6代目七條雄一郎は、妻との間に2人の息子を設けた。 長男の洸樹と、次男の俺だ。 物心ついた頃には母は亡くなっていたし、父は仕事に忙殺されていた。親と一緒に遊んだ記憶はなくても、家の中には大勢の人が出入りしていて、皆こぞって兄と俺の世話をしてくれた。
優秀な兄は幼い頃から親父の期待を一身に受け、見事にそれに応えてきた。聡明で従順で、けれど芯の強い兄は誰の目にも一家を背負う家君として相応しい器を持っているように見える。 親父は色を好まなかった。親族がまるで後継に保険を掛けるかのように愛人を囲い妾腹を作る中、親父の子どもは兄と俺の2人だけだ。親子として接する機会は少なかったけれど、きちんと愛情は掛けられていたと思う。実際、親父の配慮は恐ろしいほどに緻密だった。
良家のご子息御用達の名門小学校にも、おかしな輩が混じることがある。俺が小学生の頃、PTA会費を横領していた教師が告発された。十数年に渡り着服していたその額は、一介の教師が生涯掛かっても返済することができない程だった。 いつどんな形で気づいたのかは知らないが、それを告発したのは親父だった。そして、着服された金を補填したのも親父だった。七條グループのトップが見せた心意気は、当時の世論で絶大な支持を得た。
結果、系列会社の事業は軒並み業績を上げることになる。親父は息子の通う学校の膿を出しただけでなく、この一連の事件を宣伝に利用したんだ。 財界人としても、父親としても、その存在は大きかった。 親父は時折世の理のようなものを俺に説くことがあった。
『大切なものは、目立たないところに置くんだ』
『見つからないように?』
『ああ、そうだ』
幼い頃の俺にとって、親父の言葉は今ひとつ理解し難かった。大事なものは周りに見せびらかすのが自然だと思っていたから。
『何でもそうだよ。本当に自分が通したいことは、一番に掲げてはいけない。他に紛らせるのがいいんだ』
親父は謎掛けをするようにそう言って、穏やかに微笑んだ。
俺が13歳の頃、親父はまだ大学を出たばかりの若い執事を雇い、俺に宛てがった。
『朝霧千早です。あなたのお世話を任されました』
当時22歳の千早は、寡黙で愛想のない男だった。感情の起伏が見えず、何を考えているのかわからない。周りに媚びへつらってくる大人が多い中、俺にとって千早のような人間は珍しかった。
一緒に生活を送るうちに千早がよく気のつく優秀な男だということがわかってきた。付かず離れず、けれど変に俺を子ども扱いすることなく、いつも真摯な態度で俺に接してくれた。勉強のわからないところを訊けば、他に雇っていた最高学府を卒業した家庭教師よりも教え方は上手かった。 そして千早は、写真でしか知らない亡くなった母ととてもよく似ていた。 親父が俺の執事として雇った男は、母の腹違いの弟だった。
母は政界に名を馳せる一族の娘だった。父と母は政略結婚により、見事な閨閥を築き上げていた。 千早の父親であり俺の祖父でもある男は、かつて官房長官を務めていた。それにもかかわらず千早の名が家系図から見事に消されているのは、その母が一介のホステスだからだ。 けれど千早はその出自を不遇だとは思っていないようだった。少なくとも俺にはそう思えた。
才覚を秘めているにもかかわらず、千早からはもっと上へ行きたい、世間に認められたいという野心がまるで感じられない。進んで俺の執事というポジションに収まっているように見えた。
3年前に親父は突然不慮の心臓発作を起こし、帰らぬ人となった。まだ47歳だった。後継の話も出ていないうちの家長の死に、一族は途方に暮れた。
まだ学生だった兄に代わり、一時的に叔父が跡目を継いだものの、それは穏やかな水面に波紋を作るような形となった。 叔父にも3人の息子がいる。だから今、七條グループは揺れている。
けれど俺には関係ない。財界にはまるで興味がないからだ。 放蕩息子にもある程度のレールは敷かれている。この道を逸脱せず、適当なポジションで目立たないようにやっていくこと。それが俺に課せられた生き方だった。 親父の真の後継となるべく、兄は今留学してビジネススクールでMBAを取得しようとしている。 家のことは兄に任せておけばいい。
だから俺はこの無駄に広い家で1人、好き勝手にやっている。
*****
「匡人さん」
寝室の扉が開く音の後に、密やかに名を呼ぶ声が聴こえてくる。 足音が絨毯に消されていても、背後から近づいてくる気配は察することができた。
「……またそのようなものを」
頭上から溜息混じりの言葉が降り注ぐ。
「外で呑むなと言ったのはお前だ。座れよ」
灯りを消した部屋の片隅から射すスタンドライトの淡い光が、細身のシルエットを浮かび上がらせる。 勤勉な執事は、真夜中に近づいていると言うのに白のワイシャツと黒のスラックスに身を包んでいる。
諦めたように向かいのソファに腰掛けて、千早はテーブルの上に視線を落とす。その瞳が何か言いたげに俺に向けられた。 空いたグラスに氷を入れていくと、静かな拒絶の言葉が聞こえてくる。
「私の分なら結構ですが」
「親父の遺した酒だ。ウイスキーなんてどれも同じだと思ってたけど、確かにうまい」
氷の上からゆっくりと瓶の中身を注いでいくと、グラスがきれいな琥珀色に染まっていく。マドラーで緩く掻き混ぜたそれを差し出せば、千早は両手を出して渋々といった様子で受け取った。 グラスの縁に唇を付けて、そっと傾ける。目を閉じたその顔は、普段よりも憂いを帯びていた。
2人の間を穏やかな時間がゆったりと流れていく。千早とこうして向き合うのは思えば滅多にないことで、酒を酌み交わすのも初めてだった。
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