三章







 「ん……?」

 柔らかな日差しの中。ニコライ・フォン・ヴィノクールの淡い青紫の双眸が開いた。

 白い病室。目の前には白い服を着た妙齢の女の天使がいた。何か書類を書いていた彼女は開眼したニコライを見て、笑顔になった。

 「ヴィノクール特務曹長……!大丈夫ですか?気分はいかがです?」

 「…………っあ」

 見開いたままの彼の両目は、焦点が合っていない。僅に開いた口からは何も言葉を発しない。

 「ヴィノクール特務曹長?」

 もう一度彼女が呼びかけるが、ニコライに反応はない。段々彼の呼吸が荒くなっていく。上下する胸。苦しそうな呼吸。

 「ぅあ……う、ああっ…………」

 過呼吸になっている。

 看護師である彼女の顔が青くなった。

 「大変……!先生(ドク)、来てください!」

 看護師がドアの向こうに叫ぶと、暫くして軍医が駆けつけた。

 「どうした?」

 「過呼吸です!キュア……、いえ、ペーパーバッグを……」

 「それじゃ駄目だ、精神安定剤を持ってくる」

 そう言って軍医は慌ただしく病室を出ていく。

 看護師はニコライに近づき、彼の手を握った。

 「ヴィノクール特務曹長、落ち着いて……、息を吐いてください。フォン・ヴィノクール特務曹長!」

 必死に看護師は呼びかけるが、ニコライにそれは聞こえていないようだった。普通の呼吸ができていない彼の頬が赤くなっていく。

 軍医がトレーに乗せた注射器を持ってきた。

 「君、手伝ってくれ」

 「はいっ!」

 看護師がニコライの腕に巻かれた包帯を外す。刃物で切られたような傷だらけのその腕を、暴れないように押さえつける。

 彼の静脈を探った軍医。実はあまり注射を打つのは慣れておらず、慎重に針を刺す。

 注射器を抜き、消毒をしてから暫く。ニコライの呼吸は徐々に安定していった。それを見た看護師と軍医の顔に安堵が浮かぶ。

 「良かった……」

 「ええ。注射器など久しぶりに使いましたよ」

 「本当ですね」

 話している2人に、ニコライの目が向いた。今度は正気を保っている瞳だ。

 「私、は……?」

 やや状況に戸惑い気味なニコライに、看護師。

 「ヴィノクール特務曹長、大丈夫ですか?」

 「ええ……」

 ゆっくりと起き上がるニコライ。

 「ここは天界、ですよね?」

 「はい。レキア東方軍基地……戻ってお出でになったんですよ?覚えていないのですか?」

 「…………はい、全く」

 「一体何が――」

 更に質問を重ねようとした看護師の肩を叩く軍医。

 「あまり私達が質問するのは好ましくない。あとは上に任せよう」

 「あ、はい。そうですね……ごめんなさい」

 彼女に頭を下げられたニコライは、僅に微笑む。

 「いいえ。それより、何故キュアを使わないのです?」

 全身に包帯が巻かれているのが分かったニコライは、そう尋ねた。

 ニコライの全身には、ナイフによる切り傷があった。本来ならば、キュア――治癒の神通力で直ぐに直される程度の傷だ。先ほどの過呼吸も、それで収められる。だから天界の医師は注射を打つのに慣れていない者が多いのだ。

