君に捧ぐ恋モノガタリ[15/17]

「頼むから。那津!」

必死に声を張り上げた途端、クスクスと笑い声が聞こえてきた。もうしっかりと耳にこびりついている、あの穏やかで落ち着いた声だ。

「那津……!」

辺りを見渡すけれど、人影はない。これが幻聴であるはずがなかった。那津は、ここにいる。

『そんなに大きな声を出したら、近所の人がびっくりして起きてしまうよ』

優しく流れるような音声は、不自然に耳に木霊する。
どこかから聞こえてきてるんじゃない。この声は、頭の中で響いてるんだ。
それに気づいた途端、なぜだか安堵感に包まれていた。
那津がまだここにいるとわかっただけで、不思議なぐらい気持ちが楽になった。

「那津、出て来いよ」

会いたかった。もう、俺の知っている那津じゃなくても。

『残念だけど、僕はもう鷹村那津じゃないんだ』

「わかってる。それでも、最後にちゃんと話がしたい。強引に出て行くなんて、勝手過ぎるよ」

たとえ、どんな那津でもいいから。
意を決してそう口にすれば、ふわりとそよ風が頬を撫でた。ひんやりとした感覚に、思わず後ろを振り返る。
そこにあるのは、見たことのない光景だった。

まず目に飛び込んできたのは、ボールのような形をした球体だ。直径30センチ程だろうか。透き通った液体が仄かに青く発光しながら、ぽわんと浮かんでいる。
顔も身体もない、キラキラとした水の塊。

「那津……」

その球体が那津の姿だというのは、すぐにわかった。それが地球上のものだとは、とても思えなかったからだ。
音もなくこちらへと飛んできて、俺の鼻先の距離でそっと光が揺らめく。

『失望した?』

頭の中に自嘲気味な口調の声が響いた。
ふわふわと宙に漂いながら煌めくその姿を見つめながら、俺は大きくかぶりを振る。

「まさか。とってもきれいだ」

嘘じゃなかった。那津が俺の知っていた那津の姿を失ってしまったことは確かに淋しかったけど、目の前の存在は奇跡のように美しかった。
陽射しを反射する水面のように、揺らめきながら輝いている。

『ありがとう』

また小さく笑う気配がした。那津の顔がどこにあるのか、そもそも顔という概念があるのかもわからないけど、俺たちは確かに見つめ合っていた。

「ひとつ訊きたいんだけど」

『うん』

「那津の種族が、ここに移住する可能性はある?」

そう問いかければ、那津はしばらく押し黙る。やがて、淡々とした口調の声が聞こえてきた。

『僕が調査をした限り、ここはとてもいいところだ。僕たちにとっても住みやすいし、程よく文明が発達している、素敵な環境だと思った。だから、僕はほとんどの項目に一番いい評価を付けた。僕たちの種族は先住民を追い出すつもりなんてないんだ。きっと君たちとはうまく共存できると思う。だけど、僕たちの寿命は君たちよりも遥かに長くて、もし移住する計画が実現するとしても、もっとずっと先の話になる』

ゆらゆらと、水が流れるように那津は煌めく。静かに紡がれる言葉に俺はそっと頷いた。
この星をまた那津が訪れる可能性はあるのかもしれない。だけどその時、俺はもう存在しないんだろう。

「わかった」

短く返事をすれば、那津がそっと距離を詰めてきた。視界がふわりと霞んでくる。
目の前を覆うのは、光り輝く水の中。青くキラキラと眩しい、未知なる光景。
ああ、世界が那津に染まっていく。
そして俺は、最後に伝えたい言葉を口にする。

「那津、大好きだよ」

─── バカだね。

微かに聞こえてきた声は、なぜか怯えたように震えていた。

『ひかるは自信を持ってまた恋をするんだ。いいね、約束だ』

他の誰かに恋をして。いつか、この苦しみや悲しみを乗り越える日が来るんだろうか。想像しようとしただけで、胸が痛みを覚える。これ以上の恋をする日が来るなんて、とても考えられなかった。
そんな約束は守れそうにない。それでも俺は那津のために頷いた。熱い涙が次から次へと頬を伝っていく。

「じゃあ、那津もだよ。那津も、恋をするんだ」

そう切り返せば、那津は何も言わずにただぽっかりと浮かんでいた。頷いているのかどうか、俺にはわからなかった。

「あと、最後にひとつだけ頼みがあるんだけど」

手を伸ばして、恐る恐る那津に触れてみる。ぷるんとした瑞々しい感触は、何度も交わしたキスを彷彿とさせた。ここにいるのは間違いなくあの那津なんだ。そう実感して、思わず笑みがこぼれた。

「俺の記憶は、絶対に消さないで。那津のことを、この世界で俺だけは忘れずにいたいんだ」

そう告げて、光の球体に顔を近づける。濡れた柔らかなものがふわりと唇を包み込んだ。ここが那津の唇だったらいいなと思う。
永遠にこうしていたいのに、それは叶わない。

『僕も、ひかるが大好きだ。できることなら、ずっとここにいたかった。ひかるの子ども、欲しかったな』

「バカ」

冗談めかした口振りでそんなことを言うから、俺も軽く返してみた。世界は涙の色に変わって、那津の輪郭が随分ぼやけてしまっていた。
那津もきっと泣いてるんだろう。なんとなくそう感じたし、それは多分間違っていなかった。

『そろそろ、時間だ』

那津がそう告げた途端、足下にあった水たまりが突如浮かび上がった。吹き荒む強い風に驚いて一歩後ずさる。水がグルグルと回転しながら昇っていく。やがてそれが丸く形を作っていくのを眺めながら、ああこれが那津の乗る船なんだと気づいた。

『うん、調子はよさそうだ』

満足げにそう言って、那津はゆらりと身体を揺らめかせた。それが泣いているようにも、笑っているようにも見えた。

『じゃあね、ひかる。とても素敵な想い出ができた』

「那津」

さようなら。

ようやく口にした別れの言葉から逃げるように、那津の姿はなくなっていた。
船に吸い込まれたんだと気づいた時には、それはもう上昇していて、一瞬で消えていた。あとに残された俺は、呆然と那津のいた虚空を見つめ続ける。
別れはあまりにも呆気なく儚かった。

激しい虚無感に襲われて、その場に立ち竦む。夢なら醒めてほしかった。でも、一体どの部分が夢だったのかもわからない。

温かな雨が降り出していた。霧のように細やかな小雨だ。もしかすると、あの船からこぼれた涙なのかもしれない。
降り注ぐ魔法に、那津のいない世界が甘く融けていく。





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