着地した勢いのまま真っ直ぐに駆けて、ハルカは今にも閉ざされようとしていた扉の隙間に躊躇いもなく手を伸ばした。
「ハルカ!」
差し込んだ手は幸い挟まれることはなく、力強く引き戸を開け放つ。ミチルに残された希望を、ハルカは少しも諦めていなかった。
「この子はあなたの息子さんから逃げてきた。勇気を振り絞って家を出て、たくさん悩んで、他の誰でもないあなたを頼ってここまで来たんだ。どうか話を聞いてあげて下さい」
扉の向こうから再び現れたミチルの祖母は、大きく見開いた目でハルカを見て、その肩越しに孫へと視線を送る。
「この子を助けられるのはあなたしかいないんです。お願いします」
そう言って俺はミチルを振り返る。さあ、怯まずに向き合ってくれよ。
「あの、お願いします」
祖母の顔を見つめながらおずおずと口を開いたミチルは、ゆっくりと頭を下げた。か細い声だが、しっかりとした口調だ。 向かい合い注がれる彼女の眼差しは決して冷たいものではなかった。顔に表われていた険しさが、わずかに緩む。
「………お上がりなさい」
暑くもないのに額に汗が滲んでいることに気づく。こんなにヒヤヒヤしたのはいつ振りだろうか。 まずは、第一関門突破だ。
通された和室にどことなく懐かしい感じを覚えるのは、長く帰っていない実家のそれと雰囲気が似ているからかもしれない。 ハルカと俺は、ミチルを挟む形で3人並んで座卓に掛ける。湯呑みに淹れられた緑茶は飲みやすい温度で、口をつけてみて初めて喉が渇いていることを自覚する。 どうして俺がこんなに緊張してるんだ。
小さく息を吐けば、ハルカがこちらに視線を流して微笑む。さっきの大胆な行動が嘘みたいに涼しい表情をしている。こうしていると控えめでおとなしそうに見えるのに、いざという時ハルカには本当に驚かされる。
向かい側に腰を落としたミチルの祖母が、おもむろに口を開いた。
「あなた方のご用件を、お聞かせください」
ピクリとミチルが隣で小さく身じろぐ。この状況で初っ端から本題を切り出すには相当の度胸が必要だ。 どう話をしようかと逡巡していれば、ミチルの祖母はふと表情を緩ませて、眩しいものを見るかのように目を細めた。
「あなた、ミチルくん……ね?」
問い掛けにこくりと頷くまだ幼さの残る顔は、やはりこの人とどこか似ている。確かめるまでもなく、こうして見ているだけで2人が血縁関係にあることは窺われた。
「あなたとは、この家で何度か顔を合わせているのよ。まだ赤ちゃんだったから、憶えていないでしょうね」
落ち着いた穏やかな声音だった。ミチルはかぶりを振って、目の前の人を喰い入るように見つめている。一言も聞き漏らすまいというような、真剣な面持ちだ。
「ずっと前のことなのに、つい最近のことのようにも思えて。あれから何年経ったのかしらね。幾つになったの?」
口を噤んだまま、ミチルはちらりと俺の方へと視線を走らせる。今更何を気にしてるんだ。お前が年をごまかしてることなんて、最初からわかってるよ。 早く答えろと目で促せば、ミチルは前に向き直って恐る恐る告げる。
「……16、です」
「そう。高校生かしら。本当に、大きくなったわね」
そう言ってミチルを見つめるその瞳は慈愛に満ちている。いつか会ったというその頃の記憶を呼び覚まして、今の姿と比べているに違いなかった。
ふと、兄夫婦の間に生まれた赤ん坊を抱かせてもらった時のことを思い出す。 うっかり力を込めて抱きしめれば潰してしまいそうなぐらいに小さくて愛らしかったあの子が、次会ったときにはミチルほどの年齢になっているとすれば、さぞ感慨深いだろうと想像はついた。
「それで、あなた方は」
今度は怪訝な表情をして、ミチルの祖母はハルカと俺を交互に見る。それはそうだ。俺たちはミチルの友人だと自己紹介するにはあまりにも不自然で、どう控えめに見ても素性の知れない不審な人間にしか思えないかもしれない。
「ミチルくんがこちらに来ようとして迷っているところを偶然出会いました。事情を聞かせてもらい、差し出がましいとは思いましたがどうしても心配で、こうして付き添わせて頂いています」
かなり端折っているものの嘘にはならない程度に経緯を説明すれば、庇い立てるようにミチルが口を挟んでくる。
「僕が一緒についてきてほしいってこの人たちにお願いして、でもいい人たちだから、大丈夫……です」
たどたどしくそう言って息をつく。この重苦しい雰囲気の中、精一杯の勇気を振り絞ってそう言っているに違いなかった。ミチルの祖母は戸惑いの表情を浮かべながらも俺たちに頭を下げる。
「そうなんですか。お世話を掛けました」
「いえ、とんでもない」
勝手に世話を焼いているだけで、ミチルから頼まれた憶えはない。それを否定すると変にややこしくなりそうだから、ここはそういうことにしておこう。
ミチル、よく知りもしない人間をいい人だなんて簡単に言っちゃ駄目だ。お前は素直過ぎるんだ。まあ、俺はたまたまいい人なんだけどな。
「達弥から逃げてきたと言っていたけれど、何をされたの?」
回りくどさのない、直球の質問だ。達弥というのがミチルの父親のことなのだろう。その名を聞いた途端、ミチルは身体を強張らせて不安げにゆらゆらと視線を泳がせる。
「あ、あの………」
そこで言葉は途切れる。この状況でベラベラとあんなことを喋れる方がおかしい。どう助け舟を出そうかと思案していると、ミチルの祖母は少し視線を落として口を開いた。
「私があの子の育て方を間違えたのよ」
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