八章





 「あっ、く……、んあっ!」

 カーテンの隙間から月明かりが差し込む薄暗い部屋。2人の青年の息遣いと少し苦しげな声、寝具を軋ませる音が響く。

 「ミーシャ、あっ、無理です……」

 ミハイルの上に跨っているニコライ。腰を下ろそうにも下ろしきれずにいた。太ももが僅かに震えている。

 彼の腰に両手を添えるミハイル。

 「そのまま腰、下ろして」

 その言葉に、ニコライは首を横に振る。白銀の長い髪が肩を滑り落ちた。

 彼の顔からその震える大きな手に、ミハイルの視線が流れる。

 「あと少しだよ?」

 「でも……、んああっ!」

 突然ミハイルの手に尻を無理矢理下げさせられ、ニコライは大きく喘いだ。

 自分の上に座ったニコライに、ミハイルは微笑む。

 「全部入ったね?」

 「ううっ……酷い、です」

 「何が?」

 そう言ってミハイルがニコライの性器を掴んだ。

 「ああんっ!」

 「イイんでしょ? ここ、こんなにして」

 完全に勃ち、透明の液体を先端から溢れさせているニコライの性器を、ミハイルが手で弄(もてあそ)ぶ。

 「ほら、動きなよコーリャ。腰を上げて?」

 「ああっ、やめて下さいっ! う、あんっ!」

 ミハイルが手をニコライの性器から臀部に移動させた。力を込められ、ニコライが腰を上げさせられる。

 「くううっ……あっ……」

 先端の方まで上げ、一気に腰を下ろす。ミハイルに突き上げられるニコライ。

 「ああっ!」

 「できるでしょ? 続けてよ」

 ミハイルにそう言われたニコライは、再び腰を上げた。

 「く、うぅ……」

 涙目で腰を動かし、突き上げられる度に喘ぐニコライをミハイルは下から眺める。苦しそうだが、ニコライも快感を感じていることは明らかだ。

 この状態では、ミハイルから彼の姿が全部見える。揺れる銀髪も、上気した顔も、しなやかな体も、快感に反応した性器も。その全てが艶かしく、ミハイルを興奮させた。

 「ああっ、あ、くっ……!」

 徐々にニコライが腰の動きを速くしていく。

 「ミーシャ……、動いて、ください」

 ニコライは腰を動かしているが、それでは達することができないらしい。

 薄笑いを浮かべるミハイル。

 「もっと可愛くおねだりしてみてよ」

 「は……?」

 「そしたら俺が上になって、もっと気持ち良くさせてあげる」

 ミハイルの言葉に、動くのをやめて眉を眉間に寄せるニコライ。真面目な性分の男だ。そんなことも真剣に考えてしまうらしい。

 「……可愛くって何ですか?」

 数秒後に返って来た言葉に、ミハイルは吹き出した。

 「あははっ! いいよ、もう。ニコライは十分可愛い」

 「え……、あ、ああんっ!」

 ミハイルが体を起こし、挿れたままニコライと体勢を反転させた。

 「イかせてあげるよ、コーリャ」

 「んあっ、ミーシャっ……!」

 ミハイルに奥を突かれ、ニコライが少し上擦った声で喘ぐ。

 「あんっ、う、くああっ!」

 激しくなるミハイルの動きに、ニコライの目から涙が零れた。

 腰を動かしながら、薄く開いたニコライの唇に自分の唇を重ねるミハイル。深く、角度を変えながらキスを繰り返す。吐息が、甘い喘ぎがキスの合間に漏れ、2人は高みへと近づいていく。

