七章





 明け方、空が白み始めた頃。ナターシャは人間界の山の麓にいた。

 手袋をした両手を更に擦り合わせる。辺りには雪が積もり、厚手の外套を身に纏っていてもとても寒い。

 仕方なくナターシャは神通力で暖気を薄く纏った。彼女が踏みしめる雪が溶けやすくなる。綺麗な雪の上にくっきりと足跡を刻んでいく。

 行き先があるのか無いのか、ふらふらと付近を歩くナターシャ。

 ふと、自分の足音の他にもう1つの足音を耳にし、歩みを止めた。感じるのは神通力の気配。天使だ。

 「誰です?」

 相手がそう問いかけてきた。それは男の声だ。

 怪訝に思いながらも振り返ると、そこにいた男にナターシャは目を丸くする。

 「モローゾフ中尉……?」

 濃褐色の髪に鷲鼻で彫りの深い顔立ち、琥珀色の双眸。中肉中背でどこか品のある服を身に纏った男。

 そう、いたのはヴァシリイ・フォン・モローゾフ−−−−ヴァーシャただ1人だった。彼はレオやディーマと一緒に行動していたはずだが、何故1人でいるのだろう。

 ヴァーシャはナターシャに対していつもの柔らかい表情を作らず、警戒しているようだった。

 「私を知っているのですか?レキア東方軍基地の方で?」

 そこでナターシャはヴァーシャが自分を知らないのだと理解する。彼は優秀な軍人として有名だったが、ナターシャはレキア東方軍基地のただの看護師。彼が知らなくて当然だ。

 ナターシャは彼の警戒を解こうと笑顔を作る。

 「ええ。レキア東方軍基地で看護師をしていたナターリヤ・クリベークですわ。ヴィノクール特務曹長のことも診ていました」

 彼女の言葉に、モローゾフの表情が少し柔らかくなる。

 「それは……すみません、存じませんでした。しかし何故こんなところに?」

 「中尉達と同じです。ヴィノクール特務曹長を助けるために軍を辞めて来たんです」

 「えっ?」

 ヴァーシャは信じられないと言いたげに目を見開く。ニコライとほとんど関わりのなかったはずの彼女が、軍を辞めてまでもここに来るなんて。
彼女は彼に一歩近づく。

 「私はヴィノクール特務曹長がミハイルに連れて行かれるところを見ていました。クルツ伍長が必死に止めようとしていたのに……。私、どうしてもあなた方の手伝いがしたくて」

 「はあ……それで、ここに?よく場所がわかりましたね。ミハイルの目隠しの術も見破ったのですか?」

 「ミハイルの居場所を知ってる兵士くらいたくさんいましたわ。近くまで来てあなた方の神通力の気配を追っていったら目隠しの術も分かりました」

 そう言うナターシャに、どこか釈然としない様子のヴァーシャ。まだ警戒心はあるようだ。

 だがナターシャはニコニコとしている。

 「それよりどうしてモローゾフ中尉はお一人でここに?クルツ伍長とダニロフ軍曹は一緒にいるみたいですけれど」

 彼女は離れたところにいるレオとディーマの神通力の気配も察知している。その事にヴァーシャは更に怪訝そうな顔をした。

 「あなたの気配を感じて来たんです。2人はまだ寝ている……、あなた本当にただの看護師ですか?2人の気配まで分かるなんて。しかも暖気を纏ってますね?そんな神通力を使える看護師なんてあまりいないでしょう」

 軍人だからか、過去のトラウマのせいか、ヴァーシャは一般人より警戒心の強い男だ。ナターシャは彼と話すうちにそれがわかってきた。

 一拍おいて、彼女は口を開ける。

 「エゴール・クリベーク元少尉をご存知で?」

 ヴァーシャは彼女が口にした名前に眉を眉間に寄せた。

 「……ええ、よく知っていますよ。先の大戦中に悪魔に暴行され、軍を辞めた方です。あれは私がレキア東方軍基地に来たばかりの頃でした」

 「私はナターリヤ・クリベーク……彼は私の父です。神通力の扱い方は父に教わりましたわ」

 ナターシャの告白に、ヴァーシャはまた驚いた顔をする。逡巡して、曖昧な笑みを見せた。

 「そうでしたか。クリベーク少尉の娘さん……確かに似ていらっしゃる」
「はい。まだ私が怪しいようでしたらクルツ伍長が私のことを知っています。伍長にお聞きください」

 「ああ、いえ。すみませんでした。2人のところに戻ります。一緒に来ますか?」

 急に普段の優しさを見せはじめたヴァーシャ。クリベーク元少尉と親しかったのかも知れない。

 ナターシャは少し不思議に思いながらも彼に近づく。

 「はい、よろしければご一緒させてください。少しですが情報を仕入れてきたんです」

 「情報?」

 2人は一緒に歩き始めた。ヴァーシャも暖気を纏っているらしく、2人の周りだけが僅かに暖かい。

 「リース大尉と少しお話をしたんです。それでミハイルのことを教えていただきました。あと、この本も」

 ナターシャは持っていたバッグからリースに貰った方を出した。

 その魔力が天使の体に及ぼす影響についての本に目を落とすヴァーシャ。

 「ああ、そのことですか……」

 「モローゾフ中尉もご存知で?」

 「いえ、詳しくは……ミハイルのこともリース大尉ほど知らないと思います。当時私は彼のように前線にいたわけではありませんでしたから」

 「そうなんですか。8年前は軍に?それとも精神科医をなさっていたんですか?」

 「軍にいましたよ。私は確かに医者としての知識はありますがそれを本職にしていたのは25歳の時に1年だけで……。大戦が始まった直後に半年間、訓練を受けて、軍に入りました。レキア東方軍基地に来たのはその1年後です」

