四章







 その部屋には2人の男がいた。

 1人は30代半ばで鷲鼻の天使。服は肌着しか着ておらず、両手両足を金具で拘束されている上に、猿轡まで付けられている。彼は自分を見下げるもう1人の男を、琥珀色の瞳(ウルフ・アイズ)で睨み付けていた。

 彼の濃褐色の髪を掴んだ金髪に若菜色の双眸の男は、その美貌に笑みを浮かべる。

 「あなたが一人部屋で良かったよ。ねえ、ヴァシリイ・フォン・モローゾフさん?」

 「…………」

 そう、拘束されているのはモローゾフ中尉。今は全てを目の前の男に奪われた存在。

 そして彼の軍服を身に纏った金髪の男は、彼を装った悪魔――――ミハイル。

 「あまり必要な情報だと思ってなくて、全部は引き取らなかったけれど……教えてくれない? あの、レオ・クルツ伍長のこと」

 ミハイルはそう言ってモローゾフの首を手で押さえ、もう片方の掌を彼の額に当てた。

 モローゾフは嫌がるように身動ぎするが、最強と言われる悪魔を前に無駄なことだった。彼の額に当てられた掌から溢れ出した、紫色の光。彼は途端に体を強張らせ、目を見開く。

 「――――っ!」

 猿轡を付けられたモローゾフの叫びは、声に成らなかった。

 薄笑いを浮かべているミハイル。彼の額に当てていた手を暫時の後に離した。

 「あなたも大した情報は持っていないんだね。でも、成る程……ちょっと分かった気がする」

 モローゾフから引き出した情報を吟味するように閉ざしていた瞳。それを開いてミハイルは床に倒れたまま自分を睨み付ける男に目をやった。

 モローゾフは彫りが深いために目元が暗くなっているが、こちらを向くウルフ・アイズは強く光っている。

 「猿轡、外してあげようか?」

 そう言って彼の口を塞ぐ猿轡に触れるミハイル。

 「でも、叫んだりしたら君が死ぬだけじゃ済まないからね? ここの基地の天使、全員の命が君にかかるんだ……わかるでしょ?」

 するり、と悪魔の手が猿轡を撫でる。

 「君は頭が良いから、馬鹿なことはしないよね。俺がどれくらい強いかくらい分かるもんね?」

 そして悪魔の手は、猿轡を外した。

 完全に露になったモローゾフの白い顔。彼は噛まされていた布を床に吐き出し、再びミハイルを見上げる。

 「……どうして、」

 「どうして俺が悪魔で、君じゃないって誰も分からないかって聞きたい?」

 「…………」

 モローゾフの無言の肯定に、ミハイル。

 「俺の魔力さ。俺は自分の魔力を完全に押さえ込むこともできるしね」

 「まさか。ここにいる天使全員の記憶を書き換えるなど……できるはずがない」

 彼の見解に、ミハイルは笑みを深めた。

 「ああ、そりゃあ無理だよ。俺が書き換えた……いや、上書きしたのは『記憶』じゃない。君という存在の『情報』だ」

 「は……?」

 「『情報』を換えてしまえば個人の記憶なんて換える必要がない。物事の真理を探る術(わざ)、それが闇の魔力さ。君達が使う神通力だってそうであるはずだよ。誰もまだその真理を見ていないだけでね」