 軍医は彼の質問に答える。

 「はい……キュアを使いたいのですが、使えないのです。ヴィノクール特務曹長の体には強力な魔力がかかっています」

 「えっ……」

 目を見開くニコライ。自分の掌で腕の切り傷を押さえた。

 ニコライの治癒の神通力を扱う能力は、軍医に相当する。自分の体に治癒を施すことも可能だ。彼は自分でキュアを使ってみようと、その傷に意識を集中させた。

 「…………?!」

 途端、彼の目が見開かれた。

 「あ、うああっ!」

 悲鳴を上げたニコライの首に、光の輪が現れた。彼を束縛する首輪のように。苦しげにベッドに踞る彼。

 看護師が慌てて彼の背中に手を回す。

 「どうしましたか?! この輪は、一体……」

 看護師が光の輪に手を振れようとすると、それは彼女を拒むように電気を発した。

 「あっ」

 彼女は慌てて手を引っ込める。

 苦悶の表情でベッドに横たわるニコライ。

 「ううっ! あぁ……、うぇっ……」

 彼は空の胃から、胃液を吐き出す。シーツを握り締め、心を落ち着けようとすると、首に現れた光の輪は次第に消えていった。

 体を苦しめるものが無くなったのか、彼は深く溜め息を吐いた。そして、その美貌を怒りに歪める。

 「あの悪魔……! こんなところでも私を縛るのですか」

 恨めしそうにそう呟いて、彼は看護師と軍医に目を向ける。

 2人は、ベッドに座っている彼を心配そうに見下げていた。

 「だ、大丈夫でしたか? さっきのは……」

 「ええ。大丈夫ですが、水を頂けますか? 胃酸で喉が痛いんです」

 「あ、はいっ! 今お持ちします。シーツも直ぐに代えますから」

 看護師はそう言って病室を出ていった。

 視線を軍医に移すニコライ。

 「私の神通力は魔力によって封じられたようです。神通力を受けることもできません」

 「ええ、そのようですね。それは、その……悪魔、ミハイルに……?」

 「…………」

 軍医の質問に、ニコライは下を向いて唇を閉ざしてしまった。握り締められた白い手は震え、筋が浮かび上がっている。

 情緒不安定で、いつまた過呼吸を起こしてもおかしくない状態のニコライに、軍医は溜め息を吐いてしまうのを堪えた。

 「すみません、答えてくださらなくてかまわないんです」

 そう言う軍医に、ニコライは無反応だった。

 コップに入れた水を持ってくる看護師。

 「どうぞ。他に何が必要なものはありますか?」

 彼女から差し出された水を手に取って、ニコライ。

 「……レオを、」

 「えっ?」

 「レオ・クルツ伍長に……会わせてください」

 彼の突然の要望に、軍医と看護師は顔を見合わせる。

 「レオ・クルツ伍長……? ここの兵士ですかな?」

 「ええ、そうです」

 「あの、黒髪で背の高い方ですよね?」

 そう言ったのは看護師の方だった。

 軍医から彼女に目を移すニコライ。

 「レオを知っているんですね」

 「まあ……有名ですから」

 「……悪い意味で、ですか?」

 「それは……」

 言葉を詰まらせる看護師。ニコライも視線を自分の手元に下げた。

 2人の会話の意味がわからない軍医は、首を傾げつつも言う。

 「ふむ、わかりました。レオ・クルツ伍長のことは上に頼んでおきますよ」

 「お願いします」

 その兵士がどんな天使なのか、ニコライとどういった関係なのかは分からないが、取り合えず承諾した軍医。

 「それでは、まずはゆっくり眠ってください。心を休ませるにはそれが一番ですから」

 「はい」

 そう言って、水を一口飲んだニコライ。俯いた彼の美貌は、長い銀髪に隠されて見えなくなった。

 軍医と看護師は、静かに病室を後にした。






 ――コーリャ、こっちを向いて?

