第16章 折れない翼



「……嘘」



その日は、とても晴れた空だった。
全国大会の一回戦としてはこれ以上ないくらい快晴で。そんな陽に照らされて、彼らも晴れやかな顔でフィールドに立っていた。支配されたサッカーから離れて、最初の試合。燃え上がらない筈はない。決勝まで勝ち進み、今度こそは雷門に勝つ。闘志を燃やしながら初戦に臨もうとした彼らの後ろ姿を、私は眺めていたはずだった。



「…………ねえ、うそでしょう?」



声にならずに言葉が溶けていく。目の前の惨状を受け入れられず、私は思わず彼を見遣った。
彼は、いつしか立ち上がっていた。痛みを伴う足で、震えながら立っていた。呆然とその光景を見つめる瞳が、ゴーグルでいつもは見えない瞳が、揺らいでいることすら分かってしまった。ねえ、鬼道。心の中で名前を呼んだ。



(どうして……)



鬼道の顔が、ぐしゃりと歪む。



――――どうして全国一である筈の彼らが、ボロボロになって倒れてるの?





第16章 折れない翼




病院に搬送されていく仲間をただ見送るその後ろ姿が目に焼き付いていた。
フィールドの向こうをただ見つめている鬼道。彼のトレードマークの赤いマントが、風に吹かれて揺れていた。気持ちと相反している輝く夕焼け空が、私達を橙色に染めあげている。他に誰も居ないフィールドには、物寂しい風が吹いていた。



今日は帝国学園にとって、全国大会の一回戦だった。
雷門に敗北してもなお全国大会への出場権を得た帝国学園。影山からの支配も逃れ、サッカーの自由を得た彼らは雷門との再戦を望んでいた。だが雷門と帝国はブロックすら違う。もし再戦できるとしても決勝のみだろうとあらかじめ決まっていたが、それでよかった筈なのだ。最高の環境でのリベンジマッチをお互いに望んでいた。そしてそのためにも、一回戦で手古摺るなんて以ての外である筈だったのだ。



「なあ、神崎」



か細い声が、私を呼んだ。
鬼道は私に顔を見せなかった。皆が運ばれていった向こうの方を、ずっとずっと見つめている。



「…………俺、無様だな」



掛ける言葉が見つからず、自然と視線が地に落ちた。泣きそうな声が、震えている声が、彼の無念を、怒りを、後悔を――――全てを表している。いっそこちらが泣きたいほどに、その声は弱弱しい。



“ソレ”は、見るにも無残な光景だった。相手のあまりの強さに、容赦なく地面が抉られていった。グラウンドは元の綺麗な形など見る影もない。抵抗する間もなくあっという間に帝国学園の精鋭達は倒れて行ってしまう。傷つくのはほんの一瞬だった。その圧倒的な破壊力に、簡単に捻り潰される恐怖に、倒れ伏す彼らの無力さに観客は全員息を呑んでいた。
一方的な試合は、僅か十数分で終わりを告げる異例の事態になった。大事を取ってベンチ入りしていた鬼道のみを残し、全員が試合続行不可能の状態にまで追い込まれたからだ。



「俺が出る前に試合は終わっていた……四十年無敗だった帝国の伝説は、あっと言う間に終わりを告げた」



鬼道にとってそれは、本当にあっという間に終わった。立ち上がったときには既に手遅れだったのを、私は既に知っている。そして同時に、キャプテンである己が出ないままに四十年無敗の称号が呆気なく零れ落ちていく感覚が、相当な恐怖だっただろうことは簡単に予測がついた。



「影山の支配から逃れようとした癖に、いざ離れたらこんな結果だ。全く……こんな無様なことはない」



俺たちの強さは影山に依存していたのだと言われてるみたいだ。片手で顔を覆って、鬼道はか細く呟いた。鬼道が出ていなかったから、なんて言い訳は通用しない。8対0で終わってしまったあの試合が、それを証明している。圧倒的に相手が強すぎた。それだけのことだ。



