言。しかしそうではないことがナターシャにはわかった。

 彼はレオがこれ以上余計なことを言ってミハイルを怒らせ、殺されることを恐れている。だから早くレオに諦めさせたいのだ。

 ミハイルはほとんど自分の手に入った存在となったニコライを愛おしげに見る。

 「いい子だ、コーリャ」

 優しくそう言った悪魔。ニコライの顎を掴み、血の気の失せた唇に赤い唇を重ねた。

 「――――!!」

 唐突なミハイルの行動に、見ている兵士達もレオも、そしてナターシャも絶句した。

 壁に背を付け、口元を手で押さえるナターシャ。真っ赤になった顔でその光景を凝視した。数秒の口付けだったが、彼女には強い刺激だった。

 ニコライから唇を離したミハイル。驚愕と屈辱、記憶のフラッシュバックにショックを受けている様子のニコライを片腕に抱いたまま、レオに視線を移す。

 「驚いちゃった? レオ君」

 楽しげなミハイルの口調に、レオは表情を驚きから怒りに戻した。

 「……手前ぇ…………」

 「知ってるんでしょ? 2日間、俺がコーリャに何をしてたのか」

 「うるせぇ。そいつはコーリャじゃない、ニーカだ。ニーカを離せ」

 「ニーカ? ……そんなの知らない。コーリャは俺のところに来るって言ってるんだよ?」

 「本意じゃねぇだろ」

 「さっきから言ってるでしょ、君以外のみんなは納得してるってさ」

 軍人達の顔とミハイルの嘲笑、ニコライの自己犠牲的な態度。それらはレオの怒りを加速させ――彼の憤怒は頂点に達した。

 「……納得してる、だぁ?」

 更に1歩足を進めると、床に伏した少将の真横に足が付いた。

 「そりゃあ‘納得してる’じゃねえ! ‘納得させて’んだよっ!!」

 ダンッ、とレオの片足が床を叩いた。その瞬間、



 囂(ごう)っ……



 彼の体から噴き出した、強い‘気配’。それは神通力の気配であり――――魔力の気配だった。

 その場にいる全員が驚愕に目を丸くする。唯1人、ミハイルを除いては。

 「嗚呼、やっぱりね……」

 彼の呟きに、ニコライが怪訝な顔で彼を見た。微量の神通力しか扱えないはずのレオが、こんなに気配を発するなんておかしいことだ。

 「なんだ、これ……」

 レオ自身も自分の体に起きたことを何も理解していない。しかし彼に戸惑いはなかった。

 「まあ、何でもいい」

 憤怒を黒い双眸に宿したレオ。右の拳を固め、そこに神通力と魔力を集中させる。神通力や魔力でパワーを上げる、高次の術。ニコライですらもあまり使うことのできない術だ。

 ミハイルがレオにファンタジアを向け、ニコライの首にもう片方の手を添えた。

 「レオ君、俺に攻撃するの? 死ぬよ。君も、コーリャも」

 首を押さえられたニコライが、今まで以上に怯えた顔をする。

 しかしレオの態度は変わらない。

 「お前、殺すとか言ってるけれど本気じゃねぇだろ」

 低く言ったレオ。拳を振り上げてミハイルに向かって踏み出す。

 誰もが息を飲んだ。殺されると思った。

 しかし現実はそうならなかった。



 ミハイルに向けて真っ直ぐに繰り出されたレオの拳。次の瞬間に、床に硬いものが落ちる重い音がした。

 ミハイルがファンタジアを手から離し、片手で彼の拳を受け止めたのだ。ニコライの首はもう片方の腕で押さえたまま、レオの拳を止めた彼の手にも魔力が籠っている。

 レオの強化された拳が、そのままミハイルの掌を押す。

 「やっぱり、殺すつもりなんて無いんじゃねぇか」

 「……殺す必要なんてない。唯、交渉がしたかっただけだよ」

 「交渉、だと?」

 2人は拳と掌で押し合ったまま睨み合う。

 珍しく笑みの消えた真剣なミハイルの顔。若菜色の瞳が、背の高いレオを見上げる。

 「そう、できればちゃんとコーリャを連れていく許可を得たかった。また戦いたくなんかないから」

 ミハイルがそう言い終わったとき、レオが悲鳴を上げた。ミハイルが彼の指を折ったようだ。

 レオ、と声を上げるニコライ。悪魔はレオの拳を掴み続ける。

 「でも君は本気で俺に攻撃してくる。だから俺は今すぐコーリャを連れて逃げるしかない」

 パキ、とまた1本レオの指の骨が折れる。