 「大戦が終わった年にあの基地に来たんですね。でもどうして基地を移動することに?」

 ナターシャは勿論ヴァーシャの過去を知らない。仲間に強姦された過去を知っているのは皮肉にもミハイルただ1人だ。

 ヴァーシャは蘇りそうになる嫌な記憶を意識の外に追いやって、表情を変えずに言う。

 「大戦中でしたから、人数配分の関係で配属が変わるのはよくあることでしたよ」

 「ああ、なるほど」

 当時をよく知らないナターシャは簡単に納得した。ヴァーシャはこの質問を大抵その理由で通している。

 林の奥に古い廃墟が見えてきた。ヴァーシャがそれを指差す。

 「2人はあそこにいます。一昨日からあそこに泊まっていまして」

 「あんなところに2日も?凄いですね」

 「男の元軍人3人ですからどうってことありません。そうだ、クリベークさん。私はもう中尉ではありませんよ」

 「あっ、すみません。そうでしたね、モローゾフ……さん?」

 少し戸惑うようにそう返したナターシャに、ヴァーシャは微笑みかけた。そして2人は廃墟へと入っていた。







 「コーリャはこれ着てね」

 ミハイルがニコライにそう言って手渡したのは、今から出かけるための服だった。白いシャツに紺色のカーディガン、赤茶色のズボン。

 ミハイル自身は黒いシャツの上から白いベストを着て、タイトなジーンズを履いている。赤いチョーカーがどこか女性的だ。

 ニコライは渡された服に目を落とす。

 「本当に今日、街に?」

 「ん?勿論。昨夜言ったじゃない」

 ミハイルははっきりとそう答えた。

 朝から彼に人間界の街に行くと言われ、ニコライは驚いてしまった。

 言葉は通じない、文化も違う、神通力も魔力も無いために生活様式がかなり違う人間界。何があるか分かったものではない。

 そもそも人間界での混乱を防ぐために天使や悪魔は人間にその存在を知られてはいけない決まりになっている。人間界で生活するのは悪魔の中の「ヴァンパイア」と呼ばれる人間の血が必要な生物と「ヴァンパイアハンター」と呼ばれるヴァンパイア狩りが仕事の天使だけ。そうでない天使や悪魔は人間界に本来いるべきではないのだ。

 「い、いいのでしょうか……人間に天使だと悟られてしまうかも知れません」

 不安な様子のニコライ。バッグに荷物を入れていたミハイルは彼に近づいた。目の前まで来ると、香水だろうか。ブラックベリーのような香りが嗅覚を刺激する。

 「心配なの?コーリャ」

 「それは……当然でしょう」

 「大丈夫だよ。人間は魔力や神通力を感じる力が無いんだ。俺たちが使わなければバレない」

 「言葉も通じませんよ?」

 「ここらの地域の言葉なら俺がわかるよ。それに人間界にはたくさんの言葉があって人間もそれを全部知ってるわけじゃないんだ。違う地域の人間だと思うさ」

 「そうでしょうか……」

 「うん、大丈夫。俺、長く人間界に住んでるから街にはよく行くんだ。まだバレたことはないよ。さあ、着替えて」

 「……わかりました」

 ニコライは1つ息を吐いて服を着替え始めた。

 着ていたシャツとスラックスを脱ぎ、渡された服を着る。ミハイルの服ならば自分には小さいはずだが、サイズが合っている。彼はいつの間にこんな服を買っていたのだろうか。

 シャツのボタンを閉め、服の中に入った長い銀髪を両手で外に出した。

 「ああ、そうだ」

 ミハイルが黒いリボンと櫛(くし)を持って再びニコライのところに来た。

 「何ですか?」

 「髪の毛纏めてあげるね。椅子に座って」

 「ええ……でも何故?」

 椅子に座ったニコライの後ろに回るミハイル。

 「人間界で君みたいな髪型した男はあんまりいないんだ。顔も凄く綺麗だし、目立ち過ぎるから……せめて纏めた方がいい」

 「そうなんですか。ありがとうございます」

 「うん。人間で銀髪に薄い青紫色の目なのはね、アルビノっていう病気の場合だけなんだ。あと、天使や悪魔でもコーリャみたいに髪を伸ばしているの少ないけれど……人間界の方が珍しいかな」

 ミハイルはそう話しながらニコライの髪を梳き、1つに纏める。その髪は男にしては細く、束ね辛い。

 「そういえば、どうして君はこんなに髪を伸ばしているの?切らないの?」

 「…………それは……」

 ニコライは問われた質問の答えがわからなかった。否、見失ったーーそんな感覚だ。

 何故だっただろうか。覚えているはずなのに分からない。

 ーーーーお前の髪、綺麗だよな。

 昔、誰かに言われた言葉。でも誰に言われたのか思い出せない。

 また脳裏を過る顔が見えない青年の姿。彼に言われたのだろうか。

 分からない。思い出そうとすることがどんどん遠のいていく。

 「…………コーリャ?」

 ミハイルに愛称を呼ばれ、考え込んでしまったニコライは我に返る。髪は既に後ろで1つに束ねられ、黒いリボンが付けられていた。

 「あ、すみません。えっと……何故だったか忘れてしまいました。随分昔から切っていないんです。誰かに綺麗な髪だと言われたからだったと思うのですが」

 ニコライの言葉にミハイルの表情が曇る。目付きが睨むようなものに変わった。

 「誰だったか、思い出せないの?」

 「はい……確か男性でしたが…………ミーシャ、どうしました?」

 ミハイルの若菜色の瞳が険しくなり、ニコライが怪訝そうに尋ねた。言われて彼はハッとしたように笑顔を作る。

 「いや、そっか。無理に思い出さなくていいよ。俺も君の髪は綺麗だと思う。好きだよ」

 「ありがとうございます」

 そう返しながらニコライは椅子から立った。ミハイルから物理的に少し距離を取りたくなったのだ。

 この悪魔からさっきの一瞬垣間見えた狂気。ニコライへの独占欲。時々見せる彼のその顔が、ニコライは堪らなく恐ろしかった。この耐え難い恐怖を感じる度に自分は彼を愛していて、彼も自分を愛しているはずだと自分自身に言い聞かせる。

