the 3rd day[15/25]

それは俺の経験則に過ぎない。けれど、この父親はミチルがいなくなればきっと別の形で他人を傷つけるに違いないという確信はあった。

「拓磨さん……」

心許なく俺の名を呼んで、ミチルは再び黙り込んだ。一点を見つめながら、今聞いた言葉の意味を真剣に考えているようだった。
あれだけひどい目に遭っておきながら、それでもミチルは真っ直ぐに育っている。他人の話に耳を傾け、自分のやるべきことが何なのかを考えることができるんだ。それはすごいことだと俺は思う。

まだ未成熟だからこそ、この子は強い力や可能性を秘めている。
ミチル、お前なら父親を止める枷になれる。

「実は、お前の事件を捜査することになる刑事は、皆俺の知り合いなんだ。信頼できる人たちだし、俺がきちんとお前のことを話すよ。悪いようにはさせない。絶対だ」

俺は右手を伸ばしていく。ミチルは思い詰めた表情のまま、黙って目の前に差し出された掌を見つめていた。

「……僕、何もできないよ」

しばしの沈黙の後に零れたのは否定的な言葉だったが、その口調はこちらの心中を窺うような控えめなものだった。

「違う。これはミチルにしかできないことなんだ。もう一度言うよ。お前に闘う勇気があれば、周りの大人が全力で支えてやれる。でも、お前が無理だと思うならどうしようもない。全てはお前次第だ。だから、お前が自分の意志で選ぶんだ」

さあ、手を差し伸ばす勇気を出せ。俺がその手を掴むから。

身じろぎもせず座っていたミチルが、顔を上げてこちらを見る。しっかりと頷いてやれば、やがておずおずと前に伸びてきた指先が、ゆっくりと俺の掌に触れた。
遠慮がちなその手を手繰り寄せてしっかりと掴み、硬く握り締める。驚いたように目を見開いて、けれどミチルは手を引っ込めることはなかった。

「拓磨さん、お願いします」

小さな声でも、その言葉は耳にしっかりと届いた。
揺らぐことなく俺を見つめる瞳には、決意の硬さがきちんと表われている。

「僕、今までお父さんと一緒にいなくちゃいけないと思ってた。でも拓磨さんの話を聞いてるうちに気づいたんだ。それは僕が逃げてただけだったのかもしれないって」

ミチルがそんなことを言い出すとは思っていなくて、俺は戸惑いさえ感じてしまう。

「だから、逃げない。もっと強くなりたいんだ」

ああ、お前はもう十分強いよ。俺なんかより、ずっと。

「大丈夫だよ、ミチル」

耳に届いた艶やかな声に目をやれば、きれいな微笑みを浮かべたハルカが俺たちを交互に見つめていた。
嬉しそうな笑顔は、確かにミチルの選択を祝福しているに違いなかったけれど、その唇から零れたのはとんでもない言葉だった。

「タクマさんは刑事さんなんだ。任せておけば、何も心配いらないよ」


*****


ハルカの言葉に驚いた表情を見せたミチルに、慌てて辞表を出しているんだと説明すると、あからさまに肩を落としてガッカリしていた。
もしも係長が今でも俺の辞表を手元に置いたままなら、俺はまだ身分の上では刑事に違いない。けれど、だからと言ってもう今更あの場所に戻ることはできないし、勿論戻るつもりもなかった。

ハルカはうっかり口を滑らしたわけじゃない。ミチルの前で俺にそんなことを言った理由は、何となくわかっているつもりだった。

「……ハルカ」

ミチルが風呂に入っている間に、俺はベッドの中でハルカと身を寄せ合い過ごしていた。
華奢な身体を抱きしめながら、その身体から放たれる甘い匂いを胸の奥まで吸い込む。こうしているだけで、不思議と気持ちが落ち着いてくる。

「あんなこと、言ったら駄目だよ」

ミチルの落胆した表情を思い出すと胸が痛んだ。
そっと咎めれば、至近距離で上目遣いに俺を見ながらハルカは小さく首を竦めた。

「だって、本当のことでしょう。ミチルに言葉を掛けてるときのタクマさんは、キラキラしててすごく素敵だったよ」

悪戯っ子のようにそう言って、ふわりと天使の微笑みを見せる。

キラキラ、か。

興奮してミチルを説得していた姿が、ハルカにはそう見えていたんだ。

「そんなタクマさんを見てたら、仕事を辞めたくないんだなって思った。違う?」

辞めたくないとか、そういう問題じゃない。現実に打ちのめされて目的を見失った俺は、もう辞めるしかないんだ。ハルカにそんなことを言ったところでどうしようもない。

真っ直ぐに問い掛けてくる澄んだ瞳は、今の俺には眩しかった。だから見えないように、目を閉じて柔らかな唇に口づける。
遮られた視界の中でそっと唇を重ね合う優しいキスは、胸のわだかまりをほんの少し溶かしていく。

「ハルカの言ってることはわかるよ。でも、そんなに簡単なことじゃないんだ」

答えを濁すようにそう返すと、ハルカはそれ以上何も言わなかった。追及されないことに俺は胸を撫で下ろす。この子に掛かれば、ともすれば説得されてしまいそうな気がしたからだ。

ミチルが入浴を終えた後で、ハルカと俺は順に風呂に入り、寝る準備を済ませる。
昨日までと同じようにミチルをリビングのソファベッドに寝かせて、ハルカと部屋に入ると戯れのキスを交わしてベッドの中に滑り込んだ。

甘い香りに包まれながら愛おしい身体を両腕で抱きしめて、ふとこのまま時間が止まってしまえばいいと思う。
ああ、でも。
もしも時間を自由に操れるなら、俺が戻りたい瞬間はもう決まっているんだ。



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