 「んっ、ふぁ……、コーリャ、」

 「も、イくっ、ミーシャ……! ああぁあん!!」

 「コーリャっ、あっ!」

 ニコライが達し、その直後に強く締め付けられたミハイルが達した。ニコライの精液が2人の腹部にかかった。

 暫時、2人の呼吸音だけが暗い部屋に響く。その後にミハイルが寝具を軋ませながらニコライの上から退いた。

 「気持ち良かった、ね?」

 笑顔でそう言って、ニコライの中から性器を出すミハイル。付けていたコンドームを外し、寝具の横に置かれたゴミ箱に捨てた。

 ミハイルを横目で見ているが、動かないニコライ。長い銀髪がベッドの上に広がり、その上に全裸の天使は仰向けになっている。

 「…………」

 陶器のように白く滑らかな肌と、見事な肉体美。精巧な彫刻かのような美しい顔。生物とは思えない姿だが、腹の上に散らされた精液だけがやけに生々しい。

 ミハイルは片手を彼の頭の横に起き、その顔を覗き込んだ。さっきまでミハイルを見ていた双眸。その紫水晶のような淡い青色の両目の、焦点が合っていない。

 「……大丈夫?」

 ミハイルに問われ、ようやくニコライの瞳は彼を映した。

 「ええ」

 「そう、良かった。一瞬君が人形に見えた」

 そう言い、彼の上から離れるミハイル。

 「お人形を抱く気は無い」

 そしてニコライに背を向け、脚をベッドから下ろして座った。正面には窓。カーテンの隙間から差す月明かりに目を細める。

 するとニコライが起き上がり、彼を後ろから抱きしめた。裸の2人の素肌が重なり合う。

 「私を捨てないでください……。あなたしか、いないんです」

 泣きそうな声だった。震える体は温かい。人形ではない、生身の身体。確かに生きている天使。

 ミハイルは口角を上げ、彼の白い手を握る。

 「俺がコーリャを捨てるはずないでしょ? 君が君でいる限りね」

 「はい……、私は私です」

 「……本当かな?」

 ミハイルが振り返ったので、ニコライが彼を離す。整った彼の美貌は、逆光でニコライにはよく見えない。

 「ニコライは、ニコライかな?」

 「どういう意味です?」

 「まあ、いいよ。どうだって。俺だって自分のことはよくわからないんだ。君のこと以上にね」

 不可思議な言葉を吐き出し、体もニコライの方に向けるミハイル。

 「もし君が自分は自分でないと思っても、俺を愛してよね」

 「私はもう、あなたがいない世界なんて嫌です」

 「…………」

 無言でニコライの唇を塞いだミハイル。そしてニコライの肩に手を置いた。少し力をかけ、ゆっくりと2人でベッドに倒れる。

 「もう、寝よう? コーリャ」

 「……はい」

 ミハイルに言われるがままに目を瞑るニコライ。額にキスを落とされたのがわかった。この悪魔は謎ばかりを増やしていく。そう思いながら意識を闇に沈めていった。






 ミハイルは、上半身を起した。

 僅かに寝具が軋み、素肌が冷たい空気に晒される。

 隣で寝ている天使、ニコライ。今は長い銀髪がその顔を隠している。

 彼を若菜色の瞳で、じっと見つめるミハイル。彼の顔を隠す銀髪を手で払った。現れたその顔はどこか苦しげなものに見える。

 「また彼の夢かい? コーリャ」

 眠っているニコライに、独白するミハイル。

 「何で彼のことは忘れられないんだい? 君は昔から、もっと大切な記憶を自分の中に封じ込めているじゃないか」

 優しく天使の長い髪を撫でた。

 「俺もまだ触れていない君のその記憶、大切なんでしょ? いや……怖いのかな?」

 憂いと虚無感を含んだミハイルの瞳が、天使の体に視線を這わせる。

 「レオ君のことは忘れなよ。そうした方が楽になる。俺が君に彼を近づけないようにするからさ」

 体の右側を下にして寝ているニコライ。背中の赤い痣ーー翼痕が見える。悪魔であるミハイルのそれは、ニコライのものよりもやや縦に長い。

 「俺達がもしヒトだったのなら……こんなに俺が君を苦しめることはなかったのかもね」

 ニコライの髪を撫でていたミハイルの手が、そこを離れる。

 「ねぇ、君と出会った次の日、俺は君に俺の小さい頃の話をしたね。……それも、忘れちゃったかな」

 ミハイルの声が震える。ニコライに触れることをやめた手を握りしめ、自分の膝を抱えた。
膝に自分の額を押し付ける。

 「……お母さんっ…………」

 呻くように、彼は愛する人を呼んだ。

 「分かってるさ……コーリャは、違う。あの人じゃ、ない……」

 泣き出しそうな声だった。

 隣に寝る者がいながら、彼には埋められない孤独があった。遠い昔、自ら消してしまった温もりがあった。

 もう手に入ることのないモノを、彼は望んでいた。

 ミハイルは毛布の中に潜り込み、こちらに向けられたニコライの背中に額を押し当てた。

 「コーリャ……君に俺の気持ちはわからないだろうけれど、知ってほしいんだよ……」

 ミハイルの額とニコライの背中の密着した部分が、暫時薄紫色の光を発した。

 「だから、見てよ」



 闇の魔力が、発せられた。







 ーーーーここはどこだ?



 私は見知らぬ家の中にいる。家の雰囲気は天界とは違うが、明らかに人間界にはない神通力や魔力が生活の中に組み込まれていそうな家だ。ということは魔界だろうか。

 目の前には夫婦らしき男女と、その子供らしき小さな男の子。その幼児は椅子に座り、両親の姿をじっと見つめている。短い金髪にやや垂れ目でくっきりとした緑色の瞳の、大変可愛らしい男の子。



 ーーーーミハイル?