 ニコライの腰に手を伸ばすミハイル。驚いて逃れようとした天使の腰を抱き、顔を近づける。天使を見上げる、整い過ぎた悪魔の顔。

 「怖がらないで、ニコライ・フォン・ヴィノクール」

 「何を、ですか……」

 そう言ったニコライの声は震えていた。ミハイルへの恐怖は彼自身に簡単に悟られてしまった。

 少し踵を浮かせたミハイルは、何も答えずにニコライの唇に自分の唇を重ねる。数秒の深い口付け。軽くニコライの唇を舐めながら離れた彼は微笑んでいた。

 「さあ、行こうか?コートと帽子はそこにあるよ」

 「は、い……」

 ニコライは戸惑いながらも黒い外套に手を伸ばす。

 ミハイルの優しささえも、恐怖の一端となっていた。






 ニコライの目の前には赤い色のスープが置いてあった。何種類かの野菜と牛肉が入っている。

 それに目を落としているが手を付けようとしないニコライ。目の前ではミハイルが同じスープと白いパンを食べていた。

 「コーリャ、食べないの?」

 「……えっと…………」

 そこは喫茶店だった。ごく一般的な、庶民的な値段の店。客はもう直ぐ満席といったところだ。平日の正午を目前にした時間帯としては普通だろう。

 数いる人間の中で、ミハイルとニコライは目立つ格好をしていなくても若干浮いていた。生まれついた顔が整っていて派手さがあるのだから仕方ない。街に来てから様々な人に話しかけられ、その都度ミハイルが軽く躱している。

 ニコライはスプーンを持ち、スープを飲もうとしながらもまだそれに躊躇いがあるようだ。

 「……赤いですね」

 「うん、ボルシチだもん。そりゃ赤いよ」

 「これは人間界では一般的な料理なのですか」

 「人間界っていうかこの地域じゃよく食べられてるよ。……食欲無いの?」

 ミハイルはもうすぐ食べ終わりそうだが、ニコライはまだ一口も食べていない。

 「それもあるのですが……赤いじゃないですか、これ」

 「うん、赤いよ?ビーツが入ってるからね」

 「赤いスープはちょっと」

 「ん?ああ、そうか。天界は赤いスープ駄目なんだっけ?」

 「駄目というか、気持ち悪いと思わないんですか?血みたいで」

 天界には赤い汁物は飲まない文化がある。それは血液を彷彿させ、人の血液を飲むヴァンパイアへの反発も含めてそういう文化が根付いたのだ。

 そういった天界の考え方を刷り込まれているニコライにはボルシチを食べるのは至難の技だった。

 そんな彼を前にスプーンを置き、コーヒーを啜るミハイル。

 「うーん、でもこれ血じゃないよ。美味しいし。上に乗ってるサワークリームと混ぜてみなよ。ピンク色になるから」

 そう言われたニコライは、また数秒赤いスープを眺めた後、指示通りに白いサワークリームと赤いスープをスプーンで混ぜた。真っ赤だったスープに白が溶け合い、瞬く間にピンク色になっていく。

 「ああ、これなら食べられます」

 「よかった。冷めちゃうから早く食べてあげて」

 「はい」

 ニコライは微笑んでボルシチを口にした。スープの酸味はサワークリームでかなりマイルドになっている。牛肉と数種類の野菜の豊かな風味が口内に広がった。

 「美味しいです」

 「うん、そうだね」

 ミハイルはニコライがスープを飲む姿を見て嬉しそうに笑う。そんな彼の顔つきはいつもより幼く、そして愛らしく見えた。

 彼に微笑みかけて、ニコライ。

 「ミーシャ、あなたは少し童顔ですよね」

 「へ?」

 ニコライから出た言葉が予想外だったのか、ミハイルは唖然とした顔をした。

 「そうなの、かな?」

 「笑顔のあなたは可愛らしいです」

 目の前の麗人にそう言われ、更に驚いた表情を作るミハイル。そして曖昧に笑みを浮かべた。

 「……ニコライほどじゃ、ないよ」

 そう言ってニコライのテーブルに置かれた片手に自分の片手を重ねようとしてーーーーやめた。

 そのミハイルの仕草に疑問符を浮かべるニコライ。そういえばミハイルは街に出てきてから自分に触れてこない。普段なら一緒にいる時はどこかしら体に触れてくるのに。

 「……ミーシャ。あの、私あなたに何かしましたか?」

 表情こそほとんど変わらないが、不安気なニコライの声。ミハイルは僅かに首を傾げる。

 「ん?いや、何で?」

 「あなたが私に、触れて来ないので」

 それを聞いてミハイルは、ははっ、と声を出して笑った。

 「何だ、それで心配になったの?大丈夫、何でもないよ」

 笑いながら言う彼に、ニコライは少し眉を顰める。不安になったこちらが馬鹿みたいだ。

 「じゃあ何でですか、ミーシャ」

 「この地域は特にだけれど、人間は同性愛に対する偏見が強い」

 そう言いながらミハイルは笑みを消した。

 「天使や悪魔でも同性愛は普通じゃないよね。人間は同性愛者に対して攻撃的な奴までいる。だからこの辺であまりベタベタしない方がいい。ただでさえ俺たちは目立つんだ」

 「同性愛者に、攻撃的……?どうしてです?」

 天界や魔界でも同性愛者は少ないが、彼等を異性愛者が嫌っているかといえばそういう者は少ないだろう。愛の在り方は様々であることを大抵の者は認めている。

 ミハイルはまた一口珈琲を飲む。

 「……さあ、人間と俺達は似ていても中身は全く違うからね。同性愛者を嫌う理由は個体によって違うだろうけれど、最も理解しやすいのは同性愛が非生産的であることかも知れない。人間はそれを嫌う」

 「人間は約60億もいて、今も尚増え続けているのに?」

 天使と悪魔は10億人ほどしかいない。人間はその約6倍だ。

 「うん。人間に限らず生物は繁殖するために生きているに等しい。俺達……悪魔と天使はお互いに殺し合うために生きているようなものだ。だから増えにくいし、増えることに殺し合うこと以上の興味も無い。生物としては人間より俺達の方が特殊なんだよ」

 ミハイルの言葉に、ニコライは不思議な感覚になった。

 恐らく本能なのだろうが、悪魔への殺意はある。だが目の前にいるこの男への感情は、何なのだろう。

 暫し空になりかけたスープの皿を見つめてから、唇を開く。

 「私はあなたを殺したいとは思わない。……あなたは私を殺したいと思うのですか」

 険しい表情のニコライを前に、ミハイルの目付きは柔らかい。

 「俺は異端だよ、コーリャ。天使を殺したい悪魔の気持ちがわからない。男を愛せない男の気持ちもわからない。愛し方だって他者と違う。俺は君を傷つけたいと思っても殺したいとは思わない」

