序章 日本への帰還




場所はイタリア、時刻は4時。
徐々に茜色に染まっていく空を仰ぎ見ながら、フィディオは地面に寝転がっていた。
一日中やっていた練習のおかげで、汗だくになった身体。早く汗を流したい衝動に駆られるが、既に体力は限界でまだ動く気にはなれない。
あと10分寝転がったら家に帰ろうと思って彼女の方を向いた時だった。



「私、来週日本に帰るから」



隣で地べたに座り込んでいた相棒がそう口にしたのは。
訪れた一瞬の静寂。喋る様子がないのは、彼女は別に話すことがないからで、俺は単純に驚いているから。
他のチームメイトが既に帰路についていて誰もいないのが救いだった。
何故かって、人の迷惑なんて微塵も考えずに、俺が情けなくも大声で「はああああっ!?」と叫んでしまったからだ。



「な、なんだよそれ!冗談だろ!?」
「ううん、本気」



綺麗でさらさらな水色の髪を長く伸ばし、高いところで結っている彼女は何でもないような風にさらりと答える。
いやいや、アンタ仮にもうちで居候している身だろうが。毎回吃驚させられるこっちの身にもなれよ。
思わず口に出そうとするのを慌てて抑え、ぐっと飲み込んだ俺は理由を問いただした。
彼女と出会ってから二年。すっかり自分の相棒の位置に落ち着いてしまった彼女が、急にそんなことを言ってきたのだ、理由を聞いたところで罰当たりにはならないはず。



「あー……ちょっと、色々あるんだけどさあ……」



そう言って、なんとなく言葉を濁して誤魔化す彼女。
この二年間、日常茶飯事に起こってきたことであったのだが、生憎今日だけは全て教えてもらわないと気が済まなかった。
俺の真剣な瞳にじーっと見つめられて、とうとう視線の強さに限界が来た彼女は一つ溜息を吐いて話し出す。



「ほら、私行き当たりばったりでフィディオの家に居候させてもらい始めたじゃない?あれには結構深い理由があるんだけど……」
「ああ、確か家の近くの公園で葵が倒れてたのが出会いのきっかけだったよな……」



二年前の丁度今と同じような夕方に出会った。
サッカーをした帰りに公園の方をふと覗いてみたら、真ん中でばったり倒れてる女の子を見つけて。
しかも俺と同じくらいの年だろう女の子で外国人だったから本当に吃驚して、慌てて起こしたのが始まりだろう。
帰る場所がないって言うし、お金も食料も何もなくてお腹が空いてるって言ってたから、仕方なくうちに連れて帰って。
そしたら軽く事情を聴いただけで、うちの親が居候させてやるって言ったんだから、その当時は本当に驚いたもんだった。
なんであそこに居たのかはあまり言えないって、ずっと口を閉ざしていたのに。両親は、笑うだけで住むことを了承したのだ。



「その深い理由のことで、日本に帰らなきゃいけなくなったんだ」



ちなみに深い理由については、未だに話してもらえていない。
分かっているのは、とても大事な人たちを置いてきてしまったということだけ。
俺は唇をギュッと噛みしめて俯いた。視界の端にキラキラと夕焼けの光に反射して輝く碧が映る。



「……絶対、なのか?」



短く問いかけたそれに、彼女は間髪入れる余裕もなく「うん」と頷く。そして気付いた。
そうだ、彼女が言うことはいつでも本気だったんだ。これでは、いくら俺が止めた意見を変えることなど確実にない。
とにかく自分の知っている間――――少なくとも二年間は、結局一度も決めたことをかえることなどなかった。
……なら、それならば、と思う。



「そっか。じゃあ、一つ約束してくれ」
「ん、何?」



いつもはこういう、約束などの自分を縛るようなものを嫌う彼女だが、今日だけは素直に聞いてくれた。



「絶対、もう一度ここに帰ってきてくれ。無理にとは言わない。ただ、時間が空いた時にでも帰ってきてくれよ」



大事な人たちの元へ帰らなくっちゃいけないんだろう?
そう言うと、彼女は驚いたように目を見開き、かと思うと苦笑いになってこちらを見つめる。
当たり前だ、俺たちは相棒(パートナー)なんだから。お前の考えていることくらいすぐ分かるよ。



「……うん、約束」



指切りげんまんって言いながら、お互いの小指を絡め合う。
きっと彼女は日本に帰ってしまったらしばらくここには来てくれないんだろうけれど。
だからといって今、急に自分の想いを伝えてしまったら、きっとそういうのに疎い彼女は酷く混乱してしまうだろうから。



「じゃあ、早く家に帰ろうぜ!母さんが晩御飯作り始めてる頃だろうし、手伝わないと!」



だから、その想いにはしばらく蓋を閉めておこう。再びそれを開けるのは、彼女の中で燻っている問題がすべて解決した後だ。
一瞬自分の心から垣間見えた彼女への慕情には精一杯気付かないふりをして、立ち上がる。
にっこり笑ってそう言ってから家の方向へ全力で走り始めると、「もー、分かったから速度落としてよー」と苦笑気味の気楽な返事が返ってきて。



(こうやって葵と過ごすのもあと数日だけ……か)



寂しいような、実感が湧かないような、なんだか不思議な気持ちが心の中を駆け巡る。
この二年間、彼女から離れたことなんてほとんど一度もなかったものだから。



(少しぐらい……君に甘えたっていいよね?)