 レオはもう片方の手でミハイルの腕を掴んだがその腕はびくともしなかった。悪魔は彼を簡単に逃がしはしないのだ。

 「最後に教えてあげるよ、レオ君。俺の予想に過ぎないけれど、当たってるはずだ。君は悪魔と天使のハーフだよ。天使でもクォーターでもない」

 「何、言ってやがる……、離せ!」

 ジュウ、と肉の焼ける音がした。灼熱の痛みに、慌てて左手をミハイルから離すレオ。その掌は酷く火傷している。炎の魔力だ。

 レオの右拳を握ったまま、話を続けるミハイル。

 「今出している力が君の本来の力だ。君は魔力と神通力、両方が扱えるけれど、僅に神通力の方が強い。君は今まで無意識の内に、神通力で魔力の気配を封じ込めていたんだ。だからその分、神通力が使いにくくなっていた」

 両手の痛みと驚愕に顔を歪めるレオを、ミハイルは思いきり自分の方へ引き寄せた。その美貌に邪気の無い薄笑いが戻った。

 「君は今のように力を解放すれば、多分ニコライよりも強い。自分の正体が分かって良かったね、レオ君」

 そして、今度はレオを突き飛ばしたミハイル。床に尻餅を付いた彼を、ニコライを両腕で抱き締めつつ見下げる。

 「До свдания……」

 その唇に紡がれたのは、人間界のどこかの、知らない言葉だった。

 直ぐに立ち上がろうとするレオ。

 「なっ、待ちやがれっ!!」

 2人に向かって手を上げる。

 「ニーカっ……!」

 悪魔に怯え、自分に縋(すが)るような目でこちらを見下げるニコライ。その腕を掴もうと、右手を必死に伸ばした。



 ――――しかしその手は、宙を切った。



 レオが立ち上がってその手がニコライに触れる寸前に、2人はその場から消えた。空間移動の魔力だった。

 それは一瞬の出来事だった。その暫時に、ニコライは悪魔によって連れて行かれてしまった。これだけ何人も天使がいながら、誰もが何もできなかった。

 膝を付いたままのレオ。最初は唖然としていた表情が、悔しさに染まっていく。

 「ちくしょうっ……ニーカっ!」

 指を折られて握ることのできない右手を、床に叩きつけた。

 「ちくしょう、ちくしょうっ!うあっ……あぁあ……、ニーカぁっ!!」

 怪我をしている両手を、何度も床に叩きつけるレオ。

 軍医が彼のところへ駆け寄る。

 「や、止めなさい」

 レオは軍医に腕を掴まれたが、それを振り払った。彼の目には涙が浮かんでいる。

 悪魔に大切な友人を奪われた悔恨。彼はそれを吐き出そうとするかのように、大きく息を吸い込み、叫ぶ。



 「うあぁあっ!ニーカああぁああああっ!!!!」



 鳴り響くサイレンを掻き消すような男の叫び声。何もできなかったナターシャは、やはり何もできずに聞いていた。








 軍服は脱ぎ捨てた。

 長かった波打つ黒髪は短く切った。

 伍長の階級も、貰った勲章も、全て棄てた。

 自分が天使であるという認識すらも。


 「本当に良かったのか? ディーマ」

 友人、ディーマにレオはそう尋ねた。彼の家を訪問しているディーマ。

 「ああ。俺ももうあんなところにはいたかねぇ」

 「そうか……」

 2人はもう天界軍の藍色をした軍服を着ていない。髪を切ったレオは、前よりもやや精悍に見える。



 ニコライが最強の悪魔、ミハイルに連れて行かれて1週間。2人は軍を止めていた。

 天界軍はニコライが軍のために自ら悪魔と共に人間界へ行ったことを隠蔽した。彼は悪魔に監禁されて精神的ショックを受け、軍を止めることにした。そういうことにされた。

 上官達はあの日あった全てのことを無かったことにしたのだ。



 そしてレオは、除隊処分を受けた。

 基地にサイレンが鳴ったとき、レオは上官の命令を無視してニコライの所に駆けつけた。更にニコライや兵士達の命の危険を省みず悪魔に攻撃を仕掛けた。除隊処分について言われた理由はそのようなことだったが、恐らく一番の理由は、レオが悪魔と天使のハーフだと分かったからだろう。

 膨大な神通力と魔力を扱うことができるようなってしまったレオの存在は、軍にとっては邪魔だった。天界軍に敵の武器である魔力を使える者など、たとえ強くとも必要無いのだ。



