第10章 ちっぽけな約束



“代わりましょうか?”と彼女は言った。

“いらないよ”とわたしは言った。

“残念ね”と彼女は嗤う。

“そんなの知らない”とわたしは俯く。

“早く出てけ”とわたしが叫ぶと、

“絶対イヤよ”と言って、彼女は。




第10章 ちっぽけな約束




目が覚めると私は、いつも家に一つしかないはずの寝室で独りぼっちで寝転がっている。
辺りを見回す。誰もいない。ドアはきっちりと閉じられていて開けれそうにない。しかし真っ暗な部屋に相反してドアの向こうからは光が漏れている。私はのそのそと布団から出ると、小さな足でドアの前へとペタペタと歩いていく。
ドアの前に辿り着く。上を見上げるとドアノブが手を伸ばしても届かなそうな高いところに付いているのが分かる。一応手を伸ばす。でもやっぱり届かない。仕方がないので諦めると、ドアの向こうから声が聞こえてきたから私は慌てて耳を澄ます。見知った二人の声が、私の耳を掠めていく。




「あなたが悪いんじゃない!あなたが、わたしのことほっといてほかの女といるから………!」
「だからそれは誤解だと、何度言ったら分かるんだ!お前はいつもそうだ、勝手に勘違いして……!」
「わ、わたしのせいだって言うの!?」




さいきんのおかあさんとおとうさんはいつもけんかしてる。まえはあんなになかがよかったのに。
私は続きが気になってドアに耳をくっつける。二人の会話はどんどんエスカレートして、声も大きくなっていく。聞いちゃだめだと思うのに、私の身体はドアの前から離れようとしない。そのまましばらく罵詈雑言の飛び交う二人の会話を聞いていたけれど、ついに部屋の外からどがん、と鈍い音が聞こえて、私はびくりと肩を跳ねさせる。おとうさんが、おかあさんを殴った音だった。




「っお前は、何てことを言うんだっ!そんなわけないだろう!?」
「…………っだ、だって、あなた、最近葵にばっかり構って…………!わたしのことなんて、もう必要じゃないんだわ…………!」
「子供が大事なんて当たり前だろう!?お前は、葵が大事じゃないのか!?」
「わたしの邪魔をする子なんて、好きじゃないわ!」




葵なんて、好きじゃない。
おかあさんがそう言ったのを聞いてしまった私は、はっと息を飲んで身体を強張らせる。どうしようもなく悲しくなって、親に気づかれないよう静かに布団に戻ろうとする。
しかし。
がしゃん、と大きく音が鳴る。吃驚して下を見ると、急いでいたせいで誤っておかあさんの携帯電話が蹴ってしまっていた。ひゅっと息を飲み、慌ててドアの方に耳を傾ける。いつの間にか罵詈雑言はぴたりと止んでいた。




「今の音…………寝室から聞こえたわよね………?」
「っ、まさか葵が………!?」




二人の驚愕する声が聞こえる。やばい、気付かれた。そう思った私は恐怖で一瞬固まる。その間に二人は寝室を確認しようと決めてしまう。足音が徐々に大きくなって、恐怖となってこちらへ向かってくる。私は弾かれたように顔を上げると、慌てて布団の方に戻ろうとして――――




視界が暗転する。




気付けば私は、おかあさんに手を繋がれて一緒にナニカを見送っている。
周りを見ると、沢山の人がみんなみんな黒い服を着てソレを悲しそうに見つめていた。私も、おかあさんも、黒い服。
ソレも真っ黒な四角い箱で、小さな私にはとても大きなものに見える。十字架が付いていて、なんだか怖い。そういう時はいつもおとうさんに抱きしめてもらうけど、今日はなんでかおとうさんがいなくて。おしごとかなあ?そう思っておかあさんに聞いてみるけど、おかあさんはずっと大粒の涙を零していて話を聞いてはくれない。
おかあさん、おかあさん、と何度も呼んでおとうさんはどこ?って聞いたら、おかあさんは小さな声で「あんたのお父さんはね、とても遠いところに行ってしまったのよ」と言って嗚咽を漏らした。