 ミハイルの言葉に、モローゾフは押し黙る。次元が違う彼の話に何も言えなくなったのだ。

 彼の様子をクスクスとせせら笑うミハイル。

 「他にも聞きたいことがあるんじゃない?」

 目の前の悪魔の言動に、モローゾフの眉間の皺が深くなる。悪魔に拘束され、全てを奪われ、嘲笑されながらも質問をするしかないこの状況。彼にとっても屈辱的だ。

 「……目的はヴィノクール特務曹長か?」

 いつもの彼の丁寧な言葉遣いは無く、繰り出された質問に、ミハイル。

 「そうだよ。コーリャ以外には興味は無い」

 「彼に何をした? ここから連れ去るつもりか?」

 「そう。俺はまた彼と過ごすんだ。今度はもう手放さない」

 「何故彼なんだ? 3日間、何があった?」

 更に彼から繰り出される質問。ミハイルは床に倒れた彼の横に座った。

 「何故コーリャかって?君に話すつもりは無いね」

 「……何故3日間何をしていたのか答えない?」

 「そんな怖い顔すると、奥さんや子供さんが泣くよ?」

 ミハイルはそう言って自分の左手の甲をモローゾフの目の前に持っていった。その薬指には、シンプルな銀色の指輪。本来ならモローゾフの指に嵌まっているはずのもの。

 モローゾフの目に、憤怒と侮蔑の色が濃く浮かぶ。

  「貴様っ……」

 「怖い怖い、あなたらしくないじゃない。アンバーの瞳が正に狼(ウルフ)だ。それともそれが本当のあなた?」

 「ふざけるなっ!」

 声量を押し殺した低い声が部屋に響く。それでも美しい悪魔は笑顔で、モローゾフの彫りが深い顔に自分の顔を近づけた。

 「俺がコーリャに何をしていたのか、って?」

 そこで唐突に、ミハイルの笑みが消え、モローゾフは恐怖に戦慄した。

 整った唇を再び開くミハイル。

 「それじゃあ君に同じことをしてあげようか?それでよく分かるでしょ?ねえ……モローゾフ中尉」

 悪魔の指先がモローゾフの鎖骨から首筋を滑り、唇をなぞり、最後に頬に触れる。その長い指の動きに、彼は息を飲んだ。

 「や、めろ……」

 「止めろって?俺がこれから何をするかわかるの?」

 「…………」

 口を噤んだモローゾフの頬に触れていたミハイルの指先がそこを離れ、彼を仰向けにさせた。そしてミハイルは彼の上に四つん這いになる。

 「感づいてる、って顔だ。そうだよね。経験あるものね」

 ミハイルの言葉に、目を見開くモローゾフ。

 「そんなことまで……!」

 「あんなことがあって、よくまだ軍にいられるよね。基地を転属したからって、男ばっかりなのは変わらないよ?男をレイプしたくなる奴がいなくなるとは限らない」

 「止めてくれ……」

 モローゾフが目を反らしても、ミハイルは続ける。

 「あなた、エロい顔してるもの。あの時はまだ若かったんだし、犯したくなる奴がいたって不思議じゃない」

 ミハイルの手は彼の肌着の中に侵入し、腹部から胸元へ向かう。彼は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 「……私に、触るな」

 「俺はゲイじゃないけれどさ、優秀でプライドの高い男を犯すのって最高だよ?あなたのプライドが高いかどうかは知らないけれど、優秀なのは確かだ」

 「もう、止めてくれ……。触らないで……ください…………」

 弱々しくなるモローゾフの声。その両目に涙が滲んだ。

 それにも関わらず、ミハイルは彼の肌着を捲り、晒された白い胸元に手を這わせる。

 「4人も相手に輪姦でしょ?裂けるほど激しくされてさ。俺がコーリャにやったよりも酷い」

 「……言わないで、ください…………思い出させないで……」

 「ふふ、可愛い顔するね」

 手を止めて、モローゾフの唇に口付けするのではないかというくらいまで顔を近づけるミハイル。

 「‘喚いたって、ここには誰も来ねぇよ。大人しくしやがれ’」

 「――――!」

 「‘ほら、感じるんだろ?軍曹’」

 「や、止め……」

 遂にモローゾフの目から涙が溢れ出た。傷口が開き、血液が溢れ出るからのように、次から次へと流れ落ちる涙。

 彼のウルフ・アイズが虚ろになっていくのを見て、目を細めたミハイル。

 「脆いね、あなた……モローゾフ中尉も」

 捲り上げた彼の肌着を元に戻し、ミハイルは立ち上がった。しかしモローゾフは涙を流したまま動かない。

 ため息を吐き、美貌の悪魔はその場を離れた。







 基地内の広い大浴場。ニコライが天界に帰って来た日の夜も、レオはそこにいた。熱い湯に浸かり、疲れを癒そうとする。

 病室で別れる時のニコライの寂しげな顔が、何故か頭から離れない。濡れているように見えた淡い青紫色のあの両目。薄い色の唇が、レオ、と動いた。それを、また明日来るからと振り切ってその場を離れてきた。