「…………お前なら、1人でも彼奴らに立ち向かえたんだろうな」



だがそれは帝国学園にとってのことだ。私に当てはまることは無い。鬼道の言う予測は正しくて、そんな皮肉を言われても仕方のないことだとは分かっていた。

試合を見ていて分かった。あれくらいの相手ならば、私なら一人でも戦えただろうこと。そして……たとえ一人だったとしても、きっと勝利を掴めたこと。そしてそのことは、私と戦ったことのある鬼道が一番よく知っている。本当は今日は、鬼道の誘いで来た筈なのに。雷門の初戦だって見たのだから、帝国も観て行けばいい。帝国のメンバーが強くなった姿を見て欲しい。そう言ってくれたのは紛れもなく彼であった筈なのに…………こんなことになるなんて思ってもなくて。

私は俯く。返す言葉が全く持って見つからない。こんなに傷ついた鬼道を、慰めることも出来ない。自分の不甲斐なさが身に沁みて、思わず歯噛みした。



「………すまなかった。お前に八つ当たりしたところで、俺たちが負けた事実がなくなるわけでもないのにな」



やっと振り返った鬼道は、そんな私を見て初めて動揺した素振りを見せた。ゴーグルの奥の瞳が揺れている。
全国一の勲章を貶めてしまった責任は重く、それによる傷も深い。追い打ちをかけるつもり等なかったのに、謝罪する彼の声は先ほどよりも沈んでいた。初めて雷門に来た時の底の見えない笑みを浮かべていた彼はどこにもない。あるのは、敗北者の悔恨。それだけ。



「……、きど」
「少し、一人にしてくれないか」



彼は私に背を向けると、ぼそりとそれだけ言った。寂し気な背中が徐々に遠ざかっていく。
名前も呼べない。顔も見れない。声を掛けることすらも出来ない。お前のことをこれ以上傷つけたくないんだ。彼があまりにも悲しそうな声でそんなことを言うので、私は引き下がることしかできなくて。何をすることも出来ない自分が嫌になる。私じゃ彼は救えないと言われているかのようで、心底自分に腹が立った。



“貴方は、救世主の称号を捨てたのよ”



酷く耳障りな笑い声が囁く。ああ、煩いなあ。黙ってくれよと耳を塞いだ。
そんなことは分かっている。“彼拠”から逃げたときにすべて捨ててしまったのは、自分が一番理解していた。
だが、それでも私は救世主だった。傷ついているヒトが居たら手を伸ばして、どうしても助けたくなってしまう性分だった。



彼を助けることは出来ないのだろうか。このまま遠ざかる彼を見ているだけで、本当に良いのだろうか?声は何も答えない。彼を止めることは出来ないまま、私も動くことは出来ないまま。だが彼の姿が消えるまで静かに見守ることも出来ず、待ってと慌てて手を伸ばした。しかし声は上手く出てこない。結局何も言えないままに、彼のマントは出口の向こうへ消えていく。
思わず溜息を吐いて、伸ばしていた手を静かに下ろした。心に燻ぶりを抱えながら、緩やかに夕闇に染まっていく空を見る。いつもは綺麗に見える筈のその空は、今日だけは少し濁って見えた。





***





守が鬼道の元へ駆けて行ったことを知らされた。家へ帰ろうと歩いている、翌日の夕方のことだった。
それを聞いて私は思う。彼なら、鬼道の悔恨に向き合うことが出来るのだろうと。そしてそれは恐らく正しい。守にはその力がある。鬼道の心を開くための、何かが。私には無い何かが。



「お前は行かないのか?」



私の瞳を真っ直ぐ見つめて、豪炎寺は問いかけてきた。視線に耐えきれず俯いて、ただ小さく首を振った。
私にはそんな力は無かった。鬼道を慰めるどころか傷付けることしか出来なかったのに、今更行ったところで何が出来る?鬼道の傷を抉ることしか出来ない自分に、追い掛ける資格などない。



「今の私が慰めようとしたところで、鬼道の心には響かないよ」
「……なんで、そう思うんだ?」
「言われたもの。……『お前なら一人でも勝てたんだろう』って。……私も、そう思うもの」



