第9章 MY PARENTS



”それ"が起きたのは、試合の最終局番に近い頃だった。


豪炎寺が高く飛び、いつもの力強いシュートを撃つ。既に一点差でリードしている雷門にとっては、それは相手にとどめを刺すようなもので。それを、相手のFWも負けられないのだと大きく跳躍して、とめようと、して。
偶然、彼の足が、相手のそれと絡まった。そのまま、彼らは落ちていき、双方受身を取ることもできずーーーー数秒後、とてもとても大きな衝撃音と共に、彼らは地面に打ち付けられた。


息をのむ。心臓が急激に鼓動を加速する。彼は?彼はどうなった?
数秒のタイムラグの後、激しい衝突に舞い上がった砂塵が晴れていき、見えた、痛みに蹲る彼の姿に、私は。私は。




「ご――――豪炎寺ッ!!?」




思わず出たのは、自分でも聞いたことがないくらい切羽詰まって、掠れ切った悲鳴だった。




第9章 MY PARENTS




試合終了のホイッスルが鳴ってすぐ、私は観客席を出た。廊下へと出て階段を下り、急く気持ちを何とか静めようとしながらもただひたすらに走る。すぐにゴールは見えてきて、関係者以外立ち入り禁止のはずの通路を横切って廊下を出ていけば、すぐにグラウンドまで出ることができた。


私は目的の人物で一瞬で探し当てると、ずんずんとそこに向かって歩いていく。彼は、染岡に支えられながら守と相手のGKが話している場面に立ち会っているところで。
しかし、そんなことを気にする余裕もなく、私は彼らに近づいていく。間近になってようやく気付いた雷門イレブンの一人である半田が、「あれ、神崎?」と純粋な疑問を含んだ声で私の名前を呼んだ。遅れて、他の人たちも私の存在に気づき、目を見開く。


守も私に気づき、嬉しそうに声を掛けようとしたが――――すんでのところでそれは不発に終わり、代わりに彼は少しひきつった表情を浮かべた。それも当然で、何故なら今の私の顔は相当怖いものになっているはずだからだ。




「え、えーと……葵?」
「ちょっと、豪炎寺借りる。染岡、悪いんだけどそのままベンチに連れて来てくれない」
「お、おう………」




疑問形なのに有無を言わせない口調でそう言い切った私は、戸惑いながらこちらを見やる豪炎寺を一瞥してすぐにベンチへと歩き出す。ベンチでいろいろ選手の世話をしていた秋は、私に気づくと「葵ちゃん!?」と言ってこちらに慌てて近寄ってきた。私はそれに薄く笑って答えると、彼女に問いかける。




「秋。豪炎寺の手当ては?」
「い、いえ、まだよ」
「そう。なら、私にやらせて?」
「葵ちゃんにやってもらえるなら、そっちの方が上手いだろうし、むしろお願いしたいくらいだけど……」
「よかった、ありがとう、秋」
「…………葵ちゃん………あなたいま、ひどい顔してるわよ、だいじょうぶ?」




どうやら秋にはすべてお見通しらしい。血の気を失って若干顔色の悪い私をしてくれた彼女をどうにかして作った笑顔で軽く受け流すと、私は染岡に連れられた豪炎寺にベンチに座るようにジェスチャーを向けた。座った彼が恐る恐るこちらを見るのも構わず、私は救急セットを彼の足元に準備し始める。




「か、神崎………」
「黙って」




ピシャリと言い放ってテキパキと用意を進める私。その異様な雰囲気に圧倒されたか、近くに居た雷門イレブンはしんと静まってこちらのことを見ていた。一通り準備が済んで、私は豪炎寺に怪我した足を見せるように言う。彼は慌てて痛めた足の方の靴と靴下を脱いでこちらに差し出した。




「ちょっと触るから、痛かったら言って」
「、ああ……………っいっ」
「ここ?…………全体的に酷く腫れてる……・…足首、完全にやっちゃってるよ、あんた」




少しずつどこが痛いかを聞いていって、どれくらいの怪我なのか軽く検討をつける。彼の足首は動かすことができないくらい重傷なことがわかると、私は豪炎寺にそれだけ言って、あらかじめ用意していた氷の入った袋を彼の足に押し付けた。




「病院につくまでは絶対にこれで冷やしておいて。途中で冷たすぎて離すとかしたら逆効果だから、絶対冷やしたままね」
「あ、ああ」
「今から軽いテーピングするから、楽にしてて」




包帯とテープ、そして湿布を取り出すと慣れた動作で手当てを始めた私に、豪炎寺が問いかける。




「………慣れてるのか」
「私、昔からチームメイトの手当てとか任せられてたから。皆よく怪我するから、放っとけないの」
「そう、か」
「………ね、豪炎寺。私ね、別に怒ってるわけじゃないんだ」




ぽつり、とそんな言葉を零し、少しの間彼の足に包帯を巻く手を止めて、彼の顔を覗き見た。
困惑しながらもちゃんとこちらの顔を見てくれる彼に――――痛そうにしながらも治る余地のある怪我でおさめてくれた彼に、何か込み上げてくるものがあって、私は軽く瞳を潤ませた。でもそんな姿を彼に見られたくなくて、反射的にまた顔を俯かせる。
彼がはっと息を飲む音が、聞こえたような気がした。