 何故かその幼児がミハイルに思えた。幼くして随分と整った綺麗な顔が、あの美しい悪魔を思わせるのか。



 ともあれ、彼らは私のことに気づいていない。見えていないのだろうか。私も音は一切聞こえない。

 男女は2人で台所に立ち、遠くからそれを眺める幼児。両親を見る彼の瞳は、どこか淋しげだ。否、淋しいだけだろうか。その無表情からはあまり感情を読み取れない。

 それにしても彼の両親はとても仲が良い。見るからにボディタッチが多い。夫婦仲が良いことは悪いことではないと言うが。

 と、彼の両親がキスをした。途端、幼児の目が一瞬だけ見開かれた。

 嗚呼、違う。淋しいだけではなかったのか。彼は自分の父親に嫉妬している。両親を早くに無くした私にはよく分からないが、幼少期の男児にはありがちな事かも知れない。

 唐突に、椅子から立ち上がった男児。父親を無表情のまま見上げ、両親に近づいていく。

 両親が彼に気づいた。2人は彼に何か訪ねているが、聞こえない。おそらく「どうしたの?」と彼に聞いているのだと思う。

 少年は何も応えずに、真っ直ぐに父親を見上げる。そしてその小さな唇を動かした。

 何と言ったのかはわからない。

 刹那、父親から炎が吹き出した。

 熱い、熱い、青色の劫火(ごうか)が、一瞬にして男を燃やした。

 今まで嗅覚も働いていなかったのに、肉を燃やし血液が蒸発した臭いが、むわっと押し寄せた。男は一瞬で、骨と灰になったのだ。

 真横で夫を消された妻が、目を見開いてその夫だったモノを凝視する。ガクガクと体を震わせ、手で口を押さえ、頭を僅かに揺らす。

 そして遂に膝を折り、夫だったモノに手を伸ばす。見開かれた両眼からは涙すらも出ていない。
何か言いながら、夫だったモノに触れようとした。



 『これで2人きりだね、お母さん』



 始めて声が聞こえた。それは男児の声だった。

 夫だったモノに手を伸ばしていた母親が彼の方を見る。

 彼は笑っていた。とても愛らしい、綺麗な笑顔を浮かべていた。無邪気過ぎるくらいの、笑顔。

 母親は凄まじく険しい表情を彼に向けた。眉を眉間に寄せ、狼のように鼻に皺を作った。



 何か叫んだ母親。彼女の声は聞こえない。何か喚きながら彼女は少年に向かって手を振り上げた。

 咄嗟だったのだろうか。驚愕の表情を浮かべた彼は、頭の前で腕をクロスさせた。

 半透明で檸檬色の障壁(バリア)が現れ、魔力を込めた母親の拳がそれに当たった。

 恐らく凄い音がして、母親も叫び声をあげたのだろう。母親の体に電流が流れたのが見えた。バチバチと音が聞こえてきそうだった。

 母親は弾き飛ばされ、再び肉が焼け、血液が蒸発する臭いがした。強い電流を体に流され、母親は焼けたのだ。

 真っ黒に焦げた肉塊と化した女。父親と違って、まだ悪魔だったのだと分かるくらいの形は保っている。

 自ら殺した母親を、呆然として見下ろす男児。若菜色の双眸は限界まで開かれている。



 私はもう理解した。この幼い男児はミハイルだ。そしてこれはミハイルの記憶。

 覚えている。私はこの話をミハイルの口から聞かされたことがある。一体いつ聞いたのかは覚えていないが、確かに聞いたのだ。

 両親を殺してしまった少年、ミハイル。彼は床に崩れ落ち、焦げた母親の肉塊に手を伸ばした。母親が父親だったモノにそうしたように。

 ミハイルは何か譫言のように呟きながら、異臭を放つ母親だったモノに触れ、直ぐに手を引っ込めた。

 遂にミハイルの両目から涙が溢れた。何かを叫び、自分の両手を何度も床に叩きつける。

 溢れたものは涙だけではなかった。

 彼が自分の口を手で押さえた瞬間、そこから胃の中の物が溢れ出た。吐瀉物がボタボタと床に落ちる。

 痛々しい少年の姿。とても今のミハイルからは考えられない。

 彼は母親を、殺したくなんかなかったのだ。父親のことも、幼くしてあんなに強大な力を持っていなければ殺そうとなんか思わなかっただろう。

 ミハイルは罪深く、可哀想な悪魔だ。彼は最愛の者、母親を殺してしまった。彼の心が満たされることなど、もう無いのだろう。

 そして彼が私にこんなにも執着するのは、私の顔がが彼の母親の顔に似ているから。彼自身がそう言ったのだ。

 確かに彼の母親は、私と同じ長い銀髪に淡い青紫色の瞳という、少し特殊な髪と目の色をしていた。そして私はやや女性的な顔立ちだと言われる。

 彼は私を愛しているのかーーもしかしたら違うのかも知れない。それでも私は彼を愛しているし、彼も私を離しはしない。

 これでも良い。私は彼といたい。

 たとえ何を思い出せなくても。

 今の私が偽りであったとしてもーーーー






 ミハイルは目を覚ました。

 カーテンはすでに開かれ、朝日の眩しさに目を細めながら体を起こす。ベッドに座ったまま横を見ると、床にニコライがいた。

 黒のタンクトップとスウェットを身につけたニコライが、長い銀髪を後ろで束ねて腕立て伏せをしていた。露出された耳朶には先日付けた青いピアスが光る。

 「68……69……」

 彼の軍人だった頃の習慣だ。いつもミハイルより早く起きて、体を鍛えている。何年もやっていて、居場所が変わったからと言ってそうそう変えられる習慣でもないのだろう。

 「おはよう、コーリャ。今朝も早いね」

 「72……おはようございます。74……」

 僅かに首をこちらに向けながら挨拶を返してくれたニコライに、ミハイルは微笑む。この腕立て伏せは100回まで続く。

 ノロノロと全裸のまま立ち上がったミハイル。魔力を纏った彼はこの特に気温の低い地方の朝に全裸でいても大した寒さを感じない。むしろタンクトップでいられるニコライの方が凄い。家の中で運動をしているとはいえ、寒くはないのだろうか。

 ミハイルはペタペタと裸足で洋服箪笥(たんす)に近づき、中から下着を取り出す。

 ちなみにニコライが着ている服はミハイルが街で買って来たものだ。彼の服はニコライには小さすぎる。

 彼が人間界の金をどうやって手に入れているかといえば、金持ちからの盗みがほとんどだ。彼の魔力を駆使すれば、それは容易いことだった。

 ミハイルがのんびりと下着を着け、ズボンを履いている間にニコライの腕立て伏せが100回終わった。次はいつも通り上体起こしだろうと踏んでいたミハイルは、予想に反して立ち上がったニコライに振り返る。

 「ん? 今日は終わり?」

 「ミーシャ」

 真っ直ぐにミハイルを見つめるニコライ。少し息が上がり、頬は赤みを帯びている。

 「私に夢を見させましたか?」

 彼の質問に、ミハイルの笑みが僅かに曇ったように見えた。

 「……さあね」

 「ミーシャ、私は覚えていますよ」

 「何を?」

 「あなたは以前、私に子供の頃の話をしました。あなたは自らの手でご両親を殺した」

 「だったら?」

 冷めた声色だった。何も映さない悪魔の瞳。

 「だから君は俺の母親の代わりになってくれる? 違うよね? なれないもの」

 「でもあなたは母親に似た姿の私を抱く。私にあの夢を見させたのは、私にあの過去を知ってほしかったからですか? ……私を愛しているわけではないことを伝えたかったのですか?」

 ニコライの言葉に、ミハイルは自嘲混じりに苦笑した。

 「そうかもね。もし本当に俺がコーリャを愛してなかったら?」

 「……構いません。私はあなたを……愛していますから」

 「そう?」

 ニコライに一歩踏み寄るミハイル。少し高い位置にある彼の耳元に口を近づける。

 「まあ、大丈夫だよ。コーリャのことは愛しているから」

 そしてニコライの腰に腕を回し、首筋に口付けを落とす。

 「逃がしてって言われても、絶対に離さないからね」

 「はい……離さないで、ください」

 ニコライも右腕をミハイルの背中に回した。数センチメートルだけ背伸びをしたミハイルの唇が彼の唇と重なる。

 それは触れるだけの接吻で、何もせずにすぐ彼から離れるミハイル。

 「そろそろ朝ご飯、作るよ」

 「ええ」

 これ以上の言及は、ニコライには許されない。真っ白なシャツを羽織り、ミハイルは寝室を出て行った。

 その場に取り残されたドアが閉まる音と、ニコライ。

 彼は右の掌に視線を落とす。悪魔の背中に回したその手は震えていた。これは寒いからではない。

 ーーーー怖い。

 あの悪魔に愛されたい。愛している。なのに怖い。

 「何でっ……」

 ニコライは、恐怖を押し殺すように掌を握りしめた。








 銀のフォークが、ニコライの手から離れた。

 「どうしたの?」

 食事をする手を止めてしまったニコライに、ミハイルはそう尋ねた。

 テーブルにはクロワッサンにオレンジ、サラダ、スクランブルエッグ、珈琲という朝食が並んでいる。決して量は多くない。

 「……すみません」

 「また、食欲がないんだね」

 「はい……すみません」

 「別に謝らなくてもいいけれどさ、あれだけ運動してそれだけしか食べないのは危ないよ」

 「わかってます」

 でも食べられない、という言葉は省略された。

 手を動かそうとしないニコライに軽くため息を吐くミハイル。

 「……わかったよ」

 彼はそう言って椅子から立ち上がり、台所に消えた。

 ニコライは頭に疑問符を浮かべたままだが、座って待つことにした。

 最近は食欲がない日が続いている。ここ数日間の話だが、日に日にそれは酷くなっている。今も、これ以上食べるかと思うと吐き気がするのだ。

 原因はニコライには分からないが、ミハイルは知っているのかも知れない。彼はまだニコライに尋ねたことがないーー「どうして食べられないの?」と。

 ミハイルが台所から、1つマグカップを持って戻ってきた。

 「せめてさ、これ飲んでよ」

 そう言って彼がニコライに差し出したのは、カフェオレだった。

 「カフェオレには糖質、脂質、アミノ酸、それにカルシウムも含まれてる。飲んで」

 「ありがとう、ございます……」

 差し出されたマグカップを、微笑を浮かべて受け取ったニコライ。ミハイルが本当に自分のことを心配してくれていると思うと嬉しくなる。本当はそれを飲むことすら辛いが、マグカップに口を付けた。