鬼道を奮い立たせるために必要な強さを、私は生憎持っていなかった。鬼道を立ち上がらせるための強さは、私の持っている強さとは別の何かだったのだ。
仕方のないことだ?そうだろう。だって私が何をしたって実力差が狭まるわけじゃないのだから。お前が気負う必要はない?そうだろう。だって実力の差を埋めるには、彼らが追いついてくれるのを待つしか出来ないのだから!だがそれを嘆いて何が起こるわけでもなく、結局のところ私にはどうすることも出来ない問題で。だから、私に声の掛けようなど、あるはずもなかったのだ。



「私には解決できない問題なのに、私が口を出したって鬼道には届かない。鬼道が立ち上がるのに必要なのはもっと別のところにある。……例えばそう、守とかね」



自嘲気味に笑った。ある種の確信が私の心を蠢いていた。
守なら。皆のことを立ち上がらせた守なら。一度惨敗した筈の帝国を打ち負かすことが出来た守なら、きっと鬼道を立ち上がらせることが出来るだろうという。それは、ある種の確信だった。
だって私にはそんな力なかった。親に置いて行かれた自分に、家族を裏切ってただ一人逃げ出した自分に、仲間を見下ろすことしか出来なかった自分に、彼を立ち上がらせるための力など備わっている訳もなかった。



「……私が行かなくても、守が鬼道を助ける。それでいいじゃない。きっと、それが正解なの。……傷つけることしかできないのに、態々私が行く理由なんてどこにも……」
「ない、とでも言うつもりか」



力強い声が、私の弱く打ち震える心を引き戻す。いつしか地に落ちていた筈の昏く濁った視界が、突然開けていた。驚く間もなく肩を引き寄せられる。澄み渡る碧の瞳が映し出したのは、きらきらと輝く黄金色の夕焼け。豪炎寺の肩越しに、彼の情熱に染まる空を見た。間近に触れる彼の体温が、私の凍える心を溶かそうとしている。



「確かにお前は強い。鬼道を立ち上がらせるのだって、きっと円堂のようには行かないだろう」



耳元に彼のあたたかい声が響く。まるで愚図る子供を宥めるような声音で、私の凍てついた心を優しく撫でる。



「だけど、葵は葵だ。円堂とはまた違う方法で、お前らしい方法で、鬼道を立ち上がらせてやればいいんだ。そのための強さを、きっと葵は持っている」
「……どうして、そんなことわかるの」



だがそこまでしてもらっても、やはり私はどうしようもないほどに臆病な人間だった。手を伸ばすのが怖くて、拒絶されてしまった時のことを考えると、居てもたっても居られなくなるのだ。背中を後押ししてくれる存在を、心のどこかで求めていた。そしてそれは身分不相応にもかなってしまう。彼がちゃんと、その期待に応えてくれたから。



「分かるさ。だって俺は、お前が居なければ……きっと、立ち上がれなかった」



恐る恐る手を背中に回せば、一層強く抱きしめられて彼の温もりがじんわりと広がった。力強い鼓動を感じる。まるで臆病で空の中で閉じこもる私を外へと連れ出してくれるヒーローのような、そんな温かさ。それでも半信半疑の私は、ヒーローに向かって問いかける。



「……本当に?……私にも鬼道を立ち上がらせるための強さがあるって……本当にそう思う?」



見上げる。真っ直ぐな瞳とぶつかる。ヒーローはふわりと微笑んで言った。



「お前はもう、十分すぎるほど持ってるさ」



迷いなく頷く彼に、立ち上がるための勇気を貰う。ふわりと過ぎゆく風が、前を向くための強さをくれる。なら、もうなにもこわくない。臆病者の私でもやれる。私にはその力がある。他でもない豪炎寺がそう言うのなら、きっと間違いないだろう。あとは、一歩を踏み出すだけだ。



「……ねえ、お願いがあるの」
「なんだ?」
「君が私を立ち上がらせてくれたように、私も……鬼道のこと、立ち上がらせてあげたいんだ」



彼は切れ長の瞳を柔らかく細めて、こちらをそっと見つめている。



「一緒に、見届けてくれないかな。私ひとりじゃ、まだ、その、自信がなくて。君が居て呉れるなら、きっと頑張れる気がするから――――だから、」
「……ふ、それくらい、お安い御用だよ」



返事を待つほどの隙も無く戸惑いなく頷いてくれる。それが嬉しくない筈がない。安心に胸をなでおろしたら、彼はくすりと小さく笑った。夕闇に染まる前に行かなければならない。向かう先はもう既に決まっていた。



