Anniversary[3/6]

「ご用件は」

用もないのに呼ばれるわけがないと思っているのだろう。事実、そのとおりだった。

「家を出たいんだ」

「……反抗期ですか」

俺の言葉に冗談ともつかないことを真顔で返して、千早はまたグラスを傾ける。

「お家騒動にも金儲けにも、興味はないんだ。兄貴が親父の跡を継げばいい。このまま家にいることで、その気もないのに面倒なことに巻き込まれたくない。その前にここを出たいんだ」

「この家の外へ出れば楽しいことが待ってると、あなたは真剣にお考えですか」

「少なくともここにいるよりはいい。俺は真剣だよ、千早」

次第に滑らかな形に溶けていく氷をじっと見つめたまま、千早は眉間を寄せる。その唇は慎重に言葉を選び、紡いでいく。

「先日お迎えに上がった時は、感心しました。ご一緒されていた方々は一見派手に見えましたが、よくよくお顔を拝見すれば名だたるお家の方ばかりでしたね。あなたには人望が備わっている」

千早の観察眼はいつも鋭い。けれど、俺が家柄で友人を選んでいるように思われるのは心外だった。

「そんなつもりで付き合ってるわけじゃないよ。ただ、同じ大学で退屈してる奴らと楽しくやってるだけだ」

「あなたのいい面は、利害関係を勘定しないところです。もしも彼らが困っていたとしたら、あなたは躊躇いもなく手を差し伸べるでしょう」

そう言いながら、千早は上目遣いで俺を見据えた。

「何かをしてもらえる相手ではなく、こちらが何かをしてあげられる相手を人脈として数えるのです。人脈と人望は、対でなければならない」

薄明かりの中、千早の頬がうっすらと染まっているのがわかる。どうやら酒にはあまり強くないらしかった。

「先代が仰っていたことです。あなたにはその才がある」

いかにも親父が言いそうなことだった。そんな話を、いつこの男にしていたんだろう。その場面を想像するとなぜか胸がざわついた。

「……あなたがこの家を出れば、私は失職する。私から仕事を奪うのですか」

そう言って、空になったグラスをテーブルの上に静かに置く。灯りに照らされたガラスが白い大理石に淡い影を落とした。

「匡人さん。私は、あなたが13の頃から6年間、ずっと見てきました。先代があなたに目を掛けていたことも存じております。それを」

言葉を遮るように床を蹴り、冷たいテーブルを越えて向かいのソファに乗り上げれば、鼻先で息を呑む千早の顔が見えた。視線の先で見開いた目は、すぐに細められる。
ゆらりと危うげに揺れる瞳には、記憶の中に閉じ込めた顔が見えているのだろうか。
随分前から、俺は気づいていた。時折千早がこんな眼差しを俺に向けることを。
ドクドクと心臓が早鐘を打っている。間近で視線を交じらせたまま、俺は感じたことを素直に口にした。

「きれいな顔だな、千早」

壁に手をついてそう囁けば、長い睫毛が小さく震える。母に似たその面差しは、凛とした美しさを湛えていた。
何かを言いかけたその唇を、素早く唇で塞ぐ。想像していたよりも柔らかな感触の隙間を縫って舌を挿し込んでいくと、芳醇なアルコールの残り香を含んだ唾液が口の中で甘く混ざり合った。

「……っ、ん……」

鼻から抜けていく声が、身体の芯に火種を植えつける。何度口づけ直しても千早は俺を拒もうとしない。舌を絡めていけば、押さえ込んだ身体からゆっくりと力が抜けていった。
氷が熱で溶けるように、俺たちの間で張り詰めていた何かが一気に緩んでいくのがわかった。
探るようなキスを交わしてそっと身体を離すと、浅く短い吐息が唇に触れた。

「千早、来いよ」

手首を掴んで立ち上がりながらそう命じれば、一瞬掌の中で拒むようにわずかに力が込められる。けれど千早は腕を引かれるまま素直に俺の後を付いてきた。ベッドの際まで辿り着いた途端押し倒して馬乗りになれば、きれいに張られたシーツにさざ波のような皺が寄る。

「随分な悪酔いですね。冗談にしてもタチが悪い」

見上げる瞳が射抜くように向けられる。その声はわずかに震えていた。

「……だったら」

白いシャツのボタンを上からひとつずつ外していく。露わになった肌は灯りに照らされて闇の中で仄かに浮かび上がる。胸元に手を這わせれば、組み敷いた身体が小さく戦慄いた。掌の下で心臓が高鳴っているのを確かめながら、俺は千早に顔を近づけていった。

「お前は、冗談で親父に抱かれてたのか」

その瞬間、俺を映す双眸の中に絶望に似た色が降りていくのがわかった。ゆっくりと体重を掛ければ、スプリングがしなやかに軋む。

「ご存知でしたか」

取り繕うことを諦めた口振りだった。静かな空間に2つの呼吸が響く。さらりと流れ落ちた前髪に指先で触れると千早は小さく息を吐いた。

「親父が生きてた頃には知らなかった。うまく隠してたと思うよ」

でも、気づいてしまったんだ。

俺は目を閉じて反芻する。鮮明に甦るのは、3年前の記憶だ。
黒い漆塗りの棺の前で立ち竦む、細身のシルエット。弔いの色に身を包み、静かに涙を流しながら千早はただ目を閉じていた。
あの時、お前は何を祈っていたのだろう。
お前が心の内を曝け出しているのを俺が見たのは、あの時だけだったんだ。

「察しがいいのはあの方と同じですね」

そう言って薄く笑う千早の唇を塞ぐと、熱い吐息が口の中に流れ込んできた。組み敷いた身体の下でその半身は既に反応していた。
離した唇を首筋に滑らせれば、くぐもった声が千早の喉を鳴らす。喉元にある男特有の突起を確かめるように、舌を這わせていった。


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