 ゆっくりと少しずつカフェオレを飲むニコライを見つめるミハイル。最初は微笑んでいたが、徐々にその表情に憂愁が含まれていった。恐らくそちらが本当の表情なのだろう。

 「ごめんね、コーリャ」

 「はい?」

 「俺が……悪魔でなければ、よかったんだ」

 彼らしくない、辛辣な口調で言われた言葉。その意味は分からなかったニコライだが、彼に笑顔を作ってみせた。

 「私が天使でなかったら、あなたをそんな顔にさせなかったのでしょうか?」

 彼にそう言われたミハイルは、やや驚いた顔になった。

 「まさか君がそんなこと言う日が来るなんてね」

 そう言って彼が見せた表情は、苦笑だった。

 彼のその表情の意味も分からないニコライ。

 「どういう意味ですか?」

 「……君は自分が天使であることに誇りを持っていた」

 断定的な彼の言い方に、ニコライの中に更に疑問が広がる。

 天使であることへの誇り?そんなもの持っていただろうか。持っていた気もするが、少なくとも今の自分にはない。悪魔であるミハイルと一緒にいて、彼に抱かれることに喜びすら感じているではないか。

 「私はあなたが幸せならばそれでいい。そのためなら誇りなんて無くても構いません」

 「……そう。ありがとう」

 謝辞を述べたものの、ミハイルの顔は明るくない。カフェオレを一口飲んだニコライに、彼は再び口を開く。

 「でもね、コーリャ」

 「はい」

 「君を君たらしめるものすら捨ててしまおうとするのはやめて」

 「……私を私、たらしめるもの?」

 オウム返しに聞いてきたに、ミハイル。

 「うん。君は君だ。俺に愛されるためのお人形じゃない」

 「…………」

 ニコライは難しい顔で唇を噤んだ。銀の睫毛に縁取られた美女桜の瞳が、探るように彼を見つめる。

 1つ溜め息をつくミハイル。

 「早くそれ飲んで」

 会話を打ち切ろうとするかのようにそう言われ、ニコライは再びマグカップに口を付けた。

 ミハイルも食事を再開する。

 食事中、それ以上2人が話すことはなかった。








 窓辺に置かれた椅子に座った青年の天使がいた。膝の上に本を置いて眠っている。

 彼の寝顔を見下ろす悪魔、ミハイル。

 「コーリャ……」

 眠っている天使、ニコライ。窓の外からの淡い日に照らされ、やや濃いめの陰影をその美しい顔に作っている。

 「また寝てるんだね?」

 小さな声で呟いて、ミハイルは彼の額に接吻した。

 ニコライは食欲不振になり始めた頃から、よく居眠りをするようになった。彼は他人にあまり隙を見せない男だ。天界にいた頃はそうであったはずがない。

 「まだ、2週間じゃないか……」

 彼に触れようとしたミハイル。しかし寸前で手を止めた。そして彼を起こさずに、背中を向けてその部屋を出て行った。

 早足で居間から玄関に足を進め、ドアを通り抜け、外に出る。

 雪の積もった山奥。今朝は曇っている。

 木々に囲まれた家の前に立つミハイル。今日も水の球体を掌の上に浮かべる。その顔は不機嫌そうだ。

 「また来たの?」

 その中に映っているのは昨日と同じ、4人の男女。ミハイルは彼らを面倒臭そうな目で見た。

 1度空を仰ぎ、ゆっくりと息を吐く。

 「……全く」

 パシャン、と水の球体を崩し、地面に落とす。水は積もった雪を僅かに溶かした。

 「レオ君、君が来なくとも時期にコーリャは解放されるさ」

 ミハイルの体から、檸檬色の光が発される。

 「肉体からね」

 檸檬色の光はミハイルの姿を隠しーーーー彼諸共、消えた。







 山の麓に3人の男と1人の女性がいた。

 雪の積もる、誰もいない寒い土地。コートを着た彼らは一様に険しい表情をしている。

 「やっと見つけたってのに、やっぱ入れねぇのか」

 そう言ったのは、長身で白い肌に黒い瞳、ウェーブのかかった短い黒髪の青年ーーレオ。

 彼の直ぐ隣にいる青年が、山を見上げる彼の背中を軽く叩く。

 「何か入る方法を考えよう。4人いりゃなんとかなるさ」

 レオをそう言って励ましたのは茶色の短髪にクールグレイの瞳を持つ天使、ディーマ。

 彼の言葉に、頷くもう1人の男性。

 「ああ、魔力で目隠しされていたこの山も見つけられた。大丈夫なはずだろう」

 彼は濃褐色の髪に琥珀色の瞳、鷲鼻の天使ーーヴァーシャ。

 入ることのできない森林を眺めながら、少し離れた位置にいる女性に話しかけるレオ。

 「なあ、ナターシャ」

 振り向く長い金髪に碧眼の美女ーーナターシャ。

 「なんですか?」

 「限度は4週間……だったな?」

 彼のその質問に、ため息を吐くナターシャ。

 「そうですね。はっきりとした記録ではないですが、長くて4週間です」

 「長くて、な」

 心ここに在らず、といった様子のレオに、ナターシャの代わりにディーマが口を開く。

 「レオ、焦りは禁物だ」

 「わかってる」

 レオは森林から2人に視線を戻した。 彼の鋭い目つきは昔からだが、最近は更にキツくなったように思われる。

 「行こう」

 彼の一言に3人も同意して、その場を去ろうとした。

 しかし、



 「待ちなよ」



 4人の中の誰のものでもないテノールの声。

 彼らは振り返り、そこにいた男に目を見開いた。数メートル離れたところに佇む1人の男。金色の短髪を持つ、美貌の青年。

 一歩彼に近づき、ディーマに袖を掴まれたレオ。その金髪の青年を睨みつける。

