「顔色が悪い。少し横になっている方がいいよ」
そう言って、ハルカは何事もなかったかのように微笑みかける。その穏やかな笑顔にミチルはこくりと頷いた。
ミチルの肩と背中を支えるようにソファに寝かせて、ハルカはきれいに畳まれていた布団を広げ、そっと掛けてやる。まるで子どもを寝かしつける母親のようだ。
「朝食の用意をするね。落ち着いたら、一緒に食べようか」
「あんまり、食欲がなくて」
「無理しなくていいから、食べられるだけでも。ね?」
ハルカが口にする魔法の言葉に、横になったミチルは安心したようにまた頷いた。そのまま、くたりと身体の力を抜いていく。
頭がソファに沈んで、さらさらの髪が小さく揺れた。クリクリした大きな瞳には、子ども独特の澄んだ光が浮かんでいる。
ミチルがスレたガキじゃないのは、見ていてよくわかった。だからこそ尚更、こうして何かに怯えている姿が痛々しい。俺は1歩離れた位置から跪いて屈み込み、同じ目線で言葉を掛ける。
「悪かったな。驚かせて」
俺と視線を合わせてから、ミチルはゆっくりと目を閉じて首を振った。 布団にくるまったまま、小さな子どものように身体を丸めていく。
「……悪いのは、僕なんだ」
俺にではなく自分に言い聞かせるような口調でそう呟いて、心を閉ざしてしまう。
ミチル、お前の抱えてるものを話してみろよ。
喉元に引っかかる言葉を、俺は口にすることなく呑み込んだ。それを聞いたところで、どうすることもできない。
俺たちは通りすがりの関係で、俺にはミチルの抱えるものを受け止めてどうにかしてやる器量なんて到底ないんだ。
床に座り込んだまま、俺はただミチルの傍に寄り添うことしかできない。
ハルカが作ってくれた朝食は、昨日の朝とは少し違うメニューだった。
トースト、スクランブルエッグ、野菜サラダにカボチャのポタージュ、コーヒー。見た目もカラフルでいかにも栄養バランスが良さそうだ。ハルカはこんなにかわいくて料理もできて、しかもエロい。理想の恋人だとつくづく思う。
ミチルの前に置かれた皿の上には、トーストの代わりにチョコチップの入ったクロワッサンが乗っていた。それは、昨日スーパーで万引きしようとしていたものに違いなかった。
ミチルは顔色も随分よくなっていて、起き上がってからの足取りもしっかりしていた。今はダイニングチェアに浅く掛けながら、何か言いたげに目の前の皿とキッチンに立つハルカの顔を交互に見比べている。
けれどハルカはその視線を気にも留めずに、コンロの火から下ろした小鍋を傾けて、マグカップにそっとミルクを注いでいく。
その光景を見ていると、ふと脳裏に遠い記憶が蘇ってきた。
『お鍋で温めると味が違うのよ。レンジを使った方が楽なんだけどね』
俺が子どもの頃、同じように小鍋でホットミルクを作っていた母さんがよく言っていた言葉だ。
確かに、あのホットミルクは格別においしかったな。
懐かしさに目を細めながら、俺はカップを持ってこちらに歩いてくるハルカのきれいな顔を眺める。
こうして見ると、ハルカの雰囲気がどことなく母さんにも似ていることに気づく。
顔立ちはそうでもないと思う。けれど、母性を感じさせる優しさやふとした時に見せる意思の強さ、飾り気のない凛とした美しさは2人に共通している。
ハルカは俺が大切に思う女の人たちに似ているんだ。そんなハルカのことを俺が好きになるのは、至極当然のことなのかもしれなかった。
「はい、どうぞ。少しだけ砂糖を入れてるから」
ミチルの目の前に、おいしそうに湯気を立てた白いカップが静かに置かれる。その頬に幾分か赤みが差していることに気づいた。
─── よかった。
そう感じる自分自身に、つい苦笑する。いつの間にか俺はミチルの親にでもなった気分でいるようだ。
「疲れがちゃんと取れてないのかもしれない。糖分を摂った方がいいよ」
「………ありがとう」
カップを両手で包み込むように握り、安堵の息をついてからミチルは礼を口にした。けれど、そのまま正面の椅子に掛けるハルカを目で追い、今度は困惑の表情を浮かべる。ハルカの前には皿のひとつも置かれていない。どうやら今日も朝食を抜くつもりらしかった。
「ミチル、どうかした?」
首を傾げながらそう問い掛けるハルカに、ミチルはおずおずと口を開く。
「あの、これ……食べないの?」
クロワッサンの乗せられた皿に手をかけながら上目遣いでハルカの表情を窺うミチルを見て、俺は不意に昨日のスーパーでのやりとりを思い出す。
『僕たちが買うから、半分こしよっか』
──── あれだ。
ハルカも気づいたんだろう。眉を上げて何度か瞬きをすると、やがてゆっくりと目を細めていく。
あの時の言葉を、ミチルはまだ本気にしているんだ。
あんなの、お前の万引きを止めるためにハルカが適当に付けた口実に決まってるだろ。
けれど俺がそう言うよりも早く、ハルカは口を開いていた。
「ああ、そうだったね」
誰しもが心を奪われてしまうに違いない美しい微笑みを浮かべながら、ハルカは手を差し伸ばしてミチルの前に置かれたクロワッサンを取り、小さく千切る。
ひとかけらのパンを摘まんだ長く細い指を、ミチルの口元へと持っていって、促すように声を掛けた。
「はい」
艶やかな笑みに見惚れて、ぼんやりとした表情のままミチルは大きく口を開く。その中にころんとパンが放り込まれた。
口を閉じて咀嚼するのを見たハルカは満足げに頷き、もう一度同じ大きさにパンを千切る。
「僕、朝はあんまりお腹がすかないから食べないんだけど。おいしそうだから、一口だけもらうね」
そう言って、今度は自らの口へと運んでいく。ミチルが引け目を感じないように、そうしているに違いなかった。それがハルカの思いやりなんだろう。
「残りはミチルが食べてね」
「………ありがとう」
ようやく顔を綻ばせて、ミチルは頷きながら目の前のホットミルクに手をつけた。
ハルカは本当に人がいいんだと思う。その優しさに触れる度に愛おしさは募るけれど、それと同時に一抹の不安もよぎる。その正体が何なのか、俺にはわからない。
俺のことが好きだと口にしながら、4日間しか一緒にいられないという。きれいでかわいくて優しい、天使のような人。
ハルカは実は本物の天使で、少しの間ここに降り立っているだけなのかもしれない。
それも、何かの目的を果たすために。
いや、まさかな。俺は馬鹿馬鹿しい考えを遮断して、食事に集中する。
朝食の時間は穏やかに流れていく。ミチルも食べ物を口に運ぶごとに少しずつ調子がよくなっているように見えた。
「このスープ、すごくおいしいね」
ミチルの言葉に、ハルカは嬉しそうに微笑む。裏漉ししたカボチャの甘みが感じられる、ほっこりと温かなポタージュスープだ。
「本当? よかった」
そう口にして、遠慮がちにはにかんでみせる。なんてかわいい顔をするんだろう。思わず見惚れていると、ミチルに向けられていた視線がこちらに流れてきた。
うっとりと夢見るような魅惑の眼差しに、先程ベッドの中で戯れていたあの甘やかな記憶が生々しく蘇る。同時に、それを見られてしまったことを思い出してミチルの様子を窺えば、案の定気まずそうに俺たちの顔を交互に見比べていた。
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