 若菜色の瞳の男が、私を抱く。しかし男の顔はよく分からず、その両目の印象だけがあった。

 ――愛してるよ、コーリャ。君は俺のものだ。

 耳元で囁かれる声。私の体を這う男の手の感触。全てが不快だ。

 ――俺は絶対に君を放さない。俺から逃られるなんて、思わない方がいい。

 その声は優しいテノールの美声なのに、感じられるのは嫌悪感と恐怖だけ。

 男に抵抗しようとしても、動かない体。心を支配する屈辱と絶望。

 ――もっと俺を感じて。そのいい声をもっと聞かせてよ。

 男は何度だって私の中に侵入してくる。嫌だと、止めろと言っても、男は愛していると囁き行為を続けるのだ。

 ――嫌だなんて、嘘でしょ? こんなに君の体は俺を愛しているのに。

 私の体を無理矢理に開いた男。心にまでも忍び寄り、その中に踏み入ろうとしてくる。自尊心を引き裂き、全てを奪おうとする。

 ――そうやって抵抗しようとするのは止めてさ……俺に全部委ねなよ。



 甘い声色で、男は言うのだ。



 ――そうすれば、楽になるよ。



 それでも、この男には屈しない。

 この悪魔の言葉に耳を貸さない。

 決して心までは明け渡すものか。



 絶対に――――









 酷く嫌な感覚と共に目を覚ましたニコライ。目の前には先程と同じく、女性の看護師がこちらを見下ろしている。

 とても心配そうな顔をしている看護師。

 「だ、大丈夫ですか?」

 彼女にそう言われ、ニコライは起き上がる。

 「ええ。……どうしてそんなことを聞くんです?」

 「えっ、あの、時々顔をしかめておりましたから……寝苦しそうで」

 彼女の言葉に、ニコライは先程の夢を思い出す。酷い悪夢で、起きた今でも胸の不愉快な蟠(わだかま)りが無くならない。

 「そうでしたか。ご心配をお掛けしてすみません」

 「いいえ」

 ニコライに微笑む看護師。

 「昼食を用意しました。食べられますか?」

 彼女は持っていたトレーを差し出す。そこには流動食が幾つかの皿に入って乗っている。

 部屋に掛けられた時計を見上げるニコライ。丁度昼食の時間で、2時間ほど寝ていたようだった。

 「ええ、ありがとうございます」

 「ヴィノクール特務曹長、2日前の朝から何も食べてらっしゃらないのでしょう? できるだけしっかり食べてくださいね?」

 「はい」

 彼の返事を聞くと、看護師はトレーを置いて病室を出ていった。

 深く溜め息を吐くニコライ。目の前の料理に目を落とすが、食べる気になれなかった。


 ――ご飯食べたくないなら別にいいけれどさ、飲み物は飲んだほうがいいと思うなぁ。



 悪魔の甘い声が、脳裏をよぎる。

 「くっ……」

 ニコライは両手を握り締める。

 最強の悪魔、ミハイルに勝つことができなかったニコライ。勝負にもならなかったくらいに、一瞬で負けた。そして体を拘束され、2日間凌辱され続けた。

 男の自分が犯されるなんて、思ってもみなかった。ミハイルは自分をコーリャと呼び、愛していると何度も言った。

 それなのに、ミハイルはニコライを手放した。自分の顔をニコライに忘れさせるという暗示をかけて。


 ――でもね、またこの両目を見たら、君は俺の顔を思い出すんだ。


 そして今、ニコライはあの悪魔の顔を思い出すことができない。

 悪魔、ミハイルはまた再び自分の前に姿を現す。ニコライはそう確信している。ここに自分を逃がしたのには、何か理由があるのだ。

 またあの男が自分を捉えに来る。そう思うと恐ろしくて堪らない。あの男には、どう考えても勝てない。

 心が苦しい。ミハイルが付けた傷が消えない、ミハイルが犯したこの体が煩わしい。魔力の首輪を付けられた非力な自分。こんな自分ならば要らない。消えてしまいたい。

 「ううっ……」

 自分が嫌で、泣きそうになるのを堪えた。

 その時、部屋の外からやや急いでいるような足音が聞こえた。顔を上げるニコライ。

 徐々にこちらに近づいて来る足音。それはニコライの病室の前で止まった。そしてドアをノックする、かと思いきや、そんなことはせずにドアは開いた。

 ニコライは入ってきた天使を見て、目を見開いた。

 ウェーブした黒髪を、今は後ろで1つに束ねた背の高い軍人。何故か肩で息をしている彼、レオはニコライを見るなり少し不機嫌そうな顔をした。

 「何だ、元気そうじゃねぇか」

 「レオ……!」

 今にも泣き出しそうな笑顔を見せたニコライに、驚いた顔をした彼。

 「な、何だよ……」

 レオは足を止めてしまった。ニコライはベッドから立ち上がり、レオに近づこうとしてバランスを崩した。

 「あ、」

 「うわ、どうした?!」

 咄嗟に腕を伸ばし、彼を支えたレオ。その腕にしがみついた彼をベッドに座らせる。

 「何やってんだよ、お前」

 「すみません……、ずっと立っていなかったのを忘れていました」

 「そうだったのか?」

 「…………」

 ニコライは急に黙ってしまった。附せられた長い睫に縁取られた双眸は悲哀に沈んでいて、いつもの強さや気高さはない。

 珍しい態度ばかり見せるニコライに、レオ。

 「訓練が終わったと思ったら急に中隊長に呼ばれた。完全装備で10キロ走った後、急いでお前の病室行け、だぞ?」

 彼がやけに疲れた様子なのはその所為だったらしい。人間のように武器弾薬を持つことはあまりない天使でも、完全装備はそれなりに重い。同じことをやったことが何度もあるニコライには、レオの疲労が理解できた。