 穏やかな声色だった。しかし、それは余りに悲しいことだと、ニコライには理解できた。

 彼は他者と自分の違いにこれまでどれほど悩んできたのだろう。どれほど孤独を感じてきただろう。幾多の性交の中で、相手と本当に繋がることができたことはあったのだろうか。

 山奥のあの家でたった1人で暮らしてきた悪魔。彼は他者を理解することを諦めてあそこにいるのか。

 「……愛してます、ミーシャ」

 ただ、そう言った。ミハイルにとっては無意味な言葉なのかも知れないが、そう言いたかった。

 ミハイルは何も返さず、ニコライを見つめた。何を映しているのかわからない若菜色の大きな瞳。赤い唇は笑っているようにも見える。

 ニコライのスープ皿が空になった。

 皿の上に置かれたスプーンに目を落とし、再びニコライの方に視線を戻すミハイル。

 「それじゃあ、そろそろ出ようか。行きたい店があるんだ」

 彼はそう言って椅子から立ち上がる。

 外套を手に取りながらそれに続いたニコライ。この悪魔はこういう時に限って「愛している」とは返してくれないのか、と心のどこかで思う。いつもは言ってくれるのに。彼は自分が言った愛の言葉に多少の同情心が含まれていたことを読み取ったのかも知れない。

 レジへ向かう悪魔の手に天使の手がそっと触れる。人目を気にしてか、別の意味があってか、悪魔がそれに反応することはなかった。

 会計をするミハイルを斜め後ろでニコライは見つめた。

 ーーーーふと、この人間界には異質な気配がした。

 僅かに、恐らくは数百メートル離れたところに、神通力の気配がする。3〜4人の天使の気配だろうか。

 なんでこの広い人間界に、こんなにも近くにそんなに天使がいるのだろう。自分達のことを知っているのだろうか。

 周りを見渡してみても、その天使達がどこにいるのかわからない。満席になった店内では人間達が食事をしているだけだ。そもそも目視できる範囲にはいない可能性が高い。

 その時、食事を終えたらしい人間の女性が2人ニコライの近くに来る。

 「Вы в строке?」

 唐突に全く知らない言葉で話しかけられ、ニコライは困惑した。言葉に詰まる彼に、女性は首を傾げてもう一度同じことを言った。

 どうしたものかと思っているうちにミハイルが会計を済ませてきた。

 「Извините 」

 彼は女性2人にそう言い、ニコライの服の袖を引っ張って一緒に店を出るように促す。

 それに従った時、ニコライは先ほどの天使達の気配がほとんど無くなったことに気づいた。遠くに行ったか、気配を隠したのだろう。ミハイルもきっと気付いているはずた。

 「あの、ミーシャ」

 店を出て話しかけると、彼はこちらを見上げてきた。

 「ん?さっきの人は君がレジに並んでいるか聞いただけだよ」

 「そうだったのですか?……いえ、それより気付いてますよね?」

 「何に?」

 歩き出すミハイルの斜め後ろを歩くニコライ。

 「神通力の気配です」

 「……気になるの?」

 周りを歩く人々に合わせるように早足で歩くミハイルの表情は見えない。

 「ええ、勿論。こんなところにどうして天使なんて」

 「いいじゃない。今は気にしなくても。少なくとも君の敵ではないでしょ」

 「私の敵でなくてもあなたの敵かも知れませんよ?天使なのですから」

 「仮にそうだとしても俺は負けない。こんなところで急に攻撃してくるほど馬鹿な天使もいないだろうよ」

 「……そうですか」

 小さくそう返すニコライ。ミハイルは飽くまで近くにいる天使達を気に留めないつもりらしい。その天使達の気配は完全には消えていない。自分達を見張っているようにも感じられる。

 ミハイルが振り返る。その顔は笑顔だった。

 「さて、次に行こう。デパートに行きたいんだ」

 「デパート、ですか」

 無垢な笑顔に苦笑を返すニコライ。彼の言うとおり今はこの神通力の気配を気に留めないでおこう。

 天使と悪魔が並んで歩く。人間達は誰もそのことを気にしない。2人のことで人間が気にするのは顔のことくらいだ。

 ここにいると天使だ悪魔だと生まれてきた時から争い続けてきた自分達は何だったのかとすら思える。

 ミハイルについて行くと、大きなショッピングモールに着いた。正面の自動ドアから2人は入って行く。平日なのでそれほど人は多くない。

 1階は主に婦人服売り場のようだった。 ざっと見たところ、このショッピングモールには女性客が多い。

 「ここでいつも買い物してるんだ。大体何でも売ってるから」

 ミハイルはそう言って慣れた足取りで入って直ぐ、正面のエスカレーターに乗った。

 ニコライも彼のすぐ後ろに立つ。

 「お金はどこから?」

 「たくさん持ってる人から分けてもらってるよ」

 「はあ……」

 要するに金持ちから盗んでいるということだろう。人間の金持ちから、と言われるとニコライは大して気にならなかった。自分と別の種で、しかも金に困っていない者のことなど知ったことではない。