***



「……見つけた」



もう太陽も完全に沈みかけていた。河川敷に見覚えのある二人の姿を視界に捉え、私は思わず呟いた。私の予想に間違いは無い。もし私ならどこにいくかを考えれば、おのずと鬼道の居場所は絞られた。彼は妹とともに何か話しているようだったが、表情は暗い。離している内容も、なんとなくだが予想はつく。
私がやるべきことは一つだけだ。準備はとうに出来ている。あとは、踏み出す勇気さえあれば。豪炎寺に借りたサッカーボールをぎゅっと抱きしめれば、肩に軽く手を乗せられた。



「大丈夫さ、お前なら」
「ん。……ありがと」



これからやろうとしていることは、傍から見れば単なるおせっかいなのかもしれない。私のただのエゴなのかもしれない。それでも彼の力になりたいと願う私の心だけは、嘘じゃない。豪炎寺だって見守ってくれている。私は最後の一押し代わりに大きく深呼吸して、ボールを上に蹴り上げた。



「鬼道!」



眼前に来たボールを渾身の力で蹴り飛ばす。私の声に反応して顔を上げた彼は、然し光線のように真っ直ぐに素早く飛んで行ったシュートに、咄嗟のことで反応出来ない。「ぐあッ」小さなうめき声と共に彼は後ろに吹き飛ばされた。春奈から小さな悲鳴が上がる。



「お、おにいちゃんッ」



悲鳴に反応することなく、春奈の横を通り過ぎた。兄の痛ましい姿に思わず私を引き止めようとした彼女だったが、然し豪炎寺に肩を掴まれてすんでのところで留まった。鬼道はボールの来た方向を見ることすら出来ず、痛む腹をかかえ蹲っている。



「ねえ、立ちなよ、鬼道」



傍に転がるボールを拾い上げ、私は鬼道に呼びかける。然し彼は反応しない。ゴーグルの中の瞳はグラスが映し出す夕焼けに隠されて、何も見えない。



「ね、立ちなって言ってんの。……こんなので倒れるアンタじゃないでしょう?」
「…………おまえに、なにがわかる」



鬼道のものとは思えない、か細く小さな声だった。初めて聞くような声音に、一瞬びくりと肩が震えた。動揺したことを気取られないよう、無表情に努める。地に這い蹲る鬼道は、ギリギリと食い込むほど強く拳を握った。歯を食いしばって、顔を上げていた。ゴーグルの中の獰猛な瞳が、突き刺すように此方を鋭く射抜いていた。



「ッ、俺の全力とぶつかったことのないお前に、一体俺のなにがわかる!?」



初めて、鬼道の本心を垣間見たような気がした。それは鬼道の、心からの叫びだった。



「お前は強い……俺の全力を出す隙さえ与えず、お前は俺を追い抜かしていった」
「…………、」
「俺は負けた!敗北者だ!もう彼奴らに向ける顔がない。フィールドに立つ資格なんてない……!俺の気持ちがわかるか?誰にも負けないお前なんかに、負けた奴の気持ちが分かるか!?」



はっと息を呑んだ。鬼道の本音に触れて、心がズキリと傷む。俯きそうになるのを必死にこらえていた。
きっと、鬼道の言うことはもっともだった。だって私には、敗北者の気持ちなんてきっと何も分からない。ずっと前からそうだった。横に並べる人なら居れど、自分の追い越す存在に長らく会ったことがない。



「……俺の翼は、もう折れてしまったんだ……」



だからもう俺に構わないでくれと、彼は掠れた声で言う。苦しそうに視線を地に落とすその姿があまりに痛ましくて、見ていられなくて。……私なんていらないと、拒絶されてるかのようで。



「大丈夫さ、お前なら」



だが、暖かな声が震える私を呼び戻した。肩に置かれた小さな温もりの残滓が、私の背中を押してくれている。立ち止まるなと。前を向けと。呼びかけてきてくれている。ならば。



「…………んなこと、ない」



掠れた声を不審に思ったのか、鬼道がそっと顔を上げ、私を訝し気に見つめている。だがそれにはもう怯まない。私は私のやりたいように、彼を救うだけだ。私は強くこぶしを握り締め、勇気を絞り出して声を上げた。



