the 3rd day[6/7]

「ヒナ、これ」

夢みたいな時間は、瞬く間に過ぎてしまう。
俺が事務所に終了報告の電話を掛けた後、神崎さんは名刺を渡してくれた。こんな俺でも知ってるような製薬会社の代表取締役。それが、この人の持つ肩書きだった。

「親の会社だから」

俺がびっくりしてると、ネクタイを結びながら困ったように苦笑してそう言った。

「裏に携帯番号が書いてある。決心が付いたら、連絡してほしい」

そっと見上げると、両腕が伸びてきて優しく抱き寄せられる。

「待ってるよ、ヒナ」

心臓がうるさいぐらいに高鳴ってる。この人は、俺の一番の上客だ。指名が入る度に嬉しくて、一緒に過ごす二時間はいつも本当に楽しかった。でもこんな形で会うのは、きっともう最後だろう。
恐る恐る背中に腕を回すと、額にキスしてくれた。もっと一緒にいたい気持ちを断ち切って、そっとその腕の中から抜け出す。
名残惜しさを抱えたまま、愛し合った空間を後にした。






「ヒナ、いいことでもあった?」

駐車場に戻った途端、アスカにそう訊かれてちょっとびっくりした。
俺、そんなにわかりやすいのかな。
車が動き出して、窓に映る夜の街が緩やかに流れていく。
ずっと室内にいたせいか、車窓から見える街の灯りが強くて、目がチカチカした。

「神崎さんが、俺を身請けするって言ってくれた。まだちゃんと返事してないけど、いい話だと思ってる」

ゆっくりとブレーキが掛かる。前方に赤信号が見えた。
少しの沈黙の後、アスカはおもむろに口を開く。

「僕がヒナを出してあげようと思ってたのに、ライバルが出てきちゃったね」

「何言ってんだよ」

アスカが振り返って俺を見る。艶っぽい流し目。この世のものじゃないみたいにきれいな微笑みだと思った。

「嘘だと思ってる? 僕は本気だよ」

確かに昨夜もそんなことを言ってた。でも、適当なことを言ってただけだろ? だって、アスカは偶然一緒に仕事をしただけの同僚だ。俺をここから出すことができるなんて、絶対にありえない。

「いい加減なことを言うなよ」

ちょっと強い口調でそう言うと、アスカが前に向き直った。信号が青に変わって、アクセルが踏み込まれていく。

「神崎さんと一緒になってヒナが本当に幸せになれるなら、僕は身を引いてもいいよ。だけど、神崎さんはヒナだけなの?」

痛いところを突かれて言葉に詰まった。

「違うんだね」

ゆっくりと流れる景色。道行く人々。行き交う車。窓の外には、他人の人生が無数に流れてる。

「ねえ、ヒナ。ここにいるヒナは、籠の鳥だ。でも、神崎さんに身請けされて外に出ても、場所が変わるだけでやっぱり籠の鳥には違いない」

アスカの言うことは、理解できた。
神崎さんにお金を出してもらって、愛人になる。それはつまり、この先ずっと神崎さんに飼われて生きていくということだ。

「ここよりはずっといいよ。それに俺、あの人のことが好きだし」

「昨日言ってた好きな人よりも?」

言い返したつもりがまた言葉に詰まる。
神崎さんは、すごくいい人だ。でも俺が神崎さんに惹かれるのは、きっとあいつのことがまだ諦めきれないからだ。俺はまだ、神崎さんを通してあいつを見てる。
でも、絶対に想いが叶わない相手と、俺のことを大切にしてくれる人。どっちがいいかなんて、答えは決まってるじゃないか。
そこで会話は途切れてしまって、俺たちは一言も喋らないまま事務所に帰り着いた。





寮に帰ってからシャワーを済ませて寝る支度を整えたところで、例によって例の如く、アスカが俺の部屋にやって来た。

「ヒナ、一緒に寝よう」

「いやだ」

「これが最後だから」

断られてもお構いなしに、俺の横をすり抜けて部屋に上がり込んで、もうベッドに勝手に腰掛けてる。

「ヒナもこっちにおいで」

魅惑の微笑みに、今日こそ拒絶しようという決意は脆くも崩れ去った。

「勝手に入んなよ」

そう言いながらも、俺は魔法に掛けられたみたいにベッドに近づいていく。アスカから放たれる甘い匂いに、吸い寄せられるように。
やっぱりきれいな顔だ。隣に腰掛けてチラチラと横目で見てると、艶っぽい桜色の唇が動いた。

「昨日の続き、する?」

「するわけないだろっ!」

慌てて離れると、アスカは愉しげに微笑んで俺を見つめる。

「僕、考えてるんだ。ヒナがどうやったら僕を選んでくれるか」

「またその話かよ」

「だって僕は、ヒナをここから出してあげるために来たんだ」

からかうのもいい加減にしてくれ。そう言おうとして、アスカの瞳が妙に真剣なことに気づく。
色っぽい瞳で俺を誘うのに、一人では眠れないなんて子どもみたいなことを言う。突然俺の前に現れた、不思議なアスカ。
見つめ合うだけで頭がクラクラしてくる。ああ、またこの瞳に吸い込まれそうだ。
そんな危うい空気を壊すかのように、部屋のインターホンが鳴った。

「ちょっと出てくる」

我に返った俺は、玄関まで行ってドアスコープを覗く。魚眼レンズ越しに見慣れたユイの顔が見えて、慌てて玄関のドアを開ける。

「ヒナ、まだ起きてた?」

ユイは普段通りのかわいい笑顔を見せる。今日目撃した光景が頭をよぎって、心臓がドキドキしてくる。

「ごめん、お客さんがいたんだ」

部屋の奥にいるアスカに気づいて、ユイが申し訳なさそうに謝る。ユイとは事務所でよく話す仲だけど、わざわざこの部屋まで来るのは珍しかった。

「アスカは別に用があって来てるわけじゃないんだ。ユイ、何かあった?」

「ちょっと、夜風にあたりたくて。一緒に散歩しない?」

そう言って、ユイは春風みたいに柔らかく微笑む。背後からアスカの声がした。

「僕は留守番してるから。いってらっしゃい」

だから、ここは俺の部屋だってば。振り返って睨みつけると甘い眼差しを返されて、あえなく撃沈する。
俺はアスカを部屋に残し、パーカーを引っ掛けてユイと外へ出た。






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