 エレベーターの上の方を見上げるニコライ。すると、唐突に視界の端から黒い靄がかかった。

 「…………??」

 気持ちが悪い。黒い靄で視界が狭くなっていく。ミハイルがこちらを見下げて、自分の名前を呼んでいるようだが、聞こえる音が小さくなっていく。彼の顔がよく見えない。

 背中に温かいものを感じた。彼が自分を支えてくれているのだろう。もう視界はほとんど真っ暗になっている。辛うじて自分を心配するミハイルの声が聞こえる。

 エスカレーターを降り、数歩進んだようだ。冷たい、壁のようなものに手を付いた。ミハイルに座るように言われ、その場に座った。

 すぐ近くに彼の体温を感じる。後ろから肩を抱いてくれているのだ。

 彼の服の裾を掴んで座っていると、徐々に視界が戻ってきた。目の前にある白い柱、横を向くとミハイルの顔。

 「コーリャ、大丈夫?」

 「……すみません、急に前が見えなくなって」

 「うん、貧血だね。顔色も良くない。すぐ近くに座れるところがあるから、ちょっと立てる?」

 「はい」

 ミハイルに腕を掴まれながら、ニコライは立ち上がる。また少し視界に靄がかかるが、まだ見える範囲だ。

 「貧血なんて……どうして」

 「こうなったの、初めて?」

 「はい」

 ニコライは体調を崩すことがほとんどない。軍に入ってからは特にそうだ。

 周りの人間達に横目で見られながら歩くと、エスカレーターの近くにベンチがあった。

 「座って」

 ミハイルに言われ、ニコライはそこに腰を下ろす。また視界がはっきりしてきた。しかしまだ五感は全快ではなく、気持ちが悪い。

 彼の頬に触れるミハイル。

 「ちょっと待っててね、すぐ戻ってくるから」

 「え……?どうかしたのですか?」

 「飲み物を買ってくるよ」

 「あ、そうですか。ありがとうございます……」

 1人でここに取り残されるのは不安だった。だがニコライは微笑み、笑顔を向けて早歩きで去っていくミハイルの後ろ姿を見ていた。






 人間界のデパートに、4人の天使がいた。

 1人は背が高く痩せた黒髪の天使−−−−正しくは天使と悪魔のハーフ、レオ・クルツ。

 レオの隣にいるのは短い茶髪にクールグレイの瞳の天使、ウラジミール・ダニロフ。

 2人の後ろには濃褐色の髪で鷲鼻の天使、ヴァシリイ・フォン・モローゾフ。

 4人から少し距離を置いて、長い金髪でこの中では唯一の女性の天使、ナターリヤ・クリベーク。

 婦人服売り場の付近にいる4人。ナターシャは1人で服を見ていた。残りの3人は同じ階のエスカレーターの近くのベンチに座ったニコライを見ている。遠くにいる彼は神通力の気配でこちらに気づいているはずだが、自分達の方を見ない。

 「何考えてんだ?ミハイルは。ニーカもさ」

 レオが苛立ち気味にそう言う。ディーマも顔を顰めている。

 「やっぱり逃げる気が無いのか、ヴィノクールは。おいレオ、不用意に行くなよ」

 「でも、さっきあの悪魔がどっか行ったじゃねぇか。行くなら今だろ」

 今にもニコライの所に歩き出しそうなレオの腕を掴むディーマ。ヴァーシャの方に振り返る。

 「なぁヴァーシャ、何でヴィノクールは逃げないと思う?」

 問われたヴァーシャは琥珀色の瞳をニコライの方からディーマに移す。

 「さっきから彼はミハイルに一切抵抗していない……。最初は魔力で行動を制限されているのかと思ったけれど、表情を見る限り違うようだね。完全にミハイルに心を許している」

 4人は今朝、ミハイルとニコライが家を出たことに気づき、それをずっと追いかけていた。2人が喫茶店にいたときも神通力の気配をなるべく隠して離れた席に座っていた。

 鋭い感覚を持つミハイルとニコライが4人に気づいていないわけがないのだが、どういう訳か2人はこちらのことを気にしていない。

 花柄のスカートを持ったナターシャが3人の方を見る。

 「私が感じる限り、今ミハイルがヴィノクール特務曹長に使っている魔力はありません。特務曹長が本当にミハイルに心を許してしまったか……洗脳されたかどちらかでしょう」

 彼女の見解に、レオの眉間に寄った皺が深くなる。握り締められた拳は今にも誰かを殴り倒しそうだ。

 「ニーカがあのクソ悪魔と仲良くなるはずあるか!」

 吐き捨てるようにそう言う彼に、ヴァーシャ。

 「ああ、私もそう思うよ。恐らくヴィノクールさんは洗脳されている。私達のことも記憶から消されている可能性が高い」

 「何だと?」

 目を見開くレオ。自分の子供の頃の記憶の多くにはニコライがいる。他にも友人がたくさんいた自分でもそうなのに、あまり他人と関わって来なかったニコライの記憶には一体何が残っているのだろう。もしかしたら、もう彼の中にはミハイルしか居ないのかも知れない。

 「今行って確認してやる!」

 本気でそう言ってニコライの方に一歩踏み出すレオの腕をディーマが引っ張る。彼と一緒にレオの腕を掴んだヴァーシャ。

 「こんなとこで騒ぎを起こすつもりかい?天界で処罰されるよ」

 「そうだぞレオ!一旦落ち着け!」

 「うっせぇな、ほっときゃニーカが死ぬんだぞ?!」

 「そりゃそうかも知れねぇけれど……ここはマズいだろ!」

 平日の昼間、客数が少ないこともあり4人はその場で少し浮いている。天使は人間とは話す言葉が違う上に、別の生物で別の文化圏に住む者である限り雰囲気が違うのだ。先程からレジにいる店員の1人がこちらをしばしば見ていることがディーマは気になっていた。

 「ナターシャ、服見てないでこいつに何か言ってやってくれよ!」

 ディーマにそう言われ、ナターシャがスカートをハンガーにかけて振り返る。

 「ミハイルが来てます」

 「あ?!」

 ナターシャが視線を送った方を3人も見る。

 均整の取れた体躯と美貌の男がこちらに歩いてきていた。手には買ってきたらしいカフェオレが入ったプラスチック製カップがある。色素の薄い金髪の下の若菜色の瞳が笑う。

 「あれ?ちゃんと気配を消していたつもりだったんだけれど……随分感覚の鋭いお嬢さんだねぇ」

 その男、ミハイルはナターシャを興味深げに見る。近づいてくる彼の、恐ろしく邪気の無い子供のような表情。

 ナターシャは思わず彼から目を背ける。恐ろしく、そして魅惑的な悪魔だ。

 彼にレオは迷わず一歩踏み出した。歩みを止めたミハイルの目の前まで近寄る。そこでこの悪魔が思ったよりも小さいことに気づく。こんな小さな男にニコライを攫われたのか。その顔の綺麗さが、悪いことなど何1つできなさそうな容姿が腹立たしい。

