慌てて俯きながらほとんど空になったスープのカップに口を付けるミチルに、ハルカが言葉を掛ける。
「ミチル。タクマさんと僕は、恋人同士なんだ」
何のごまかしもない、真っ直ぐな言い方だった。顔を上げて大きな目を見開くミチルに、ハルカは言い聞かせるように言葉を続ける。
「好きだから、キスもするしセックスもする」
おい、そこまで露骨に言わなくてもいいよ。俺は飲んでいたコーヒーを吹きそうになる。
けれど、ミチルは零れ落ちそうな目でただハルカを喰い入るように見つめていた。
「………好きだから?」
躊躇いがちな問いかけに、ハルカはきちんと答えを紡ぎ出す。
「そうだよ。好きだから触れたいし、触れてほしい。それは、当たり前のことなんだと思う」
ハルカの誠実な言葉に、ミチルは表情を曇らせて俯く。何か思うところがあるのかもしれない。
「でも、さっきは突然でびっくりさせたね。ごめん」
声のトーンを落としてそう謝るハルカに、ミチルはかぶりを振りながらぎこちなく笑顔を作ろうとする。それを見て、俺はやはり懸念を抱いてしまう。
ミチルが家を出てきた事情。
聞かない方が身のためだとわかっているのに、俺はもう何とかしてやらなければいけない気になっている。
ミチルの問題に、わざわざ俺が首を突っ込む必要はない。今日明日にでも適切なところにミチルを引き渡して、きちんと保護してもらえば済む話だ。
俺1人がどうこうしようなんて、思っちゃいけない。
俺は自分にそう言い聞かせながら、やりきれない不甲斐なさにこっそりと溜息をつく。
*****
俺の義理の兄、三崎誠は間違いなく完璧な人間だった。
兄ちゃんは抜群に顔がよくて、頭もいい。傍にいると神様は不公平なんだなとつくづく思う。それぐらい、恵まれた特別な人間に見えた。それでも全然嫌味じゃなかったのは、本当に優しい人だったからだ。
そんな風だから女なんて選り取り見取りだったはずだけれど、俺からすれば宝の持ち腐れ以外の何物でもないぐらい、兄ちゃんは堅物だった。
『誠は慎重過ぎるのよ』
母さんは実の息子に対して、よくそう言いながら笑っていた。
『別に意地悪なんてしないから。彼女の1人ぐらい、家に連れて来てもかまわないのに』
『彼女なんていないよ。そういうの、面倒なんだ』
そう言って苦笑いをする兄ちゃんを見ていると、子どもながらに女で苦労してるのかな、ぐらいに思ったものだ。
兄ちゃんの方に興味がなくてもお構いなしに言い寄ってくる女の子はきっとたくさんいたはずで、うんざりするようなことも色々とあったんだろうと思う。
今みたいに携帯電話も普及していない時代だったから、時々クラスメイトらしき女の子から家に電話が架かってくることもあったけど、いつも決まった人ではなかったし、彼女という感じでもなさそうだった。
それでも、あのきれいな顔と穏やかな性格で彼女がいなかったはずがないと、今では思う。多分兄ちゃんは学校でうまくやってたんだろうな。
ところが、全くそんな素振りも見せなかったのに、その時は唐突に訪れる。
兄ちゃんが大学3年のときだったから、俺は小学校3年だったはずだ。
家族団欒で食卓を囲んで話をしている時に、兄ちゃんが唐突に切り出したんだ。
『付き合ってる彼女がいるんだけど、今度家に連れて来てもいいかな』
突然の告白に、もう親父も母さんも目をまんまるにしてびっくりしていた。そんなことはもちろん初めてで、母さんなんて兄ちゃんはもしかしたら女の子には興味がないんじゃないかとこぼしてたぐらいだったから。
何でも兄ちゃんと彼女とは同い年で、大学で同じゼミを選択したことをきっかけに仲良くなり、付き合うようになったらしい。
彼女の名は、羽山翠(ハヤマ ミドリ)といった。きれいな名前だな。兄ちゃんの口から聞いたとき、そう感じたことを憶えている。
それからしばらくして、兄ちゃんは本当に彼女を家に連れて来た。
まだ友達と秘密基地を作って遊ぶことが楽しい時期だった俺から見ても、彼女は眩しいぐらいに魅力的できれいな女の人だった。
兄ちゃんと彼女は、誰がどう見ても美男美女で似合いの恋人同士だった。完璧な容姿の2人が仲睦まじく語り合う姿に、俺は言葉を失って見惚れてしまった。きっとお互いがお互いのことを待っていたんだろうな。心底そう思うぐらい、2人の世界は完成されていた。
初めて兄ちゃんの彼女を前にして、なぜか母さんの方がすごく緊張しているのがわかった。けれど、清楚で礼儀正しくて、おまけにきちんとした言葉で会話を繋ぐことのできる彼女に対して、母さんはいい印象を抱いてるように見えた。
何度も顔を合わせて互いに慣れてくると、母さんと彼女はまるで親子のように仲良くなっていった。一緒にキッチンに立つこともあれば、彼女から兄ちゃんに架けてきた電話に母さんが出て、そのまま延々と楽しそうに話し込んでしまうことも何度もあった。母さんは自分の息子が初めて連れてきた彼女のことを、本当に気に入っているみたいだった。
俺は彼女を「翠ちゃん」と呼んで、よく懐いていた。翠ちゃんも俺のことをかわいがってくれて、家に来るときは必ず俺の好きなチョコレート菓子を土産に持ってきては一緒に遊んでくれた。兄ちゃんと翠ちゃんに誘われて、3人で出掛けたこともあった。今思えば空気も読まずに相当邪魔をしていたなとは思うけど、それでも2人は本当に優しくて、俺はそうやって兄ちゃんたちと一緒に遊べることがすごく嬉しかった。
きれいで優しい翠ちゃんは、まさしく兄ちゃんにお似合いの人だった。
2人はきっとこのまま結婚するんだろうな。小学生の俺でもそう思うぐらい、一緒にいることが当たり前のような雰囲気だった。
そうなんだ。その時兄ちゃんたちはまだ20歳かそこらで、愛だの恋だのに浮かれて当たり前の年頃だ。なのに、2人には全くもってそういうのがなかった。
少し前まで学生服を着ていたような初々しいカップルが、まるで長年寄り添ってきた夫婦みたいな ─── そんな空気を醸し出している。
それが、違和感と言えば違和感だった。
2人は多分、あまりにも完璧過ぎたんだ。
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