「私もサッカーをやってる身だから、やらなきゃいけない時があるんだってことは痛いくらいによくわかってる。どうしても怪我が避けられないときがあることくらい、身を持って知ってるの。でも………でも、豪炎寺が受け身も取れずに落ちちゃったとき、わたし、本当に怖くなった………っ!」
「………神崎」
「豪炎寺が、サッカーできなくなっちゃったらどうしようって………!あんなに高いところから落ちて、下手したらもっともっと危ない大けがを負ってたかもしれないって、そう思ったら、わたし………っ!」
「神崎………すまなかった。お前、そんな心配してくれてたんだな」




耐えきれずに零れ落ちた涙を、豪炎寺がそっと私の頬に手を伸ばして掬い取る。そのまま、落ち着かせるように頭を撫でられてしまえば、もう駄目だった。




「っし、心臓が止まるかと思った!ほんとに、ほんとに心配したの……!」




気付けば、私の瞳からは涙がぼろぼろと流れ出していた。
豪炎寺の傷がそこまで重傷でなかったからなのか、未だに私の頭を撫でる手がとても温かかったからなのか、はたまた垣間見えた彼の表情がとても優しいものであったからなのか。とにかく、すごくほっとして、我慢していた涙があとからあとから溢れてきて、止まらなくなって。




「………ありがとな」
「っもう、こんな怪我しないで……!わたし、こんな怖い思いなんて、したくない……!」




大粒の涙を瞳に溜めながら懇願する私に、豪炎寺はしっかり頷いた。彼は撫でていた手をゆっくりと下ろすと、そのまま小指を差し出してくる。ふっと柔らかく微笑んで、彼はこう言った。




「ああ、もうしない。約束だ」
「……ぜったい、だからね………!」




意味が分かると、私はすぐさま彼の小指に私の小指を絡めた。ぜったいに、もう二度とこんな思いをしないように――――彼の傷ができるだけ早くよくなるように。そんな思いを込めながら彼の小指をぎゅっと掴んで離さない。
そのまま必死に指切りげんまんをする私たちを、雷門イレブンの皆は静かに、でも優しい眼差しで見つめていたのだった。




***




その後、豪炎寺はすぐに病院へ行って検査を受けた。
しばらくの間のドクターストップは受けたものの、あの高さから落ちたにしてはかなり浅い傷だったらしい。彼によれば、次の予選準決勝には出ることはできないものの、数週間もすればすぐに完治するだろうとのことだ。それを聞いた守はかなりショックだったらしく「ええ〜〜!?」とかなんとか言っていたが、私としてはそれだけで済んだことが逆に奇跡だと言いたい。




「じゃあ、お前とはしばらく登校できそうにないな……」
「当然でしょ?豪炎寺は今松葉杖なしじゃ歩けないんだから。ドクターストップがなくなるまでは怪我を治すのに専念してね」




その豪炎寺は、さすがに松葉杖をつきながら登校をするのは流石に無理だと判断したらしく、しばらくはタクシーでの登校になるそうで。妙にしょんぼりした様子の彼にそう言ったのはまだ記憶に新しかった。




「おーい、神崎ぃ」
「?………なんですか」




そして、その数日後のこと。
廊下で歩いていた私を面倒臭そうな声が引き止める。振り向けば、だるそうに猫背でこちらに手を振る竹本先生が見えた。




「お前、確か今日日直だったろ。すまんが次の授業の配布物が多くてな、手伝ってくれ」
「ああ……分かりました、職員室ですか?」
「そうだ。申し訳ないんだが、うちのクラスのやつが倒れたみたいで俺は今からそっちに行かなきゃいけねえんだ。俺の机にあるプリント取ってくれりゃあいいから、よろしく頼むぜ」
「はい」




面倒臭そうな声音のわりにかなり重要な要件があったらしい。私が頷くと、なんとなくいつもより少し急ぎめなような、そうでもないような速度で、私とは反対方向に歩いて行った。あの様子だと授業にはかなり遅れてきそうな予感しかしないが、とりあえず授業が始まるまでに配布物は運んでおいた方がよさそうだ。
そんなわけで、授業が始まるまでにと若干急いで職員室へと向かったのだが。先生の机に置いてある配布物を見て、私は思わず絶句した。




「………お、多すぎないですかー……?」




運の悪いことに、今日は国語の新しい教材を配布する予定だったようだ。しかも、なかなか一冊一冊が分厚い。高く積み上げられているその教材は勿論クラス全員分あるのだから、その量の多さは計り知れなかった。しかし、か細い声でそんな言葉をつぶやいてみても、助けてくれるひとなどいないわけで。休み時間も終了に近づいていて、先生はほとんど出払っているのである。
重そうではあるものの、持てないことはない………と信じたい。覚悟を決めて一人で持っていこうと机の上の教材に手を掛けようとする。すると。




「ん?葵、どうしたんだ、こんなところで……」
「あ、一郎太!良かった、助かった………!」




偶然通りがかった幼馴染の姿に、私はぱあっと顔を輝かせた。
私の表情の明るさに吃驚したらしい彼はほんの少しだけ顔を仄かな赤に染めると、「ど、どうしたんだ?」と聞いてくる。私は安堵した笑みを抑えきれないままに、すぐさま答えた。