 彼を見下げて、その体から香る匂いに酔いそうになる。同じ男でありながら色気すら感じさせる悪魔の双眸を、レオは黒く鋭い瞳で睨みつけた。

 「……お前、ニーカに何しやがった」

 「何、って?色々したけれど。君達は他人がデートしてるところ付け回してずっと見てるなんて趣味悪いねぇ。余程ヒマなの?」

 「手前ぇっ……!」

 レオが右手を振り上げようとして、ディーマが慌ててその手を掴む。

 「やめろ、レオ!ここがどこだと思ってる?!」

 この5人の不穏な雰囲気に、店員の表情が曇ったのがディーマにはわかった。人間に言葉が通じていないのは幸かも知れない。

 レオは舌打ちし、ミハイルが笑みを深める。

 「賢明だね、ダニロフさん。ここでは俺たちは戦わない方がいい。それから、コーリャのところに君達が行ったところで彼は君達と天界に帰りたがらないよ」

 「あいつを洗脳したのか」

 「言い方が悪いな、愛しただけ」

 「ふざけんな!!」

 レオがついに怒鳴り、ディーマに掴まれていない左手でミハイルの襟首を掴んだ。隠していた神通力と魔力の気配がぶわりと濃くなる。慌ててディーマが2人の間に入ろうとした。

 ミハイルは動じていないが、流石に放っておけないと思ったのかレジの前にいた店員がこちらに歩み寄ってきた。

 「Мистер!」

 店員の呼びかけに、レオはミハイルを睨み付けながらも彼の襟首から手を離した。ディーマがほっとした顔をする。

 近くまで来た店員に、ミハイルは微笑みかける。確実に相手を安心させられると分かっている笑顔だ。

 「Ничего . Пожалуйста, не волнуйтесь」

 そう言って彼はレオの胸を片手で押した。レオは彼を睨みながらもそれに従って一歩下がる。ディーマと店員がほっと胸を撫で下ろす。

 「Ладно 」

 ミハイルにそう言って店員はまたレジの方に戻って行った。それを確認したミハイルは再びレオを見上げる。

 「そんなに俺と喧嘩したいなら早く家においで。最近ずっと周りをウロついてるでしょ?」

 「……知ってたのか」

 「勿論。じゃ、俺はもう行かなきゃ。コーリャが待ってる」

 彼はニコライの方に踏み出しながら手をヒラヒラと降った。その手を掴もうと自分の手を伸ばしかけたレオだが、逡巡してそれを止めた。代わりに唇を開く。

 「必ず手前ぇの結界をぶっ壊してニーカを連れ戻しに行ってやるからな!手前ぇがニーカを殺す前に!!」

 レオの言葉に、既に彼に背を向けていたミハイルは笑みを消して彼を一瞥した。憂愁を含んでいるように見えた悪魔の表情。整い過ぎたその顔を見た全員が、恐怖を感じた。






 デパートのベンチの背凭れに身を預けて座っているニコライ。近くを歩く人々は無防備に放心している様子の銀髪の美青年を横目で見ながら通り過ぎていく。反応は人それぞれだが、彼が何もしなくても目立っていることは確かだ。

 その天使に駆け寄ってきたのは、片手にカフェオレを持ったミハイルだった。

 「ごめん、コーリャ。待たせちゃったね」

 聴こえた彼の声に、ニコライはようやく表情を変え、少し嬉しそうな顔でそちらに振り返る。

 「ミーシャ……!」

 しかし、ニコライのその顔はすぐにまた無表情に戻った。否、ミハイルを訝しんでいるようにも見える表情だ。

 「あの天使達と会っていたのですね?」

 彼がそう言うと、彼の目の前まで来ていたミハイルの笑顔に憂が混ざった。彼にカフェオレを手渡しながらその横に座る。

 「やっぱりバレた?」

 「すぐ近くだったでしょう。あと、もう1人悪魔がいました」

 「え……?」

 きょとんとするミハイルに、ニコライは苛立ちの籠った目を彼に向けた。

 「あなたが会っていたのは悪魔1人と、天使4人。そうでしょう?何故悪魔と天使が一緒に行動しているのかわかりませんが……」

 そう言うニコライに、ミハイルは彼の見解を漸く理解した。彼は悪魔と天使のハーフの存在を考慮していない。1人の悪魔と1人の天使として考えているのだ。確かに神通力と魔力の気配だけで考えるならばそうなるだろう。