 「手前ぇ……!」

 「やあ、久振りかな?レオ君」

 青年ーーミハイルは、豊麗な笑みを浮かべた。

 「殺されに来たのか、手前ぇ」

 「まさか」

 レオ、ディーマ、ヴァーシャ、そしてナターシャの前に突如現れた悪魔、ミハイル。ぶあっ、と押さえつけられていた彼の魔力の気配が放たれた。

 思考の読めない彼の笑顔を、レオは眉間に皺を寄せて睨みつける。

 「殺すっ……!」

 そしてレオの体からも気配が放たれる。魔力と神通力、両方の気配だ。レオは天使でも悪魔でもなく、同時にその両方であるーー強大な力を持つ天使と悪魔のハーフだ。

 濃厚に漂う魔力の気配に、ディーマとヴァーシャ、ナターシャは不快感を覚える。天使にとっての魔力はそういうものだ。

 レオの外套の袖を掴んでいるディーマ。

 「やめろよ、レオ」

 彼に咎めの言葉を受けたレオが振り返る。

 「ぅるっせえよ」

 レオは腕を軽く振ってディーマに袖を放させ、外套の下に装備していた一丁の拳銃を抜いた。

 グリップは茶色、銃身は銀色の、リボルバータイプでダブルアクションの拳銃。装弾数は6発、357口径。銃弾は強力な神通力、或いは魔力によって具現化される。

 その拳銃を見て、ミハイルは笑みを深めた。

 「……君が『ファンタジア』を使うの?」

 「悪いかよ」

 幻想曲ーー『ファンタジア』とはこの拳銃の名前だった。

 自分に真っ直ぐ射撃の焦点を合わせているレオを前にしても、ミハイルの楽しげな表情が変わることはない。

 「失ったお友達の形見?」

 彼のその質問に、目を見開くレオ。

 「黙れぇっ!!」

 パンッ、と響いた一発の銃声。

 金色の銃弾がミハイルに向けて発射された。

 同時に前に出されたミハイルの腕。突き出された掌に弾が貫通する直前で、それはピタリと止まった。

 弾はゆっくりと消えていく。水面に投入されていくかのように、空間から無くなっていく。

 「…………?!」

 ミハイル以外の誰もが、どういった魔力でそれが起こっているのか分からなかった。ディーマもヴァーシャもナターシャも、ミハイルに拳銃を向けたままのレオですらも、銃弾という鉛が空間から消え行くのを見ているだけだった。

 「君は確かに強いよ、レオ君」

 そう言って手を下ろすミハイル。

 「でも俺との力の差は、歴然だ」

 次の瞬間、レオの目にはミハイルが突然拡大したように見えた。実際にはそう思えるような速さで彼が接近してきたのだ。

 レオの目前に肉迫したミハイル。背の高い彼を間近で見上げる。

 「おいで」

 悪魔の手が、レオの手首を掴んだ。

 「離せっ……!」

 レオは彼から離れようとするが、彼はそれをさせない。

 慌ててレオに手を伸ばすディーマ。

 「レオっ!!」

 「ディーマ!」

 レオが振り返り、ディーマは彼の腕を掴もうとする。しかし、次の瞬間、レオとミハイルの体から檸檬色の強い光が発された。

 眩しさに目を瞑ってしまったディーマ。

 「レ、オ……」

 目を再び開いた時には、もう2人共その場から消えていた。

 「くそっ!」

 ディーマが固めた拳で自分の太腿を叩いた。

 「あと少しだったのに!」

 レオは一体どこに行ったのだろう。あの悪魔に何をされるのだろう。

 様々な不安を頭に過ぎらせるディーマの肩に、ヴァーシャが手を置いた。

 「大丈夫……殺されはしないだろう」

 「どうしてそう言える?」

 「そのつもりなら、さっき殺していた。私達共々ね」

 「……そうだな」

 ディーマは固めていた拳を緩める。

 「あんたがいてくれてよかったよ、ヴァーシャ」

 「そうかい?」

 意外な言葉をかけられて少し驚いた顔をしたヴァーシャに、ディーマ。

 「ああ。あんたは冷静だ。俺やレオはそんな風にできない。……俺達、どうする?」

 2人の側に近付くナターシャ。

 「あの2人、近くにいますよ」

 その言葉に、ヴァーシャは彼女を見下ろす。

 「分かるのですか?」

 「ええ、はっきりはわかりませんが……2人の気配を近くに感じます」

 「なら、暫くここで待とう。またここに戻って来るかもしれない」

 「ああ、そうだな」

 ヴァーシャに同意したディーマに、彼がクスクスと笑った。

 「ここでも指揮権は私かい? 変わらないね」

 彼の言動に驚いたディーマだが、笑みを見せて言う。

 「あんたが1番年上だし、適任だろうよ。モローゾフ中尉?」

 「その呼び方はやめてくれるかね」

 ディーマ、ヴァーシャ、ナターシャ、そしてレオは、つい最近まで天界軍にいた。

 そんな彼らが軍を辞めて人間界に降り立ったのは、ただ1人の天使ーーーーニコライ・フォン・ヴィノクールのためだった。








 「てっめぇ!離せ!」

 「だーめ」

 レオは、ミハイルに羽交い締めにされている。

 ここは恐らくミハイルの家がある山の中だろう。辺りには針葉樹の木々と降り積もった雪しかない。

  「何するつもりだ! ビッチ野郎っ!」

 「その汚い言葉遣いなんとかならないワケ?」

 自分より背の低いミハイルに羽交い締めにされたレオは中腰に近い状態で、辛い体勢になっている。

 神通力と魔力は使えない。そういった力を封じる特殊な革製の首輪がつけられてしまったのだ。本来は天使や悪魔の罪人にされるもので、普通に手に入る物ではないのだが、どこでミハイルは手に入れたのだろう。

