「ハルカって、ホントいい匂いするね。甘くて優しくて、懐かしい気持ちになる、そんな匂いだ」
「懐かしい?」
「ああ。遠い昔のことを想い出す。不思議だね」
そう言って柔らかな髪に顔をうずめれば、身体の内側が記憶の中の彼女と同じ香りに満たされていく。ハルカはくすぐったそうに何度か息を吐きながら、俺の頭にそっと手を添えた。
「ねえ。タクマさん、僕のことを初めて好きになった人に似てるって言ってたよね。そんなに似てるかな」
尋ねる声には何かを窺うような含みが持たされていて、それがほんの少し引っ掛かった。もしかすると、ハルカは会ったこともない俺の初恋相手のことを気にしているのかもしれない。
「確かにね、すごく似てるよ。でも、だからというわけじゃなくて、俺はハルカのことが大好きなんだ」
そう言い聞かせれば、きれいな顔がゆっくりとこちらに向けられる。きめ細やかな白い肌に、子どものように穢れのない瞳。柔らかな桜色の唇。本当に天使みたいな、奇跡の美しさだ。
少し前の俺なら、ハルカが女だったらよかったのにと思っただろう。けれどこうして一緒に過ごすうちに、性別の概念はとうにどうでもよくなっていた。それは、男でも別にかまわないという妥協でもない。俺はハルカという存在そのものに、どうしようもなく惹かれていた。
ハルカになら、俺は意地を張らずに自分の弱い部分を曝け出すことができるし、ハルカはそんな俺を受け入れてくれる。
この先の人生で、そんな人と出会える可能性はどれぐらい残されているんだろう。限りなくゼロに近いんじゃないかと俺は思う。 そんなことを考え出せば、この子を手離したくないという気持ちはますます募っていく。 けれどハルカが俺と同じ気持ちでいるかというと、きっとそうじゃないという気もしていた。
俺の顔を何か言いたげに見つめているハルカの唇を軽く啄んで、細い手首を掴み上げる。初めて会った時にその内側に付いていた所有印は、もううっすらとしかわからなくなっていた。
「ここ、もうすぐ消えそうだね」
そう言ってから、上書きするつもりでそこに舌を這わせていく。滑らかな肌を舌先でくすぐれば、小さく息を吐く気配がした。
「これを付けたのは、誰?」
俺の問い掛けにハルカは幾度か瞬きをして、覚悟を決めたように目を閉じた。長い睫毛が泣くのを堪えるかのように小さく震える。
「亡くなった恋人の、お兄さん」
ゆっくりと瞼が開いて、美しい眼差しが見えた。憂いを帯びた瞳は、夜に輝く月のように澄んだ光を放つ。
「恋人は僕のせいで死んでしまったんだ。その日、僕は今まで生きていた世界を失った。死にたいと思っていた僕の生命を預かると言って、支えてくれたのがその人だった」
恋人を亡くしてから、その兄と一緒にいる。
ぼんやりと失恋でもしたのだろうぐらいにしか思っていなかったけれど、ハルカの抱える事情はもっと複雑だった。 鼻先の距離で、俺たちは密やかに見つめ合う。感情を抑えた声が静かに部屋に響き渡った。
「その人に、傍にいてほしいと言われて……僕も、そうするのがいいと思った。そうしたら、急に突き放されちゃったんだよね」
桜色の唇が微笑みの形に結ばれる。他にどんな表情をすればいいのかがわからなくて仕方なく見せる、そんな笑顔だった。
「ハルカは、その人のことをどう思ってる?」
さらりと流れ落ちた髪に指を絡ませて掬えば、光を湛えた瞳は惑うように小刻みに揺らぐ。
「一緒にいると落ち着くし、好きだよ。僕のことを大切に思ってくれてると思う」
「ああ……だからだろうね」
俺の言葉に息を呑むように押し黙る。指摘を受けるまでもなく、こうなった原因が何なのかをもうちゃんと自覚しているんだろう。 ハルカが抱く受動的な好意は、相手の望むものではなかったんだ。
目を細めてただひたむきに俺を見つめ続けるハルカの眼差しは、俺ではなくどこか遠くを向いているような気がした。
「そうだね。きっと、それがいけなかった」
そう素直に聞き入れて、ハルカはそっと溜息をついた。
好きだけど、愛してはいない。それでも一緒にいる方がいい。
そんなハルカの選択は、けっして間違っていたというわけではないと思う。そういう気持ちでパートナーを選ぶケースは珍しくないし、人が誰かと共にいる理由として全くおかしなものではない。 けれどハルカは愛されているはずの相手から突き放されてしまった。 それは、その男がハルカのことを本当に愛していたからだ。
だからこそ、本当の意味で満たされることのないまま一緒に居続けるよりも、ハルカがきちんと幸せになることを願ったんだ。その身体に、自分の愛した痕跡を残して。
ハルカの身体に残った所有印は、もう何日もしないうちに消えてしまうに違いない。
『僕の犯した罪の痕だ』
初めて身体を重ねた時に、そう言っていたハルカの悲愴な顔が思い浮かぶ。 違うよ、ハルカ。これは儚い夢のような、愛の証だ。
「ハルカ。俺はハルカのことが大好きだよ」
俺は両腕を回して華奢な身体をそっと抱きしめていく。腕にゆっくりと力を込めながらそう言えば、ハルカは小さく頷いて俺を抱き返した。
「僕もだよ。タクマさんのことが好きだ」
甘やかなはずの告白に、胸が締めつけられる。 その言葉に偽りはないのだろう。けれど、俺はもう気づいてしまっていた。
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