玄関扉を開けると、見慣れた姿が立っていた。「……ユウ」僕の帰る時間に合わせて待ってくれていたのだろう。そのことに今は心から安堵する。靴を脱いで小さなボストンバッグを床に置き、身を投げ出すように抱きついた。四日間の旅を終えた僕の身体を、ユウはいつも両腕で抱きとめてくれる。それが僕にとっていつしか当たり前になっていた。ここが、僕の還る場所だ。「おかえり、アスカ」 優しい低音が耳をふわりとくすぐる。身体の内側から湧き起こる仄かな熱を押しつけるように、もう一度しっかりとしがみついた。「……ただいま」シャワーを浴びて寝室に入れば、ユウはグラスを片手に持ってソファに腰掛けていた。調光を絞ったダウンライトに照らされた姿は、美しい輪郭を描き闇の中に浮かび上がる。ゆっくりと歩み寄る僕に目を留めて、ユウは穏やかな微笑みを向けた。「飲むか」「ううん、いらない」「水だ」傍に近づいてよく見れば、ロックグラスに入ったそれは確かに無色透明の液体だった。「じゃあ、もらうね」その隣に腰掛けて、飲みかけのグラスを受け取りそっと傾ける。冷たい液体が渇いた喉を潤して、水が身体に沁み渡る。頭の中がクリアになっていくような感覚がした。僕は言うべきことを自分の中できちんと整理したつもりだった。空いたグラスを返しながら、僕はユウをじっと見つめる。視線が甘く混じり合い、二人の間に静かで優しい旋律が流れていくのがわかった。「ずっとユウに引け目を感じていたんだ」僕の言葉にユウの瞳が揺らめく。愛おしい鳶色の瞳が、この暗い世界に明かりを灯すかのように光を反射していた。サキを失ってから僕はこの人に寄り掛かり、この聖域に護られて生きてきた。「あてもなく家を出てしまった僕にとって、ユウの傍はすごく居心地がよかった。ユウがいなければ今頃どうなっていたかもわからない。だからこそ僕は不安で堪らなかった。ずっとこのままではいられないし、いつかここを出なければいけないときが来る。そういうことを考えると、いつもとても怖かったんだ」ユウは僕の言葉を黙って聞いていた。カーテンの開いた出窓に視線を移せば、夜の海に色鮮やかな宝石の粒が沈んでいるのが見えた。「でも、ユウはそんなことを考えていなかったんだね」確かめるようにそう口にした途端、伸びてきた両手が僕の身体を引き寄せた。そのまま両脇の下に腕を差し込まれる。ふわりと身体が持ち上がって、僕はユウの上に対面で跨る形になった。僕たちは鼻先の距離で見つめ会う。何もかもを見透かすその眼差しは高級なクリスタルガラスのように煌めき、見惚れていると吸い込まれてしまいそうだ。ああ、そうか。この体勢なら、ごまかしは効かない。戸惑いも、躊躇いも、不安も、偽りも。隠そうとするよりも先に悟られてしまうだろう。「アスカ、続きを」このぬくもりは、やはり心地いい。鼻先の距離で促されて僕は口を開く。「四日前にここを出たとき、どうしてユウは僕を突き放すんだろうと思った。とても悲しくて虚しかったし、僕はユウに見捨てられたんだと感じた。でも、やっと気づいたんだ。僕がここにいる限り、ユウはいつまでも僕に付き合ってくれる。だけど、それでは駄目なんだって。そうでしょう」大きな掌が優しく僕の頬を包み込む。やはりユウは父さんに似ている。そう思うと胸が軋むような痛みを覚えた。「僕、ユウのことが大好きだよ。ユウは僕にとって命の恩人で、本当に大切な人だ。でも、僕にはユウを愛することはできない。この先どれだけ一緒にいても、それは変わらない」ああ。僕は今、なんて残酷なことを言っているのだろう。こうして無償の愛を捧げてくれるこの人を、僕は受け容れることことができないと口にしているのだ。なのに、ユウはまるで過ちを告白する子どもを見守るような優しい瞳でただ僕を見つめていた。真一文字の唇が、微笑みの形に結ばれる。「……わかった」その優しい表情が、ゆらりと滲んだ。視界が霞む感覚に僕は俯く。ユウはずっと前から何もかもをわかっていた。そして、僕は何ひとつわかっていなかった。それを気づかせるために、ユウはわざわざ僕をこうして父の元へと送り出したのだ。 - 94 - bookmarkprev next ▼back