the 3rd day[5/25]

こんなに小さいのに自分と同じ人間だということが不思議で仕方なかったし、自分にもこんな時があったということも信じられなかった。
命の誕生は、本当に奇跡なんだ。

その子から仄かに漂う甘く懐かしい香りが、ふわりと鼻腔をくすぐる。
赤ん坊って、どうしてこんなにいい匂いがするんだろう。体温を感じられるほど顔を近づけてもう一度深く息を吸ったその時、不意に俺は思い出す。
頭の片隅に唯一残っている、自分を産んでくれた母親の記憶。
この子から漂ってくるのは、抱きしめられたあの時母親の身体が纏っていた匂いととてもよく似ていた。

途端に胸がキリキリと締めつけられる。どうしようもなく泣きたい気分になってしまった俺は、慌てて無意識に詰めていた息を吐いて口角を上げた。

『ありがとう』

それ以上感傷にどっぷりと浸ってしまう前に、俺はその子を覚束ない手つきで翠ちゃんに託した。傍にいた親父や母さんの目はかわいい初孫に釘付けだったから、俺が何を考えていたかなんてまるで気づいていないようだった。俺はそっと胸を撫で下ろして少し俯く。
今ここにいる俺の家族の前で、産みの母親に関する記憶を思い出したことに、なぜだか妙に罪悪感があった。

そうやってどうにか気持ちを押し込めてから改めて顔を上げて兄ちゃんと翠ちゃんに視線を移してみれば、2人はこれ以上ないぐらい幸せそうな顔をしていた。

大好きな兄ちゃん達の笑顔が見られたことは勿論嬉しかったけれど、それと同じぐらい淋しさも覚えていた。
小さな頃から俺をかわいがってくれた兄ちゃんは、共に過ごした家を出て結婚し、自分の家庭を築いた。兄ちゃんには、守るべき家族ができたんだ。
俺には兄ちゃんを翠ちゃんやその子に取られてしまったという幼い身勝手な気持ちが少なからずあったんだろうと思う。だから、兄ちゃんの幸せを手放しで喜ぶことができなかった。

月日は流れて、兄ちゃん達には2人目の子どもが産まれた。
その頃には中学生になっていた俺は、学校に行って、友達と遊んで、好きな女の子ができて、毎日をそれなりに楽しく過ごしていた。だから、兄ちゃんが傍にいないことに対する空虚な気持ちは随分薄れてきていた。それは、もう兄ちゃんにべったりするような年頃じゃなくなっていたからかもしれない。

携帯電話もない時代に、そうそう兄弟で連絡を取り合うこともない。兄ちゃん達は盆や正月、たまの週末には家族でこっちに帰ってくるから顔を合わせるけれど、会う機会と言えばその程度だ。俺と兄ちゃんは、どんどん疎遠になっていった。

そして俺は、会えない遠い存在の朋ちゃんよりも、毎日会える同年代の女の子に意識を向けようとしていた。
だけど、心の片隅にはいつも朋ちゃんがいた。初めて付き合った彼女のことを好きになった理由も、面差しが朋ちゃんにどことなく似ていたからだ。
朋ちゃんは、いつまで経ってもやっぱり俺の天使に違いなかった。


*****


川添いに並ぶ閑静な住宅街の中に慎ましく建つ一軒家は、見る限りもしかすると俺の年と同じぐらいの築年数なのかもしれないと思う。

新しい建物ではないけれど、きちんと手入れの行き届いた家で、経済状態はけっして悪くはないようだ。恐らくこの家の住人は、几帳面でしっかりした性格なんだろう。
ならば、ここには希望が残されている。

「おい、大丈夫か」

隣で何度も深呼吸をするミチルに声を掛ければ、緊張した面持ちでこくりと頷く。不安げではあるけれど、それでもいざこうして家まで来れば、会ったことのない祖母に顔を見せる覚悟は固まってきたようだ。
ハルカと俺が見守る中、そっと伸ばされた細い指がインターフォンのボタンを押した。

固唾を呑んで耳を澄ますものの、応答はない。そのまましばらく待っていれば、玄関の引き戸がそっと開いた。

「はい」

中から様子を窺うように顔を覗かせてから姿を現わしたのは、50代に差し掛かったぐらいの外見をした上品な女性だった。思慮深い眼差しから、ひょっとすればもう少し年齢を重ねているかもしれない。その面差しは、どことなくミチルに似ていた。

ああ、間違いなくこの子と血が繋がってるんだ。

「……どなた?」

俺たちの顔を順に見ながら、やや怪訝な顔をしたその人は最後にミチルへと視線を留めた。

ドクリとなぜだか俺の心臓が嫌な音を立てて鳴る。まるで動けば鬼に捕らわれるゲームをしているかのように、誰も微動だにしない。時間が止まったのかと思うほど長い沈黙が続いた。

何でもいいから、適当に言葉を口にしてしまおう。痺れを切らして声を掛けようとしたその時、まじまじとミチルの顔を凝視していたその人は掠れた声でぽつりと言葉を漏らした。

「………あなた、もしかして」

見開かれた目には、ありありと驚きが表れている。自分の前に現われた年端もいかないこの子の素性に、きっと思い当たったのだろう。
ミチルは強張った顔で初めて会う自分の祖母を喰い入るように見つめながら、ただ立ち尽くしていた。けれど、次に耳に届いた台詞に俺はそれこそ言葉を失ってしまう。

「ごめんなさい。もう関わらないと決めたんです。帰って下さい」

取りつく島もない明確な拒絶だった。無理もない。彼女にとってミチルは、恐らくは絶縁同然だった息子の子どもで、会ったこともない孫なんだ。けれどここまで来て、はいそうですかと引き下がるのはあまりにも酷だ。恐る恐る隣にいるミチルの様子を窺えば、予想どおりその顔はかわいそうなぐらい青褪めている。

その瞬間、視界の片隅で人影がふわりと軽やかに宙を舞った。

「待って」

目の前で腰高の門扉を素早く飛び越えるハルカの姿に俺は眼を見張る。なんて行動力だ。


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