僕はミツキの家へと戻っていた。
二人でありふれた会話を交わし、共にキッチンに立ち、夕食を作った。
それから小さな円卓を囲んで、笑い合いながら食事を済ませた。まるで、ずっと昔からそうしていたかのように。
交互に入浴を済ませて、ひとつのベッドに潜り込む。これまでに感じたことのないぐらい、清々しい気分だった。
こうしていると、今日あったことが夢の中で起こった出来事のように思えてくる。
天井を見つめていると、ミツキが僕をそっと抱き寄せてくれる。その体温に縋るように、僕も抱き返した。
本当に気持ちよくて、心臓がどくりと大きな音を立てる。
ミツキは僕のことを好きでいてくれる。何も持たない、こんなに弱い僕のことを。それが奇跡のようだと思った。
人肌の心地よい温もりは、穏やかな微睡みを連れてくる。
「……セックスしないの？」
そう口にした途端、ミツキがおかしそうに吹き出した。
「お前が望んでくれるなら、すごく嬉しいよ。でも、今はしない」
僕の髪を梳く手つきは優しく、うっとりとしてしまう。まるで猫になったみたいだ。
「俺でいいなら、これからもアスカとずっと一緒にいる。それが駄目だって言うのなら、ものすごく未練たらたらだけど、仕方なく離れる。友達に戻りたいって言われたら、また話は違ってくるかもしれないけど……今更アスカを友達として見るのは、まあ無理だな」
「正直だね」
「正直だよ、俺。思ったことはすぐ口に出すから」
肌を寄せ合うことが時にどれだけ大切なことかを知っている。けれど、こんなふうに身も心も満たされた気持ちになるのは随分久しぶりだった。
「アスカのことが大好きだ」
その言葉に、とくとくと軽やかに心臓が跳ね上がる。高鳴る鼓動は、ミツキに対して抱く想いを僕が自覚するよりも雄弁に物語っていた。
「これはPLASTIC HEAVENのマスターがアスカのために準備した四日間だ。だから、俺は余計なことをしない。この話を引き受けた時から、そう決めてたんだ」
腕の中でそっと頷く。サキに全てを託されたユウは、責任を持って最後まで僕の面倒を見てくれた。けれどそれは終わりを告げる。この四日間と共に。
淋しくないと言えば、嘘になる。ユウの手元で大切に守られてきた時間は、僕にとって有意義で掛け替えのないものだった。
もう、日付けが変わろうとしている。
サキと過ごした年月も、サキを失ってから彷徨い続けてきた日々も、僕はけっして忘れることはない。
全てを忘れずに、前を向いて生きていく。
ふと針が剥き出しになった掛時計を見上げる。アユムくんが、過去に戻るために動かそうとした時計の針。
僕も過去を遡りたいと何度も願った。どこかへ戻って、やり直すことができたらと。
けれど今は、この時の流れに抗うことなく生きることを選びたい。
「愛してる」
呼吸するように、するりと唇から言葉がこぼれた。ミツキが驚いたように瞳を覗き込んでくる。
胸を射抜くように真っ直ぐ注ぎ込まれるこの眼差しに、僕はいつも戸惑い、翻弄されてきた。
その瞬間、世界がゆっくりと反転していくのがわかった。
薄明かり。煌めく光の中。舞い上がる塵。
真夜中だというのに。
「……飛鳥」
僕の名を呼ぶ声が、鼓膜を優しく刺激する。
ああ、魔法が解けたんだ。
螺旋を描いていた細い糸が解けて、輝きながら降り注ぐ。
沙生の死を受け容れたこの世界は、涙が出るほどに美しい。
「愛してるよ、飛鳥」
愛を謳う穏やかな声に、僕は微笑みを返す。目を閉じれば、瞼の裏に宝石のような輝きが揺れ動いていた。
「光希、愛してる」
真上で針が重なる音が聞こえた。未来への祈りを込めて、僕達は口づけを交わす。
このキスはもうプラスチックじゃない。
「それとね。もうひとつ、飛鳥に言わなくちゃいけないことがある」
唇を離して、わずかに生まれた隙間を埋めるように光希はそっと囁く。
「誕生日、おめでとう」
──ああ、そうか。
日付けを跨いで、僕はひとつ歳を重ねていた。僕の彷徨っていた世界の扉は、閉ざされたのだ。
「ありがとう」
午前０時。
僕は、永い夢から醒めた。
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