「そんなこと、ない。君の翼は折れてない」
「………な、にを…………」
「まだ立てる。まだ戦える。アンタは、立ち上がるための術を既に持ってる。だから、力を振り絞って立ち上がれ――――アンタは飛び立つんだ、鬼道!」



見上げる彼のゴーグルに、しっかりと立つ私の姿がくっきりと映っていた。そうだ。本当はずっと前から分かっていた。鬼道を立ち上がらせるための方法なんて、一つしかない。私も立ち上がって、彼に真正面から向き合うしかないのだ。



「……分からないよ。君の敗北感も、責任の重さも、私への劣等感だってきっと私にはわからない。……でもそれでも君がまだ立てるってことだけはわかる。こんな私でも、確信を持って言えるんだ」



夕焼けが私たちを照らしている。地に伏せる私達を鼓舞するように、西日が強く照らし続けてくれている。なら、立ち上がらなければいけない。私だけじゃダメだ、鬼道も一緒じゃないと。呆然とする彼に、答えを突きつけてやらないと。



「だって、きみは…………こんなに立派な翼を、既に持っているじゃないか」



しゃがみこんで、倒れる鬼道の肩を掴んだ。声がほんの少し震えて、思わず涙ぐんでしまったのには気付かぬ振りをした。鬼道には気付かれてなければ良いな、なんて自嘲気味に心の中で呟いた。



「……わたしにはね、そもそも翼なんてついてないの。飛べるとか飛べないとかそういう問題じゃない。根本的なところで、君のようにはなれないことは既に決まってしまっているんだよ」



鬼道には、立ち上がるための術があった。その術のことを私は既に知ってしまっていて、鬼道に必要なのは一歩を踏み出す勇気だけだとこれ以上なく理解してしまっていた。ただ、立ち上がって欲しかった。それは立ち上がる術を持たない私のただのエゴなのかもしれないけれど、偽りのない本心で……いっそ、願望なのかもしれない。



……わたしは、同じ土俵に上がることすら出来ないのに。



なぜ立ち上がろうとしないのか、不思議でならなかった。そんなに立派な翼があるのに、羽ばたけない筈がないのだ。立ち上がるための動機も、強さも、きっと鬼道は持っているのに。



「敗けたからって言ったね。もう敗退したから、戦うことなんて出来ないって」
「…………だが、本当のことだ。俺にはもう――――」
「ッ、その程度の絶望で諦めるなよ!」



か細い声で言う鬼道に無性に腹が立った。俯こうとする彼に叱咤するように、彼の言葉を遮って私は心からの叫びを上げる。彼は私の決死の声にぴくりと反応した。気にせずにそのまま言葉を続ける。
私からしてみれば、そんなのは全然絶望じゃなかった。立ち上がれないと泣くには、そんなのはまだ早すぎた。私が鬼道の気持ちを分かってあげられないのと同じで、きっと鬼道にも、私の絶望は分からないのだろう。否、分からなくていいのだ――――家族に跪かれて崇拝される恐怖や、その家族を捨てて逃げる罪悪感や、逃げる以外の選択肢すらない絶望なんて。



「敗けたから立てない?フィールドに立つ資格がない?甘ったれたこと言わないで。そんなことで失う資格なんてない」
「…………#名字#?」
「アンタが立ち上がりたいとさえ思えば、アンタは立ち上がれるし、飛び立って行くことすら出来る。あとアンタに必要なのは、立ち上がるための勇気だけだ」



君に必要なのは、それだけなのに。私とは違って、君には立ち上がるための何もかもが揃っているのに!



「私が強いって言ったね。敗北を知らないって、俺を追い抜かしていったって。でもね、鬼道」



――――同じ土俵にすら立てない奴にとって、その強さに一体何の意味があるの?