「竹本先生に配布物を持っていくように言われたんだけど、一人で持つには心もとなくて……良かったら手伝ってくれないかな」
「ああ、なるほど、分かった。……ってこの教材全部か!?これを一人で持ってくのは俺でも中々難しいぞ?竹本先生も無茶言うなあ……」




ぽりぽりと頭をかきながら呆れ半分でそう言った彼は、どうやら手伝ってくれるようだ。私の周りの人たちは本当に優しい人ばかりでとても助かるなあ、なんて思いながら。私は彼にありがとうと言ってから、およそ半分ほどの教材を持った、のだが。




「葵、そんな持たなくていいよ。それ、重いだろ?」




一郎太はそんな言葉と共に私の持つ教材を指さす。確かに重いかもしれないけれど持てないほどではない、と思ったのだが、彼はどうやらそうは思わなかったようで。私の視界を半分ほど教材が埋めているのも、その一因なのかもしれない。私は彼の申し出にふるふると首を振ると、言った。




「んー、でも、うちのクラスの分なんだしさ、半分くらい持つよ。一郎太にそこまで迷惑かけられないしーーーー」
「そんなの、俺にとっちゃ半分もそれ以上もそんな変わんないって。ほら、」
「わっ………!」




しかし、私の思うようには事は進んでくれない。
一郎太はひょいと私の持つ教材から何冊か抜き取ると、自分の分へと上乗せした。そのお陰で私は随分楽になったけれど、彼にはかなり負担がかかるのではないだろうか。そんなことを考え始めるとなんだか急に申し訳なくなってきて、大丈夫だと彼に話しかけようとした。だが、彼は私が次に言うセリフが分かっていたかのように、先回りして「俺にもたまには頼ってくれよな」なんて照れくさそうに言う。そんな顔を見てしまえば、それ以上何も言うことができないではないか。
そのまま何にもなかったかのように教材を運ぼうとする彼に、私は苦笑することしかできなかった。




「ほら、チャイムもうすぐ鳴るしさ。急ごうぜ?」
「………うん、急ごっか」




彼は私の方を向くと風がふわりと吹くように笑う。その笑みを拒否することなんて、私には選択肢さえも見つからない。
本当、優しい人だなあ。なんて、心の中で小さく呟いて。結局、彼の優しさに甘えることにした私は、すぐ前で歩き出そうとする彼のその隣に並ぶ。そのまま二人で歩き出せば、柔らかな風に吹かれて水色の髪が揺れた。




***




その日の放課後。
HRが終わり、帰るために席を立とうとすると、見計らったように守がぐんぐんとこちらに近づいてきた。突然のことで思わず一歩引いたのだが、彼はそんなことを気にせず突き進み、私の前で立ち止まる。そして、きらきらと目を輝かせてこう言った。




「葵!もし良かったら一緒にラーメン食いに行かないか!?」




……………らーめん?
突然の誘いに目をぱちくりさせると、そんなの構うもんかというような動きでぐっとこちらに近づける。思わず一歩引いた私を、クラスに居たサッカー部のメンバーは苦笑いで見つめた。前の席に座っている豪炎寺なんて、くすくすと笑いながら肩を小刻みに揺らしている。




「えーと……唐突だね、守。なんかあったの?」
「今日部の皆で商店街にあるラーメン屋に行くんだ!それで、もしよかったら葵も一緒にどうかなって思ってさ!」




ニッコリ笑ってそう言う守にはうそをついている気配はない。ああ、どうりでさっきから遠目からだけどサッカー部員がこっちみてるのか、と勝手に納得したところで、私は適当に相槌を打った。




「へー………」
「あ、もしかして、家の用事とかあるか?それとも……葵の親御さんがもうご飯用意してくれてたりするとか?」




――――親御、さん。
しかし私は、そのフレーズに思わず一瞬固まってしまう。ふと頭を過ぎったのは、昔のこと。




「――――ううん、そういうわけじゃないの。ただ外で食べるのってなんだか久しぶりだったから、ついね。……いいよ、行こうか」
「ん、そうか?ならいいんだけどさ!」




一瞬起きた静寂を隠すかのようにそっと首を振り誘いに乗ると、守は何もなかったかのように嬉しそうに笑ってくれて。他のサッカー部員も気づいた様子はなさそうだ。内心ほっとしていると、すぐに守が話しかけてくる。多分、日時のことだろう。




「あ、そうだ!時間はどうするんだ?俺たち、今日は練習あるから………」
「ああ、いいよ練習してくれて。えーっと、確か練習終わるのはいつも7時とかだったよね。じゃあ、7時半に商店街の前でどうかな。私、家に一度帰るから」
「ん、分かった!じゃあ、またあとでな!!」




守はそう言ってにかっと笑った。「うん、またあとで」と言って手を振ってあげると、彼は大振りでこちらに手を振り返してくれて。そのまま、周りにいたサッカー部の人たちに「行くぞー!!」と言うと彼は走って教室を出て行く。