 「あぁ……うーん。そうだね。ごめん、でもあいつらと別に喧嘩したわけじゃないよ」

 敢えて詳しい説明は避けたミハイルに、ニコライ。

 「当然です。それで、彼らは何者なんですか?軍の者?何故私達を付けているんです?」

 「ただの天使……って説明じゃ納得しないよね」

 「ええ。やっぱり教えてはくださらないつもりで?」

 「うん。とりあえず天界軍の天使じゃない。それから君の敵でもない。君が気にする相手でもない。それだけ分かっていればいいでしょ」

 この話を終えたい、と言いたげにニコライから目を背けるミハイル。1つ息を吐く。

 カフェオレを一口飲んだニコライは、尚も納得出来ないと言いたそうな顔をしている。

 「確認させてください。例え私の敵でなくても、あなたの敵なら私の敵。攻撃してくるならあの天使と悪魔は殺します。いいですか?」

 ニコライは無表情に、まるで当然のことかのように同族であるはずの天使を殺すと言った。驚きに目を見開いたミハイル。

 「……そうか、君は軍人か」

 呟くように、そう言った。そして彼の顔に視線を向ける。

 「君に殺させるくらいなら俺があいつらを殺すよ。その前にあいつらを近づけさせやしないけれどね」

 2人の目がしっかりと合う。お互いにお互いが他者と関わって欲しくない。自覚は無いが、独占欲がニコライにも芽生え始めている。

 そうですか、と一言。悪魔から視線を外し、ニコライはまたカフェオレを一口飲んだ。苦味の少ない優しい味が口内に広がる。

 まだニコライを見ているミハイルの右手が、彼の太腿の上に置かれた。温かい悪魔の手。ニコライはその上に自分の左手を置いた。

 「体調、どう?歩けそう?」

 そう言うミハイルの声が近い。街に来てからあまり触れて来なかった彼が急に距離を狭めてきた。

 「……大丈夫です、歩けますよ」

 ミハイルに目を向けずにニコライは言った。そう、と返すミハイルの吐息を首筋に感じる。重なっている手が温かい。いつも家にいる時のように、今にも口づけをしてきそうだ。

 その時、ベンチの前を通った人間の1人の目がニコライと合った。人間は少し驚いた顔をした後、不快そうに目を逸らした。

 僅かに人間から示された嫌悪に、ニコライは重ねていた手を動かす。

 「ミーシャ、どこへ行きたいのです?」

 そう問われたミハイルはニコライの太ももから手を退ける。

 「もう一つ上の階なんだけれどね、ピアスを買いたいんだ」

 「ピアス?」

 耳朶に付けるファッションピアスだろうか。ミハイルがそれを付けているところは見たことがない。ニコライは彼の耳を確認した。ピアスホールは空いていない。

 ニコライの様子を見て、ミハイル。

 「ああ、まだ穴は空けていないよ。買ったら空ける」

 言いながら彼は立ち上がった。ニコライは彼を見上げる。

 「はあ、そうなんですか?」

 「うん、コーリャは右と左どっちに付けたい?」

 唐突な彼の質問に、ニコライは返す言葉を見つけられかった。それは右耳か左耳のどちらかにピアスを付けろということなのだろうか。

 返答に困っているニコライの手を取ってベンチから立ち上がらせるミハイル。彼が立ち眩みしていないか確認してから口を開く。

 「普通は恋人同士なら男が左、女が右に同じピアスを付けるんだ。左が守る者、右が守られる者ってね」

 「じゃあ私達はどちらに付ければいいんですか?」

 「どっちでもいいんじゃない?二人とも男だし、今時そんなことを気にすることもない。付けたい方に付ければいいさ」

 2人は歩き始める。

 左が守る者、右が守られる者。ニコライは考えた。自分はミハイルを守りたいのか、それとも彼に守られたいのか。彼が敵わないものに自分が敵うわけがないのだから自分が成るとすれば守られる側しかないのが事実なのだ。それでも、もしできるならばーー

 「……では私は左に」

 「じゃあ俺は右に付けるよ」

 ミハイルはすんなりとニコライの希望を許諾した。本当にどちらでも構わないと思っているらしい。

 2人はエスカレーターに乗って一つ上の階へと上がる。遠くなっていく下のフロアを眺めるニコライ。

 「人間は神通力を使えないのにこんなものを作るなんて、凄いですよね」

 「エスカレーターのこと?まあ、悪魔と天使は人間には無い力を使えるから人間ほど科学技術を発展させる必要が無いもんね。俺達ってお互いを殺すことしか考えてないし」

 「何ででしょうね」

 「さあ。君自身もそうだったんじゃないの」

 そう言われてニコライは口を噤む。そうだっただろうか。思い出そうとすると気分が悪くなる。彼に出会う前のこと、彼と出会った時のこと。思い出せない。思い出そうとすることすら怖く感じる。ぞくり、と背筋に寒気を感じ、ニコライは軽く頭を横に振った。

 エスカレーターを降ると、そこは主にアクセサリーの売り場となっていた。女性用の物が多いが、ミハイルはフロアの一角、男性用のアクセサリーが置いてある場所へと歩みを進めた。

 「そんなに高いヤツじゃなくていいんだよねぇ」

 と独り言のように呟きながらピアスの売り場を眺めるミハイル。男性用のアクセサリーはシンプルなものが多い。

 「コーリャ、好きな色は?」

 急に問われ、ニコライは困ってしまった。好きな色なんて考えたこともない。それでも咄嗟に思いついた色を口にする。

 「黒」

 その回答に、ピアスを見ていたミハイルは驚いたようにニコライに振り向いた。

 「……え、黒?何で?」

 「なんとなく……思いついた色だったので」

 「うーん、ピアスの色、何がいいかなって思って聞いたんだけれど」

 「あ、そうだったんですね」

 ニコライは全くミハイルの質問の意図を理解できていなかった。

 ミハイルは少し呆れたように笑って、またピアスに視線を戻す。

 「青は?好き?」

 「ええ、まあ」

 青ーー天界の空は常に青だ。それは天使にとっての故郷の色。永久のセルリアン。

 ミハイルは一つのピアスを手に取った。

 「それじゃあこれはどう?」

 銀色の棒の先に小さな水晶が付いた簡素なピアス。その水晶の青さは晴天を思わせる。値段は、確かに高いものではない。

 ニコライはその輝く空の色に眼を細める。

 「綺麗ですね」

 「うん、これにしようか」

 ミハイルは微笑んでそれをレジへと持っていく。

 ニコライはその場で彼が男の店員に商品を渡すのを見ていた。店員はとても背の高い男で、悪魔をニコリともせずに無表情で見下ろしている。会計中にニコライの方を一瞥し、ミハイルに何か言って少し乱暴に包んだ商品をカウンターに置いた。店員が何を言ったのかも、ミハイルの表情も分からないが、何か嫌な空気が感じられた。

 ミハイルは何も言わず金を払ってニコライのところに戻ってくる。しかしその表情を見る限り、彼は少し苛ついている様だ。早足に売り場を離れる彼の後ろをついて行くニコライ。

 「どうかしましたか?」

 「同性愛者は嫌いだからさっさと出てけってさ、あの店員が」

 「え?何でわかったんでしょう?」

 「さあね、雰囲気じゃない?」

 「雰囲気……」

 そんなもので分かるのだろうか。基本的に他人に興味を持たないニコライには不思議でならなかった。

 珍しく内心の苛立ちを露わにしているミハイルの歩みは速い。

 「ここを出たら、瞬間移動で家まで帰ろう。ああいう差別主義者が多いから人間界っていうのは嫌なんだ。まあ、みんな戦争のことしか考えてない魔界も嫌だけれど」

 どこにいてもミハイルにとっては馴染めない世界。だから彼はずっと独りでいるのかも知れない。

 人間達を避けて歩く悪魔の斜め後ろを、ニコライは黙って付いて行った。








 ミハイルの家の、リビング。外は既に陽が沈み、この部屋には電気が点いている。暖炉には静かに朱い炎が燃え、それが必死に広くはない部屋を暖める。

 椅子に座って本を読むニコライ。そのテーブルを挟んで向かい側にはミハイルが椅子に座っている。彼は自分の手のひらに目を落としていた。2人の空間に会話は無く、唯、暖炉の薪が燃える音とニコライが本を捲る音が響く。

