「ごめんなさい」
遠慮がちに扉が開く音に顔を上げれば、シャツ1枚を気怠げに羽織ってリビングに入ってくるアスカが見えた。
射し込む陽の光に眩しそうに目を細めながら、真っ直ぐこちらに歩み寄ってくる。その足取りがしっかりしていることに、少し安堵した。
「具合はどうだ」
「うん……大丈夫。起こしてくれればよかったのに」
困惑した顔をして上目遣いで俺の様子を窺う姿は、20歳という年齢よりもあどけなく見える。
白い壁に掛かったシルバーに輝く丸型の時計は、正午を示そうとしていた。
「シャワーでも浴びて来いよ。メシは今用意してるから」
「いいよ、僕がする」
戸惑いを覗かせてそう言うアスカは、手を伸ばせば届く距離で艶めかしい色気を放ちながら俺を見つめる。
僅かに幼さを残した頬に触れて、うっすらと開いた桜色の唇を親指でそっとなぞってから、おもむろに口づける。
細い腰を抱き寄せれば、待ち兼ねていたかのように身体を委ねてきた。
アスカの唇は熱を失って少し乾いている。
朝露がしっとりと花弁を濡らしていくように、時間を掛けて何度も唇を重ね合わせた。
柔らかな下唇を小さく吸って、名残を惜しみながらゆっくりと離していく。
互いの息遣いを感じながら見つめ合う時間は、甘く緩やかだった。
「シャワー、行ってくるね。少し待ってて……」
ふわりと花が開くように微笑んで、アスカは俺の腕から離れていく。
遠ざかるしなやかな後ろ姿に、昨夜の情事の記憶が蘇る。
「ごはん、作ってくれたんだね」
ダイニングテーブルに並ぶシンプルな白い器に視線を移しながら、アスカは俺と向かい合わせに腰掛ける。
鷹の爪とオリーブオイルを絡めただけのシンプルなパスタに、あり合わせの野菜を切っただけのサラダ。朝食と昼食を兼ねた食事は、全く手の混んだ料理ではなかった。
それでもアスカは、俺の顔を見て嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
こうして一緒にいると、もうずっと前からアスカとここで過ごしてきたような気がする。 その姿は、この空間にごく自然に溶け込んでいる。
恐らくそれがアスカの持つ力なのだろう。
どんな場所にも、誰の心の中にもするりと入り込んで、馴染んでいく。
けれど、自分の心には決して踏み込ませようとしない。
「いただきます」
手を合わせて、アスカが水の入ったグラスに口を付ける。
ゆっくりと喉を動かしながら、みるみる飲み干していく。
ああ、そうか。喉が渇いていたんだ。
昨夜があんな状態では、無理もなかった。
フォークにパスタを絡めて口に運んだアスカは、ゆっくりと味わうように咀嚼してから飲み込んだ。 さらりとした髪に陽の光がキラキラと反射している。
昨夜この腕の中で乱れていたあの姿からは想像もつかないような、清らかな笑顔を向けてくる。
「すごくおいしい」
「大したことないだろ。正直、料理はあまり得意じゃない」
空と2人で暮らしていた日々を思い出す。せめて人並みに料理ができるようにならなければと思って必死に取り組んだのは、あの僅かな時間だけだった。
「そんなことないよ、カズミさん」
アスカは柔らかな眼差しで俺を見つめる。
「本当においしい」
そう言ってから、フォークの先に器用に巻きつけたパスタに視線を移して言葉を続けた。
「誰かに作ってもらった料理って、自分で作ったものよりすごくおいしく感じるよね。 僕が一緒に住んでる人も、料理が得意なんだけど……」
アスカの言う相手が誰なのかは、わかっていた。
「あのバーのマスターか」
そう口にした途端、アスカの顔色は陽に翳りが射すように曇っていく。
「……カズミさんがPLASTIC HEAVENに来たときには、もう契約のことをある程度調べてきてたって聞いてる。僕のことは、インターネットか何かで知った?」
嘘をついても仕方がなかった。俺は正直に頷く。
「ネットに出回っている情報を頼りにあのバーへ行ったのは確かだ」
「そうなんだね」
フォークを持つ手を置いて、アスカは目を伏せる。
長い睫毛が頬に小さく影を落とした。
「こういうことをするのはもう潮時だって言われてるんだ。確かにそうかもしれない」
そんなことを言っているのは、あのマスターなのだろう。
契約をしたときに店でやり取りしたことを思い出す。
『……あいつは、今あまり外に出せる状態じゃないんだ』
アスカと一緒に暮らすあの男は、そう口にして断ろうとしていた。
今なら、その意味がわかる気がする。
───人を殺したことがある。
昨夜アスカが意識を落とす寸前、唇から零れた言葉。
心の中ではまさかと否定しながらも、俺はどこかで危惧している。
我が身を顧みようともしないアスカのひたむきさは、諸刃の剣だ。
それが誰かのためになるのだとすれば、自らの手が汚れることも厭わず人を殺すことができる。
目の前のアスカからは、そんな強い気概さえ感じられる。
「でも、まだなんだ」
アスカはぽつりと呟く。
その瞳は俺を通して遥か遠くに向けられている。
桜色の唇から淡々と零れる言葉は、俺にではなく自分自身に言い聞かせているかのように聴こえた。
「僕はまだ、赦されていない」
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