  「ねえ、暴れないで? お話しようよ」

 「手前に話すことなんてねぇよ! ぶっ殺してやる!」

 「冗談はいいから」

 そう言ってミハイルはその場に腰を下ろした。必然的にレオは彼の足と足の間に座る形になる。

  「何のつもりだよ、ニーカを早く返しやがれ!」

 「ニーカ……って、コーリャのことね。そりゃ、無理かな?」

 「ふざけんてんじゃねぇよ! 手前といるだけでニーカは、うあっ……」

 レオに最後まで言わせまいとするかのように、ミハイルは彼を俯せに地面に押し付けた。立ち上がろうと足掻く彼の背中に膝を立てて動きを封じ、右腕を掴む。

  「君、暴れ過ぎだよ」

 「ああっ!」

 パキン、と彼の肩関節が外れる音がした。

 痛みに呻く彼の左腕も掴むミハイル。

 「まだ暴れるなら次はこっちだよ? 大人しくして」

 「クソっ……やめ、ろ……」

 レオが暴れなくなった。両方の肩関節を外されては堪らない。

  ミハイルが彼の耳元で囁く。

 「もう、ここに来るのはやめてよ」

 「馬鹿言ってんじゃねぇ」

 「君が来たってコーリャは喜ばない」

 「手前、ニーカを殺す気か」

 レオは微かに乱れたミハイルの息遣いを聞いた。僅かながらに初めて感じた彼の動揺。

  この悪魔と接触して、漸(ようや)く彼が生きていることを感じ始めた。あまりにも強く美しい彼が生物だとは思えなかったが、彼は今、ほんの少しの動揺を見せた。

  「分かってんだろ。このままじゃニーカは死ぬ」

 更に押してみると、ミハイルの膝がレオにかける体重が少し強くなった。

 「ぐっ……」

 「コーリャは生(せい)より俺といることを望むよ」

 「んなワケあるかよ。あんたの脳ミソはクソだな」

 「彼は俺に負けたときから、生なんて求めてない」

 あまりに断定的な、しかし信じがたいミハイルの言葉。

 レオは頭を動かし、真後ろにいる彼を見ようとした。よく見えはしないが、彼が無表情だということはわかる。

  「じゃあ、あんたはいいのかよ。あいつに死なれて」

 「…………」

 一瞬、ミハイルのレオの背中を押さえる力が緩んだ。その瞬間をレオが見逃すはずがなかった。

  勢い良く体を反転させ、ミハイルの拘束から逃れるレオ。右肩を左手で押さえながら素早く彼と距離を取った。

  「ーーーー!」

 少しバランスを崩したミハイル。しかし隙を突かれたと思った後の行動は速かった。レオが取った距離を刹那の間に縮め、彼が更に逃げる暇も与えずその鳩尾に魔力を込めた拳を叩き込んだ。

  「がはっ……!」

 鳩尾への強い打撃に横隔膜を刺激され、息を詰まらせたレオ。それでも左腕を振り上げ、力任せにミハイルの顔を殴った。

  「あっ!」

 ミハイルが殴られた顔を手で押さえる。

 バランスを保とうとしなかったレオはそのまま雪の上に倒れ、頭が後ろの木の根元にぶつかった。

 レオの肘はミハイルの鼻っ柱に直撃したらしく、溢れた鼻血が数滴、白雪を汚した。しかしその痣は魔力でみるみるうちに消えていく。

  「やってくれたね、レオ君」

 右肩を押さえて倒れたままのレオの目の前に立ち、彼を見下ろすミハイル。

 「やっぱり強いじゃない。右肩外れててここまでできる奴はなかなかいないよ」

 「……何で攻撃に魔力を使わねぇ」

 そう質問してきたレオの前にしゃがむミハイル。彼の黒い巻き毛を鷲掴みにした。

  「俺が魔力も神通力も使わない君に本気出したら、殺しちゃうかも知れないじゃない」

 そう答えたミハイルに、この悪魔はやはり自分を今すぐにでも殺せるのだと悟るレオ。これ以上の抵抗は無駄だ。

  「何で殺さねぇんだよ」

 「殺したくないから。だからもう暴れないで」

 何故殺したくないか、なんてレオは知らない。しかし経験でわかるーーミハイルは、絶対に他者を殺さない。

  「……俺はあんたを殺してぇよ」

 そう言うレオの黒い双眸には殺気が宿っていた。
 殺しの経験がある軍人ならではのその目つき。

 「ニーカを殺すなら、俺があんたを殺す。絶対にな。あんたがニーカに何をしたか知らねぇが、あいつはあんたを愛してなんかねぇ」

  彼の言葉に、少し目を細めるミハイル。

 「ふーん、大した自信じゃない」

 そう言って、彼はズボンに挟んでいた拳銃ーーファンタジアを抜いた。弾の装填されていないそれを、レオの腰に下がったホルスターに返す。

  「ねぇ、お願い。もう来ないで? 早くコーリャの中から消えて……彼を苦しませないで」

 「嫌だ。ニーカを誰よりも苦しませたのはあんただ」

 そう返答したレオの頬に、ミハイルの掌が飛んで来た。高い音が森林に響く。

  「がっ」

 「そう、なら精々頑張れば?コーリャを苦しめる為にさ。まあ、君たちが辿り着く頃には全て終わってるだろうけれどね」

 「なにーーーー」

 レオが言葉を返す前に、彼自身の体から檸檬色の光が溢れ出た。

 空間移動の魔力を彼の体に発動させたミハイルは嗤う。

 「バイバイ、レオ君」

 レオは言葉を発しようと口を開く。しかしその前に彼は、その空間から消された。







  バスローブを身に付けたミハイルが寝室のドアを開いた。彼の色素の薄い金髪はまだ乾き切っていない。

  カーテンの閉まった窓の外は、暗い闇が広がっている。時刻は10時を過ぎたところだ。

  「コーリャ」

 ベッドに近づきながら、ミハイルは愛玩する天使の名を呼んだ。灯油ストーブで部屋の中は暖かい。毛布の中から銀髪の男が顔を覗かせる。

  そこでミハイルを待っていたニコライ。電灯を1番小さくする彼を見上げた。毛布の中から現れた白い肩は、何も着けていないことを窺わせる。

  ベッドに座り、彼を見下げて赤い唇を開くミハイル。

 「ちゃんと起きてたんだ?」

 「ええ。あなたが待っていろと言いましたから」

 「また寝ちゃったかと思った」

 そう言ってミハイルは、ニコライの長い銀髪を撫でる。

 「よかった、起きていて」

 「……ごめんなさい。私、最近直ぐに眠くなるんです。何ででしょうかね……?」

 謝る彼に、首を横に振るミハイル。

 「それは君が謝ることじゃないよ」

 そしてニコライの薄く開いた唇を唇で塞いだ。直ぐに彼の口内に舌を入れて、ゆっくりと動かす。

  ニコライは入ってきた舌に自分の舌を絡ませ、ミハイルの腕を片手で掴んだ。すると彼は、キスを続けながら毛布の中に入って来る。自分の上に来た彼の背中に、ニコライは腕を回した。

