郷土を離れようとするまさにその時に親父の名を出されて、途端に俺は警戒心を強める。
「……そうだけど」
素っ気なく返事をすれば、男は安堵の笑顔を見せた。
「やっぱり。じゃあ、あんたが一志さんなんだ。お父さんに似てると思った」
こんなところで、見知らぬ男に自分の素性を暴かれてしまう。これだから田舎は嫌なんだ。心の中にどす黒い澱が溜まっていく。
地元で知らない者はいない名士。その訃報は地域の新聞にも載っていたはずだった。
親の跡目を継ごうともせず逃げるように上京した放蕩息子がいるという噂も、この男は当然知っているのだろう。
「急な訃報で、大変だったでしょう。お悔やみ申し上げます」
感情の籠らない紋切り型の言葉を掛けられて、俺は吐き捨てるように言葉を返す。
「やめてくれ。あんな親父、死んで清々してるぐらいだ」
俺の本音に男は一瞬目を見開いて、愉しげに表情を緩めた。
「へえ……そうなんだ」
男に対して美しいという形容詞を付けるのは、間違いだと思っていた。 それでもこの男は、紛うことなく美しい顔で俺を見つめ、涼やかな笑みを浮かべる。
「一志さんって、正直な人なんだね」
夜の海を彷彿とさせる漆黒の瞳の中で、焔のように光が揺らめく。その小さな煌めきに気づき思わず目を凝らせば、男は興味深そうに俺を見つめ返した。
2つの眼差しが縺れて絡み合う。
「親父は嫌われ者だったから、死んで喜んだ人間の方が多い。俺もその一人というわけだ」
俺の言葉に頷くでもなく、男はただ獲物を捕らえるような瞳で俺をじっと見ていた。
終点でバスを降りれば、もう午前0時を回っていた。
先程の男も俺のあとに続いてステップを降りてくる。タクシーに乗ろうとロータリーへ向かって足を踏み出した途端、後ろから声を掛けられた。
「一志さん」
振り返れば、少し離れたところに立ち尽くす先程の男が目に入った。
「家の鍵を、向こうに忘れてきたかもしれない。今夜一晩、泊めてくれないかな」
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