 幼児(おさなご)を1人きりで部屋に置いてきたような不安と罪悪感が心にのしかかる。

 そう考えると、孤児院でニコライを初めて見た時のことを思い出す。あれはレオが9歳、ニコライが7歳の時だっただろうか。



 ――あら、レオ君。来ちゃったの?駄目よ〜〜。

 何人かの保育士が、その子供を囲んでいた。

 レオはその日、新しく子供が来たと噂で聞いて、好奇心の旺盛さから1人で探し回っていたのだ。

 ――それ、今日来た奴か?!

 レオは保育士の咎める言葉も聞かずにその子供に近寄った。しかし、その子供は泣いていた。

 ――ママ…………どこ?ぅう……。

 もうすぐ肩に届きそうなくらいの銀髪と、孤児院の庭に咲いていた美女桜(バーベナ)と同じ色の瞳。白く綺麗な幼児に、レオは驚いた。

 保育士達は、困り顔でその天使が泣くのを止めようとする。何故彼が両親を失ったのかなんて、レオは知らなかった。

 ――おいっ!何で泣くんだよ!

 レオは泣いている天使の小さな手を取った。天使は驚いてレオを見上げた。

 ――ママ……いないの。どこ、行ったの?

 ――ママ?‘ははおや’か?いねぇよ。俺はそんなもん知らねぇ!

 ――え……いない?

 幼児が更に泣き出したので、保育士に手を離させられた。

 ――もう、駄目でしょ?レオ君。ニコライ君怖がっちゃったよ?

 ――……ニコライ?そいつ、男の子?!

 ――そうよ?

