「お前の母親のことが嫌になったわけじゃない。彼女は素晴らしい妻で良き母親だったし、お前と瑠衣は父親として守るべき存在だと思っていた。でも、それ以上に朋未を愛してしまった。その気持ちに嘘をついてまで家庭生活を続けることが、俺にはできなかったんだ」僕は父の言葉を心の中で何度も反芻する。自分をごまかしながら僕たちの傍にいることを、この人は選ばなかった。世間の目から見れば、この人は妻子を捨てた悪い男かもしれない。でも、僕には不思議とそうは思えなかった。この人はきっと自分に正直で不器用なのだろう。そして、ひたむきに自らの意志を貫くことができた人なのだ。「多くの人に迷惑を掛けて犠牲を払い、彼女と一緒になった。けれど後悔はしていない。今も彼女を愛してる」躊躇いもなくそんな言葉を口にして、父は少し淋しげに微笑んだ。そんな父に僕は思い切って問いかける。「今、幸せなんだね」「ああ、幸せだ」 不躾に投げ掛けた確認の質問に、父は即答した。その表情にわずかな翳りが見えるのは、僕への配慮なのかもしれない。謝罪の気持ちを持たないわけではないのだ。けれどこの人は、けっして僕に謝ることはないのだろう。今ここで頭を下げるぐらいなら、初めからこの道を選んでいなかったはずだ。会話はそこで糸が切れたように消えてしまう。静寂の中、僕たちは奇跡の夜を駆け抜ける。高速道路を降り、幹線道路から逸れて細い街路を通り抜けていく。見慣れた街並みか懐かしい光景に感じられた。天に向かってそびえ立つタワーマンションは、今夜も煌々と光を放つ。窓ガラス越しに僕はその天辺を見上げる。あそこが、ユウのいる天上の揺り籠だ。「送ってくれてありがとう」父はマンションのエントランス前に車を付けてくれた。降りるためにシートベルトを外して、僕は隣にいる父を見つめる。交じり合う視線が時間を止める。目を逸らすにはあまりにもその眼差しは強過ぎた。僕よりも一回り大きな手が差し出される。躊躇いながらも、僕は自らの手を伸ばしていく。僕には父に触れられた記憶がない。少しの感傷に浸るぐらいなら、きっと赦される。誰に赦しを請うのかもわからないまま僕はそんなことを思い、父の手に触れた。父はその手をしっかりと掴み、勢いよく引き寄せた。僕の上体はバランスを崩して運転席へと傾く。抱き留められた瞬間、心臓が大きな音を立てて鳴り響いた。耳元で、艶やかな声が響く。「大きくなったな、飛鳥」今さら何をと突っぱねることもできた。けれど、僕はそうしなかった。反発心よりも、このぬくもりを感じて憶えておきたい欲求の方が強かったから。僕は何も言わずに背中に両腕を回す。掌に感じるその温もりに、思わず微笑みがこぼれた。ああ、やっぱりこの人はユウに似ている。心地いい体温を感じながら、僕は目を閉じてゆっくりと息を吐き出す。それから目一杯この人の放つ匂いを吸い込んだ。ほんのわずかだったけれど、僕たちは確かに父と子としての時間を過ごした。「じゃあ、元気で」名残り惜しげに離れながら、父はそっと別れの言葉を告げる。もうこの人と会うことはないだろう。交わるはずのなかった僕たちの、今夜が唯一の接点になる。「父さんもね」そう言って笑えば、父も優しく微笑んでくれた。もう一度手が伸びてきて、今度は親指が唇に触れる。記憶もないほどに幼い頃、僕は父の腕に抱かれてその唇に触れたはずだ。指先で何度も優しくなぞられて、くすぐったさに少し息をついた。これが、幼い頃に交わしたキスの代わりなのだろう。「さよなら、飛鳥」「うん、さよなら」午前0時。奇跡の夜を終えて、僕はユウの待つ天上へと昇っていく。 - 93 - bookmarkprev next ▼back