第14章 舞い上がる疾風の如し


別段代わり映えもしない月曜日の午後。HRも終わり放課後になった教室は、今日も今日とて騒がしい。がやがやと色々な人が話してる姿を、私は何をするでもなしに静かにそっと眺めている。早く帰ればいいのだとは思う。しかし家事も溜まっていない現状では家に帰ったところで何ができるわけでもない。ならば、生徒が残っているこの時間くらいは、静かにぼうっとするだけでもしていよう、なんて思ったのだ。いつも話し相手になってくれる豪炎寺や秋や守も今日は練習に行ってしまっている。全国大会一回戦が間近に控えているから、それも当然のことだった。




「あ、葵!」
「ん?……ああ、一郎太。どうかした?」




と、思っていたのだが。急に名前を呼ばれて私は軽く顔を上げる。艶めいた青い髪が視界の端で揺れて、窓から吹き抜ける風で靡いていた。教室の外から私の名前を呼んだ幼馴染は、騒がしいクラスメイトを避けながら教室の奥へと、私の座る席へと向かってくる。珍しい。一郎太は放課後は部活にすぐに向かうのに。




「ちょっとさ、サッカーのことで相談があって。いま、時間あるか?」
「………んー、あるよ。私が答えられる範囲でならまあ答えるけど。なんかあったの?」
「この状況でディフェンスをするときの対処法なんだけど――――」




成程な、なんて心の中で呟きながら、彼の開くノートを見つめる。
几帳面な性格の彼は態々サッカーのためのノートを作っているらしい。確かに、未だサッカーを始めて数ヶ月も経たないのに全国大会に出場するのだから、そうでもしないと中々技術は追いつかないのだろうが。
そんなことをしたことがない私から見れば、ただただ凄いとしか言えないものだ。戦略や技術からサッカーの基本ルールまで、様々なことが書かれたノートがパラパラと捲られていく様子を見て、わたしはふと疑問に思って一郎太に尋ねる。




「…………一郎太は、なんで私を頼ってくれたの?」




ノートを開こうとする手を止めて一瞬驚いた顔をした彼は、然し何を考えるでもなくまるで当然であるかのようにその言葉を放つ。




「お前はサッカー部じゃないけど、サッカー部よりサッカー上手いもん」




数秒の沈黙。




「……………ンー、嬉しい………けど嬉しくないなぁ…………」
「どっちだよ」
「や、だってさ…………うーん、複雑な気分だ………」




圧倒的に自業自得なのだが、矢張りそう言われてしまうのは複雑であった。
サッカー部にはすでにエースも、頼れるキャプテンだって居る。それなのに私に相談を持ち掛けてくるということは……まあ、つまりはそういうことなのだろう。




「あの時のお前、すごかった。あの帝国を一瞬で下したプレーは、今でも鮮明に俺の目に焼き付いてるんだ………まるで本当に風になったみたいだった。お前は、俺の目標だよ」




目をきらきらと輝かせ、こちらに純粋な笑みを浮かべる一郎太に、わたしは何も返せない。辛うじて浮かべた苦笑は、不自然だと思われていないだろうか。彼の視線から逃げるように開かれたノートに視線を逸らし、その状況を把握するのに集中する。端から見れば仲良い二人が談笑している様に見えるその裏で、私は密かに溜息を吐いていた。




――――窓から見えるその光景が、厄介な奴に見られてるなど、知りもしないで。




第14章 舞い上がる疾風の如し




昼休み。四時限目の終わるチャイムが鳴り響いて少し。
教材を閉まった私の方へ、前の席の豪炎寺がこちらを振り返った。




「…………あ、葵。その、昼……食べないか」
「……もう、豪炎寺ってばまだ呼び慣れないの?その呼び方になってからもう一週間は経ったと思うんだけど」
「…………う、すまん…………」




妙に申し訳なさそうに、なのに微かに頬を赤くして恥ずかしそうにする豪炎寺がなんだか面白くて可笑しくて、「まあいいけどね」なんて笑みを漏らしながら前後の机をくっつける。ここ数日のお決まりのやりとりだった。




「で?練習の調子はどう?一回戦、勝てそ?」
「そうだな……勝算は、あるよ」
「へえ…………豪炎寺がそこまで言うなら、ちょっと期待できそうだね」
「まあな」




全国大会出場を勝ち取った彼らは、初戦のためにも休む暇なく特訓を積み重ねている。
遠目から見ても彼らの成長は目まぐるしいもので、素人目から見てもそうなのだと思う。学内の話題はもっぱらサッカー部に向いているようで、応援する声も格段に増えていた。ついこの間私が河川敷で見たものなんて、40年前FFで優勝した元雷門サッカー部――――イナズマイレブン、と言うらしい――――と練習試合していたそうで。
其処で新たな必殺技も習得したと言っていたので、恐らく豪炎寺の言う“勝算”というのはそれのことなのだろう。




「”炎の風見鶏”…………だったっけ」




お弁当を開きながら聞けば、こくりと頷きが一つ。
まだ実物は見たことがないけれど、それは一郎太と二人で打つシュート技だという。DFがシュート技を打つのは珍しいように思えるが、彼は陸上部で鍛えた脚力がある。シュートを打つのに充分な力はあるのだろう。スピードとジャンプ力も必要な技らしいし、まさに一郎太と豪炎寺はその必殺技にぴったりの人選だというわけだ。




「じゃ、もう完璧にできるんだ?」
「そうだな、技は完璧に出せるようになった。威力も申し分ないし、全国大会でも通用するだろう。あとは、実戦的な特訓だな」
「ん、そうだね。皆全国大会初めてで緊張するだろうから、その分実戦での対応に慣れとかないと」
「ああ」




豪炎寺は再び頷き――――しかし何故か唐突に下ろされる視線。
つられて目線を下に落とすとそこにあったのは…………弁当?しかも、私の?




「…………あの、どしたの。私の弁当、なんか変?」




あまりにじっと見つめるので視線に耐えきれなくなってそう聞けば、少しの沈黙のあと返ってきた言葉は少し予想を飛び越えて来た。




「……これ、お前がいつも作ってるのか」
「え?嗚呼………そうだね、ま、パパっと作れるものばっかだけど。一人暮らしだしね」
「ひ、とり暮らし……そうか……そうだったな……」




そう呟いて黙る豪炎寺に私は首を傾げる。確か雷々軒で一人暮らしだと言ったとき、豪炎寺はその場にいた筈だ。聞いていたことに間違いはない。なら、今更驚く必要なんてないと思うのだけれど。




「料理、上手いんだな」
「あー、まあ、昔からやってるし。作ってあげなきゃいけない状況にあったから」
「……、作ってあげなきゃいけない?」
「色々とね」




料理は得意中の得意……というよりも孤児院に連れて来られる前からよくやらされていたので、出来るようになって当然、と言った方が正しいように思う。それを豪炎寺に伝えられるかと言えば否ではあるのだけれど。とりあえず孤児院云々はこんなところで話せる内容ではなくて、私は曖昧に話を濁すと、微かに疑問符を上げている豪炎寺に小さく笑みを見せて誤魔化した。




「あ、なんなら卵焼きいる?そっちの卵焼きと交換しようよ。ね、いいでしょ?」
「………実は少し気になってたんだ、あ、葵、の料理。いいぞ、交換しよう」

適当にごまかすために言ったつもりが案外食いついてくれた。
豪炎寺って案外表情豊かだよなあ、なんて私の弁当に向けられた、じっと見ないと分からないくらいの興味津々の瞳に苦笑しながら、卵焼きを交換する。
そして、ぱくりと一口。




「ん、甘い!美味しい!」
「神崎の卵焼きは」
「葵」
「……あ、葵の、卵焼きはだし巻きなんだな」
「甘いのも好きなんだけど、だし巻きの方が作る機会が多かったから自然とって感じ。でもやっぱり砂糖利いてるのいいなあ………また今度こっち作ろうかなあ………」




これぞ関東の味って感じだよね!そう言って笑えば豪炎寺もふっと笑った。
そうかもしれないな、なんて気取った台詞をつぶやいて彼は私の卵焼きを食べている。無くなれば私の弁当に残る卵焼きをちらりと見ていたので、苦笑して豪炎寺の弁当にひょいと入れてあげた。気に入ってくれたらしい。




「そんなに気に入ってくれたんなら、また作るよ」
「ほんとか」
「これぐらいなら………ていうかいっそのことまた今度機会あったらもっと手の込んだヤツ御馳走するけど?」
「……!」




一々反応が面白い豪炎寺に約束を取り付けながら私は笑う。これは気合を入れて準備しなくては。小さい家だけどね、なんて言いながら豪炎寺のくれた卵焼きを頬張る。楽しいお昼のひと時だった。




***




放課後。帰ろうとしていた私に、サッカー部の姿が入ってくる。




(………珍しい、サッカー部が学校で練習してるなんて)




一瞬そう思ったが、すぐに認識を改める。彼らは帝国にも打ち勝ち、全国大会への出場を決めた。学校のグラウンドを使う権利はもう十二分に持っているだろう。
うちの学校は部活も多いので他の部活との併用にはなるだろうが……それでも、堂々と使うことが出来るようになったのは確実だ。




「あんまり話せるようなものじゃないんだけど、部員が揃っていないからグラウンドを貸してもらえないの……」




私が転校してきたばかりの頃、そうぼやいていた秋の悲しそうな表情が蘇る。あの時は部員すら7人しかいなかったのに、今では全国大会に出場しているなんて。そう遠くないあの頃がまるで嘘のようだ。然しそれは、それだけ守が、皆が頑張った証でもあって。彼らが頑張っている姿をずっと見ていたこともあって、私にはそれがなんだかとても嬉しかった。




「あれ、葵じゃないか。帰るとこか?」
「…………、風丸先輩、誰ですかこの人」




そんな中で通りがかったのは、雷門ユニフォームを身に纏った一郎太だ。隣に見かけない顔の奴を引き連れている。特徴的な黄色の練習着を着たその少年は、何やら物騒な目付きでこちらを睨み付けてきていて、内心首を傾げながらも私は一郎太に挨拶代わりに手を上げた。
途端、ますます鋭くなる眼光。練習着と先程の言葉から分かるように、恐らくは陸上部の後輩なのだろうが……生憎と此処まで敵視される覚えがない。




「…………えーっと」
「宮坂。俺の幼馴染の神崎葵だ。葵、こいつ宮坂って言うんだ。俺の後輩」




一郎太による紹介に乗じて「よろしく」と声を掛けてみたが、返ってきたのは矢張り睨みと沈黙のみ。一郎太に困ったような顔で見られた彼は渋々「…………よろしくお願いします」と言ってくれたが、よろしくしたくなさそうなのは態度から有り得ないほどに滲み出ている。いよいよ私はどうしようもできなくなってしまって。もしや以前、何か失礼なことをしてしまったのだろうか。
しかしそんな険悪な雰囲気に早々に耐えきれなくなった一郎太が、私に誘いを投げかけた。




「あー……………っと、そうだ!葵、俺ら今から陸上部行くんだけどさ、お前も来ないか?」
「り、くじょう?いいけど……」
「前から陸上の奴らがお前に興味持っているらしくてさ。折角だから、ちょっと会ってやってくれたら嬉しいんだけど」




陸上。興味がないと言えば嘘になる。私には馴染みのない言葉だけれど、彼はずっとあそこで走っていたそうなので、その姿は見てみたいとは思っていた。
行くだけ行ってみよう。未だ消えぬ鋭い目つきに晒され何処か居心地の悪い感覚を覚えながらも、私は一郎太に了承の返事を投げかけた。




「………………」




***




「走ってみてくれよ」




その言葉を投げ抱えられたのは、一郎太の誘いに乗ってからわずか数分後のことだった。




「……えっと………私?に言ってます?」
「何言ってんだよ、当たり前だろう?」




そう言ってからからと笑う彼は陸上部の三年だ。矢張り彼も、“あの試合”を見ていたらしい。そこで私のスピードに感服し、ぜひ陸上部に来てほしい、来ないまでも一度陸上で走ってみてほしいと。宮坂とかいう一郎太の後輩からの睨みも氷点下にまで下がっている中、私はあくまで無表情で答える。




「私、走るのは好きだけど、それはサッカーありきのだから。…………申し訳ないですけど、陸上はちょっと」
「いいじゃないか!な、一回だけだって!お試し!」
「……………………」




折角無表情を取り繕ったのに、彼へのダメージは皆無だった。断られると微塵も思ってない三年と面倒そうにしている私を、陸上部の一年と二年は苦笑いで見つめている。それもそうだ。彼らはそもそも一郎太と走ろうという話をしていただけだったのに、気づけばこんなことになっているのだから。然し三年がこうも乗り気だと、彼らも強く出れない。……私に興味があるのだろうことは、彼らも確かなのだろうけれど。




「…………陸上を本気でやってる人にも、申し訳ないし」
「そんなことないって!なあ、」




みんな!そう言って三年の彼は振り向く。
こくこくと遅れて頷く数人に私は内心溜息を吐いた。断れなさそうだ。一郎太も苦笑いしながらこちらにこっそりと「すまん、頼む」と言ってくる。数秒考えて、その末に私は渋々了承の返事を返した。




そうとなれば早速準備だ。
制服姿の私は陸上部のユニフォームに着替えさせられて、あれよあれよといううちにトラックで開始を待っている。……とはいえ、陸上は全くやったことがない。
スタートダッシュのフォームも知らない私は隣の一郎太を盗み見て、見様見真似で屈んで構える。スタートまでの約数秒。
しんと静まったその中心で、皆の好奇の視線に晒されながら、俯いた私はふと思った。




――――たとえ陸上だったとしても。たとえサッカーじゃなかったとしても。
――――此処で負けるのは、性に合わない。




ホイッスルが鳴る。スタートダッシュ。
持ち前の反射神経を存分に発揮して、私は誰よりも速く走りだす。




ゴールを目指して上を向けば、ぎらりと瞳が光った。
一瞬にして豹変した私の目付きに――――獲物を刈り取るような鋭い眼光に、見ていた陸上部のメンバーはひゅっとか細く息を呑む。
圧倒。私はどうしようもないほどに彼らを完全に圧倒していた。




だが、その中でもやはり一郎太の反応は速い。
出遅れた分を取り戻そうと彼が必死に着いてくるのを見て、ニヤリと思わず口角を上げた。矢張り、勝負はこうでないと!
ゴールは少しずつ近づいている。一郎太は変わらず間隔を開けずに私に追いついてくるが…………甘い。それでは私に勝てやしない。
挑戦的な笑みを浮かべ、然し私はまだいけると速度を上げる。引き離す。愕然と息を呑む音が聞こえ、もう誰も追いつけない。宮坂も、一郎太も、他の人たちも、皆。一人走り続ける中で、驚愕で満ちたゴールが見えてくる。





勝利は目前。驚愕は必然。
着いてきていた筈の一郎太も引き離して、私は遂にゴールを掴んだ。




私がゴールして少し後、一郎太が遅れて駆けてくる。それからまたかなりタイムラグがあって、他の選手もやっとゴールに追いついた。皆が膝に手を付いて荒い息を整える中、一郎太は顔を上げて笑う。引きつっているように見えるのは…………きっと、気のせいではない。




「葵、速いんだな……っ、はぁっ……はっ……、全然、追いつけなかったよ」
「そんなこと、ないよ。一郎太すごく速くて、私ホント焦っちゃった」




これは紛れもなく本心だ。私に食らいつこうとするのはこの中で一郎太だけだったし、かなり後半まで追いついてきていたように思う。
………だが、それでもやはり一郎太の引きつった笑みは取れそうにない。仕方のないことだとは思う。フォームも何も知らない素人に差をつけて負けるなんて、誰だって嫌なものだ。だが、本気で戦わないのはもっと駄目だとも思うのだ。この結果になるのは半ば必然だった。



陸上部の人だって、もう何も言ってくれやしない。
陸上部のエースは一郎太だ。その彼を軽く追い越したというのだから、この反応は当然で。




(…………だから、言ったんだ)




陸上を本気でやってる人に、申し訳ないってさ。
気まずい雰囲気を受け止めて、思わず心の中でぼやいた。こんな状況に陥った以上、こんなのはただの言い訳にしかならないことは分かっているが、それでも。思ってしまったものは仕方ない。
やっぱり走らなきゃよかったかな。楽しかった事実とは裏腹に、今私を取り巻く環境は最悪そのものだ。笑顔のなくなった空間に耐えきれなくて、内心の溜息を隠して背中を向けた。




「…………、ぁ」
「…………すみませんが、用があるのでこれで失礼します」




一郎太からの視線が怖かった。背を向けた私は誰からも声がかかることなく、静かなフィールドを歩き出す。自分の心が悲鳴を上げていることに気付かないふりをすることしか、今の私には出来なかった。




***




「用があるんじゃ、なかったんですか」
「…………君、宮坂って言ったっけ。じゃあ聞くけどさ。…………あれ、本気で言ってるように見えた?」
「…………」
「なんだ、分かってるんじゃない」




着替え終わった私を待ち伏せていたのは、黄色の髪をした少年だった。先程の勝負で、もう顔も見たくないと思われていても仕方ないと考えていたのだが、予想に反して彼は精神が強かったらしい。勝負の前と寸分違わない様子でこちらに睨みを利かせる彼に、今度こそ溜息を隠さず吐いて、問いかける。




「何か、用?」
「……僕が負けたのは実力不足なんだってことくらい、分かってる。僕にとっては、風丸さんもアンタも手を伸ばすことすらできないくらい遠かった。ほかのみんなもそうだったんだと思う。でも、風丸さんは…………風丸さんはうちのエースだ。うちの部活じゃ誰よりも速いし全国でだって通用する、陸上部一番の誇りなんだ。でも、あんたはそれを軽々と追い越してみせた…………」
「…………、だから?」




私の言い方は、彼の癇に酷く障ったようだった。癇癪を起したかのように声を荒げた宮坂は、私の胸ぐらを掴んだ。ぐっと近づく顔と顔。一年男子が二年女子に暴力を振るおうとするように見える構図。目立つのは当然だ。人の視線が集まるのを感じながらもあくまで冷静に見上げる私に痺れを切らし、彼は大声で叫ぶ。




「ッ、風丸さんは、僕の目標なんだ!お前なんかが敵うような人じゃないッッ!」
「……………そう。君が思うなら、そうなんじゃない?」




胸ぐらをつかまれながらも、私の脳内では一郎太の先ほどの笑みがぐるぐる巡っていた。あんな顔をされるのは、初めてだった。思っていたより心を抉られている事実に気付いて、内心苦笑する。こんなの、慣れっこだと思っていたのに。……とはいえ、そんな姿をこの少年に見せるわけにはいかない。彼の言葉に一々返すのも無駄だと悟っていた。彼にとって一郎太は恐らく絶対的なものだ。私がどうこう言ったところでそれはきっと変わらないし、私が言い返す必要性はどこにもなかった。
表面には何の表情も出さない私に、宮坂はとうとう怒りの沸点に達したらしい。彼は私の服を掴んでぐいと引き上げて、目を吊り上げて、










「な、んだよ、ソレ…………アンタなんか、風丸さんのこと何とも思ってない癖に!」










「…………、は?」


そうして彼から洩れた言葉に、私は耳を疑った。




「風丸さんにはバレてないんだろうけど、僕にはわかる。お前は風丸さんのことなんて、何とも思っちゃいない




――――何とも思っちゃいない?
――――わたしが……一郎太のことを?




言われてすぐ、鼻で笑ってやろうと思った。そんなわけないだろう。だって彼は、私の大切な幼馴染で――――
でも、笑えなかった。何故か言葉も出てこなくて、反論位いくらでもできる筈なのに、わたしの口元はちっとも動きやしなくて。冷や汗が、落ちる。




「はっ、なんも言えないのか」




ぐっと握りしめられていた手が胸元から解かれ、わたしは漸く地に足を着けた。ぐらりと視界が揺れて、脳内を掻きまわされたかのようにぐちゃぐちゃになって、何も考えられなくなる。なんでこんな少年の言葉をまともに受けてるんだろう。どうして私の口は動いてくれないんだろう。
明らかに動揺した私を、宮坂はふっと嘲笑う。




「お前にとって、風丸さんはその程度の存在なんだろ。僕の方が、絶対に風丸さんのこと分かってあげられるのに………!アンタみたいな奴が何で風丸さんに慕われているのか、僕には全く分からないッ!」
「…………わ、たしが、一郎太のことを何とも思ってない、なんて………そんな根拠なんて、どこにも――――」




語尾が小さくなっていくのを、自分自身が一番感じていた。自分の心が……自分が一郎太をどう思っているのかが、途端にわからなくなって、濁って何も見えなくなる。まるで泥沼の中に居るようで。私の言葉を遮るように、宮坂は声を荒げて言う。私にとどめを刺す言葉を、彼は私に投げつける。




「――――なら、何でアンタはあの時、何も言わなかったッ!」

“「…………、ぁ」”




引きつった笑顔も作れなくなって、それでも私を呼び止めようとした一郎太。その彼に背を向けてしまった、あの時のことがフラッシュバックする。恐怖で心が凍り付く。
…………めのまえが、まっくらになる。




***




早朝の朝日に輝く川の水面を、私はぼんやり眺めていた。
何も考えられなかった。……なにも、かんがえたくなかった。あの後輩の言うことを鵜呑みにする方が馬鹿らしい。そう思ったけれども、それ以上に私は、何も言い返せなかったことがどうしようもなく悔しくて。……否、悔しい?悲しい?辛い?分からない、分からない、分からない。私はいつの間にか、自分が一郎太のことをどう思っているのかさえも全く分からなくなってしまった。




幼馴染。

同級生。

友達。

……私の秘密を、少しだけ知ってるひと。




一郎太と関係性を並べ立てててみても、やっぱり根本的なところがちっとも分かりやしない。無性に泣きたくなって、私は膝に顔をうずめる。一郎太のことを大切な友達だと思っている筈なのに、どうしてこんなに分からないのか、自分でも不思議でならなくて。




“お前は、俺の目標だよ”

「…………きみはわたしの、」




なんなのだろう、なあ。
何処にも遣り場のない問いは、最後まで言えずに消える。そんな時。




「葵」




びくりと肩が震えた。背後から聞こえた声は、今一番会いたくなかった人のもので。
幾らぼんやりしていたとは言えども、気を抜き過ぎだ。背後まで近付かれて全く気付けないなんて。
自分の失態を悔やみながらも、彼の気配を背にしてわたしは言う。




「…………どう、したの」
「隣、いいか?」
「…………ん」




少し逡巡して、了承の返事をした。逡巡するまでもない――――私に、選択の余地はない。隣に一郎太が座る気配したけれどあまり彼の方を向く気にもなれず、気まずくて俯きながらも横目に見れば、彼がサッカーボールを持っているのが見えた。




「…………、練習?」
「ん?ああ、まあな」
「…………いつも、してるの?」
「いや、この時間いつもは走り込みをしてるんだけどさ……。なんか、サッカーしたくなって」




焦ってるのかもな。そう笑おうとした彼の口角はしかし上手く上がらない。無理矢理にも口角を上げようとするが、どうしても上がらないようで、違和感を押し隠すように一郎太は言う。首を傾げようとする。




「あ、れ。どうしたんだろ、俺」




しかし矢張り取り繕えずに、彼の声は少し掠れてしまった。隠すことに失敗して、浮彫りになった違和感に耐えきれず、半ば無理に目を逸らそうと俯こうとして――――だがそれを見てやっと私は気付く。きっと、彼も私と同じなのだと。
そう分かれば、自身の中で渦巻いていた不安も少しは安らいで落ち着いてくれた。まだ全然消え去ってくれたわけではないけれど、彼も同じような状況にいるのであれば、私はまだ進むことが出来る。ずっと俯いていた私は、数秒の沈黙の後に、勇気を振り絞って口を開く。




「………………あの後輩に、何か言われたの?」




ずっと膝に埋めていた頭をあげて、辛うじてでも彼の目を見てそう言えば、彼はハッと息を呑んだ。絡まる視線。動揺した彼の瞳を捉える。
そういえば、今日一郎太の方をちゃんと見たのはこれが初めてだ。数秒のタイムラグの後、図星を突かれて困ったように……然し彼もまた笑った。




「………やっぱ、葵には分かっちゃうか」
「ううん。君が私と同じだって、気付いただけだよ」
「同じ?」
「そ。言われたんだ、君の後輩にさ。……君のこと、なんとも思ってないんだろって、ね」




一郎太は目を見開いて、そして私のことを凝視した。小さな声で「彼奴が、そんなことを…………」と呟く声も聞こえて、私はそっと苦い笑みを浮かべる。
本当は、言うつもりなかったんだけどな。




「私、最初はね、そんな訳ないでしょって言い返そうとしたの。鼻で笑おうとして………でも、笑えなかった。なんでなんだろうね、そんな訳ないって分かってる筈なのに…………言葉が、出てこなくて。そしたら、分かんなくなっちゃった」




君のこと、どう思ってるのか。
引きつった笑みはもう隠せないけれど、それでいいのだと思い始めていた。一郎太もある意味で私と同じであることに、気付いてしまったからなのかもしれない。彼になら、本心を言ってしまっても?そう思ってしまえば、あとは簡単だった。朝日で綺麗な空を見上げ、小さく口を開いた。




「君は私のこと、目標だって言ってくれたけど…………それなら私にとっての君は何なのだろうってね、思うんだ」
「幼馴染じゃ、ダメなのか?」
「………分からない。幼馴染って思ってるはずなのに、なんだかしっくり来てくれない。でも、ちょっとだけ分かったんだ、その原因」
「……?」
「多分君の言葉がね、まだ心の中で燻ぶっているの」




“お前は、俺の目標だよ”




「…………私、君が思ってるような奴なんかじゃないよ」
「、え?」
「私は、君が思ってるほど強くない。君の目標に成れるほど、出来た人間してないんだ」




だってそれなら――――もしも私が強い人間だったなら、きっと今こんなところにはいない筈だ。私がもっと強かったなら、今頃幸せに家族と暮らしている筈なのだ。

もしも、彼らに恐怖しなくて済むくらい心に芯が通ってたなら。

もしも、父さんから逃げなければ。

もしも、父さんを止められるほど勇気があれば。

もしも、私が父さんを止められるくらい強かったならば―――――きっと私たちはこんなことにはなっていない筈なのに。

それは、確かに私の弱さだった。




「いや。…………やっぱり、お前は強いよ」




しかし、そう言っても一郎太は首を横に振ろうとする。どうしてそこまで私を尊敬視しようとするのか不思議でならなくて、私は小さく首を傾げた。




「………一郎太?」
「………………、俺さ。お前は目標だと思ってるけど……本当は、陸上では負けない自信あったんだ。俺、今でこそサッカーに夢中になってるけど、陸上じゃ結構結果出してるんだ。県大会くらいなら、優勝したことだってあるんだぜ?」




そう言ってごろんと寝転んだ一郎太は、腕で顔を隠してか細い声で、なのに、と小さく呟いた。




「…………なのに、叶わなかった。陸上したことない筈のお前に、全然追いつけなかったんだ」




彼の表情は腕に隠されて見えない。でも、想像することは簡単だった。
か細い声が、掠れた声が、今にも泣いてしまいそうな悲しそうな声が、その想像の真偽を裏付けている。
きっとそれは、私には絶対に見せられない表情だ。
私だけは、絶対に見ることが許されない表情なのだ。




「…………………………悔し、かった…………………………っ」




一郎太は、泣いていた。
小さく鼻を啜る音も聞こえて、私はそっと目を閉じた。彼が一頻り泣いて落ち着くまで静かに隣に座る。彼の恥辱を盗み見るほど、私は落ちぶれていない。




(悔しかった、か)




それは私にとって、久しく味わっていない感覚だった。悔しい。…………それは、敗北を味わわないと出てこない感情だった。
私はいつの日からか敗北を味わうことがなくなっていた。エイリア学園に居た時も、オルフェウスに居たときだってそうだ。オルフェウスは、良かった。だってフィディオと一緒だったから――――それが彼との相棒である誇りだと、断言することが出来たから。
でも、ひとりになれば話は別だ。エイリア学園の時のことを思えば、自然と心は凍っていった。昔は年相応な笑顔で、皆と楽しくサッカーをしていたのに。勝てば喜び、負ければ悔しむ。そんな日々を送っていた筈だったのに。ずっとサッカーをしていくうちに、いつの間にか、私に敵う者なんて誰も居なくなっていた。




――――我らが救世主、ソティラス様。――――




”彼ら”が皆平伏す姿が――――誰もが傷だらけで倒れ伏す中一人立ち続ける自分の後ろ姿が、ふと脳裏を過ぎってぶるりと肩が震える。寂しそうな背中は私の脳内が一瞬で凍らせた。
ぶるぶると首を振って脳内の映像を消していく。それはもう過去の話だ、私にはもう関係ない。
そういえば、と思い出して一郎太の方を見遣る。嗚咽はいつの間にか鳴りを潜め、涙も落ちなくなっていた。然しやはり顔を隠したままで、どうしようもなく悲しそうで、私はそっと手を伸ばす。本当にわたしが伸ばしていいものなのか不安になって少し怯んで手が止まってしまうけれど、それでもやはり手を伸ばした。彼の頬に触れる。あたたかい。頬に零れる涙をゆっくり拭った。




「…………なら、越えて見せてよ」
「……、葵?」




それは、自然と口について出た言葉だった。覆ったままだった腕を取ってこちらをぼんやり見上げた一郎太にふっと笑う。




「悔しいなら、練習して私のことを追い越してみせて。……勿論、私は歩みを止めたりしない。立ち止まったりなんてしないよ。でもそれは、君が――――君なら、追い付いてくれるって信じてるからだ」




私は知っている。彼は努力が出来るひとだ。今日も早朝から練習するために河川敷に来たのだということを、私は既に知っている。

私は知っている。彼が存外負けず嫌いで、悔しさで敗北を勝利に変えられる力を持っていることを、私は既に知っている。




「だから、来てよね。私のことを追い越して……そんでさ。振り返って私に笑ってみせてよ。『お前に負けてられないんだ』って言って、さ。………待ってるから」




分からない。自分が一郎太のことをどう思っているのか、私にはまだわかっていない。でも彼の涙を拭えるのなら、今はもうそれだけでいい。
一郎太の潤む瞳が必死に口角を上げて笑う私を映す。酷く滑稽な姿だと思ったが、彼にはそう見えなかったようだ。目を丸くしてこちらを見遣った彼は、少ししてまた笑う。目標だという私のことを、朝日に輝く朱の瞳でただ穏やかに見つめている。




「…………いつか、お前を追い抜くよ。絶対」




だから、楽しみにしててくれよな。
彼が小指を差し出してくるので、私も小指を差し出した。
目標じゃなく、いつか隣に立ってくれることを信じて。






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