after Plastic Kiss[1/2]

夜明けが近づこうとしている。
黎明を迎える世界は静かで美しく、辺りに人ひとりいない。まるで異世界に迷い込んだようだ。
煌々と光り輝くタワーマンションを見上げる。バベルの塔みたいだと、つくづく思う。
天に続く高さの塔を、人はつくり続ける。神様はそれを赦すのだろうか。
或いは、いくら努力したところで天まで届く建物をつくることはできないと踏んでいるのかもしれない。
人が思う以上に、空はずっと遠い。
『アスカ』はどんな思いでここにいたのだろう。
俺には想像もつかないけれど、その頃よりも今は幸せを感じていると信じたい。
それにしても、こんな超高層マンションの最上階に住むのもどうかと思う。
これだけの高さなら、地震があればさぞかし揺れるんだろうな。エレベーターが止まったら大変そうだ。そういう下世話な考えしか思い浮かばない。
まあ、俺には無縁の世界だけど。
不意にエントランスから出てきた人影が視界に入った。

──ああ、よかった。

向こうもすぐに気づいたようだ。小さなバックパックを抱えた長身のシルエットが、迷いのない足取りで近づいてくる。

「わざわざ見送りに来たのか。意外と律儀だな」

低く艶やかな声が、俺を揶揄するようにそう告げた。

「ああ、そうだよ。嬉しいだろ」

そんな言葉を返せば、PLASTIC HEAVENのマスターは口角を上げて俺を見る。しばらく一緒に店で働いていたからわかる。これは、気をよくしている表情だ。
からかったつもりだったのに、まんざらでもなさそうだ。
一瞬強く風が吹いて、マスターの顔にかかる伸びっぱなしの髪がさらりと揺れた。涼やかな眼差しが、興味深そうに俺を見つめている。
こうして至近距離で向かい合えば、腹が立つほどいい男だと改めて思う。

──だからって、負けるつもりはないけどな。

あの四日間を経てから、慌ただしく一ヶ月が過ぎようとしていた。
飛鳥は今のところ俺の家に住んでいて、キリ良く後期の授業から大学に復学することになっている。
飛鳥が『仕事』で稼いだ金は、当面の生活費や学費として必要だからとマスターから受け取っていた。『四日間で五万円の契約』を積み重ねて得た金だ。
けれど飛鳥名義の口座に振り込まれたその額を見れば、大幅に上増しされていることは明らかだった。全く、とことんいけ好かない奴だと思う。
マスターはPLASTIC HEAVENから手を引いた。店の経営を他の者に任せて、自分はもう一切関与しないのだという。
近頃では、『四日間だけ契約できるアスカ』の噂を聞いて店を訪れる者が後を絶たなかった。いい加減潮時だったと俺も思う。
PLASTIC HEAVENに行っても、もうアスカには会えない。
マスターがしばらく旅に出るという話は、飛鳥から聞いていた。けれど、当の本人は見送りに行かないと言い張るので、こうして俺が代わりに来たというわけだ。今朝旅立つという風の噂を信じて、こんなに朝早くから。

「待つ覚悟はしてたけど、早く出てきてくれて助かったよ。あ、言っとくけど飛鳥は来ないからな」

「わかってる」

短くそう答えて、マスターは目を細めた。淡い色をした双眸が光を反射して艶やかに煌めく。
異国の血が混じっているかのような顔立ちだ。海を渡ればその地に馴染む、国籍を感じさせない容貌をしている。マスターにはバーを経営する前にもあちこちの国を放浪していた時期があったらしい。

「で、どこへ行くんだ」

「ひとまずマラケシュを目指す。あのエネルギッシュな空間が好きなんだ。カサブランカでモスクを見て、あとは気の向くままに放浪したい」

モロッコか。
アフリカの北西部に位置する国は、この場所から途方もなく遠く感じられる。

「あのさ。どこへ行ってもかまわないけど、ひとつだけ約束しろよ」

そう切り出せば、マスターは意外そうな顔をしてこちらを見た。

「絶対に帰って来てくれ。飛鳥が悲しむから」

この男は、もう二度と俺たちの前に現れないんじゃないか。俺にはそんな予感がしていた。
一瞬面喰らったような表情をして、それからマスターは形のいい唇を緩やかに歪ませた。

「……随分、余裕だな」

「うるさいな」

余裕なんてあるわけがない。俺は飛鳥がこの手を離さないかといつも怯えている。それでも、あのきれいで淋しがりやの飛鳥が俺の傍にいたいと思ってくれる限り、共にいようと思う。

「わかった」

マスターはそう言って、一歩前に踏み出す。距離を詰められて急に縮んだ間隔に、思わず後ずさろうとした瞬間、嫌味なぐらい整った顔が近づいてきた。
全ては一瞬だった。
唇が触れるだけの、軽いキス。

「……おい」

慌てて離れながらそれだけを言って、二の句を失う。心臓が嫌な音を立てて鳴っている。この期に及んで気でも触れたんだろうか。

「それはお前にやったんじゃない。託したんだ」

ニヤリと笑いながらそんなことを言われて、俺はようやく理解する。
今のは、飛鳥に対する別離のキスだ。

「バカ」

罵倒してやりたいのに小声でそう言い返すのがやっとだった。俺は自分が思っていたよりマスターのことを嫌悪していなかったんだなと、今更ながら気づいた。
だからと言って、何がどうということもないけれど。なんだか無性に悔しい。

「頼んだぞ。じゃあな」

鳶色の瞳がクリスタルガラスのように煌めく。そうだ、次は俺が、飛鳥を託されたんだ。
無言で頷けば、マスターは満足げに微笑んで俺に背を向けた。
妙な余韻を残したまま、長身の後ろ姿が遠ざかっていくのをしばらく見届けていた。
白んできた空が、夜明けを連れてくる。
塔の向こう側から、目映い光が昇り始めていた。
深く溜息をついて、俺は朝日を背に足を踏み出した。







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