 ニコライは彼を見上げる。

 「それは、すみません。私があなたに会いたいと言ってしまった所為ですね……」

 彼の言葉に、また驚かされるレオ。

 「会いたい? お前が、俺に?」

 「……レオ」

 ニコライの片手が、レオの手首を掴む。レオは彼の袖口から現れた白い包帯に目を落とした。

 「何だよ」

 「呼んで、ください」

 「は?」

 「私を呼んでください」

 不思議な要望をされたレオは、彼の淡い青紫をした両目に視線を移す。自分を求めている瞳。強い男であるはずの彼が、レオには今にも壊れてしまいそうに見えた。

 「……ニーカ」

 昔から使っていたニコライの愛称を口にしたレオに、彼は微笑みを浮かべた。

 「ええ……私は、ニーカです…………レオ」

 微笑みながらも、ニコライは泣きそうだ。

 こんなに弱々しい振る舞いは、いつものニコライには有り得ない。レオは自分の手首を掴む彼の手を放させ、しゃがんで彼より目線を低くする。

 「何があった? ニーカ」

 レオの質問に、ニコライの表情は今まで以上に辛そうなものになった。

 「私は……あなたの言った通り、あの任務を受けるべきではありませんでした」

 「……ああ、そりゃそうだ。勝てなかったんだろ?」

 容赦なくそう言ったレオに、頷いたニコライ。その遠慮が無いところは実に彼らしい、と感じた。

 「負けました……一瞬で」

 「でも、殺されなかったんだろ? 逃げたのか? お前、今まで何処で何やってたんだ」

 「…………っ」

 レオの黒い瞳を見られなくなるニコライ。幼馴染みで、口調は乱暴ながらも自分のことをよく気にしていてくれる兄のような男。彼には言いたくない。悪魔に強姦されたなんて。

 また唇を閉ざしてしまったニコライに、レオは軽く溜め息を吐く。

 「言えねぇってのかよ、俺に」

 「……悪魔、ミハイルの家にいました…………」

 ニコライからの思わぬ返答に、レオは訝しむような表情をする。

 「ああ? その悪魔がお前を家ん中で生かしてたってのかよ。意味わかんねぇ」

 そう言った彼の考えは最もだ。自分を殺そうとした天使を殺さない悪魔など、どこにいるだろうか。

 「はい、私は――」

 ニコライは、つい言葉を詰まらせてしまう。言いたくない。男でありながら強姦されたなんて、恥ずかしい話しだ。

 それでも、言わなければ。言って楽になった方がいいのだろう。

 「私は、その悪魔に……性交を、強要されました」

 「…………は?」

 「魔力で拘束されて、強姦されました」

 ニコライの言葉に唖然としてしまったレオ。あまりにも予想外で、開いた口が塞がらない。必死に返す言葉を見つけ出す。

 「いや、おま、強姦って……お前、男だろ?」

 「男です」

 「その悪魔、男だろ?」

 「はい」

 「……えっと、つまりアレか? ゲイなのか、そいつ」

 「…………本人は違うと言っていました」

 「はあ?」

 レオは本当に混乱しているようだ。突然、男が男に強姦されたと言われて混乱しない者もなかなかいないだろう。

 「まあ、つまりお前は……2日間その悪魔とセックスさせられてたってことか?」

 「……はい」

 ニコライの受け答えに、気まずそうに顔を曇らせるレオ。眉間を手で押さえながら、ベッドの横にあった椅子に座る。

 「強姦される気持ちなんて分かりゃしねぇが、よく正気でいられるな」

 「正気、でしょうか……私は」

 彼はレオの顔を1度見てから、また俯く。

 「ここで最初に目を覚ましたとき、私は過呼吸になったそうです。あの悪魔の魔力で、傷を癒すことも、自分で神通力を使うことも出来ません。あの悪魔の声が頭から離れない。夢に出たのもあの悪魔。あれはまた私のところに来ます。絶対に。あれは私を解放してはいないんです。あれは――」