「ま、待ってよ、円堂くん!じゃあまたあとでね、葵ちゃん!」
「んー、いってらっしゃい、秋」




遅れて秋が教室を出て、それを半田達他の二年が慌てて追いかけていった。気楽にひらひらと手を振って見送る。豪炎寺は流石に走れないので、そのままゆっくり歩いていくようであった。




「豪炎寺、練習行くんだよね?階段辛いだろうしさ、鞄、持っていくよ。一緒に行こ?」
「……すまないな。助かるよ」
「いいの、私が勝手にやりたくてやってることなんだから。気にしないで、ね?」




私の申し出に頷いた豪炎寺は、数瞬遅れてそう言った。きっと遠慮するか一瞬迷ったのだろう。でも遠慮しても意味がないと分かり始めたようで、そのことについては半分諦めた表情で、でもとても嬉しそうに口元に笑みを浮かべている。私は彼に気にしないようにと笑みを浮かべると、席を立ち、自分と豪炎寺の鞄を持った。
彼も立ち上がり、松葉杖で自分の体を支えたのを見計らって、私は豪炎寺の隣に並んでゆっくりと歩き始めた。




「なんだか、こうやって二人で並んで歩くのって、ちょっと久しぶりだね」
「そう、だな」
「……この学校に来てからずっと、豪炎寺と一緒だったから、かな。………まだ豪炎寺と登校しなくなってから数日しか経っていないのに、なんだか豪炎寺の隣を歩くのが久しぶりな気がするんだ」




ゆっくり廊下を歩きながら、そんなことを話す。彼とは、登校するのも下校するのも、夕香ちゃんのお見舞いに行くのも、帝国学園の試合に出るときだって一緒だった。なんだかもう彼と一緒にいるのが当たり前になってしまっていて――――彼と一緒に行動できなくなって、一人で学校まで行って帰るだけの作業が、こんなに寂しいものであることに気付いてしまった。




(そういえば、ここ最近はずっと誰かと一緒だったんだよなあ。イタリアに居たときも、雷門に来てからも……ずっと、誰かが傍にいてくれた)




「寂しいのか?」




豪炎寺が私の顔を覗き込んだ。その彼の瞳に映る私は、なんだかとても悲しそうな表情をしている。
可笑しいな、こんな顔をするつもりなんか、無かったのに。
もう認めるしかないんじゃないかしら、と心の奥底でもう一人の私が囁いた。数秒沈黙した後に、私は、ふっと諦めたように笑う。その笑顔は、少し引きつったものになってしまったかもしれないけれど。




「寂しい、か……うん。………きっと私は、寂しくなっちゃったんだろうな。一人なんて、ずっと前に慣れちゃったはずだったのに。……皆の優しさに触れて、少し心が弱ってしまったのかもしれない」
「……そんなの、心が弱ったことになんてならないさ」
「……………ご、うえんじ?」 
「『人と一緒に居ないのが寂しい』なんてそんなの、普通の感情だ。俺だって、神崎と一緒に居られないのは………その、寂しいよ」




豪炎寺はそう言ってふいっとこちらから顔を背けた。しかし横目に見えた彼の頬は心なしか赤くなっている。ガラじゃない、と自覚していながらもそれを言ってくれた豪炎寺に、私ははっと気づかされた。


――――一人なんて当たり前だと思ってた。私が独りぼっちだったのはきっと必然で、今までの私の所業に報いるためには致し方ない犠牲なんだと思っていた。一人を寂しいと思える感情なんて、くしゃくしゃにしてとっくの昔に捨ててしまったはずだった。


――――でも、違った。私はもう、独りぼっちじゃなくなっていた。いつの間にか、独りぼっちが寂しいと思えるような、そんな人間になっていたんだ。




「………そっか。そうかも、しれないね」
「………お前はもっと、皆に頼ってもいいんだ。寂しくなったときに俺たちを呼んでくれたら、俺たちは絶対に駆け付けるよ。夜遅くで呼ぶことができないのなら、携帯でも使って電話してくれたらいい。お前の気が済むまで、話くらいなら聞いてやれるさ」




豪炎寺は私の頭に手をやり、ゆっくりと撫でた。とても安心する、温かい手が私の心をそっと溶かしていくその光景は、まるで暖かい炎のようで。それを繰り返すうちに、寂しいなんて感情は、いつの間にかすっかり私の中から消え去っていた。




「………ありがとう、豪炎寺」
「お互い様なんだから、礼なんていらない」
「………ん。それでも、ありがとう」
「…………おう」




豪炎寺が微笑んでいる。私を安心させるように、ゆっくりと頭を撫でてくれる。それがすごく嬉しくて、なんだか心の奥底からぽかぽかと暖かくなっているみたいで。なら、ちょっとくらい甘えてみてもいいのかな、なんて思って、立ち止まっている豪炎寺の肩に、そっと寄りかかってみた。




「…………っ」




豪炎寺が息をのむ気配がする。でも、やっぱりそれには拒否の感情なんて微塵も含まれていなかったから、私はほっと息を吐いて。彼に見えないよう顔を少し背けながら、小さく口を開いた。