  暫し、部屋には水音が響いた。

 銀色の糸を引いてミハイルが唇を離す。閉じていた若菜色の両目を開き、バスローブの前を開けた。

  ニコライの手がミハイルの股間に伸びる。

 「キスだけで勃ったんですか」

 「コーリャに触れてるんだもん。仕方ないじゃない」

 ミハイルはそう返答して、ベッドサイドの引き出しに手を伸ばした。

 ニコライには彼が何を取り出そうとしているのか見えない。

 「ミーシャ……?」

 「ん?」

 「…………?!」

 ミハイルが引き出しから取り出した物に、ニコライは驚愕した。

 茶色で木製の柄。ピンッ、と折り畳まれた刃がそこから現れた。

  ポケットナイフだ。

 途端、ニコライの脳裏に浮上する記憶の断片。前にも同じような光景を見たことがある様な気がする。

  向けられた刃。流れる血液。犯された体。与えられ続ける激痛と快楽、そして屈辱。

  「い、や……」

 ニコライの震える唇から、漸(ようや)く発せられた言葉に、ミハイルの口角が上がる。

 「怖いの?」

 彼の頬に手で触れるミハイル。

 「可愛い」

 そして、ナイフを彼の左肩に当てがう。

 冷たく鋭利な金属の感覚に、ニコライは僅かに体を震わせた。そのまま力を込められ、冷たさはピリッとした痛みに変わる。

  「あっ」

 「抵抗、しないの?」

 次の瞬間、ミハイルは更に力をかけ、一気にナイフをそこに滑らせた。

 「うああっ!」

  痛みに目を見開くニコライ。中指の長さほどの切り傷。そこから溢れ出す紅い血液。皮膚を切り裂き、肉までもが見えている。それなのにニコライはミハイルのバスローブを片手で握り締めるばかりで、逃げようともしない。

  溢れた血に口をつけるミハイル。唇に付着した血を舐めとった。

  「綺麗だよ、コーリャ」

 「やめてください、ミーシャ……」

 「愛してるんだ」

 ナイフの切っ先が、ニコライの鎖骨に押し付けられる。紅が滲み出て、彼は痛みに小さく声を上げる。

  彼の痛がる姿に、ミハイルは笑みを崩さない。

 「エロいね」

 鎖骨の上を滑る刃。白い肌に、また紅い筋が走る。低音の喘ぎがニコライの喉を震わす。

  傷口に舌を這わせるミハイル。その血液の味を、痛みに喘ぐニコライの姿を楽しんでいるのだ。

  彼は白い体を切りつけるという行為に欲情している。ニコライにはそれがわかった。しかしそれならば、それで彼を満足させられるならばーーーーこの苦痛を、甘んじて受けよう。

 「っあ、う……」

 唐突にニコライは、ミハイルに後孔を触られた。指先がそこに侵入しようとしてくる。

 その間にもミハイルのナイフを持った右手は、ニコライの皮膚に切り傷を付けていく。鎖骨の下に紅い線を引くナイフと、後孔を押さえる指。

 「う……あぁ、ミーシャ……痛、い」

 「……入れるよ」

 「ああっ!」

 ずっ、とニコライの後孔にミハイルの2本の指が一気に入り込んだ。切られるのとは別の鈍い痛みと異物感が彼を襲い、ミハイルの指を強く締め付けた。

 「もう何度も入れてるのに、コーリャのここはいつも初めてみたいだ」

 「くっ、うぁ……」

 ニコライが感じるのは苦痛しかない。ミハイルの指は中を無作法に動き、切り傷はズキズキと痛みを発しながら血を流した。

 この感覚にニコライは既視感(デジャヴ)を感じている。前にも目の前の悪魔は自分に今と同じようなことをした。しかし、いつのことなのか、本当に現実にあったことなのか、一行にわからない。