 「ニーカ、止めろ」

 がっ、とレオの手がニコライの肩を掴む。

 口を噤(つぐ)んだ彼が、見開いた両目をレオに向ける。呼吸は乱れ気味で、彼の精神状態が良くないことを伺わせる。

 呼吸を落ち着け始めた彼の肩から手を放すレオ。

 「すまない、変なことを言った」

 「レ、オ……」

 刹那、ニコライの瞳から涙が溢れた。頬を伝い、自分の手に落ちてきた涙に、ニコライ。

 「……私は、泣いているのですか? 何で……」

 彼はその涙を袖で拭う。それでも涙は止まらない。

 「何で、何で私は、」

 涙を止めようとする彼の手を、レオが掴んだ。

 「もういい、ニーカ」

 「え?」

 「泣くなら泣け。今は俺しかいないんだ。気張ることはねぇよ」

 「う……、レオ……」

 ニコライは涙を流しながら、レオの胸に自分の額を押し当てた。

 「……ごめんなさい、レオ。少しだけ」

 「ああ」

 レオの片手が、ニコライの震える背中を抱いた。

 「大丈夫だ。ここは天界だぞ? 悪魔が来るはずない」

 「でも…………私は、僕は……」

 「大丈夫、ニーカはもう悪魔に囚われたりしない」

 「うう……あ…………」

 レオのシャツを、ニコライが掴む。この強く気高い男が、まるで幼子が母親にそうするかのように、そのぬくもりの掌握を望んでいるのだ。

 普段ならば有り得ないニコライの姿に、レオは僅かな悦びと大きな不安を感じた。この男は、自分だからこんな姿を見せるのだという彼の信者達への優越感と、ここまで砕かれた彼の心は戻るのかという不安。それらが心中でせめぎ合う。

 「ニーカ……」

 レオは彼に呼び掛けてみたが、返事はない。不思議に思って彼の背中を軽く叩いてみた。

 「ニーカ?」

 もう一度呼び掛けてみて、彼の寝息が聞こえることに気づいた。

 「……さっきまで寝てたんじゃなかったのかよ」

 半ば飽きれた口調でそう言い、彼はニコライを腕に抱いて持ち上げる。

 「うっわ、重っ」

 よく鍛えられた軍人だ。いくら筋力に秀でたレオでも持ち上げるのは大変なことだった。

 それでもなんとか彼をベッドに寝かせ、毛布をかける。しかしレオのシャツを握ったニコライの手は離れない。

 「行くなってことかよ」

 レオは椅子に座って、横に置いてあった彼の昼食を見た。

 「喰わずに寝ちまったし」

 そう呟いて深く溜め息を吐くと、自分の腹が鳴った。訓練を終えてから、まだ昼食を食べていないのだ。

 ニコライのために用意された料理だが、彼が食べることはできないだろう。そう思ったレオはトレーからスプーンを手に取った。

 「いいよな、別に」

 どうせ食べる者は他にいないのだ。








 「君達の中で軍人になってこれを使う者はおそらくいないだろうが、一応説明しておこう。これは人間界の武器、『銃』の写真だ。使うことができれば殺傷能力は非常に高い」



 私は約10年前ーー14歳の時、初めて銃というものを知った。

 天界で銃を見ることがある者は、軍の関係者だけであろう。

 天界では金属は人間界でのそれにくらべ遥かに価値が高い。戦争をするならば大量の金属、鉛を使用する銃よりも、神通力を使って攻撃した方が方が資源を消費しなくて済む。天界や魔界で銃はほとんど必要とされていない。

 軍人でも銃を使う者は特に限られた者、弾丸を神通力や魔力によって具現化できる者だけだ。



 私が初めて士官学校の教材に載っていた写真の銃を見た時、私はそれを美しいと思った。無駄が無く研ぎ澄まされたその姿を。

 教材にはリボルバータイプの拳銃しか載っていない。弾丸を作り出すこと自体かなりの才能が必要な上に、同時に6発以上の弾丸を神通力で作れる者は滅多に居ないからだ。

 私はその教材に載っている「人間界の武器」の「コルト社のパイソン」を見つめ、それを使いたいと心から思った。

 偶然にも私は同時に6発の銃の弾丸を具現化できるだけの能力を持っていた。

 教官達は訓練で銃を使い熟(こな)す私を見て驚いた顔をした。学年で銃を使うことができたのは私1人だけだった。教官の中ですら銃を使える者は1人しかいなかった。



 私は軍に入った時、拳銃を任務に役立てる許可を貰った。

 私が軍から支給された銃は、S&W M66 という拳銃だった。教材に載っていた銃と同様、リボルバータイプのダブルアクション。人間界では古いが、まだ使われている銃だと言われた。



 銃は持ち主の使い方次第でその価値も、意味も、驚異性も変わる。もう既に完成された美しい拳銃。しかし私の想像性次第でどんなものにもなれる。それの銃声を奏でるのは私だ。

