胸の奥に何かが詰まっているかのように、呼吸がおぼつかない。こんなに遅い時間だというのに、ひどく混雑した駅の構内はむせ返るような人いきれに包まれていた。大勢の人に揉まれながら改札口を出て、人の波が作り出す流れに身を委ねるように、あてもなくただ歩き続ける。どうしてこんなところで降りてしまったんだろう。かつて僕が時折訪れていた繁華街は、真夜中の持つ本来の静けさを拒むかのように騒がしく、人工的な強い光に満ち溢れている。街は眠らずに、たくさんの生命を乗せて廻り続ける。雑踏に紛れて彷徨ううちに、意識はそこはかとなく浮遊感を伴い、塗り立ての水彩画に水を落としたように曖昧にぼやけていく。ここにはこんなにも人がいるのに、今僕がこの世界から忽然と消えてしまっても、きっと誰も気づかない。さっきまで確かに心は満たされていたのに、1人になった途端、やり場のない喪失感に襲われている。その理由は自分でもよくわかっていた。胸の痛みを少しでも和らげようと、僕はゆっくりと息を吐きだす。帰りたくなかった。ユウが僕を待つ、あの場所に。少しずつ自分を制御できなくなってきた僕のことを、ユウはもうその手に持て余している。それは、紛れもない事実だ。全てを断ち切ったつもりだったのに、結局は決して赦されない想いを抱いたまま、忘れることも消し去ることもできずに自分をごまかし続けてきた。湧き起こる情動を、痛みを伴うほどに強い快楽で抑えつけようとしてきたけれど、どれだけ心に蓋をしてもその感情は隙間を縫うように染み出て零れ落ちていく。こんな気持ちを抱いたまま、ユウと一緒にはいられない。─── そうじゃない。僕は、見捨てられたくないんだ。他に行き場などないのに、見限られて放り出されることが怖い。信号が赤から青に変わり、人の流れがせわしなく交差していく。また赤へと切り替わり光を放ちながら通り過ぎていく車の群れを、臆病な僕は立ち止まったまま遠目で眺め続ける。けれど、帰りたくないからと言って子どものように真夜中の街を徘徊して、一体何になるのだろう。僕が還るところはあの場所しかなくて、他に選択肢はないのに。信号がまた青に変わって、行くあてなどないのに人の波に乗り切れないままふらついた足取りで歩みを進める。いっそのこと、誰か僕をさらってくれないだろうか。誰でもいい。このまま息もできないほどに強い力で、僕の全てを壊してほしい。つまらない心の渇きなど感じられなくなるように。「 ─── Hi」突然背後から肩を掴まれて、景色の流れがぴたりと遮られる。「Are you free tonight?」若い男の声が紡ぐ流暢なイントネーションに、思わず僕は足を止めていた。この人についていけば、今夜は帰らずにいられる。そんな不埒な考えが脳裏を掠めて、けれど同時にどうしようもない奇妙な違和感に胸騒ぎを覚える。僕は、この声を知っている。次の瞬間、思いも掛けない言葉が続いて僕は身震いする。「お前、全然変わってないね。そんなほっとけないオーラ全開でふらふらしてたら、危ない奴に拉致されちゃうよ?」懐かしい口調に、肌がふつふつと粟立つような興奮と恐怖が入り混じる。瞬時に時間は巻き戻り、サキが生きていた頃に僕を取り巻いていた世界が呼び醒まされる。それは、サキと一緒にいられることが当たり前だった頃の、僕が持つ最も幸せな記憶だ。まばゆいほどに煌めく想い出が走馬灯のように蘇り、あっという間に僕を過去へと引き戻していく。このまま立ち止まっていてはいけない。振り切って、逃げなければ。そんな気持ちとは裏腹に足がすくんで動けない僕の前に回り込んで、その声の主は屈託なく笑い掛けてくる。あの頃と変わらない、春の陽射しのような暖かな笑顔だ。「久しぶり、飛鳥」「陽太……」高校時代の友人は、僕の記憶の中よりも少し大人びた顔をして目の前に立っていた。カフェというより喫茶店と呼ぶ方がしっくりくるようなレトロな雰囲気の店内で、僕たちは向かい合って掛ける。頭上には琥珀色の小さなシャンデリアが控えめな光を放ち僕たちをほんのりと優しく照らす。中学時代の友達と飲んできた帰りだという陽太は、確かに頬はちょっと赤くなってるけど酔っ払っているというわけではないみたいだ。陽太は高校時代の同級生で、僕が何でも話すことのできる唯一の友達だった。サキに想いを伝えるときに背中を押してくれたのも、陽太だ。その頃、陽太には幼馴染みで同級生の彼女がいて、学校が違うから会ったことはなかったけれのわ、話を聞くだけでもよくわかるぐらい2人は仲が良さそうだった。僕たちが、高校2年生のときだ。陽太が、突然英会話教室に通うようになって、英語を猛勉強し始めた。何でも、アメリカの大学を受験するから遠距離恋愛が無理なら別れてほしいと彼女に告げられたらしい。『なんて言い草だよ! 信じられるか、飛鳥。 遠距離だって? ふざけんな! 別れるなんて簡単に言うな、バカ』普段は飄々としてる陽太がものすごい剣幕で悪態をつくところを、僕は初めて見た。そして、そんなことを言いながら早くも大学留学のハウツー本を買って英会話教室の門を叩き、着々と向こうの大学を受ける準備を進めていて、その行動力に圧倒されたものだ。そうやって努力を積み重ねた末、陽太は奨学金のプログラムを利用しつつ彼女と同じ大学を受験して、本当に合格してしまった。入学は8月だったけれど、それまでに向こうの生活に慣れたいからと、高校を卒業してすぐに2人揃って渡米している。 - 46 - bookmarkprev next ▼back