「フィールドに立てさえすれば……今は勝てないのだとしても、いつか、追い抜かせる日がくるかもしれない。でも私には、その資格が与えられる日は来ない。資格を失うことすら出来ない。資格がないっていうのは、そういうことなんだよ」



彼らの戦うフィールドに、私はそもそも立ち入ることを許されない。私のこの強大な力は誰もが羨む甘い蜜で、私自身を滅ぼす猛毒だった。私が人々の輪に立ち入れば、たちまち輪の均衡を崩し、崩壊する。彼らの隣には立てない……出来るわけない。だが、それでもよかった。彼らが楽しくプレイ出来るなら。私が背中を押すことで、彼らが羽ばたいて行けるなら。
遠くで眺めることしか出来ないもどかしさを知っているのは、私だけで良い。



「だから、諦めないで。私は一緒に戦ってあげられないけれど、背中を押してあげることぐらいなら出来るから」
「立ち上がるのが怖いなら頼って。ほんの少しの勇気なら、分けてあげられるからさ」



敗けたのが悔しいなら、立ち上がって、前を向いて、飛び立って――――それで、世宇子中を倒して。
立ち上がるようにと願いを込めて、そっと手を差し出した。鬼道はその手をおもむろに見つめ、手を伸ばそうとして……然し寸でのところで躊躇してしまう。行き場の無くした手が宙を彷徨う。私はどうしたのかと問うて、戸惑う彼を真っ直ぐ見やった。



「……だが、帝国は敗北した。それは確かな事実だろう。世宇子中を倒すと言っても、どうやって……」
「それは、俺が話そう」



後ろから聞きなれた声がした。振り向けば、戸惑う春奈とともに豪炎寺が微笑みながら立っている。豪炎寺は私の方を見ると、軽く頭を撫でられた。くすぐったいが心地よくて、思わず目を細める。



「なあ、言っただろう?お前にも立ち上がらせることは出来るって」
「……うん。豪炎寺の言った通りになったね」




少しの間微笑みあって、すぐに鬼道の方に向き直す。



「ねえ、鬼道。君が世宇子中を倒す方法が一つだけあるんだ。……ただ、それには君の強い意志が必要となる」
「俺は、帝国の仇の討ちたい。……世宇子中を、倒したい」
「それが答えなんだね?」



こくりと頷きがひとつ。こちらを見上げる鬼道の瞳には、以前と同じ――――否、それより遥かに強い輝きを纏っていた。私は小さく笑みを溢して、今度こそ手をしっかり差し出した。



「君ならきっと立ち上がれると、信じてたよ」



鬼道の伸ばした手をぎゅっと握って、引き上げる。ようやく立ち上がった鬼道は、隣に並んだ豪炎寺に首を傾げる。私と豪炎寺はくすくす笑って、内緒話でもするかのように言った。



「とびっきりいい案なんだ。聞いてくれる?」
「――――お前は円堂を正面からしか見たことがないだろう。彼奴に、背中を任せてみる気はないか?」



運命の歯車が、動き始める音がした。








「なあ、神崎。何故お前は、そんなにサッカーをするのを拒む?」



話を終えた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。危ないから家まで送ると言ってくれた豪炎寺と帰ろうとすれば、後ろから鬼道にそう声を掛けられる。振り向けば、真っ直ぐに私を射貫いていた。



「お前のサッカーの技術は本物だ。男子に遥かに凌駕するそのスピードとサッカー技術があれば、お前は間違いなく全国一になれる……否、下手したら世界にだって通用するだろう。それなのに、何故?」



私の心は凪いでいた。鬼道に聞かれるだろうことも多少の予測はついていたし……彼らにずっと隠し切ることは出来ないだろうことに、もう気付いていたからかもしれない。数秒の沈黙の後、小さく溜息を吐いて私はそっと口を開く。



「――――これは、私への罰なんだ」
「…………は?」
「全てを捨てて逃げ出した私が背負うべき罪。抗うことは許されない、あるべくしてある……そんな罰」



だがその罰に抗うことすら、私の選択肢にはなかった。そんな意思も露程もない。
私は夕闇に覆われる虚空を見上げると、口元に緩く弧を描いた。



「でもきっと、そう遠くないうちにこの罰は終わりを告げる。その時にきっと、分かると思うよ」



それは予感だった。必ず来る終わりが近づいてきている……そんな予兆を、第六感が微かに感じ取っていた。そして罰が終わる時、私はその罪と対面するだろう。逃げるときにすべて捨ててきてしまった、救うべき大切な家族たち――――否。倒さなければいけない敵たちと。






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