いつも引っ張ってあげてるんだから、あと数日のせめてこの期間だけは素直な自分で居させてほしい。
別に彼女に問いかけたわけでもないのに、肯定であることを確認するような表情で後ろを振り返って見れば、追い付こうと必死に走っている君の後ろで丁度夕日が照っていたから、ついつい笑みが漏れたんだ。



***



もうこれで見るのも最後となってしまったイタリアの綺麗な青空を見上げ、葵は懐かしむような瞳で辺りを見渡した。
二年前に訪れてから、一度も来ていなかった空港は今もにぎやかな雰囲気に包まれて人ごみに溢れている。
隣には二年間ずっと一緒に居てくれた相棒、フィディオの姿もあった。
最後の景色もしっかりと目に焼き付けてぎゅっと拳を握ると、そのまま振り返らずに空港の中に入る。
自分の世話をしてくれたフィディオの両親は「フロントに行って荷物とか渡してくるから、貴方たちはそこのベンチで待っていなさい」と言ってフロントの方へ向かっていった。



「……ここ、座ろうか」
「うん、そうだね」



先程指差されたベンチに大人しく腰かける。
思えば、この二人きりの状況もフィディオの両親が意図的に作ってくれたもので、最後にフィディオと気兼ねなく話ができるように、という彼女らの些細な心配りに、思わず涙が出そうになった。
でもその心遣いはなんだか妙に気恥ずかしくて、つい隣に腰を下ろしたフィディオをちらりと盗み見てしまう。彼の私服はラフなものであるはずなのに、彼が着るだけでその服も随分と格好よく見えていた。



「………」
「………」



二人とも、一言も発さない。何と声をかければいいのか分からないのだ、それこそ二年もずっと一緒に居た大切な相棒だから。
そんな沈黙を破ったのは、言わずもがな彼だった。



「……二年前」
「………?」
「葵は、なんであんなところに居たんだ?外国人が異国の地で何も持たずに倒れている……さすがにイレギュラーすぎだろ。ずっと疑問に思っていたんだ。最後なんだし、ちょっとくらい何かを教えてくれたっていいじゃないか」



――――私は、少し迷っていた。
フィディオやその両親には家にずっと居候させてもらっていた。二年間もの間だ。
お日さま園に秘密裏に連絡を取り、瞳子姉さんにはずっと仕送りをもらっていて、それで生活費の足しにしてもらってはいたが、それでも住まうところだけは確保できなかったため彼らの温情のみであの家に住まわせてもらっていたというのに。



自分は何一つ内情についてを話していない。その理由は、もしもイタリアに居た時住んでいたのがバレた時、エージェントが向かうとしたら、二年間も匿ってくれた温かいアルデナ一家だろうからだ。
もしも私を泊めてくれていたということにエージェントが気付いたとしても、何も知らない一般人の家族なのだから、泊めたという事実が浮き彫りになるだけで終わる筈。既に多大な恩を受けて2年間過ごしてきたというのに、その恩を仇で返すことなどとてもできない。



――――だって、フィディオの家族は全員、私の事情を一つも知らないもの。



父さん――――エイリア学園総帥、吉良星二郎は変わってしまった。
昔はあんなに温厚で優しい人であったのに、気付けばいつの間にか“復讐”に心を黒く塗りつぶされてしまった悲しい男性。普段は卑怯な手など全く使わなかった人であるが、二年経った今では私を取り戻すために卑怯の手を使うかどうかなんて、知る由もない。



だが、今私が日本から逃げてきた理由をフィディオに話してしまえば、少なからず可能性が出てきてしまう。
アルデナ一家がエージェントに捕まり、理不尽な、そして過酷な事情聴取が行われるかもしれないという、その可能性が。
だから彼にも、その両親にも悪いが話すことはできない。……そう、思っていたのに。



「言ったら、貴方も狙われるかもしれない。それでも、いいの?」



はっと息を飲む気配がする。だが穏やかな話ではないことを知った彼は、それでも答えを改めなかった。
彼は私の唯一無二の相棒なのだ。やっぱり黙っておくなんて……できない。



「お前のこと、少しでもいいから聞いておきたいんだ!」



この時、フィディオの中でその意思に強く執着しているのは、私に好意を抱いているからだなんて想像もつかなかったし、まったくもって知らなかったのだけれど。
それでも自分のことを知りたいと言ってくれた人がいるんだと、分かってしまったから。
身を乗り出して問いただしてくる彼に少し儚げな微笑を落とすと、私は静かに語り始めた。
簡潔に、彼らに父さんの魔の手が届かない程度にだけだけど、日本にいる私の友達のことを、父のことを、今から自分のやらなければいけないことを話していった。
ところどころ端折ったおかげか、説明はものの数分で終え、丁度フィディオの両親が来る前に終了する。上目づかいでそっと、反応を窺った。