 その後ディーマも天界軍から出ていった。

 レオと違って除隊されたわけではない。理不尽な軍のやり方を嫌に思って止めたのだ。それからもう1つの理由は、レオと共に成し遂げたいことがあったから。



 「本当に一緒に来るのか?」

 レオは真剣な表情でディーマに問い質した。

 彼は首肯して、クールグレイの瞳でレオを見上げる。

 「お前さえ良ければな。俺もヴィノクールを助け出したい」

 「……そうか」

 それでも申し訳なさそうな顔をするレオに、ディーマは笑顔を作った。

 「俺が行きたいから行くんだ、俺のことは気にすんな。行こう、モローゾフ中尉も待ってる」

 そしてディーマに背中を軽く叩かれたレオは、つられて笑みを浮かべる。

 「ああ……そうだな」

 そう、ニコライを助けだそうとしている者はもう1人いるのだ。

 共に軍を離れた、モローゾフが。










 「本当に、すまない」

 彫りの深い顔立ちで鷲鼻の天使、モローゾフ。彼は目の前にいる巻き毛の女性に謝罪した。

 腕に2、3歳の幼児を抱いている女性。彼女、モローゾフの妻の彼を見上げる両目は悲しげだった。

 「……いいのよ、仕方ないわ。もう決めてしまったことなんでしょう?」

 ディーマと共に自ら天界軍を出てきたモローゾフ。この一件の被害者である彼も軍のやり方が許せなかったのだ。

 妻と娘が暫く生活できるくらいの貯金はあるし、妻も病院の看護師だ。金に問題は無い。

 モローゾフは妻にあの日あったことの全てを話し、ニコライを救出すべくレオとディーマと一緒に人間界へ向かうことにした。

 「本当にすまない……。軍を止めた上に、こんな――」

 「あなたが軍を止めたのは当然のことよ」

 モローゾフの言葉を遮って、彼女は言った。

 「軍は酷いところね! あなたがフォン・ヴィノクールさんを助けたいと思うのも、当然のだわ。あなたは何も間違ってない」

 はっきりとした彼女の言い方に、モローゾフは微笑む。

 「……ああ、ありがとう。直ぐにこっちに戻ってくるよ。そしたらまた仕事も探すから」

 「ええ。この子のためにも、ちゃんと帰ってきてね?」

 この子とは、彼女の腕の中の2人の子供だ。愛らしい琥珀色の瞳でモローゾフを見上げる幼女。

 「パパ……」

 自分を呼ぶ子供に、モローゾフは腰を落とした。

 「リーリャ、パパはまたお出かけするよ」

 「お出かけ?」

 「そう。ママのところでいい子にしてるんだぞ?」

 「んー……うん」

 「よしよし、約束だ。パパも直ぐに帰って来るからな」

 そしてリーリャと呼んだ子供の額にキスを落とすと、リーリャは嬉しそうに笑った。

 彼は妻に視線を戻す。

 「それじゃあ、リーリャを頼んだよ」

 「ええ。愛してるわ、ヴァーシャ」

 愛称で彼の名を口にした妻に、彼は頷く。

 「私も愛している。カーテャ」

 見つめ合い、2人は口付けを交わす。妻や娘への慈しみが、モローゾフの生への執着を強くしていく。

 彼は妻と娘に帰って来ることを約束し、家を後にした。

 琥珀色の双眸(ウルフ・アイズ)に覚悟の光を宿して。



 モローゾフは家を出ると、そこにいた2人の天使に少し驚いた顔をした。

 「おや……来ていたのですか」

 そこにいたのはレオとディーマだった。2人共、モローゾフが出てくるのを待っていたのだ。

 「当たり前です。中尉に迎えに来させるわけにはいかないでしょう」

 ディーマが笑って言うと、モローゾフ。

 「ありがとうございます。でもダニロフさん、私はもう中尉ではありませんよ」

 「え、ああ……そうでしたね。すみません。モローゾフさん?」

 戸惑い気味なディーマに、モローゾフはクスリと笑った。

 「ヴァーシャで結構です」

 「ヴァーシャ……。じゃあ俺のことはディーマって呼んでください。俺には敬語とか要りませんよ、ヴァーシャ」

 「分かったよ、ディーマ。クルツさんも、私のことはヴァーシャと」

 ディーマと握手を交わしたモローゾフは、次にレオに視線を移した。

 レオも僅に笑みを見せて、彼に手を差し出した。

 「ええ。俺はレオって呼んでください、ヴァーシャ」

 「ああ、レオ。これからよろしく」

 「はい」

 レオとモローゾフも手を握りあった。

 3人は、人間界へ向かう。

 連れて行かれた天使を取り戻すために。


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