the 4th day[2/12]

一体俺は本当に空のことを愛していたのだろうか。

時間が経つにつれ、空に抱いていた名もなき感情は溶き油を混ぜたようにどろりと滲んでぼやけていく。

確かに愛していたのかもしれない。

けれどそれと同じぐらい、俺は空を憎んでいた。

空の仇を討ちたい。その気持ちは、けっして揺らぐことはない。

目的さえ遂げてしまえば、俺をがんじがらめに縛りつけているこの相反する感情から解放される気がしていた。

何もかもが今日で終わり、俺はようやく自由になれる。




食事を終えて後片付けを済ませたアスカが、ソファに掛ける俺の元へと静かに歩み寄ってくる。

猫のようなしなやかな足取りだった。

「カズミさん」

ほんの少し距離を空けて隣に腰掛けたアスカは、俺の手を取って細い指を絡めてくる。

ひんやりとした体温が掌から伝わってきて、もしかすると少し緊張しているのかもしれないと思った。

「お姉さんの話を、もう少し聞かせてほしいんだ」

「そんなことを聞いてどうする」

繋いだ手を握り返しながら、アスカは眩しいものでも見るかのように目を細めて、口を開く。

「今日は大切な日になる。記憶を共有したい」

俺が救いを求めて手を差し伸ばせば、アスカは何を犠牲にしてでもこの手を取るのだろう。

契約を交わした、この4日間だけは。

そんな気がした。



*****



真夜中に携帯電話の呼出音が鳴る。

俺はまだ起きていて、眠れない身体を持て余してこの辺りを走りにでも行こうかと思っていたところだった。

ディスプレイを確認すると、空からの着信だった。

午前1時を過ぎている。こんな時間に架かってくることに、途轍もなく嫌な予感がした。

気を張り詰めながらも、なるべく穏やかに聴こえるよう応答する。

『もしもし、空』

『一海……』

俺は耳を疑う。

受話口越しに聴こえるのは、鈴の音のようなあの声ではなかった。絶望に嗄(しわが)れた、老婆のような声音だ。

『空、どうした』

尋常じゃないその様子に、俺は返事を待つことなく車のエンジンキーを手に玄関へと向かっていた。

以前にも、こんなことがあった。俺は封印していた記憶を呼び覚ます。

空を抱いた、最初で最後のあの夜だ。

『一海、瑛士さんが……』

耳元で聴こえる悲鳴を押し殺すような囁きが、嗚咽で途切れた。

『空? 何だよ、ちゃんと言ってくれ』


大声で呼び掛けながら、俺は脚が縺れそうになるほどの勢いでアパートの階段を駆け下りていく。

この通話を切れば、俺はもう二度と空とは逢えない。そんな縁起でもない予感が頭を掠めた。

『空、空! 大丈夫か』

『一海……』

怯えたように震えるか細い声が、微かに耳に届く。

『ごめんなさい……』

通話はそこで途切れる。慌てて履歴から電話を架けたが、電源を落としたのだろうか。留守番電話への接続を知らせる無機質な音声が耳元で流れた。

早く空に会わなければ。ただ、その想いしかなかった。

俺は車に飛び乗って、無我夢中で真夜中を駆け抜ける。行く先は空の住むマンションだ。

家にいる保証なんてどこにもない。けれど、電話があったとき、辺りは静かで外にいる様子はなかった。

マンションの前に乱暴に車を横づけしながら、空がこの中にいることを祈る。何の根拠もなくても、今はそう信じたかった。

車から降りてエントランスに飛び込んだ俺は、重厚な木目調の自動ドアの前に立ち尽くす。

そうだ、ここはオートロックだったんだ。

空の部屋の番号を押すが、応答はない。

苛立ちながら繰り返し番号を押して、無駄だと察した俺はやむなく隣の部屋の番号を呼び出した。

こんな夜中に、警察を呼ばれるかもしれない。それならそれでかまわない。僅かでも中に入れる可能性があるなら、それに賭けたかった。

『はい』

訝しがるような、低い男の声がした。見も知らぬその声の主に、俺は藁をも縋る思いで訴えた。

『すみません、開けて下さい。隣の部屋で姉が倒れてるかもしれない……!』

言葉足らずなのはわかっていても、それ以上頭が回らなかった。

重い沈黙が続いた。俺は目の前のカメラを喰い入るように見つめ続ける。

頼む、開けてくれ。

静けさの中で、祈りが通じたかのように解錠を示す機械音が鳴った。

ゆっくりと開かれた自動ドアの隙間を縫うように中へと入り、1階に止まっていたエレベーターに乗り込む。

最上階に辿り着くまで、時間が止まっているかのように長く感じた。

階上に着くや否や空の部屋の前まで走り、玄関扉を強く引いてみる。鍵が掛かっていて、ビクともしない。

何度も取っ手を引きながら、インターホンを押し続ける。

『空! 空!』

ガチャリ、と右側で扉の開く音がした。

隣の部屋の玄関扉から、初老の男がこちらの様子を窺うようにゆっくりと出てくる。

エントランスのオートロックを開けてくれた部屋の主に違いなかった。

俺は見も知らぬ男の元に駆け寄り、勢いよく頭を下げて頼み込んだ。

『お願いします。そちらのベランダに通して下さい 』





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