「そう、だったんだ……」



無意識にそう呟いたフィディオの瞳は驚きに染まっていた。
エイリア学園の計画は一つも話さなかったが、自分が孤児であることや、孤児院の皆が大変なことになっていること、何者かに狙われているため、フィディオ達に迷惑をかけられないこと等を話したのだ。
たとえ相棒といえど、言えるのはここまでなのだ。絶対に、彼らを巻き込むわけにはいかない。



「だから、日本に戻って彼らを助けなくちゃいけないの。私が最後の希望なんだって。皆を元に戻すには、私が強くならなくちゃいけなかったから……」
「そっか……」



フィディオが考え込むように俯く。「どうしたの?」と声を掛けようとして体を近づけた時、フィディオが一つの行動を起こした。



「……え、ふ、フィディオ?」
「…………」



すなわち、彼が私のことを唐突に抱きしめたのだ。
イタリアでは軽いスキンシップとして抱きしめることはそう少なくないのであまり驚かないのだが、今日のフィディオの様子はいつもとは違っていたわけで。
小さく名前を呼びかけても何も言ってくれない相棒に溜息を吐くと、大人しく彼の背中に腕を回した。
途端、先程よりももっとぎゅっと抱きしめられて、さすがに私の頬が赤く染まり始めた。フィディオの匂いがすんと漂ってきて落ち着くような、恥ずかしいような。
彼の温もりに触れて数十秒。もう一度だけ、今度は先程よりも大きな声で「フィディオ」って呼びかけたら、名残惜しそうな雰囲気を残して彼は私を包み込んでいた腕をゆっくりと解いてくれた。



「……どうしたの?急に抱きしめるなんて……」
「…本当はここから、俺の元から葵に離れていってほしくない」



そう言って私と向き合ったフィディオの顔は寂しそうで、悲しそうで、辛そうで。



「でも、葵にもやらなきゃいけないことがあるんだから仕方ないよなって思ったら、いつの間にか葵を抱きしめてた」



(そんな顔で……言わないでよ)



見てるこっちも辛くなってきそうなその表情に、つんと胸が痛んだ。



「なあ葵。その用事が終わったら、絶対にもう一度ここに帰ってきてくれ。ちょっとの間だけでいいんだ。だからさ……」
「うん、絶対ここにもう一度帰ってくる。だから、そんな悲しい顔をしないで」



昨日も問いかけられたそれに、私は戸惑いなく頷き返す。もう一度言ってきたのはきっと、それだけ戻ってくるかが不安だからだろう。
本当に不安そうに見つめてくる彼の頬に手を伸ばし、触れる。親指で彼の頬のラインをすーっとなぞりながら、相棒の不安が少しでも消えてくれるように祈りながら。



「……うん、分かった」



私の祈りが伝わったのか、安心したように微笑むフィディオ。
良かった、と思うと同時に、彼の両親が私たちの元へやってくる。荷物の手続きなどが終わったようだ。



「さあ、行きましょう。もうそろそろ機内に入り始めないと、乗り遅れちゃうものね」



おばさんが優しい声音で私達に呼びかける。
なるほど、様子を見る限り彼女らは私たちの話の終わりを待っていてくれたらしい。本当に優しい人たちだと、心の中で微笑する。



「行こ、フィディオ」



最後位いいよね、なんて思って二人一緒に席を立った瞬間に、彼の手を掴むとそのまま一緒に歩き出す。
私も彼も顔が赤く染まっているかもしれないけど、そんなこともう無視だ、無視。
エスカレーターを上って、すぐそこにあるゲートラウンジ。ここを通れるのは飛行機に乗る私だけで、つまりフィディオと一緒に居られるのは此処までが限界だ。



「葵ちゃん、これがチケットよ。これを渡したらあそこへ入れるから……」
「はい、ありがとうおばさん。おじさんも」
「良いんだよ、だが葵ちゃんといられるのもこれで最後かと思うと寂しいな」



チケットを渡されるついでにそっと頭を撫でられる。本当の親のように接してくれた、おじさんとおばさん。
もう一度だけ「ありがとう」と呟くと、撫でる手を離してもらった。
フィディオに向き直る。彼の顔はまだ寂しそうな面影を残していたが、それでもちゃんと送り出そうとしてくれている。
きっと今出せる精一杯なのだろう笑顔で私のために微笑んでいた。



「行くんだね」
「うん……皆を、助けに行かなくちゃ」
「頑張れよ」



フィディオに向かって手を差し出す。それの意味に気付いた彼は懐かしそうに目を細め、私の手をしっかりと握った。



「これ、初めて会った時もしたよな……」
「うん、出会いと別れの挨拶だよ」



わたしとっては、の話なんだけど。頭に疑問符を浮かべた彼に何でもないと静かに首を横に振ると、もう一度強く握りしめてから、ゆっくりと手を解いた。



「……お別れだね」
「……ああ。絶対また、会おうぜ!」
「……そうだね!」



じゃあ、またいつか。
そう言って名残惜しくも前を向いた私は、ゲートをくぐって進んでいく。
最後にもう一度だけ、と軽く振り返ったときに見えたのは、大きく手を振り続けている一人の少年の姿だった。







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