epilogue[2/2]


一旦言葉を区切って、吐息のように零す。

「一海と違ってね」

思わぬ矛先を向けられて、反射的に言い返してしまう。

「どういうことだよ」

「空が一海に特別な想いを抱いていたのは、何となくわかってた。でも、一海は空や僕の気持ちにずっと気づかなかったよね。その鈍さに僕たちは救われてたのかもしれない。絶対に気づかれてはいけないと思ってたから。きっと、空も」

淡々と語る幸也の表情は慈愛に満ちていて、俺は言葉に詰まる。

呑むタイミングを失ってしまった琥珀色のグラスの中で、細やかな気泡がキラキラと立ち昇っていく。

ああ、お前は空と俺のことを誰よりもよく見ていたんだ。

家族同然に皆で過ごした遠い日々に想いを馳せる。

あの時お前はどんな思いでホームに残り、空と俺を見送ったのだろう。

どんな思いで極道の男に身体を委ねたのだろう。

その身体を抱いたときに目にした艶かしい肢体と、背中を覆うように刻み込まれた烙印を思い浮かべる。

お前はもう、何にも怯えてはいない。

脆弱だった少年は、俺の知らないところで必死に生きる術を探り、美しさと強さを秘めた青年に成長していた。

俺の顔をじっと見つめながら、幸也はおもむろに言葉を口にする。

「一海もよくわかってると思うけど、僕は相当悪いことをしてきてる。組に迷惑の掛からないような罪を幾つか洗い出して、警察に自首しようと思う」

突然そんなことを言い出されて、俺は言葉を失う。

「そろそろ、組から足を洗いたい。笠原さんが新しい人に興味を持ってる。もう潮時だ」

そう言って、幸也はテーブルの上で手を組み替えた。

新しい人というのは、幸也と同じ立ち位置に代わる者を指すのだろう。

「こんな生活、どの道長くは持たないと思ってたんだ。タイミングとしてはちょうどいい。むしろ、今しかないと思う」

微笑みを浮かべたその顔に迷いは見えない。俺を映す瞳には、有無を言わさぬ強い意思が表れていた。

「駄目だ」

思わず手を差し伸ばして細い手首を掴めば、幸也は驚いたように目を見開く。

振り解こうとしたその手を強く引き寄せると、幸也は瞳を潤ませて俺を見つめた。

「大丈夫だよ、一海」

詰めていた息を細く吐き出すようにそう言ってかぶりを振れば、前に会ったときよりも少し伸びた前髪がさらりと揺れた。

「何かキッカケがないと、無理だ。少しの間塀の中で過ごせば、出てきたときにはあの人は僕のことなんてすっかり忘れてる。
僕自身も少し疲れたんだ。だから、違う場所で一からやり直して、生まれ変わりたい。刑務所なら俗世間から離れられるし、いいと思ってる」

俺の手にもう片方の手をそっと掛けて引き離し、今にも泣きそうな顔を向けてくる。

「幸也……」

その全てを捧げて得たものがいとも容易く失われていこうとしても、幸也は生きることを諦めてはいない。

「そんな顔をしないで、一海」

無理をして作られた笑顔は痛々しく、胸が締めつけられる。

幸也はもう、俺の前に姿を現わす気はないのかもしれない。

そう思うと居ても立ってもいられなくなって、思わず口走っていた。

「じゃあ、お前が出てくるときは迎えに行くよ」

咄嗟に出た言葉は、自分でも予期せぬものだった。

幸也も面喰らった顔でまじまじと見つめてくる。その表情はいつもより幼く見えて、子どもの頃に戻ったような気がした。

「そんな……迷惑が掛かるよ。僕はこんなヤクザ者で、犯罪者で……」

詰まらせた言葉の語尾は、戸惑いに消えていく。

「それはお前から仕事をもらってた俺だって変わらない。せめて戻ってくるのを待っていたいんだ。だって」

もう一度握り締めた華奢な手は、ほんのりと温かい。ぬくもりは心まで沁み渡り、その奥に閉じ込められていた何かを引き出していく。

それはきっと、親愛の情だ。

「お前は俺の、家族だから」

自然と口から零れた言葉に、幸也はぽかんと俺を見る。その瞳がみるみると潤んで、涙が溢れ出した。

「うん……」

強く力の込められた手を、俺はしっかりと握り返す。

「ありがとう、一海」

微かな声で囁くように口にして、幸也は空いている手をグラスに掛ける。

乾杯を促されて、俺もすっかり気泡の消えたグラスを手に取りそっと傾けた。

「僕たちのこれからに」

幸也は涙を流しながら柔らかに微笑む。

昔と変わらない、少年のあどけない笑みだった。



*****



清々しい青空から穏やかな陽射しが降り注ぐ。

陽の光を浴びて白く光る御影石の向こうには、鬱蒼とした緑が見える。

人ひとりいない丘は神聖なまでに美しく、そこに生える草1本1本の色さえ鮮明に目に映る。

街から離れていて通うには少し不便だが、それでもここで見られる景色は何にも代え難いものだ。

どこまでも澄み渡る広い空の下で、俺はそっと手を合わせる。

この墓で、俺の肉親は皆仲睦まじく眠っている。

墓標に刻まれた享年を見て、あの事故で亡くなったとき両親はまだ30代前半だったことに改めて気づかされる。

そんな若さで生命を落とさなければならなかった2人を想えば、えも言われぬものが込み上げてきて胸が痛くなった。

「父さん、母さん。空のことをよろしくお願いします」

小さく口にしてから手を合わせ、俺は心の中でそっと語りかける。


─── 空。


父さんと母さんにはちゃんと会えたか?

2人は大人になった空を見てきっとびっくりしてるだろうな。これじゃあ親子じゃなくて、きょうだいだって。

もしかしたら、つまらないことで生命を落とすなって、叱られてるかもしれない。

俺が空を守ってやれなかったせいだって、ちゃんと言えばいいよ。

俺もすぐにそっちに行くつもりだった。

でも、もう少し足掻いてみるよ。

やり直せるって、信じたいんだ。

それを俺に教えてくれた人がいるから。

俺も誰かを救える人間になりたい。





墓地を出ればそこには、草原が拡がっていた。

俺は小さな子どものように大地に背を付けて寝転がる。

夜になればここからきれいな星空が眺められるだろう。

けれど、俺はもう知っている。目には見えなくても、この青空の向こうには確かにあのプラチナの煌めきが存在することを。


『一海、愛してる』


耳に届くのは、鈴の鳴る音に似た美しい響きの声。

誰かに捧げる祈りのような、浄らかで優しい声音だ。

「俺も愛してるよ」

目を閉じてゆっくりと草の匂いを吸い込めば、何かが舞い降りてきて傍に近づく気配を感じた。

手を差し伸ばせば柔らかな陽射しのぬくもりが覆い被さり絡みつく。




天と地の間で、俺は空と抱き合いながら、あの頃と同じ夢を見る。






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