 夕食後の、静かな時間。安定した空気。

 ふ、と悪魔の手の中で魔力が発せられた。空気が僅かに変わる。その気配を察したのか、ニコライが本から目を離して顔を上げた。

 「ミーシャ、何を?」

 声をかけられたミハイルは自分の手元からニコライへと視線を滑らせた。

 「ニードル」

 そう言う彼の手には1本の太い針が現れていた。ニードル、という物なのだろうか。恐らく今、彼が魔力で具現化した物なのだろう。

 「何ですか?それは」

 「ピアスホールを開けるためのものだよ」

 「前にも作ったことが?」

 「いや、今初めて作った」

 ミハイルの返答に、表情こそ変えないが内心で驚くニコライ。

 魔力や神通力で物を具現化するには、まずその物をよく知り、素材から形まで完全に頭の中で想像できなければならない。そして素材を生成するための強い力が必要だ。その2つがあっても1回で初めての物が完璧に作れることなど滅多にないのだ。例えニードルのような小さく単純な物でも。

 ニコライでも弾丸を具現化するのにそれなりの練習が必要だった。やはりミハイルの魔力の強さと想像力は尋常ではない。

「俺から穴、空けるね」

 ミハイルにそう言われ、ニコライはハードカバーの本を閉じた。テーブルの上には昼間に買ったピアスが置かれている。電球からの光でキラキラと輝く小さな空色が2つ。それに視線を落としたまま、ニコライは尋ねる。

 「今から空けるのですか」

 「うん」

 頷くミハイルの右手は、自分の右耳の耳朶を触っている。どうやらそこを魔力で冷やしているようだった。

 「ニコライのは俺が空けてあげるから」

 「痛いでしょうか?」

 「勿論」

 ミハイルは楽しそうに言った。彼も空けるのだから痛いはずなのだが、彼自身は気にしていないようだ。
彼の手元を目で追うニコライ。今から耳朶に穴を空けるのは自分ではないのに、妙に緊張する。その針の先から目が離せない。

 冷した耳朶にニードルを突き立てる。位置を確認するかのように少し切っ先を動かして、皮膚に対して垂直に、狙いを定めてーーーー突き刺した(ピアス)。

 一瞬だった。僅かに顔を顰めたミハイル。針が貫通したままのそこから血は出ていない。

 「ちょっと待っててね。これ、直ぐ抜いちゃいけないんだ」

 「……痛いですか?」

 「ちょっとね。正直少し怖かったけれど、思ったより痛くないや」

 怖いーーこの悪魔でもそんな風に感じることがあるのかと、ニコライは頭の片隅で思った。そんな感情、彼には無縁なものに見える。

 数分後、赤みがかった耳朶に刺さったニードルをミハイルは指先で摘む。その表情は先ほどより険しい。

 「痛くなってきた」

 耳朶の温度が戻ってきたからなのだろうか、痛い、痛いと小声で呟きながら、彼はニードルをそこから引き抜く。そしてすぐにその小さな赤い穴に青いピアスの棒を突き立てる。

 「んっ……!」

 彼は一際痛そうな顔をした。ピアスの棒を入れるが、穴の角度通りに刺せなかったらしい。出口を探るように棒を傾けた。作った傷を抉るかのような行為に、見ているニコライの表情も自然と強張る。やっとピアスの棒がピアスホールを貫通した時には、僅かに傷口に血が滲んでいた。

 「はぁ、すぐ治しちゃおう。痛いや」

 キャッチを止めながら治癒の魔力を使うミハイル。そうすればすぐにピアスホール完治する。耳朶から赤味が引き、彼は深く息を吐いた。

 「さて、次はコーリャの番だ」

 口元に笑みを作ってそう言われ、ニコライはドキリとする。この悪魔は自分を怖がらせるために先に自身の耳朶に穴を開けたのではあるまいか。

 ニードルを持って椅子から立ち上がり、ニコライの真横に来るミハイル。見上げてくる天使に微笑みかけ、その耳朶に指先で触れた。悪魔の指の冷たさにピクリと躰を震わせる天使。その冷たさは痛みにも似ていた。首筋まで熱が奪われていくように感じる。直ぐに耳朶の感覚は薄れたが、次の瞬間刺激された痛覚に顔を顰めた。

 ぐっ、と針が耳朶を貫通する。つい逃げたくなるが頭部を動かすわけにもいかなかった。ニードルが中程までそこを突き抜けると、ミハイルは手を離した。

 「ちょっとだけこのままにするよ」

 「はい……」

 「痛い?」

 「当たり前でしょう」

 「だって痛そうな顔しないから分からないんだもん」

 確かにニコライの表情の変化は僅かなものだった。元々彼の表情の変化は希薄だが、もうミハイルから与えられる「痛み」には慣れたせいもあるかも知れない。

 「まあ、抜いて挿れるときの方が痛いと思うよ」

 そう言っては空色のピアスを手に取るミハイル。

 「大丈夫、なるべく痛くないように挿れてあげるからさ」

 そして彼に耳朶からニードルを引き抜かれ、ニコライは体を強張らせた。

 「…………っう」

 「我慢してね」

 ニードルによってできた小さな穴に、ポストの先が押し付けられる。穴に対して垂直に挿れるのは、しっかりとそこが見えているミハイルにとっては案外と安易なことだった。

 それでも勿論痛みは感じるために、ニコライはずっと眉を眉間に寄せていた。

 ピアスのキャッチが付けられ、ミハイルの手が耳元から離れると、ニコライは漸く安堵の溜息を吐く。耳朶はジンジンと痛みが続いている。

 「終わりましたか?」

 「うん。傷を治すにはまた魔力を使わなきゃならないから、ニコライのはこのままにするね。何日かは痛いかも知れないけれど」

 「ええ、構いません」

 ニコライは頷いた。

 2人の耳に1つずつ付けられた青いピアス。形だけでもミハイルと繋がったような気がして、ニコライは嬉しかった。彼も同じ気持ちなのかも知れない。

 ーーそして気づいた。この行為は恐らく、彼にとって普段行なっているセックスと変わりないのだと。天使と悪魔、男と男。例え形だけでも、繋がりたいのだと。

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