「……わたしね」
「…………なんだ?」
「…………もしかすると豪炎寺になら、いつか、話せるかもしれないなぁ。――――わたしの、こと」
「そうか」
「…………聞いて、くれるの?」
「勿論だ。俺がお前の支えになってやれるのなら、いつだって」
「………そっ、か。なら、いつかきっと話すから――――それまで、待ってて」
「……ああ」




ちょっと本音が飛び出した、誰もいない放課後の廊下でのひととき。
私はそっと豪炎寺に体を預けながら、自身の心が落ち着いていくのを感じていた。




***




その後一度家に帰った私は、今日やるべき家事を軽く済ませることにした。
一人暮らしは面倒臭いことがたくさんあるとはよく言うが、お日様園でも色々家事をこなしていた私にとってはそれほどしんどい作業ではなかった。こなす量も一人分なので、たかが知れているのである。
今日は夕飯の支度もいらないので、やることなんてほとんどない。
私は今朝干した洗濯物をたたんで小さなクローゼットに仕舞うと、ついでに後で着る私服を適当に選んで軽くシャワーを浴びにお風呂場へ向かった。




***




そして、約束の時間になった。
私服姿で商店街の入り口前に立っていた私は、「おーい、葵ー!」と呼ぶ守の声を聞いて顔を上げた。
少し離れたところにいる彼らは、こちらへ歩いて向かってきていた。
今日はサッカー部員全員来ているようだ………と思いきや、一人足りない。どうやら雷門さんはくることが出来なかったらしい。




「葵!待ったか?」
「ううん、今来たとこ。今日は皆いるんだね。……じゃ、案内してね、守」
「おう!……って言っても、すぐそこなんだけどな」




二、三言話して歩き出す。
守の隣には豪炎寺や一郎太も居て、私に話しかけようとでもしてくれたのかこちらを向いたがーーーー何故か慌てて顔を背けた。
不思議に思って、顔を傾げる。なにか、見たくないものでもあったのだろうか。
隣でくっくと含み笑いしている染岡を小突くと、彼は軽く呆れたような笑みを浮かべながらも答えてくれた。




「お前の私服が見慣れなかったからじゃねえか?」
「……?」




言われて、ふと自分の服装を見下ろしてみる。
友達に誘われる機会なんて今まであまりなかったから、折角なので普段着ないような服を着ようと思って、ここ引っ越してきた時に瞳子姉にもらった茶色が基調のネルシャツと紺色のスカートを着てみたのだけれど。




「……もしかして、似合ってないとか?」
「いや、そんなことはねえけどよ……」
「んん………?全くわからないんだけど………」
「あー………ま、あいつらだってしたくてしてるわけじゃねぇんだよ。気にしてやんな」




なんとなく可哀想な目で見られているような気がするのは気の所為なのだろうか。
ぽんと頭に手を置かれてそんなことを言われたので、私は返す言葉もなく渋々頷いた。未だにこちらを向こうとしない彼らはもうこの際放っておくことにする。
そういえば、と思いマネージャーである秋と音無を探そうとしたけれど、生憎と彼女らはいま後ろの方で話していて。仕方ないので彼女たちには後で話しかけることにして、ふと思い出して私は近くにいた背の高い男の子に話しかけることにした。彼は確か、この間サッカー部に入ったばかりで私はまだ話したことがなかったのだ。




「えーと、君は………」
「おー、土門飛鳥だ。お前の噂は聞いてるぜ?帝国学園との練習試合で超すごかったって話!」
「うげ…………それは忘れていいよ…………。ん、土門ね。じゃあ改めて………いまの話を聞く限り知ってると思うけど、私の名前は神崎葵。君より少し前に転校してきたんだ。これからよろしく」
「おう、よろしくな」




土門と軽く握手をする。愛想の良い笑顔を浮かべる土門とそのまま談笑していると、守が「着いたぞ!」と叫んだ。声がした方へ視線を向ければ、雷々軒と書かれた赤い暖簾がひらひらと風に揺れていた。
ガラガラ、と今時懐かしい引き戸を開けると、暖簾をくぐって中へと入る。
赤を基調とした昔ながらのラーメン屋であるそこは閑散としており、カウンターの向こうでは一人のおじさんが器を磨きながらこちらを見ている。一瞬目があったような気がしたけれど、彼はすぐに目を逸らしてしまった。




(………?)




疑問符を浮かべるも、ただの気のせいだったのかもしれないので、どうとも言えず。
そうこうしているうちに守が「こっちこいよ!」と言って私の手を引き、あれよあれよという間にカウンター席の真ん中に座らされた。これではまるで私が主役みたいだ。しかしまさかのサッカー部の面々はそれについて文句など一つとしてないらしく、皆何も不自然なことがないかのように空いた席に座っていく。あっという間に閑散としていたはずのラーメン屋は満席になった。




「じゃあ、さっそくだけどどんどん食べようぜ!一応言っとくけど、食費は自分持ちだからな!」
「「「おおーー!!」」」




サッカー部全員の大きい声が小さな店中に響き渡る。それには秋や音無も苦笑い状態だ。
一叫びして満足した彼らは、守のその言葉を区切りに、皆波のように注文し始める。




「おっちゃん、俺餃子ー」
「おれは醤油ラーメン!!」
「じゃあ僕は塩ラーメンで……」
「五目チャーハンを10皿頼むッス!!」




まるで嵐のようなオーダーを、それでも店主のおじさんはひとつひとつ聞き取って「あいよ」と言う。しかし流石にそれをこなすには少し必要だろう。私はいまそこまでお腹も空いていないし、最後の方にでもオーダーしようか。
隣を見れば「おじさん、私は醤油ラーメンでお願いしますっ!」と音無が楽しそうに注文している。彼女はふとこちらを見ると「葵先輩は何か注文しないんですか?」と聞いてきた。