また、暗転。




今日はおかあさんとお引っ越しの準備。
よく分からないけれど、おとうさんが遠くに行っちゃったから、もうこのおうちにはいられないんだっておかあさんが言ってた。明日からはおばあちゃんのおうちで暮らすみたい。だから、まもるといちろうたに会えるのもこれが最後なんだって。早くお引っ越しの準備を終わらせて、二人に会いに行かなくちゃ。
玄関から、行ってきます、とおかあさんに声をかける。ずっと泣いているおかあさんは、私の方を見向きもしなかった。




暗転。




おかあさんは今日も泣いている。おばあちゃんは困ったような顔をしていつもおかあさんを見てる。
おかあさんはおとうさんが遠くに行ってから笑わなくなった。私のことを見ようともしなくなった。私は気を引こうとおかあさんに近づくけど、おかあさんは私のことが嫌いだからかどうしても近づかせてはくれない。酷い時は私を叩いて精一杯拒絶した。




「あんたのその髪も、瞳も、顔も、大嫌いなのよ!」




ついに耐えきれなくなったおかあさんはそう叫ぶと私のことをはたいてまた泣き出す。
おとうさんとお揃いで、私は好きなんだけどな。おばあちゃんがその様子を見て、慌てて私をおかあさんから引き剥がした。私は、おかあさんに私のことを好きになって欲しいだけなのになぁ。




少し月日が流れる。




気付けば私は、病院のある一室で寝たきりになっているおばあちゃんを悲しそうに見つめている。おかあさんはいない。きっとおうちで閉じこもってるんだろうな。
おばあちゃんに付き添う私の隣で、ピッピと規則的に機械音が鳴っている。一緒に付き添ってくれてたお姉さんが言うには、これが止まっちゃったらおばあちゃんとお別れしなきゃいけないんだって。だから今のうちに一杯話をしておきなさいね、とお姉さんは優しく私の頭を撫でた。




「おばあちゃん」
「葵………。ごめんねぇ、あんたが大きくなるまで見ていてあげられなくて……」
「おばあちゃん、遠くに行っちゃうの?」
「そうねえ、あんたのお父さんとおんなじとこに行くんだよ」
「そっか………じゃあおとうさんに、わたしは元気だよって言っといてね!わたし、おかあさんと頑張るよって!」




おかあさん、という言葉に反応しておばあちゃんの顔は一瞬曇る。でもすぐに元の優しそうな顔に戻って「伝えておくね」に小さく笑って。おばあちゃんは細くてか弱い腕で私にそっと手を伸ばしたから、わたしはその手をしっかり掴んでおばあちゃんを見つめる。そうしたらおばあちゃんは、軽く潤んだ目でこちらを見つめ返してくれた。




「葵、あたしがいなくなっても、元気に………葵らしい、素敵な笑顔を忘れずに過ごすんだよ。おばあちゃんとの、約束」




おばあちゃんがあまりにも不安そうにそんなことを言うから、あんまりおばあちゃんの言ってる意味はわからなかったけど、何とか安心させたくて、私はおばあちゃんが言う通りに元気に頷くと、おばあちゃんの手をぎゅっと握った。
おばあちゃんと私の、とてもちっぽけで大切な約束だった。




暗転。




今日もずっと、おかあさんとふたりぼっち。
おかあさんは私のことなんてどうでもいいみたい。おばあちゃんが居たときは通えてた幼稚園ももう長い間通えてない。ご飯だって出されないから、拙いものばかりだけれど、おばあちゃんがやってたように自力でご飯を作るようになった。食材はおばあちゃんの知り合いだったらしいおばちゃんが時々くれるから、それを使って簡単なものを作るんだ。お米は一杯おうちにあるから、困らないんだよ。
おかあさんは自分の分も作らないから、おかあさんの分も私が作ってるけど、ほとんど食べてくれない。おかあさんはいつの間にかどんどん痩せて、目も虚ろになっていた。口を開けばずっとおとうさんのことを言うようになった。
心配だけど、私は何もできない。だって、ご飯を持っていくときしかおかあさんは近付かせてくれないから。ふたりぼっちのこのおうちで、私は今日もご飯を作ってる。




ある日、おかあさんはおばあちゃんが居なくなってから初めて、私の方をちゃんと見た。久しぶりにまともに見れたおかあさんの痩せこけて疲れ切った顔は、おとうさんが居た頃とはもう似ても似つかない。濁りすぎた瞳は私の方をきょろりと見つめて、でもおかあさんは無表情。折角おかあさんが私のことを見てくれたのに、私はなんだかこわくなってしまって、少し固まってしまう。
そのまま数秒見つめ合った後に、おかあさんはそっと首を傾げた。




「あなた、だあれ?」




私は今度こそ本当に固まった。おかあさんはそんな私に気付かずにきょろきょろと辺りを見回すと、また首を傾げる。




「あら?私の夫はどこ?ねえ、あなた、どこにいるの?」




おかあさんはそう呟くと、ふらふらと立ち上がって玄関へと向かう。私は待って、と引き止めようとするけど、おかあさんは知らんぷりで。おかあさんはそのままブツブツとなにかを呟きながら、固まったまま動けない私を置いて、裸足のままおうちを出て行った。バタン、と扉は閉められて、いつの間にか本当に独りぼっち。
おかあさんは、今日もおうちに帰って来ない。




暗転。




気付けば、私は見知らぬおばさんに手を引かれている。
おとうさんも、おかあさんも、おばあちゃんもみんな居なくなってしまった。独りぼっちの私は、もう誰も面倒を見てくれる人がいないから、どうやら親戚のおばさんに引き取られることになったみたい。
でも、おばさんはいつも嫌そうな目で私を見る。外聞?が悪くなると困るから、私を引き取ったんだって。でもやっぱり私が居ると邪魔だから、ほんとは早く出てって欲しいとおばさんはブツブツ言っていた。




「あんたなんか早くどっか行ってしまえばいいのに」




おばさんは舌打ちをしながら今日もそんなことを言うから、私は思わず俯いた。私だって、好きで独りぼっちになったわけじゃないのに。そういえば、私のためにお金を出すのは嫌だから、と結局幼稚園には通えてないなぁ。おかあさんとふたりぼっちのときに慣れてしまった家事をやるのが最近の私のもっぱらの仕事。でもやっぱり失敗することがあるとね、おばさんすごく怒るの。あーあ、今日も間違えてお皿を落っことしちゃったから、お夕飯は抜きかなあ。




また、少し月日が経つ。




今日は起こされてすぐにおばさんに連れられて、お外を歩いている。
おばさんの家に来てからまともにお外なんて出れてなかったから嬉しいけど、どこに向かっているのか分からない。私はおばさんに聞こうとするけど、おばさんは「黙ってついてきなさい」と一点張りで。仕方がないから大股で歩くおばさんの後ろを、私はとことこと小走りでついていく。最近おばさんから殴られることが多くなって痣で全身が痛いけれど、迷子になったらもうおばさんの元にも居られないと思ったから私は必死でおばさんの後ろをついていってた。
どれくらい時間が経ったんだろう。急におばさんが立ち止まって、私はそっとおばさんの顔を見上げる。私の方を向いたおばさんは意地の悪い笑みを浮かべると、私の方をぐいと思いっきり引っ張った。




「い、いたい、いたいよ、おばさん!」
「ふん。あんたは今日からここで暮らすんだよ。じゃあね」




きい、と前にあった扉が開いて、私はおばさんに投げ入れられて。かちゃん、と鍵をかける音を響かせながら、おばさんはそう言ってくっくとひとしきりに笑う。何が起こっているのか分からないまま私が目をぱちくりさせる。けれど、そんなことは知らないとでも言うように、或いはざまあみろと私を嘲笑うかのように、おばさんは私を置いてけぼりにしてどこかへ行ってしまった。
おばさんに捨てられたんだ、と気づくまでに、あまり時間はかからなかった。




悲しさを通り越してしまったのか、私の瞳から、涙は欠片さえも出てこなかった。
おとうさんも、おかあさんも、おばあちゃんも、おばさんも、わたしのことを、ひとりぼっちにするんだね。
私はしゃがんでうずくまる。おばあちゃんとの約束は、もう何も果たせそうになかった。




でも、こんなところで蹲っていても何も進展しない。少しの間しゃがみこんでから、私は覚悟を決めて立ち上がると、辺りを見回す。そういえば、ここはどこだろう?
私は閉じ込められた中を少しずつ回っていると、いつしかここの名前の書かれた看板が立てかけられているのを発見する。わたしはほっと軽い溜息を吐くと、それに少しずつ近づいて行って、ついにその看板を覗き込もうとして――――




***




ちゅんちゅん、という小鳥のさえずりに導かれて意識がふわりと浮上する。
私はベッドでもぞりと身を捩ると、そろそろと枕元に置いていた携帯電話を手で探り当てて、開く。眩しさにまだ慣れていない目を薄く開けて見てみれば、携帯の時計は6時を示していた。いつも通りの時間だ。
私はゆっくりと上半身を起こすと、ふぁあ、と大きなあくびを一つ零す。




「………ゆめ、か………」




懐かしい夢だった。でもそれ以上にとても哀しくなる夢だった。私は俯いて心の中で思う。親なんて、嫌いだ。私のことを置いていく親なんて、大嫌いだ。………でも、今更そんなことを考える自分も、ほんとは大嫌いだった。
私は頭を横に振って、気持ちを切り替えて顔を上げる。と、ちょうどその時ピコンと軽やかなサウンドが鳴って、私は手に持つ携帯に目を向けた。豪炎寺からのメールだった。




「…………『怪我が完治したから、一緒に登校しよう。いつもの場所で、待ってる』…………もう、豪炎寺ったら」




ふと苦笑が零れる。いつもの場所。しかも待ち合わせの時間も書かないなんて。まあ分かるからいっか、なんて思いながら私は了解とだけ書いた短いメールを送り返す。ちょうど他にもメールが来ているのに気付いたから開けば、一郎太からの地区予選準決勝を勝ち進んだ、という勝利報告だった。ご丁寧に写真も添付されていて、皆がこちらに向かって笑顔でピースしているのが見える。秋達マネージャー陣は揃いも揃ってメイド服を着ていて、(約1名を除き)とても楽しそうにしていたから、思わず笑みを零した。




(――――おばあちゃん、わたし、ちゃんと笑えてるかな)




ふと、おばあちゃんの不安そうな顔が私の脳内を過ぎるおばあちゃんが居なくなってから、いろんなことが………本当にいろんなことがあった。おかあさんは居なくなってしまったけれど、新しい家族が、大切に思える家族がたくさんできた。きっともう二度とないだろう、というくらい大切な、唯一無二の相棒が出来た。心の中で燻っていた幼馴染との再会さえも、出来てしまった。
でも、きっとおばあちゃんが言っていたような?素敵な笑顔"はまだ作れていないんだろう。だって、私は、その大切な家族と離れ離れのままだ。そう。私はきっと――――今の、私の大切な家族を皆救うまでは、本当の笑顔は、まだ作れないだろうから。私は胸に手を置いて、そっと目を閉じる。




(――――絶対、救ってみせるから)




だからそれまで待っててね、と心の中で皆に語りかけたら、待ってる、とどこからか皆の嬉しそうな声が聞こえたような気がした。




(だから私は、自分を信じて)
(今日も新たな一歩を、踏み出す)






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