 「んあっ……」

 ミハイルの指が前立腺に触れ、ニコライは上ずった声を上げた。

 「ここ、気持ちいいんだよね?」

 「う、あ!はぁっ……」

 散々痛め付けてきてからの、快感。ニコライの性器は興奮し始めてきた。

 ミハイルが彼の額に唇を落とす。

 そして、前立腺を指で刺激すると同時に、ナイフで彼の胸元を深めに切った。

 「うあぁあっ!」

 強い痛みと快感に、ニコライの背中が反る。溢れ出した血液が毛布と白いシーツを汚した。

 ニコライの後孔から2本の指を引き抜くミハイル。

 「痛い? それとも……気持ちいい?」

 「……っ、あ……」

 荒く息を吐くニコライ。彼の後孔に、ミハイルは自分の勃起した性器を当てがった。

 「痛みも快感も、喜びも悲しみも、愛も……恐怖も、全部俺が与える。ねえ、コーリャ……ニコライ。君は誰のもの?」

 コンドームもしていない性器の先端が、ニコライの中に入り込む。

 「ああっ……私は、あなたの……ミハイルの、んあっ!」

 「そう、君は俺のものだ」

 そして一気にミハイルの性器が、ニコライの中に押し込まれる。

 「ああぁあっ!」

 あまり慣らされていなかった後孔に性器を強く締め付けられるミハイル。

 「ん、あ……凄いね」

 今の彼にニコライに快楽を与えようという気はないようだ。握っているナイフを再び彼に押し付けた。今度は鳩尾に辺りに。

 「く、ううっ!」

 白い皮膚が切り裂かれた。痛みに耐えようとし、ニコライは自然と自分の中の性器を締め付ける。

 「はぁっ……」

 ミハイルの艶かしい吐息が聴こえたかと思うと、いきなり奥を突かれた。

 大きく喘ぐニコライ。前立腺を突かれたわけではないので、痛くて仕方がない。美女桜の双眸に涙が滲んだ。

 ニコライの肩から下がどんどん紅く染まっていく。こんな痛みもこの光景も、彼はどこか既視感を覚えた。

 その既視感を探る暇もなく、ミハイルは切りつけてくる。先程の紅い線とクロスするようにナイフを動かす。

 「ぅあ、あああっ!」

 「ん……切る度に締め付けてくる。気持ちいいよ、コーリャ」

 微笑んでいるミハイルを見ながら、ニコライの両眼からは涙が溢れ出す。

 「もう、嫌です……痛、あうっ!」

 またニコライの奥を突き上げた性器。下腹部に鈍痛が響く。

 次々と涙を溢れさせる彼の頬を、ミハイルは左の掌が包んだ。

 「嫌かい? コーリャ。もうやめてほしい?」

 優しい声色でそう尋ねられたが、ニコライは苦痛で思考もままならない。

 「……あなたが、したいなら」

 「ん?」

 「あなたの好きにすればいい」

 彼の回答に、左の掌で包んでいたその頬を殴るミハイル。呻く彼を冷たい瞳で見下げる。

 「それは軽蔑かい?」

 言葉を発すると共にニコライを突き上げ、喘がせる。

 「俺がこういうことが好きだってことに対するさ」

 「ああっ、違……くあっ!」

 「軽蔑して、理解できないと諦めて」

 「くうっ……う、ああ! ミーシャっ!」

 「それで俺の行為を受け入れることで、理解したフリをする」

 何度も何度も、突き上げられる度に苦しげな声を上げるニコライ。彼の銀髪をミハイルの左手は鷲掴みにした。

 「いいさ、君に理解してもらう必要もない。……苦しむ顔も、素敵だよ」

 そして腰を動かしながら、彼の耳元で悪魔は言うのだ。

 「可愛い。愛おしくてたまらないよ、コーリャ」

 「嫌、うぁあっ!」

 ズン、とニコライの中にミハイルの性器が入り込む。

 痛みと同時に、中に生温かい液体が広がるのを感じたニコライ。そこに射精されたのだ。

 「……っ、はあ、う……」

 握りしめていたミハイルのバスローブを放す。涙が銀髪の方へ滑り落ちていく。

 ミハイルは片手で彼の涙を拭い、その唇に接吻する。

 優しい口付けに、両眼を閉じたニコライ。快感をほとんど感じない性交だった。ナイフで切られ、血を流す傷口が熱を持ち、痛む。

 唇を離すミハイル。顔は至近距離のままで、言う。

 「終わりだなんて言ってないよ」

 「え……?」

 愕然とするニコライの表情に、ミハイルの口元に笑みが浮かぶ。

 「夜は長いんだ。さあ、もう1回」

 「や、ぁ……」

 ニコライの手が、再びミハイルのバスローブを掴む。

 長い夜は、まだ彼に痛みを与えるのだった。








 夜。

 レオ、ディーマ、ヴァーシャの3人は焚き火を囲み、ナターシャがその横で毛布を被って横になっている。

 場所は廃屋で、ミハイルの家がある山の近くだ。

 「しかし、どうすんだよ。あの結界」

 ディーマは冷えた手を擦りながらそう言った。レオとヴァーシャより扱える神通力が強くない彼は、神通力による防寒も2人よりはできない。

 手元のカップに入った珈琲を一口飲むレオ。

 「やっぱり俺の神通力じゃ壊せそうにないが……あの結界、あまり安定したもんじゃねぇな」

 結界とは、ミハイルの家がある山全体にミハイルがかけているものだ。更に目隠しと呼ばれる魔力もかけられており、あの山の存在自体が他者に認識できないようにされている。

 その目隠しを見破ったレオの言葉に、ヴァーシャ。

 「不安定なのかい? あの結界」

 「ああ。そもそもあの山には最初……ニーカが任務であの山に行った時は、結界なんて無かったはずだ」

 「うん。ヴィノクールさん程の力があれば目隠しをすぐに見破っても不思議ではないけれど、あの結界は壊せないだろうね」

 レオ達は目隠しを見破るのに5日かかった。ニコライはおそらく、数時間で見破ったのだ。

 「あの悪魔は俺の魔力と神通力を封じるのに道具を使った。つまりあいつにはあまり余裕がないんだ」

 レオの見解に、ディーマ。

 「自分の家全体に神通力封じの魔力をかけ、山には目隠しと結界。最強の悪魔でも楽じゃないだろうな」

 「ああ。だから、あの結界は何か……例えばあいつに大きな精神的な乱れがあれば、崩れやすくなるかもしれない」

 「精神的な乱れぇ?」

 ディーマは眉を眉間に寄せる。ミハイルの心を乱すようなことなどあるだろうか。恐れを知らなそうな、あの悪魔の。

 手に持っていたマグカップを薄汚れた床に置くヴァーシャ。

 「レオはあの結界の不安定さを感じるのかい?」

 「たまにな。魔力の気配が弱くなるんだ。でも、まだ壊せそうなほど弱くなったことはない」

 「君でも無理、か」

 レオの魔力と神通力での攻撃力は極めて強い。攻撃力だけならニコライにも劣らないほどだ。

 ヴァーシャも神通力の扱いは上手いが、治癒や後方支援向きで、単体の攻撃力はあまり高くない。ナターシャは魔力や神通力を感じる能力は強いが、攻撃のための神通力をほぼ知らない。

 4人の中で結界を壊せそうなのはレオしかいないのだ。

 レオはカップに入った残りの珈琲を全て飲み干した。

 「常にあの悪魔の魔力に意識を向けてりゃあどっかで弱まるかもしれねぇし、あいつは俺達を見るだけで少し魔力を乱すんだ。チャンスはないわけじゃねぇよ。明日もあそこに行こう」

 彼の言葉にディーマとヴァーシャは頷いた。4人の間に沈黙が降りる。ナターシャは寝ているのか会話に入る気が無いのか、一言も喋らない。レオの手が、焚き火に薪を一本入れた。

 彼の炎に照らされて赤く見える顔をディーマは見つめる。少し顰められた眉。ここ最近の疲労のせいだろう。

 「レオ」

 「ん?」

 「無理すんなよ」

 ディーマにそう言われたレオは、視線を炎の方に戻した。黒い虹彩が赤くなる。

 「……悪りぃ、そりゃあできねぇ」

 そして一拍置いて、また唇を開く。

 「今無理しねぇと、絶対後悔する。……ニーカを、失うんだ。今度こそ二度と会えなくなる」

 レオの返答に、クールグレイの瞳を伏せたディーマ。黙ったまま右手を伸ばしてレオの頭を撫でた。彼はその手に左手を乗せる。

 「いつも、ニーカのあの時の顔が忘れられない」

 「ああ」

 「今度こそ、助けるんだ」

 「ああ……そうだな」

 4人の中ではレオとナターシャだけが見ていた、2週間前のあの瞬間。ニコライが悪魔に連れ去られた時のこと。

 あの時レオは、必死にその右手を伸ばしたのだ。

 怯えた瞳をした、ニコライに向けて。

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