「んー、ま、後ででいいかな。そんな急ぐほどでもないよ」
「ええ、そうですかあ………?こんな男ばっかりのところなんだから、こっちから行かなくちゃだめですよ!!」
「えー、なんか食い意地張ってそうでイヤだよ」
「せ、先輩…………それってわたしどうなるんですか………?」
「え?………知らなーい」
「ええーーー」




私が素知らぬふりを装ってそんなことを言えば、彼女はすごく不本意そうな声を漏らした。とその時、彼女が「ってああ、そんなことより!」と唐突に叫ぶ。吃驚して肩が思わず飛び跳ねた。




「っ!?……な、なに?」
「先輩、私のことをいつも音無って呼びますよね!?なんで下の名前で呼んでくれないんですか!?私と先輩の仲なのに!」
「(そんな仲良くなる機会なんてあったっけな……?)いや、下の名前で呼んでほしいとか言われた覚えないし」
「………じ、じゃあ、今から下の名前で呼んでください!それならいいですよね!?」
「はあ………?えーっと………は、春奈?」




なんだか改めて名前で呼ぶということが少し恥ずかしくなって、思わず上目遣いになりながら疑問符を付けて呼んでしまう。
すると、数秒固まった音無――――もとい春奈は「ずきゅーん!!」とかなんとか意味不明なことを叫んでばたりと倒れた。




「……………………あー、うん、もーいいや」




思わず頭に手をやって、ふるふると頭を振って溜息をつく。いつものことだけれども、彼女はやることなすことが全て突拍子すぎないか。まだ彼女とは数回しか話したことがないくせに、もう彼女の性格なんて大体把握してしまった気がする。
しかしそれでも結局のところよくわからないこの後輩に、私はいっそ冷たい目しか向けられなかった。




どうせすぐに起き上がってくるのでもうこいつは放っておくことにして、気にせず出されたお冷を手に取る。
そのまま平然とそれを飲む私に、春奈とは反対側に座る一郎太が「容赦ないな」と苦笑を漏らした。




***




それからも話は弾んだ。
あまり思い出したくない出来事ではあったが、サッカー部の一年にとって帝国学園との試合はかなり印象的だったらしく。
それぞれが私のことを尊敬しているだのなんだの言って目を輝かせこちらを見つめてきた。中にはわざわざ席を立ってこちらへ話しかけにくる人も居てどうしようか迷ったり。そんな私の姿を見て、守はとても嬉しそうに、豪炎寺は面白いと言って笑った。
初めて会話する一年の名前も覚えたし、違うクラスであまり関わりのなかった二年の数人とも話した。ニット帽が特徴の松野は特に話しかけやすくて、かなり話が弾んだ。彼は以前まで色んな部活を助っ人をしていたらしく、私がまだ部活に入ってないことを知ると、私に合いそうな部活を幾つか紹介してくれた。結局断ることにしたけれど、いつか違う部活にも入ってみたいなんて少し思ったりもした。




しかし、そんな時間も長くは続かないようで。
皆が一通りご飯を食べ終えた後、私がマネージャーの二人と談笑していたその時に、ふと、中学一年生の部員の一人が、疑問符を浮かべて言ったのだ。否、言ってしまった、というのが正しいのか。




――――その言葉が、私にとってどういう意味を持つかも、知らないままに。




「――――そういえば、神崎先輩のご両親ってどんなことをしてるんですか?」




その質問が降ってきたのは本当に突然のことだった。後ろのテーブル席に座っていた――――少林寺、と言ったか。彼の純粋なその質問に、私はろくに反応することすら出来ず、固まる。しかしそんな私に気づく様子もなく、他の人もその言葉に続けて話しだす。




「あ、俺も気になる!神崎先輩、サッカー上手いし美人だし優しいし!こんなにすごい人の親かー………もしかして有名人だったりして!」




――――私の、両親。
無邪気にそんなことを話す彼らに、私は一言も返すことが出来ず沈黙してしまう。
顔を上げておくことすら出来ずに、ふっと視線を下にずらした。こんなに騒がしい場所で聞こえるはずがないのに、やけに心臓の音がうるさく聞こえる。鼓動がちょっとずつ速度を上げて高鳴りだす。暑くなんてないはずなのに、ひたりと冷や汗が私の頬を伝っていく。




私の異変に気付いた秋が、隣で「………どうかしたの、葵ちゃん?」とこちらに話しかけてくる声が聞こえた。しかし、私はそれに言葉を返すことが出来なくて。身体が、心が、唇が震えて、声が出て来ない。このままでは駄目だと強く思う。しかし私は動けない。やっとのことで周りに耳を傾けてみれば、声の様子から他に私のその反応に気付いていないことが分かった。




