真夜中の高速道路はひどく神秘的だ。車内は静けさに満ちている。未来から来たかのようなフォルムをしたランボルギーニを走らせていると、このまま時空を超えていける気がした。──もしも、過去に遡ることができたら。闇を切り裂くように速度を上げながら、数え切れないほど想像した不毛な仮定を心の中でまた繰り返す。でもいつに還っても、きっとその先の未来は変わらない。ねえ、ユウ。どうしてこんな契約を交わした?そこに隠された意図を読み解こうとすれば、行き着く答えはひとつしかない。マンションの地下駐車場に車をとめて、エレベーターに乗り込む。今夜は最上階のボタンを押さないと決めていた。一階で降りてエントランスを抜け出す。しばらく夜道を歩くと、小さな箱から放たれる仄かな蛍光灯の灯りが見えてきた。古びた公衆電話ボックスのドアを開けて中に入る。受話器を上げてコインを入れた後にゆっくりと人差し指で押していくのは、忘れたくても忘れられない十一桁の番号。真夜中だから、出ないかもしれない。そんな懸念はすぐに打ち消される。呼出音はワンコールしか聴けなかった。『もしもし』耳元に響くのは、少しトーンを抑えた声。あれからそんなに経っていないはずなのに、すごく懐かしい。『……もしもし?』怪訝そうな言い方だった。こんな時間に無言電話が掛かってきたのだから、当たり前の反応だ。なのに僕は、その声に応える勇気がない。呼吸さえ伝わらないように、息を潜めるのに。『──アスカ?』その声が、急にはっきりと僕の名を呼ぶから。「ミツキ……」思わず声に出してしまう。一度名前を口にすれば、必死に気づかない振りをしていた何かが胸から溢れてこぼれ落ちていくような気がした。『アスカ、どうした。大丈夫か』切羽詰まった声から、ミツキが必死にこの細い糸を手繰ろうとしてるのがわかる。「ごめん。ちょっと、声が聞きたくなって……ずるいよね」『ちゃんと、元気にしてるのか』あんな別れ方をしておいて、責められても仕方がないと思っていた。だから、返ってきた優しい言葉に涙腺が緩みそうになる。「まあまあかな。ミツキは?」『元気なわけないだろ。お前がいないんだから、つらくて仕方ない』そんなことを軽い口調で言うけど、冗談ではないことはわかっていた。まだ僕に好意を抱いているようなことを言うのが不思議だった。別れを告げておきながら電話を掛けてくるなんて都合が良過ぎると、怒ればいいのに。少しだけ流れる沈黙。そして聞こえるのは、意を決したように息を吸う密やかな音。『俺、アスカのお姉さんに会ったんだ』ミツキの言葉に僕は息を飲む。長い間会っていないルイの顔が脳裏に浮かんだ途端、捻り上げられたように胸が痛んだ。「そう。だったら、サキが僕を選ばなかった理由がわかったよね」声が震えそうになるのを、無理に押さえつける。思い出すのは、胸をつんざくような痛みを伴う記憶の数々。「死を前にして、サキは自分の子どもが欲しくなったんだと思う。だから、僕じゃ駄目だった」『──アスカ』「ごめん……」ミツキにこんなことを話して何になるんだろう。僕はどうしようもない馬鹿だ。『俺、アスカのことが好きだ。お前があいつのことばっかり考えて囚われてるのは正直めちゃくちゃ妬けるよ。でも、あんなことがあったんだし仕方ないって思ってる。俺はそんなお前も全部引っくるめて大好きだから』ミツキから伝えられる言葉に、心の中で必死に堰き止めていた感情が決壊してしまう。泣かないと決めていたのに、意志とは裏腹に涙が頬を伝った。「ミツキ。僕が電話したのは、ちゃんと伝えたかったからなんだ」どうしてだろう。自分で決めたことなのに涙が止まらない。「もう二度と連絡しない。ミツキは大切な友達だから。僕のことを早く忘れて、ちゃんとした恋愛をして、幸せになってほしい」『何を言ってるんだよ』ミツキ。僕は怖くて堪らないんだ。サキがルイを抱いたと知ったとき。僕の言葉でサキが生命を絶ったとき。ルイのお腹にサキの子がいると知ったとき。僕はその度にサキを失っていった。そうやって何度も失ったのは、愛する人を手にした時期があったからだ。だったら、最初から手にしなければいい。「僕はもう、失いたくないんだ……」声が震えて、語尾が空気に溶けていく。受話器の向こうで、ミツキがどんな顔をしているのかを想像するのが怖かった。──なのに。『アスカ。そこを動くなよ』迷いのない強い声で、ミツキは僕にそう告げる。『今どこにいるんだ。すぐに行くから』言葉に混じってガタガタと物音が聴こえる。もう出る準備をしているのかもしれない。「駄目だよ、ミツキ」差し伸ばされた手を取ることができれば、どれだけ幸せだろう。そんな情景を思い浮かべて僕はまた涙を流す。会いたい。会いたい。これで最後にするから、もう一度だけ。『アスカ。どこにいるか、言えよ』駄目だ。会えばもう、離れられなくなる。耳に届くのは、この世界で一番残酷な言葉。『お前を愛してるんだ』──愛してるよ、飛鳥。サキの声が、耳元で聴こえた。愛は脆くて不確かで、縋ればすぐに崩れていく。僕には、無理だ。「ミツキ、ごめん。さよなら」この決意を揺るがす声が耳に届く前に、強引に受話器を置いた。これで──これで本当に、最後だ。透明なガラスの壁に背を付けたまま、その場に崩れ落ちる。涙が止まらなくて、うまく息を吸えない。もう、立てなかった。 - 37 - bookmarkprev next ▼back