 私は‘彼’を‘ファンタジア’と呼んだ。

 私が18歳で天界軍に入隊してから、私とファンタジアはいつも一緒だった。



 私は‘彼’が私の手を離れ、誰かに使われることなど考えていなかった。私の周りにはほとんど‘彼’を扱える者はいないからだ。

 最(いと)も簡単に私の手から‘彼’を奪える者がいることも、銃を殺傷以外の目的で使おうと思う者がいることも、当然知らなかった。



あの悪魔ーーミハイルが、私とファンタジアの全てを変えてしまった。










 「ニーカ! おい、ニーカ!」

 聞き慣れた男の声と共に目を覚ましたニコライ。自分を見下ろして名前を呼び、肩を叩いていたのはレオだと認識する。

 「レ、オ……」

 「起きたか?」

 レオの手に肩を放されると、ニコライは上半身を起こした。

 「私は、魘されていたのですか?」

 「ああ。また悪夢か?」

 「……はい。でも大丈夫ですよ」

 心配そうなレオ越しに掛け時計を確認するニコライ。最後に時計を見てから1時間は経っている。

 「あなたはずっとここに?」

 「そうだ」

 「良いのですか?」

 レオにもやるべきことがあるはずだ。しかし彼は、僅かに笑みを浮かべる。

 「お前が俺を必要としてるとなりゃ、お咎めなしさ」

 「そうでしたか。すみません、留めてしまって」

 「別に。それより、お前ずっと苦しそうだったぞ? さっきも、ろくに寝られてなかったんじゃないか?」

 「そうだったのかもしれませんね……。後で先生(ドク)に相談してみます」

 軍医から睡眠安定剤か何か向精神薬を貰えるかも知れない。

 そうだな、とレオ。

 「ああ、そういや……これ」

 レオは椅子の下に置いてあった大きめのバッグを取り出した。

 「お前の持ち物と服だ。無くしたものが無いか確認してくれってよ」

 そう言ってレオが差し出してきたそれを、ニコライは受けとる。

 「はい」

 そうは言ってもニコライはあの日、大したものは持っていなかった。拳銃のファンタジアと、水筒、ウエストポーチに入れていた携帯食料とナイフ、胸ポケットに入れていた手帳、そして認識標。それだけだ。

 ファンタジアの弾はニコライの神通力によって生み出すので持っている必要はない。弾の装填時間も無いので、弾を生み出すことができるニコライは強いのだ。

 認識標は今も首に掛かっている。

 バッグから藍色の軍服を出すニコライ。奥の方に外套と耳当て付きの黒い帽子、水筒も入っていた。



 ――本当に、綺麗な顔してる。もっとよく見せて。



 急に、あの悪魔の言葉がニコライの脳内に甦った。そう、この軍服を脱がしながら、悪魔――ミハイルは言ったのだ。



 ――1枚1枚脱がして……裸にしてしまったら、俺は君を蹂躙する。君はただ、俺に犯されることしかできないんだ。



 ニコライは戦慄した。

 動かない体。脱がされていく服。身体中を這う手。重なる唇。自分を凌辱せんとする悪魔。

 闇に引きずり込まれるかのように、ミハイルに犯されるあの瞬間をズルズルと思い出してしまう。

 軍服を出した状態で突然止まってしまった彼の顔を、レオが覗き込む。

 「どうした?」

 「……あ、レオ……。いえ、何でもありませんよ」

 彼を更に心配させるような態度をとるのは駄目だと、ニコライは手を動かす。本当はこれ以上これらを見ていたくはなかったが、仕方のないことだ。

 薄い緑色のシャツと上着の間に手帳とウエストポーチがあった。ウエストポーチの中を確認すると、携帯食料と戦闘用のナイフが入っていた。

 そしてまた思い出す。



 ――君はこれで俺を殺そうとした。無駄なのにね。



 自分の体に傷を付けたナイフを凝視するニコライ。目を背けたいはずなのに、背けられない。

 最後にこのナイフを見たときは刃に自分の血液が絡んでいたのに、今はその形跡も見当たらない。ミハイルが洗ったのだろうか。

 「何かあったか?」

 ナイフを見続けているニコライに、レオの声がかかった。

 呪縛から解き放たれたかのように、ナイフから目を離したニコライ。

 「あ、いえ……」

 曖昧な笑みで取り繕って、ウエストポーチを閉じ、また荷物を探る。

 畳まれた軍服の上着の間に挟まっていたベルト。そこにホルスターが付いている。ホルスターの中にはファンタジアが収まっていた。

 「…………っ!」




 ――じゃあ、今からコーリャが大好きなコレで遊ぼうか?

 つい先程見た夢が、あの言葉が、あの感覚が、まざまざと思い出される。震える手がそのグリップに触れた。

 常に一緒に戦ってきたファンタジアは、体の一部のようなものだった。しかしこの鉄の塊が悪魔の手に渡ったとき、これは自分の道具から悪魔の玩具に変わった。

 ニコライはこの拳銃に恐怖を感じた。

 その時、レオの大きな手がホルスターに収まっていたファンタジアを抜いた。突然の彼の行動に驚いて顔を上げるニコライ。

 「レ、レオ?!」

 「お前、まだこんなもん使ってたのか?」

 そう言いながら彼は、意味もなく6つ穴のあるシリンダーを外してクルクルと回した。神通力の扱いは得意でない彼に銃弾を具現化することはできない。

 「そりゃ、お前でも6発以上の弾は同時に作れねぇか」

 「返しなさい!」

 レオの手から拳銃を奪うニコライ。その表情の険しさを、レオは怪訝に思う。

 「に、ニーカ?」

 「…………」

 「んだよ、そんなにこれが大事か?」

 含み笑いで言われたレオからの言葉。ニコライは顔を手元の銃に向けた状態で目を見開いた。



 ――そんなにコレが大切?



 「止めてくださいっ!」

 叫んだニコライ自身の手で、ファンタジアが床に払い落とされた。彼の横顔はレオの位置からは銀髪に隠れて見えない。

 「……どう、した?」

 レオはニコライの肩に手を伸ばしたが、触れる直前に彼にその手を叩かれた。

 「私に触らないでください……」

 震える声で紡がれたのは、今日初めての彼からの拒絶。レオはそれに唖然としてして手を下ろす。

 急に彼がこんな言動をしたのが何故なのか、レオには全くわからない。何か悪魔ミハイルのことで思い出してしまったのだろうか。あの日に持っていたものを見せているのだから、それは十分に考えられる。

 「すまん、少し無神経だったか」

 そう言って、床に落ちたファンタジアを拾い上げるレオ。ニコライの手から荷物を取って全てバッグの中に仕舞う。

 空になった掌を握りしめるニコライ。

 「……ごめんなさい…………」

 「何がだよ」

 「全部……私が悪いんです」

 顔を見せずにそう言うニコライに、深く息を吐いたレオ。こんなニコライは初めてで、対応に困ってしまう。

 「無くしたもんはないんだな?」

 取り合えずそう尋ねると、彼は首肯した。

 レオはバッグを持って立ち上がる。

 「それじゃあ、もう持っていくからな」

 「……はい」

 このままでいてはニコライはことあるごとに悪魔とのことを思い出してしまう。暫し立ったまま逡巡して、レオ。

 「なんか部屋から持ってきてほしいものあるか? 本とか。ここ、暇だろ」

 「……ありません」

 「そう、か……」

 もしかしたらニコライは、暇潰しや娯楽というものを知らないのかも知れない。レオにはそう思えた。

 勉強、訓練、仕事――それ以外のものが彼の意識に侵入することなどあるのだろうか。そんなものがないから、尚更彼は崩れやすいのか。

 レオは病室を出ようとニコライに背を向けた。

 「待ってください」

 彼に呼び止められ、振り返るレオ。

 「ん?」

 「それを何処に持っていくんですか?」

 「上に報告してから指示に従う……、多分お前の部屋だろうな」

 「……そうですか。お願いします」

 「ああ」

 そしてレオは今度こそ病室を出ていった。

 ドアを閉めて、深く溜め息を吐く。
今日になって幾度目の溜め息だろうか。

 廊下を歩き始めるが、不安定なニコライの姿が頭から離れない。あの強い男が、悪魔に凌辱されてあんなに傷ついているなんて。こんなことになるなんて、思いもしなかった。

 悪魔、ミハイルの了見が全くわからない。男と男が性交をするなんて、気持ちが悪いではないか。
いや、気持ちが悪い?

 レオは急に歩みを止めてしまった。

 気持ちが悪い?無理矢理とはいえ、男の悪魔と性交をしたニコライは気持ちが悪いか?

 そう思ったとき、レオは悪魔に犯されているニコライを想像してしまった。

 服を脱がされ、あの鍛えられた白い体を晒されるニコライ。やや女性的な整った顔を歪め、薄い青紫色の双眸を潤ませ、抵抗もできずに体を開かれるのだ。

 想像して、何か甘い疼きのようなものが込み上げてくるようで、頭を振るレオ。

 「何考えてんだ、俺」

 思考を振り払うように早足で歩みを再開する。

 一瞬ニコライに欲情してしまったかも知れないなんて、信じたくもなかった。








 ニコライの部屋の前に立つレオ。右手には部屋の鍵が、左手にはニコライの物が入ったバッグが握られている。鍵は先程上司から受け取ったもので、荷物を部屋に置きに行くように言われたのだ。

 4人部屋の自分とは違い、個室に寝泊まりしているニコライ。長い付き合いながらに、レオが彼の部屋に入るのは初めてだ。

 腹を据えて、レオは部屋の鍵を開ける。ドアノブを下げて押すと、音もなくドアは開いた。

 「…………」

 物の少ない、整頓された部屋。机の上には分厚いファイルや本が並んでいて、無造作に出ている物は何もない。子供の頃から変わらない、あまりにもニコライらしい部屋で、レオはつい吹き出しそうになった。

 少しは変わったっていいのに、と思いながらレオはドアを開けたままニコライの部屋に足を踏み入れた。あの天使の変わらない頑なさ。それは彼が成長していないとも取ることができる。そんな彼にも少しレオは不安を感じるのだ。

 机の横にバッグを置く。そのまま引き返せばいいのだが、何となく足を止めてしまったレオ。

 先程報告しに行った上司、恐らくニコライに任務を言い渡した大佐との会話を思い返す。



 ――ヴィノクール特務曹長は行方不明だった2日間について何か話したかね?

 ――……いいえ。

 ――話せる様子ではないのかね?

 ――話はできますが……。

 ――では出来ることなら聞き出して君が報告してくれ。

 ――了解。



 何故自分が、とは思ったが、恐らくあの大佐も自分が一番ニコライにとって話しやすい相手だと思ったのだろう。ニコライ自身が目を覚まして最初に会いたいと言ったのは自分なのだ。

 しかしレオは大佐に本当のことは言えなかった。ニコライが、悪魔に強姦されたことを。

 ニコライも言われたくないのかも知れない。これは、できるならば彼自身の口から言うべきことなのだ。

 あの高潔な天使が悪魔に犯されるなんて、どれだけショックなことだっただろう。彼はレオの知る限り恋人もいたことがない。女性に人気はあるが、恋人ができたという様子は見せたことがない。

 彼を犯した悪魔のミハイルにどうしようもなく怒りを感じる。

 その時、開いたままのドアをノックする音がして、レオは少し驚いて振り返る。

 「モローゾフ中尉……」

 部屋の前にいたのは、モローゾフ中尉だった。彼は1歩部屋に足を踏み入れる。

 「クルツ伍長、ここはヴィノクール特務曹長の部屋……ですよね?」

 「ああ、はい。荷物を置きに行くように言われたもので」

 「そうでしたか」

 あと数歩、前に進んで部屋を見渡すモローゾフに、レオ。

 「中尉?」

 「ああ、すみません。明日ヴィノクール特務曹長と話をするように言われたんですよ。ここで部屋を見れたのは幸運です」

 「話、ですか」

 そういえばモローゾフは精神科医としての知識が豊富である。カウンセリングのようなものだろう。

 「えっと、よろしくお願いしますね」

 そう言ったレオに、微笑するモローゾフ。

 「ええ。……それにしても、生活感の無い部屋ですね」

 「ん、ああ……そうですね。こいつの部屋、昔からこんなんッスよ」

 「そうなのですか?」

 部屋の中を巡っていたモローゾフの視線がレオに戻ってきた。刹那、レオは彼に僅かな違和感を感じた。

 モローゾフ――かなりの長身の自分よりもずっと低い背丈、金色の短い髪、鮮やかな若菜色の両目、非常に整った顔立ち。何かが違う。この男の印象は、こんなものだっただろうか。

 自分の顔をじっと見てくるレオに、モローゾフ。

 「どうかしましたか?」

 「あ、いや……中尉、なんか変わりました?」

 「はい?」

 怪訝そうに眉を眉間に寄せる彼に、レオ。

 「すみません、なんか中尉がいつもと違う気がしたんで……。気のせいッスよね」

 「……ええ、何も変わっていませんよ。それでは、もう行きますね」

 「はい」

 そしてレオがいるニコライの部屋を後にしたモローゾフ。部屋を出て何歩か足を進めたところでニコライの部屋の方を一瞥する。

 「どういうこと?」

 呟いて、歩きながら彼は表情を険しくした。

 「何であんな、低レベルな天使が……」

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