早く、他の人にばれないように、落ち着かないと。
胸に少し震えている手を当てて、気づかれないように静かに深呼吸して心を落ち着ける。大丈夫、大丈夫と自分の心に必死に言い聞かせる。すると、少しずつではあったが汗は徐々に引いていった。身体の震えも少しは止まって、これなら返事を返せそう。




「……ごめ、秋………なんでも、ないよ」
「そう?………調子が悪いんならいつでも言ってね」
「うん…………あり、がと」




必死に震えを隠した声音で返答すると、秋は渋々ながらも頷いてくれた。よし、と心の中で呟いてもう一度だけ深呼吸する。
……先ほどから頭の中を巡っている幼少期の記憶から、必死に目をそらしていた。




「……わ、たしの両親はね――――いま、遠くにいるの」




やっとのことで出てきた言葉はそんなものだった。気になっていたのか、サッカー部の皆が私の方を見つめ、話を続きを待っている。守も、豪炎寺も、一郎太も。興味深そうにこちらをじっと見つめていた。
私には嘘が吐けない。だから、話にボロが出ないように、少しずつ言葉を続けていく。




「二人とも、なんか用事があるみたいでね。でも言われてないから、私は両親が何をやっているか、知らないんだ」
「そうなんですかー……ちぇっ、絶対有名人だろうって踏んでたのになぁー」
「あはは、ごめんね」
「え?じゃあもしかして………神崎先輩、一人暮らししてるってことですか!?」
「んー、まあそういうことになるかな……でも、暮らすのとかは全然大変じゃないよ」




家事も慣れてるし、と言ってかろうじて微笑を見せれば、彼らは私の様子についぞ気付くこともなくへぇーと相槌を打っていた。冷や汗は依然続いているものの、先程の返答に特に目立った異変はなかった……と思う。これなら、と心の中で少し安心しようとする。
その時、私の肩に、手が載せられる感覚。
ハッとして振り向けば、心配そうに、しかし真剣そう私の方を見やる一郎太が見えた。




「おい、葵。……汗、すごいぞ」
「っ……………ほんと、なんでもないから。大丈夫、これはちょっと暑いだけで――――」
「暑いだけで、そんなに顔色悪くなったりしないだろ!」




一郎太が声を荒げて、肩を強く掴む。その片方しか見えない瞳は、動揺する私をしっかりと捉え、じっとこちらを見つめていて、わたしはその瞳に囚われて固まってしまう。すると、一郎太と私のそのやりとりに、なんだなんだと他の人たちもこちらを見始めた。視線がこちらに集中する。落ち着き始めていたはずの鼓動は再び加速し始めて、私はもうどうすることもできない。




(こ、わい、こわいこわいこわい――――こわい!)




思わずしゃがみこみたくなる気持ちに包まれて、私は心の中で絶叫する。




皆からの視線がこわい。

好奇を孕むその瞳がこわい。

わたしのことを穢れない瞳でじっと見つめるひとびとがこわい。

自身の過去に触れて嫌悪されるかもしれない未来がこわい。

――――でもそれより何より、そんな皆に怖がって固まっている、自分自身が一番こわいっ!!




わたしの頭の中でずっとぐるぐる巡っている親の顔が離れない。
気付けば私は、何もしていないはずなのに、情け無いほどに息が上がっていた。好奇の視線はあっという間に心配するような、かと思えば不審なものを見る視線に変わり、私の方を見つめている。しかしそれを気にする余裕を、私はとっくの昔に失ってしまっていた。


もう、此処には居られない。数秒沈黙した後に、平静を失っていた私はそう思う。思ってしまう。皆には悪いけれど、私にはこれ以上此処に居るべきではないと、心が警鐘を鳴らしていた。
私は椅子に掛けていた小さなバッグを持ってふらりと立つと、震えそうになる声で言葉を放つ。




「ごめん…………今日、用事があるの、忘れてた。もう、帰るね」




その言葉は、誰がどう見てもただの醜い言い訳で。心配そうに私を見つめる秋を、私は見ることが出来ずにそっと目を逸らす。




「楽し、かったよ。…………これ、お代。今日はほんとにありがと。………ごめん、じゃあね」
「っ、お、おい!!葵!!」




守が私の手を掴もうとするのをふわりと避けて、引き戸を開ける。誰の顔も見れず俯きながら、私は耐えられずに走り出した。




「おい待てって、葵っ!?」




守の声に振り返らない。振り返れない。
商店街を走って通り抜ける私を、見知らぬ人は怪訝そうな顔でこちらを見つめているが、もうそんなことはどうでもよかった。雷々軒からどんどん離れていく私は、一体何処へ向かっているのか自分でも分からないまま、商店街を駆けていく。




「………っ、俺、あいつを追いかけてくる!円堂、お前らは先帰っててくれ!」
「風丸!?」




微かにそんな声が聞こえたような気がしたが、気付かないふりをして私は走るスピードを上げた。




***




走って、走って、ただひたすらに走っていた。
息が荒い。涙で前が霞んでよく見えない。嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えながら、私は何処かへと向かっていく。
どうしてこんなに動揺しているの、と私は自分に問いかけた。親のことなんて、とっくの昔に忘れたはずだ。あの人たちのことなんて、ずっとずっと前に割り切ったはずだった。なのに。




“寂しいのか?”