 保育士達に笑われた。

 そういえば、その次にニコライに会った時には、もう彼は泣いていなかった。子供らしい無邪気さをあまり感じさせない、無表情な子になっていた。

 ニコライが今ほど頑なな男になったのはいつからだろうか。他人と壁を作るような生き方をするのは、その優秀さからなのだろうか――――





 「レオ?……レ〜〜オ?」

 「……ん?」

 はっ、と我に返ると、隣にいたディーマが自分を呼んでいた。

 「あ……すまん、ぼーっとしてた」

 「疲れてんのか?風呂ん中で呆けてると逆上(のぼ)せるぞ」

 「そだな」

 いつも以上に疲れた様子のレオを心配に思うディーマ。彼がニコライに会いに行ったことは知っている。それで精神的に疲れることがあったのだろう。

 「あいつ、どうだった?」

 回りにいる天使達のことを考え、ディーマはあえてニコライの名を言わなかった。

 レオは大浴場の天井を仰ぎ見る。

 「……最悪」

 「それはお前にとって?あいつにとって?」

 「両方。これからどうなるんだか」

 「ふぅん」

 レオの抽象的な表現に、深く話したくはないということを読み取るディーマ。ニコライと離れているときは忘れたい、ということなのだろうか。

 「もう出ようぜ」

 レオがそう言って立ち上がった。

 彼の背中を見上げるディーマ。肩甲骨の辺りにある翼があった痕跡の痣。自分は自分のそれを見たことがないし、レオも自分のそれを見たことがないだろう。

 ディーマは彼の痣を見る度に思っていたことがあった。

 ――他の天使と比べて、少し形が変わっている。

 やや縦に細長いのだ。無論、痣は他の部位と同様に固体差のあるものだが、レオはそれが顕著だ。

 「なあ、レオ」

 「ん?」

 振り替えるレオに、立ち上がりながら、ディーマ。

 「お前の翼痕(よくこん)ってちょっと変わってるよな」

 何となく、今日は言ってみたくなった。それだけで、これといった意味は無かった。

 しかし、一瞬だけレオの顔に驚愕と険が見えた。

 「そう……なのか?」

 「ああ。なんか、縦に長い」

 「……知らなかった」

 「だろうな」

 レオの神妙な反応を若干不思議に思いながらも、ディーマは彼と一緒に浴場を出た。








 昼時、士官学校の食堂は混みあっていた。

 長い銀髪を項で1つに纏めた少年、ニコライはそこで昼食を取っていた。左右の席には同級生達が座っている。

 「ああ?!もう1回言ってみやがれ!」

 喧噪の中、一際大きな男の声がした。その聞き覚えある低い声に、ニコライはそちらを振り向く。

 そこには、ウェーブした短い黒髪のレオと、その同級生らしい少年がいた。その周りを数人の少年が取り囲んでいる。

 レオと対峙する少年が馬鹿にしたように笑う。

 「いつもいつも向きになりやがって。基礎神通力もマトモに扱えねぇくせに」

 「はあっ?!真剣に戦闘訓練して何が悪ぃってんだよ!」

 「乱暴なんだよ、てめぇは。このクリクリパーマ!灰かぶり!」

クリクリパーマも灰かぶりもレオの髪を揶揄する言葉だった。

 「んだと、てめぇ!」

 遂に、レオの固められた拳が振り上げられた。彼の拳を避けられる者など滅多にいない。しかし、

 「お止めなさい」

 声変わり前の少年の声だった。彼の腕を、ニコライが横から片手で掴んでいた。

 目を見開くレオ。

 「ニーカ……?!」

 「こんなことで手を上げてはいけません」

 彼の腕を掴んだまま、ニコライはもう1人の少年の方を見る。

 「先輩、あなたも謝るべきです。レオは訓練には真面目に取り組んでいるでしょう」

 「何だ、お前……」

 「おい、止めろ!」

 少年がニコライに向かって手をあげようとしたのを、周囲にいた彼の同級生達が止める。

 「そいつ、フォン・ヴィノクールだ!」

 「止めとけ、手ぇ出すな!」

 同級生達の言葉に、少年は振り上げた手を下げた。ニコライが優秀で、先輩達を凌ぐ実力者だということは誰もが知っていた。

 「行こうぜ」

 「あ、ああ……」

 少年達はレオを睨み付けてからその場を去った。

 レオの腕を解放したニコライは、彼に疎ましげに見下ろされる。

 「俺のすることに口出すんじゃねぇよ」

 「……先に手を出せば責められるのはあなたですよ」

 「うっせぇ」

 そう言うレオの頭を後ろから小突く少年がいた。

 「そりゃねぇだろ、レオ」

 「ダニロフ先輩!」

 ウラジミール・ダニロフ――レオより1つ歳上の先輩、ディーマだ。

 「ヴィノクールは偉いな、ちゃんとレオを止めてくれて」

 「いえ」

 こちらに注目していた周囲の視線が散っていく。レオをいとも簡単に止めた美少年、ニコライを好奇の目で見る者もいた。

 士官学校の時、ニコライ、レオ、ディーマの3人の関係は、先輩と後輩だった。

 あれから3人はレキア東方基地、レキア東方旅団に入った。そして3人の関係は変わっていった。










 10代の楽しかった懐旧に浸ると、同時に憂鬱な思いも膨らむ。

 ニコライは病室のベッドの中で手を握りしめた。

 もう夜が明けたが、殆ど眠ることができなかった。目を瞑ると、自分を監禁した悪魔との記憶が眼窩(がんか)に浮かび上がり、途方もない恐怖と憂愁に襲われるのだ。吐き気すらも催し、全身の切り傷が疼痛を起こす。

 眠りたかったが、眠ることが出来なかった。頭痛と吐き気がする。何度も何度も涙を流し、溜め息を吐いたが、それで心を癒すことはできなかった。





 カーテンの隙間から日が差し、掛け時計の文字が読めるまでになる。突如、病室のドアがノックされた。

 「は、い……」

 掠れ気味の声で返事をすると、開けられたドア。入ってきたのは妙齢で女性の看護師と、レオだった。後ろにレオを控え、微笑む看護師。

 「ヴィノクール特務曹長、起きていらしたんですね。クルツ伍長が会いに来られました」

 「え、ええ……早いですね」

 かなり早起きな者でなければ、まだ兵士は起きていない時間だ。そして、レオは朝が強い方ではないことをニコライは知っている。

 上半身を起こす彼に、少し顔をしかめるレオ。看護師の横を通り抜け、彼の近くに寄る。

 「酷い顔色だな」

 「そうですか?」

 レオを見上げるニコライの両目は充血していた。昨日より更に憔悴した彼に、レオは頭が痛くなるような思いだ。

 看護師がレオの横まで歩いてきた。

 「寝られなかったんですね?」

 「すみません……」

 「謝ることではありません。ドクに言っておきます」

 「はい、ありがとうございます」

 ニコライは看護師に頭を下げ、ベッドから足を出した。

 「お手洗いに行きます」

 「大丈夫か?」

 レオが彼に手を貸そうとしたが、彼は自分で立ち上がる。

 「心配ありませんよ、レオ」

 疲労が色濃く窺えるその顔で大丈夫だと言われても説得力が無い。ニコライは最初はよろめいていたが、すたすたとドアの方へ歩いていった。

 ドアノブに手をかけた彼に、レオ。

 「気を付けろよ?」

 「ええ」

 そしてニコライが病室を出ていったので、レオは自分と共に取り残された看護師に目をやる。

 ニコライと同じくらいの年で、なかなかの美女だ。ウエストの見事な括れと長く引き締まった足、ブロンドの髪。もし自分の担当の看護師がこの女性ならいつまででもここにいたい、などとレオは思った。

 にこにこと笑ってレオを見上げる看護師。

 「クルツ伍長はヴィノクール特務曹長と仲がよろしいんですね」

 「仲がいいっつーか……腐れ縁みたいなもんだ」


 「あら、そうですか? ヴィノクール特務曹長、必要なものはあるかって聞いたらあなたを呼ぶように言ったんです。余程クルツ伍長に会いたかったんでしょうね」

 「ふぅん?」

 本当にニコライには友達がいないのか、とレオは彼に憐れみを感じた。彼の心の支えになることに悪い気はしないが、それが自分だけだというのならば問題があるように思う。

 「なあ、今日はモローゾフ中尉が来るんだろ?」

 「ええ。モローゾフ中尉は精神医学の知識をお持ちですから」

 「凄いよな、モローゾフ中尉は」

 「そうですね、本当に」

 モローゾフとニコライは、何となく性格が合いそうな気がする、とレオは考える。年齢は10歳程も離れているが、タイプとしては似たようなものを感じる。

 「あの、クルツ伍長」

 看護師に口を開かれ、レオは意識を彼女に引き戻す。

 「何だ?」

 「伍長は……ヴィノクール特務曹長と幼馴染みなんですよね?」

 「そうだな」

 「と、特務曹長、恋人とか……いるんでしょうか?」

 唐突な質問に、レオは僅に眉を眉間に寄せた。

 少し頬を赤らめる看護師。彼女はニコライに気があるのだろうか。こんな美人に好かれるなんて羨ましい、などと不謹慎なことを考えるレオ。

 「いや。多分あいつ、恋人なんていたことないぞ」

 正直なレオの返答に、驚きの表情を浮かべる看護師。

 「ええっ? そうなんですか?!」

 「ああ、聞いたことねぇ」

 「じ、じゃあクルツ伍長は?」

 「……俺ぇ?」

 またもや唐突な質問に面食らうレオ。彼女はニコライに気があるというわけではないのかも知れない。

 「俺は……今はいねぇよ、誰も」

 「今は?」

 詳しく教えろというオーラを醸す彼女に、レオは指で眉間を押さえる。何故こんなことを言及されねばならないのか。

 その時、病室のドアが開けられた。
ニコライが帰って来たのだ。

 彼女に解放されたことに安堵しながらレオはドアの方に振り向く。帰ってきたニコライがドアを閉めてこちらに近づいてきた。

 「大丈夫か?ニーカ」

 「はい」

 ベッドに座るニコライ。本当は大丈夫なんかではないことくらい、レオはよくわかっている。

 「……今日、モローゾフ中尉が話を聞きに来るらしいぞ」

 レオが言うと、ニコライは表情を変えずに頷く。

 「ヴァシリイ・フォン・モローゾフ中尉ですか」

 「ああ。ちゃんと……話すのか? 全部」

 「……ええ、そうしたいです」

 そう答えるニコライは、やはり無表情だ。表情を作る気力すら無いのかも知れない。

 「無理、すんなよ」

 「はい……そうですね」

 レオが俯いているニコライの背中を軽く2回叩くと、顔を上げた彼。1束の銀髪が肩を滑り落ちた。

 腰を落とすレオの黒い瞳と交わる、美女桜の瞳。2人は両目を閉ざし、コツン、と額を合わせた。そしてもう一度お互いの目を見る。

「じゃあ、俺はもう行くから」

 「ええ、わざわざ来てくださってありがとうございます」

 レオは隣にいる看護師の方を向く。

 何故か頬を赤くしている彼女。

 「あっ、えっと……もう行かれるんですか?」

 「ああ。ニコライを頼んだ」

 「は、はいっ」

 そしてレオは、再びニコライの病室を去っていった。






 「あら、お帰りぃ」

 「ただいま。ごめんね、待たせちゃって」

 ニコライを担当していた女性の看護師が病室から厨房へ戻ると、たくさんの女性がそこで作業をしていた。

 この基地で食事の支度をするのは調理師だけではなく、看護師も手伝うのだ。看護師は主に火起こし、水汲みといった神通力を使った仕事をする。

 厨房に入ってきたその看護師に、フワフワした銀髪の可愛らしい天使が近づいてきた。

 「ナターシャ、帰ってきたんだ! 水汲みに行こうよ」

 彼女にナターシャと呼ばれたニコライの担当の看護師は振り返る。

 「えっ、まだ誰も行ってないの?」

 「1人だけさっき行ったけれど、まだ足りないと思うの。ナターシャは看護師一番の水使いでしょ?」

 「誉めても何も出ないよ。わかった、行こう」

 そして2人は水を汲みに厨房を出た。

 2人が行くのは、雲海。見た目は人間界で見られるそれと言って差し支えないが、そこには魚のような生物も住んでいるのだ。

 天界の地面は雲土(うんど)と呼ばれ、天使達はその上で生活をしている。

 雲海に底は無い。その奥深くは暗黒の、未開の場所なのだ。雲海は濃霧のようで、そのままでは使えないが、水を操る神通力によって清らかな水へと変えることができる。

 基地から歩いて10分程度のところにある雲海へと、2人は基地を出た。

 「それでそれでぇ、またヴィノクール特務曹長のところに来たんだよね、クルツ伍長。しかもこんな朝早くに!」

 雲海に向かう途中、友人のフワフワした銀髪を持つ看護師にそう言われたナターシャ。

 「そうそう! それでねぇ、すっごくイイもの見ちゃったんだぁ」

 「えっ、何〜〜?」

 「あの2人、おでこ合わせてたの〜〜。一瞬キスするのかと思っちゃったよ!」

 「何それぇ! めっちゃ可愛い!」

 そんな話をする2人の顔は物凄く楽しそうだ。

 銀髪の看護師は、やや顔を赤らめて口を開く。

 「昨日はヴィノクール特務曹長、クルツ伍長の服掴んで寝てたんでしょう? 絶対あの2人普通の友達じゃないよね!」

 「あの特務曹長があんなに気を許すなんて……クルツ伍長は特務曹長の何なの?!」

 「そういえば、2人に恋人いるのか聞き出せた?」

 「うん、今は2人ともいないって!」

 「ええっ! 特務曹長はかなりの美形し、伍長だって背高くて結構格好いいのに……」

 「クルツ伍長は昔いたようだけれど、特務曹長は今まで1度もいたことがないんだって!」

 「そうなの?! 確かに特務曹長は綺麗過ぎて近寄りがたいかもしれないけれど……うわぁ、怪しい!」

 勿論2人は、ニコライとレオは唯の幼馴染みであると分かっている。それでも2人に男色の関係があることを期待せずにはいられなかった。

 ナターシャにとっては、ニコライの担当看護師というのは2人を知る絶好のチャンスだった。

 「クルツ伍長、特務曹長のことニーカって呼んでるの!」

 「ニーカ? コーリャじゃないんだ〜〜。何か意味があるのかな?」

 「気になるよねぇ!」

 「ナターシャ羨ましいなぁ! でもクルツ伍長って、ダニロフ軍曹とも凄く仲良しだよねぇ。いっつも一緒にいて」

 ついにディーマにまで及んだ銀髪の看護師の妄想。

 それに頷くナターシャ。

 「一応上司と部下、先輩と後輩の関係にありながらあの接し方、何なのか気になる!」

 「これはクルツ伍長総受けの予感?!」

 「えっ? 誰もあの人は押し倒せないでしょ! あんな背高いのに」

 「何言ってるの〜〜、クルツ伍長の階級は3人の中では一番下! 噂では神通力の扱いも下手らしいんだから!」

 「でもクルツ伍長とダニロフ軍曹とか、いい身長差だと思うんだよねぇ。下克上とかいいじゃない」

 「え〜〜、時代は男前受けだよぉ! 特務曹長×伍長!」

 「……軍人に男前じゃない人なんているの? みんないい体してるよ」

 カップリング論争を始めたところで雲海に着き、2人はその会話を打ち切った。

 白い海岸に白い海、青く広がる大空。朦朧としたような白と青の、美しい世界。

 先に海岸にいた看護師が2人に近寄ってきた。彼女は後輩の看護師だ。

 「ああ! やっと来てくれましたか〜〜。私1人じゃどうしようかと思いましたよ」

 神通力の扱いが上手く、美人でしっかりものの看護師。それがナターシャの‘表の顔’だ。

 駆け寄ってきた彼女に、笑顔で答えるナターシャ。

 「そんなわけないじゃない。疲れたでしょ? あとは任せて」

 その麗人の笑みに、後輩の天使は思わず見惚れそうになり、慌て返事をする。

 「は、はいっ! よろしくお願いしますぅ」

 「それで、何リットルくらい基地に送ったの?」

 「えっと……5リットルくらい……」

 「じゃあまだまだね」

 ナターシャとフワフワした銀髪の天使は、彼女の横をすり抜けて雲海に寄る。真っ白な雲土と、それよりも透明感のある雲海。その堺まで2人は歩いた。

 「やるよ」

 「了解、ナターシャ」

 そして2人は、同時に唇を開いた。

 「操・雲海」

 途端、2人の前の雲海が直径3メートル程の渦を巻き始めた。彼女達は雲海のから水を作り出し、基地にあるタンクに送っているのだ。

 言語を発することによって神通力を使う、基礎神通力。軍に所属する看護師ならばこれで最低でも火か水のどちらかを操ることができる。

 水を溜め、火を起こし、電気を生産し、朝食を作る――それがレキア東方旅団にいる非戦闘員の朝の仕事なのだ。

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