ふと思い出したのは、先程言われた豪炎寺の言葉だった。
さっき今まで忘れることができていた寂しさを思い出してしまったから、もしかすると心が弱くなってしまったのかもしれない、そう思った。さっきとはまた違う意味で、心が弱くなったみたいだと。
暗くなりかけている日暮れの町を走りながら、私はふと考える。今さっきの私の様子を、皆はどう思ったのだろう。
変な奴、で終わったらまだいい方かもしれない。守や豪炎寺なら、きっと私のことを心配してくれているんだろう。どうせだったら、盛大に笑い飛ばしてくれたりしたら、私も気が楽なのだろうか。




(………そんなわけ、ないよね)




そうして、私は自分自身を嘲笑う。
きっと、不審がられた。親のことを聞かれただけであんなに取り乱した私を、皆が心配するだけで居られるわけがない。私と親の間には何かあったのではないか、と勘繰っているに違いない。そして――――その予想は、全く間違っていないのだ。




どうしても溢れ出てくる涙を必死に袖で拭いながら思う。走り始めて、一体何分経過したことだろう。
綺麗な夕焼けを醸し出していた空は、あっという間に夜の闇に包まれていたから、もしかしたらかなり時間が経ってるのかもしれない。そんなことを考えていれば、星が瞬き始めたそんな空の下で、走り続けた私は、ある場所へと辿り着いてしまって。
……そこは。




「っ………鉄塔、広場………?」




相変わらず大きな鉄塔が、全てを包み込む夜空に向かって高く高く伸びていた。私は肩で息をしながらそれを見上げると、諦めたように溜息をそっと零す。結局、私はここに来てしまったのか、と心の中で呟きながら。




どこか安心できる場所を聞かれたら、昔からずっと此処だと決まっていた。幼い頃に守や一郎太と遊んでいた時も、そうだった。私たちはよく小さな公園で遊んだり、かと思えば三人で鉄塔広場まで頑張って登って来たりしたっけ。……きっと、まだ小さな子供だった私たちには此処までの道のりは遠すぎて、でもなぜかまた行きたくなる場所だったのだと思う。




電灯が小さく照らしているベンチに腰掛けて、私は辺りを見つめる。守が使っているという大きなタイヤが、横で風に吹かれてほんの少し揺れているのが見えて、静かに溜息を吐いた。
上を向けば、夜空に瞬く星が見える。その吸い込まれそうな空に、私はそっと手を伸ばそうと、した。けれど。




「………っ…………あ、おい…………ッ!!」




それは、一つの声によって遮られた。
激しい息切れの合間で、私の名前を呼ぶ声が聞こえる。必死そうにこちらへ呼びかける声が聞こえる。
驚いて振り向くとそこには、綺麗な水色の髪を揺らす、幼馴染が経っていた。




「…………な、んで…………」




目を見開いて、かすれた声で出ていた言葉はそんなものだけで。肩で息をする一郎太は膝に手をつきながら、呟くように言う。




「お前、速いよ………俺、お前のことすぐ見失っちゃってさ。でも、もしかしたら……って思って、此処に来てみたんだ。お前が此処に戻って来てから最初に会ったのって、確か此処だったから」
「会ったって……」
「お前さ。あの朝、此処に来ただろ?」




あの朝。そう言われて思い出すのは、この学校に初めて行こうとした時の、朝。




「あ…………」
「俺たちさ、話してはなかったけど………会ったのは、帝国戦のときが初めてじゃないんだぜ。……って、この表現はおかしいか。だって俺たち……もっとずっと前から、友達だったんだもんな」
「………うん」
「……此処、落ち着くよな。俺も、悩み事があるときはよく此処に来るんだ。きっと、昔から慣れ親しんでるからなんだろうけど」
「………、うん」
「………………俺さ、多分、お前のこと…………何も知らないんだと思う。此処数週間と、10年前の………それもほとんど朧げな記憶のお前しか、知らないんだよ」




そっと目を閉じて静かにそう言った一郎太は、ゆっくりとこちらに近づいてくる。しかし私は反射的に身体をこわばらせてしまって。それを見た彼は、「そんなに固くならないでくれよ」と苦笑しながら言う。




「…………いち、ろうた…………」
「俺はお前のこと、きっと何も知らない。だから、お前がそんな顔をしてる理由が分からないんだ。だから……………だから、さ」
「お前が泣いてる理由を、教えてくれないか」




ぽたり、ぽたりと私の頬を透明な雫が滴っていく。それを拭い取ることすら出来ず、私はただ彼の顔を見つめる。その視線の先にいる彼は、ただただ優しい表情で私のことを見つめていた。彼と、視線が交わる。でも、それは先程とは全く違って、私の心に穏やかな何かを広げていく。彼は涙をぽろぽろと零す私に微笑んで、静かに手を差し出した。




「…………………誰にも、言わないと…………約束、してくれるのなら」




私は数秒の沈黙の後に、そっと彼の手をとる。彼は「勿論だ」と言って嬉しそうに笑うと、もう片方の手で私の頬に伝う涙を拭った。




(そうして、私は語りだす)
(私の、ことを――――私の置いていった、両親のことを)






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -