第5章 BRUE DRAGON



豪炎寺と病院へ行ってから、早数日が経っていた。
どうやら彼は、時間がある日はほとんど毎日夕香ちゃんのお見舞いに行っているらしい。「私も彼女のお見舞いに行きたい」と申し出てみると、彼は心なしか嬉しそうな顔で「ああ、よろしく頼む。夕香も喜ぶよ」と了承してくれた。
彼と初めて病院へ赴いた日以降も、彼と予定が合う日のみ一緒にお見舞いにいくことにしている。なので、土曜日で学校が休みの今日も、彼と約束を取り付けて一緒に病院へ行こうとしていたのだけれど。



(……誰か、着けてきてる?)



病院内へ入る前から、ずっと付き纏っている気配。
豪炎寺はまだ気付いていないらしく平然と隣を歩いているが、気配に敏感な私にはすぐに気づくことができるもので。しかも、この気配が誰のものなのかは、簡単に見当がついた。


――――彼に言うべきか、言わないべきか。


何故か跡を着けてきているらしい“彼”の性格を考えれば、別に夕香ちゃんのことがバレても人に広めようとしないだろうし、言わなくても大丈夫なのではないかと思う。だが豪炎寺のことだ。私の場合はともかくとしても(私の場合は、豪炎寺の方から伝えに来てくれた)、他の人に妹のことが知られるのを良しとするとは思えない。まあ私が「着けてきている人がいることに気付いた」と言わなければ、元々気配に気付かなかった彼は、私が着けられていると知っていたなんて分からないので怒ることもないだろうが、彼にそのことを申告しないのはなんだか罪悪感が残るし。



しかし、そのことを悶々と迷っているうちにいつの間にか夕香ちゃんの病室に着いてしまった。タイムリミットだ、もう私の口からは言えまい。今から言ったとしても、もう“彼”は此処の存在を知ってしまったのだから、遅いだろう。
がらら、と扉を開けた豪炎寺に続いて病室に入る。きっと彼と遭遇してしまうのも時間の問題だろう、そう考えると溜息しか出てこなかった。



「神崎、飲み物を買ってくるよ。何が良い?」
「え?……あ、飲み物ね。ん、じゃあカルピス」



病室に入ってからすぐ、彼は席を立った。
まさかこのタイミングで飲み物を買いに行くと申し出るとは思わなかったので、思わず声が上擦ってしまう。私に気を使っての事なのだろうが、しかしこの状況でそれは少しまずいような。動揺したことを彼に気付かれていなければ良いのだけれど。



「意外と子供趣味なんだな……。まあ、了解だ」



焦ったので咄嗟に思い浮かんだものを言っただけなのに、くすくすと笑われてしまった。「そんなことはない」と反論しようと思ったのだが、私の声が上擦っていたことに彼が気付かなかったことで安堵してしまい、思わず反論するタイミングを逃してしまって。ひとしきり笑って満足した彼は、自動販売機へ向かう為に病室を出ていこうと――――した。
だが、しかし。
がらりと扉が開く音。その直後に聞こえた「うわっ!?」という聞き覚えのありすぎる声。
豪炎寺が一気に警戒したのが手に取るように分かった。相手を睨み付け後ろ手に扉を閉めながら、「なぜここに居る?」と低く問いかける声が聞こえる。
閉ざされる前の扉の向こうに一瞬見えたのは、“予想通り”――――守の戸惑った表情だった。



第5章 BRUE DRAGON



数分経つと、どうやら守に呆れてしまったらしい豪炎寺が病室に戻ってきた。勿論、守を引きつれて。
病室の外から「ごめん!!!」という叫び声が聞こえた時点で、こうなってしまう予感はしていたのだが。ちなみにその跡を着けてきていた張本人の守は、この部屋に入ってきてからずっと、暗い表情で夕香ちゃんを見つめている。
――――これは、私が居ない方が話しやすいだろうか。
きっと今から、まだ自分の事を追いかけてくる守に(嫌々だろうが)彼女のことを話すのだろう。それならば、二人だけの方が話しやすいかもしれない。……というか、夕香ちゃんのことを話す役目は、たとえ少しであろうとも引き受けようとは思えないのだ。それは、彼女の兄である豪炎寺の役目なのだから。



「豪炎寺、私が飲み物買ってくるよ」



だから、入ってきた豪炎寺とすれ違いざまに、肩をとんとんと叩きながらそう申し出た。私がそのような行動に出ることが分かっていたように苦笑した彼は、「ああ、よろしく頼む」と言って今まで私が座っていた椅子に腰かけると、夕香ちゃんを見つめ始める。
と、そのとき不意に、後ろを振り返りながら、「なんで」とでも言いたげにこちらを見つめる守の視線を感じた。しかし、それに答える声が出ていくことはなく。



(……ごめん、守)



ため息をどうにか押し殺した私は、足早に病室を出ることにした。



***



豪炎寺の好きそうな飲み物を適当に見繕い、少し時間を潰してから病室に戻り行く。
病室の近くに着くと、丁度守が病室から出てきたところに遭遇した。話しかけないのもなんだか友達として可笑しいので、「おーい、守」と呼びかける。彼はぴくりと肩を揺らしてからこちらを見やり、それから小さく私の名前を呼んだ。



「こんにちは、守。帰るの?」
「ああ。……あの、さ」
「なに?」



守がショックを受けているのは知っていた。彼が思いやりのある優しい人なのだということも、気持ちが表情に出やすい事も。ずっと前から……幼い頃から知っていたから。だから、ゆっくりと彼の返答を待つ。彼の後悔という悲しい感情が、少しでも和らぐようにと、彼の瞳を見つめる。
すると、彼はぎこちない笑みをこちらに向けようとして――――耐えきれなくなったかのように、突然くしゃりと顔を歪めた。



「……豪炎寺の妹、事故に……遭ったって」
「……うん」
「決勝戦の直前に事故が起こったから、試合を放ってまで妹の元に駆け付けたんだって」
「……うん、そうだね」



精一杯の優しい声で頷く私に、ぽつぽつと言葉を落としていく。それと同時に守の表情も、暗くなっていく。



「……それでも、豪炎寺の妹は、それからずっと……目覚めないんだ……って……」
「……うん」
「なのに……なのにおれ、何も知らずにあいつにずっと呼びかけてたんだ……サッカーをやれって!豪炎寺の妹があんな目に遭っているのに、それでもサッカーをやれって、強制しようとしたんだよっ!」



守の瞳が、辛そうな光を灯した。彼の悲しそうに歪められた目尻から、一滴の雫が零れて。
それを見た途端に私は彼の痛快な表情に耐えきれなくなって、気付けば彼をぎゅっと抱きしめていた。いつも責任感が強すぎるんだ、彼は。



「……そんなに思い悩まないで、守。確かに守は、サッカーで苦しんでいる彼をずっと、サッカー部に誘っていたよ。でも、それはきっと間違いじゃない。だって、見たでしょう?彼は、自分の意志でグラウンドに立って、想いのすべてを込めたシュートを、相手のゴールに叩きこんだんだから」
「……それ、たしか帝国戦のときの……」
「そう。だから、君が……守がそんなに思い悩む必要もないの。彼も、ちゃんとサッカーが好きな一人の男の子だったんだから」



優しく抱きしめる私に、おそるおそると腕を背中にまわす守。
だけれども、彼の纏っている雰囲気の中にさっきのような悲哀さはほとんど感じられなくなっていた。そのまま数秒位ぎゅっと抱きしめてあげると、どちらからともなく身体を離す。見えた彼の表情は、さきほどよりも翳りが薄くなっていた。それでも、暗い気持ちを全て拭ってあげられたわけではないけれど。



「……ありがとな、葵」
「守の力になれたのなら、良かった」



彼にはやっぱり、笑顔が一番似合うのだ。悲しむ顔は見たくない。



「今から練習なんでしょう?頑張ってね」



だから、そう言ってにこりと笑えば、彼はまだ少し陰りの見える顔で一瞬笑みを見せ、入り口へ歩いて行った。



「……神崎」



とその時、不意に後ろから聞こえた声。振り向くとそこには、いつの間にか薄く笑みを浮かべた豪炎寺が立っていた。
彼とのやり取りを一部始終聞かれていたらしい。少し恥ずかしいような。
まあそれを表情に出すことはないのだけれど。



「ああ、豪炎寺。……守が思い詰めてたみたいだったからね、ちょっと慰めてた」
「そうか。……なんだか」
「… …?」
「円堂の母親みたいだな、お前は」
「………はあ」



くすくすと小さく笑う豪炎寺に生返事する。よくわからないが、これは褒められているのだろうか。
否、褒められていると考えておこう。あまり深く考えても仕方がない気がする。



「中に入れよ。ずっと外にいるのも寒いだろう」



彼がそっと私に手を差し伸べる。どうやら彼とのやりとりを聞きに来たのではなく、ただ単に私を迎えに来ただけの様だ。
仕方なく苦笑しながら彼の手を取る。



「ありがとな」
「……、なにが?」
「いろいろ、だよ」



とりあえず飲み物ありがとな、と言われて缶ジュースを手から抜き取られる。よく気が回る人だなあ、なんて思ってもう一度苦笑すると、彼とともに夕香ちゃんのいる病室へと戻っていった。



***



引っ越してきてまだ日が浅いので、道を覚えることも兼ねて、この日は昔通ったことのありそうな道を使いながら散歩をしていた。そのときに、ふと気まぐれに河川敷へ寄り道してみると、いつもと同じように雷門中サッカー部が練習をしている姿が見えて。……が、何やら様子がおかしい。
染岡の「っらあああああ!」と大きく叫ぶ声に疑問を感じながらもグラウンドに下りれば、私はその光景の違和感をはっきりと受け止めることができた。



「……うっわあ、すごいファール。久しぶりに見たなあ、こんなに荒れたプレイは」
「わ!あ、葵ちゃん?どうしてここに……」



どうやら染岡が焦って暴力的なプレイに走っているらしい。グラウンドを思いっきり走り抜ける姿は、明らかに他のサッカー部員と比べて浮いている。余程焦っているようで、ぎくしゃくとしたドリブルで精一杯ゴールの方へと駆けあがっていく。
それを止めようとDF陣が彼の前に立ちはだかったが、彼に服を掴まれてそのまま投げ飛ばされてしまった松野――――通称マックスらしい――――が「もう!乱暴だなあっ」と不服そうな声を上げた。他の人も突き飛ばされたり色々されたらしく、横切っていく染岡を見る目は、以前帝国戦の時に向けられた視線よりも幾分か冷たい。そんな光景に思わず本音を漏らすと、私が来ていることに気付いた秋があっと驚いた声を出した。ちなみに彼女の隣には帝国戦の時にも見た、眼鏡をかけた女の子も居る。



「ちょっと散歩。……それにしても、染岡はいつにも増して乱暴なプレイをするなあ。どしたの、彼」
「尾刈斗中との試合が迫ってるのに、まだ思い通りのプレイができないらしくて……焦ってるんだろうなあ」
「……なるほど、確かにね」



ドリブルで上手く相手を抜けないから、誰が見ても明らかなファールを連続で繰り返す。それでもやっとゴール前に着いたかと思えば、打ったシュートは入らない。どこか変な角度に曲がって、ゴールまで辿り着かないから、守にゴールキーパーの練習をさせてあげることすらできない。どうしても出来ないことに苛立ちを感じて、また更にファールを重ねる……。
ひどい悪循環。



「あと、豪炎寺君や葵ちゃんに負けたくないっていうのもあるんだろうなあ……」



ぽつり、と秋が呟いた。



「……え?」
「だって、この前の帝国との試合は二人が居たからこその勝利だったでしょう?染岡君、あの試合が終わってからずっと気にしていたもの」
「そう、なんだ」



確かに帝国戦でのあの二点は、間違いなく豪炎寺と私、そして帝国のシュートを受け止めた守の三人で取った二点だった。プライドの高そうな染岡のことだから、きっとそれが気に食わなかったんだろう。正規のメンバーではない二人が、雷門イレブン唯一のFWである自分を差し置いて(目金とやらは勘定していない)、あっさりとシュートを決めたのだから。もし私が染岡の立場で同じようなことをされれば、自分も苛ついていたことだろう。……今まで努力をしていなかった(自分はその光景を見ていないが)彼にも、非があると思うけれど。
――――だがまあ、放っておくこともできない性分なのだ、私は。



(サッカーが好きな人に悪い人はいない……ってね)



染岡は根が悪いわけじゃない。帝国の事があって、少し焦っているだけなのだ。
何度も何度も入らないシュートを打ち続けて、とうとう地面に膝をついてしまった姿を見ると、それが本当によくわかる。ふと気付けば、私はグラウンドにいる彼に近づいていた。咄嗟に止めようと声を上げる秋も今回は無視。尾刈斗中に勝つためには、彼には乗り越えてもらわなければいけない「課題」というものがあるはずだ。
気配に気付いて顔を上げた染岡が、私が来たのだということに気付くと、静かな声で自嘲気味に笑い声を零す。しかし、その眼光が失われることはなく、まるで獅子のようにぎらついていた。



「……神崎、とか言ったか。けっ、目立ちたがり屋の転校生が俺に何の用だよ!」
「ちょ、ちょっと染岡君!その言い方は……!」
「いいんだよ、秋。言わせておけばいい」



予想通りに噛みついてきた染岡。その物言いには苛つかないこともないわけではないが、それでも彼には一言言っておかねばなるまい。なにせ、彼の“必殺技”は既に片鱗を見せているのだ。このまま必殺技を完成させずに試合を迎えるのは、すごくもったいない。
私は、平伏す染岡と同じ目線になるようにしゃがむと、彼と目を合わせた。



「染岡、焦ってるんでしょう?もうすぐ試合があるから。秋に聞いた」
「……だからって、お前が俺に何の用があるんだよ。嘲笑いにでもきたのか?」



先程の染岡の叫びに物怖じすらしなかった私にとうとう呆れてしまったのだろう、彼は幾分か落ち着いた声で問いかけてきた。なんだ、普通に聞けるんじゃないか。



「そんなわけないでしょ。染岡のさっきのプレイ見てたら、思い当たることがあっちゃってさ。ちょっといいにきただけ」
「……そうかよ」
「うん、だから言わせてもらうけど。……焦りすぎだよ、染岡。そんなんじゃあ、言っちゃ悪いけど到底相手のゴールに入れることなんてできっこない」
「ッ!!」



単刀直入に言葉を紡げば、染岡は案の定目を見開いた。でも、驚いた割にはそこまでリアクションが大きくない。
……きっと、心の奥底では自分でもわかっていたんだろう。苛立ちをサッカーにぶつけても、サッカーは答えてくれないのだということを。



「確かに、がむしゃらにシュートを打つことも時には必要だと思う。でも、それは今することじゃないの。シュートを入れたいんだったら、もっと一つ一つに心を籠めなくちゃ」
「………こころ………」
「そう。……ちょっと見ていて」



立ち上がって(ついでに染岡も立たせて)、近くにあるボールをとる。ペナルティエリアの外にボールを置いて、その少し後ろに立つ。視線の向かう先は勿論――――ゴールへ。
ジャージを着てきて良かったと心の中で呟きながら、染岡に向かって言い放った。



「こうしてちゃんとゴールを目指したら、きっとサッカーは答えてくれるから」



そっと包み込むような声音でそう呟くと、染岡に少しでも分かってもらえるようにと願いながら、気合いを入れてボールを蹴った。
真っ直ぐに飛んで行ったそのボールは、吸い込まれていくようにゴールへと導かれて。パシュッという短いサウンドとともに、そのシュートは綺麗にゴールの中へ収まる。
ぽんぽんと弾んでいるボールを拾いに行きながら、私は振り返って彼に笑みを向けた。



「……ね。大丈夫、染岡はサッカーのこと大事に思っているんだから、きっとすぐに入るようになるよ」
「………ああ」
「じゃあ、頑張ってね」



きらきらと再び目を輝かせている守にボールを渡して、すれ違いざまに染岡の肩を数回叩くと、そのままグラウンドを出る。そのまま秋に挨拶をしてさっさと河川敷を出ようと思っていたのだが――――突然、「神崎っ!」と強い声で呼び止められた。
振り向くと、案の定私を呼んだのは染岡らしく。「なにか用?」と声を掛ければ、彼は不機嫌そうだった表情を少し緩めてくれた。
照れ臭そうにぽりぽりと頬を掻きながら、視線を下に降ろして言葉を紡ぐ。



「あー、その、なんだ……今まで、悪かったな」
「……!」
「俺、お前より弱いのが……チームの役に立ててねえことが、すげえ悔しかったんだ。でも、お前のおかげで、俺が今やんなくちゃいけねえことが、少しだけ分かった気がする。……その、あり…がとな」



染岡がそんなことを言ってくれるとは思っていなかったので、本当に驚いた。
しかも、あんなに敬遠していた私に向かって「いいやつ」等とまで言ったのだ。彼の言葉にあまりにも吃驚してとうとう固まってしまった私に染岡は「な、なんだよ」と不満そうな声を漏らした。



「……や、ごめん。ちょっと、予想外すぎて」
「は、はあ!?んだとお前」
「君って、意外と良いやつなんだね。なんか、ちょっと見直した」



本当に思ったことだけをさらりと告げると、染岡は一瞬だけかっと頬を赤くしてから、ふいっとそっぽを向いた。恥ずかしかったのだろうということが一目で分かる。あまり褒められるのに慣れていないのだろう、動作がひどく分かりやすい。そんなことを思い、ふっと微笑んだ私は、もう一度彼の方へ歩みを進めて、彼が戸惑っている間にそっと肩へ手を添えた。
中学二年生にしてはがっしりとした肩に、やっぱり人一倍練習を重ねているんだなあと内心苦笑しそうになった。
突然の私の行動に疑問符を浮かべた染岡へ、そっと笑顔を見せる。



「きっと、染岡ならすぐにシュートが打てるようになるよ。自分に自信を持って、堂々と正面から向かっていきなよね」
「!……おう」
「――――応援、してる」


ぎゅっと肩を握りしめて、精一杯の応援を込めて。
私の確信の満ちた笑みに何か感じることがあったのか、染岡は少し驚いた顔を見せながらもすぐにしっかりと頷いてくれた。その反応で分かってくれたのだと悟り、最後に一言呟いた私は、今度こそグラウンドの外へと足を向けた。もう彼に言葉は必要ない。彼ならきっと必殺技もすぐに身につけられる、そう確信したから。
じゃっじゃ、と芝生の部分を歩き始めると、もう私を引き留める者はもう出てこない。



「……じゃあ、また明日。学校でね」
「おう、じゃあな葵!」
「葵ちゃん、また明日ね!ばいばい!」



去り際に守と秋から元気な笑顔でそう言われて、返事の代わりに右腕を高く掲げた私は、力の抜いた右手を返事代わりにひらりと振ると、そのまま振り返らずに河川敷の傾斜を登っていく。
そうして私がグラウンドから離れてからすぐに染岡がいち早くに練習を再開し、それにならって練習を再開した雷門中サッカー部が全員私から目を離したのをぐるりと確認すると――――私は、そのまま鉄橋の方へゆっくり歩きだした。



(………やっぱり)



そして、心の中で呟く。やっぱり、先程グラウンドから見えたのは彼だった。
少しずつ見えるのが大きくなっていく立ち姿は、最近よく一緒に行動していた、あの――――



「……奇遇だね、豪炎寺」
「……神崎、か」



私が突然声を掛けても、豪炎寺は別段驚くこともなく、淡々とこちらの名前を呼んだ。
まあ、今までサッカー部の練習風景を見ていたのだろうから、私が豪炎寺の元へ来たことを分かっているのも、当然と言えば当然だ。彼はサッカー部の、守の生き生きとした表情を見つめたまま視線を動かさず、見つめて離さない。その瞳には懐かしさと悲しみ、寂しさが秘められているように見えた。
隣に並んでグラウンドを見やる。すると丁度染岡がシュートを打つところで、私の言った通りにしっかりと狙いを定めて放たれたそのシュートは、青いオーラに包まれて守の方へ向かっていった。守もシュートを止めるための構えを取ったが、ボールはノーマルシュートのときより数段威力が強く、ゴールに向かい行くスピードも先程のものとは桁違いに速くなっているがために、反応することができていない。そのままあっという間に守の横を通り過ぎ、ゴールへと収まったシュートに、染岡を含めないサッカー部全員が数秒の呆然の後に嬉しそうな声を上げて染岡の元へと走っていった。



「……ほら、やっぱりやれば出来るんじゃん」



こんなにも早くに必殺技が完成すると思っていなかったので、本当に驚いた。最早私の助言なんていらなかったんじゃないかとさえ思う。
しかも口を衝いて出たのは実際のところの本心で、私はただ苦笑するほかなかった。



「……あの、今シュートを打っていた奴か?」



私の表情を見た豪炎寺が、そう問いかけてくる。
それに短く頷いてから、そっと口を開いた。



「……彼、染岡って名前なんだけどね。見た目は怖いし頭の固い奴だけど、結構中身は温かくてさ。サッカーのこと、大切に思ってくれてるみたい。豪炎寺も、一緒にやってみたら分かると思うよ」
「……どうだろうな……俺があいつらの中に入っていくことはないだろうが……それでも、あいつの目が……あいつが、生き生きしているのは、分かるよ




ずっとサッカーをする彼らから目を離さない豪炎寺。
そんな彼の顔を隣からじっと見つめていると、次第に彼の瞳が憂いと寂しさを映し出していることに気付く。
何処となく儚い表情に、突然何か声を掛けなければならないような気がして。一瞬口を開いたけれど、出てきた言葉は後ろから聞こえる車のブレーキ音で掻き消された。
普通、鉄橋の途中で停車する車などない。しかも、自分たちの目の前で止まるのであればなおさらだろう。
一体誰がこんなところで、と疑問に思いながら、同じように不思議そうな表情をした豪炎寺と同時に後ろへ視線を向ける。
視界に入ったのは、私達の丁度目の前に停まる黒いリムジン。中の様子が窺えないようにと曇りガラスでできた窓からひょっこり顔を出したのは、この間サッカー部に尾刈斗中との練習試合の許可を出した張本人、雷門夏美だった。
彼女は薄く笑みを湛えた顔でこちら――――正確に言うと豪炎寺の方を向くと、前見た時よりも瞳に幾分か明るい色を宿して口を開いた。



「こんにちは。私は雷門夏美と言います」
「……どうも」
「――――この道、貴方の通学路だったかしら?」
「………………、」



唐突に切り出された言葉に、豪炎寺はふっと視線を逸らした。
それをさほど気にした様子もなく、彼女は言葉を続ける。



「失礼ながら、貴方のことを少し調べされてもらったわ。妹さんの事もね」
「……っ!?」



“妹”という言葉を引き合いに出された豪炎寺は、一瞬目を丸くして息を飲んだかと思えば、次の瞬間には彼女を鋭く睨んでいた。自分のことを勝手に調べられた挙句に夕香ちゃんのことまで話題に出されたのだ。元々信頼した人にしかあまり自分のことを話したがらない豪炎寺にとっては、気に食わないことこの上ないだろう。
心底不愉快だ、と目が語っている。彼はそのまま数秒睨み続けると、相手をする気すら失せたのかもう雷門さんと話したくなかったのか、私に「……神崎、さっさと帰るぞ」と囁いてから鉄橋を歩き始めた。
仕方ないからそれに続こうとするが、しかし彼女はそれを許さない。
彼女の乗るリムジンの進行方向とは全く逆の方向に進む私達に向かって、彼女は窓から顔を出しながら言う。



「豪炎寺君、貴方本当にこのままでいいの!?あの諦めの悪い連中と、一緒にプレイしたい。だからこの道を通ってる」
「放っておいてくれ!」
「サッカーを辞めることが、妹さんへの償いになると思っているの?そんなの、勘違いも甚だしいわね。貴方に一番サッカーをやって欲しいのは、一体誰なのかしら」
「……………そ、れは………」



豪炎寺が俯いたまま、黙ってしまう。
横から見える彼の表情は何かと葛藤している様子で、それを見たときには、私の身体は既に動き出していた。



――――放ってなんか、おけない。



――――だって、彼は私の大切な友達だから。ずっと救いを求めてるの、私には分かってるんだから。



「……豪炎寺。もう、いいんじゃないかな」
「か、んざき……でも、俺は」
「うん。貴方はずっと夕香ちゃんのことを考えて過ごしてきた。でもね、それなら貴方自身の意志も、少しは大事にしてあげてほしいの」
「…………神崎」
「……夕香ちゃんなら、豪炎寺がサッカーをまた始めるの、きっと喜んでくれるよ。だから………だからもう、我慢しなくていいんだよ」
「…………、」



私より少し背の高い彼に手を伸ばすと、ふさふさとしている頭を優しく撫でる。
とてもとても温かい心を持っている彼には、妹である夕香ちゃんのためにも堂々とサッカーをしていてほしい。そう思いながらしきりに頭をなでてやっていると、とうとう観念した豪炎寺はぽろりと苦笑を零した。撫でていた私の手をやんわりと退けて、今度は彼が私の頭を撫でる。ゆっくりと髪を撫でる彼の手つきは優しくて、軽く見上げたときに見えた彼の瞳は、先程よりも幾分か澄んだ黒色をしていた。



「神崎。――――俺、やるよ。サッカー」
「……そ、っか」



堅い意志を持った声を聞いて、安心した私は小さく相槌を打つ。
彼がもう一度サッカー部の方を見つめるのと同時に私がぽんと背中を押すと、こちらを見やった豪炎寺がすぐに私のその行動の意味を理解したのであろう柔らかな微笑を残して走りだす。もちろん、河川敷の方へだ。



「……頑張れ、豪炎寺!」
「!おう!!」



決意を感じられる背中に、もう一度だけと声をかければ、心なしか嬉しそうな声で頷きサッカー部の方へと走っていった。
それを見つめる私と――――車の中から見つめる雷門夏美。



「………じゃあ、私はもう行くわ。ごきげんよう」
「………」



彼女はそれだけ言うと、私に返事を言わせないままにこちらに薄い微笑を残してリムジンを走らせて行ってしまう。私はあっという間に去って行ってしまった彼女の跡を見つめながら、少しばかり考えた。
正直、どうしてサッカー部を挑発する真似をしている雷門さんが、わざわざ豪炎寺のことを調べ、さらにはサッカーをもう一度やるように勧めてきたのかが疑問なのだが。直接聞いて見てもいいが、私はあまりそういったことに首を突っ込むような性格でもないし、そもそもサッカー部にこれ以上関わるのも色々と危ない。
それに、結果としてみれば、結局は彼女の後押しあっての先程の豪炎寺の決断だったわけだし、彼女に対して恩(と言えるほどでもないが)がある以上、あまり余計な詮索などしたくはない。
それに、と私は河川敷の方に目を向ける。



そこに居たのは、サッカー部の皆に囲まれた豪炎寺の姿。残念ながら、遠目に見ても分かるほどに染岡に敬遠されてはいるが、しかしそれ以外の人たちからは期待の籠もった目で見られている。そして、守に満面の笑顔で迎え入れられている彼は、いつもはあまり感情を出さないのに、今だけは純粋な笑みを浮かべていて。



彼があんなに嬉しそうな顔をしているのに、私が今雷門さんのことで悩んでいても仕方がないだろう。
そんな結論に至った私は、新たにサッカー部の仲間となった友人に誰にも聞こえないような小声で「おめでとう」と呟くと、散歩を再開して鉄橋を渡るのだった。



***



葵が丁度鉄橋を渡り始めた頃。
リムジンに乗って自宅へと移動する彼女、雷門夏美は小さく溜息を吐いた。



「……神崎、葵……」



呟いた名前は先程の少女のもの。
先日、豪炎寺と同時期に転校してきた彼女は、日本で一位と謳われるサッカーの強豪校帝国学園と円堂率いる弱小サッカー部雷門中の練習試合で、あろうことか帝国学園のレギュラー選手全員を、相手を遥かに凌駕する技術で圧倒し、一点を取った。予想外の結果に終わったその練習試合の後、さっさとグラウンドから姿を消してしまった彼女は、すぐに学校内でも有名な存在になった。
決して自分の力に過信しないその姿勢と、先日の練習試合で見せつけたサッカーの実力。授業ではよく勉強しているし、性格での悪い噂など聞いたこともない。クールな彼女に似合う端正な顔と、腰まで伸びた透き通るような青の髪は、一目で彼女だと分かる一種のトレードマークとなっている。さらに同時期に雷門中に来て、そしてあの試合で彼女と見事な連携プレーを披露していた、一年前にサッカー界で名を轟かせていた彼――――豪炎寺修也とよく一緒にいることも相まって、雷門夏美の元にはよく彼女の噂が入り込んできていた。



そんな中。豪炎寺のサッカーをやめた理由やその他の情報を集めているとき、雷門夏未はふと思った。



――――彼女は一体、何者なのだろう。



神崎葵がイタリアからの帰国子女だというのは彼女も知っていた。しかし、イタリアの何処から来たのか、何処に住んでいるのか、何故イタリアにずっと離れていたのに日本語がとても流暢なのか。そんなことは露ほども知らず、今までは考えようとも思わなかった。
しかし今回の件で疑問に思った彼女は、自身の執事であるバトラーに力を借りて、豪炎寺の情報集めとともにまた調べてもらおうとしたはずだったの、だが。



「……ねえ、バトラー。やっぱり、この前のことは本当なのよね?」
「はい、お嬢様。再度神崎葵様のことを調べてみましたが、やはり―――――今回も何も、情報は出てきませんでした」
「………、そう」

彼女――――神崎葵についての情報は、結論から言えば何も得ることができなかった。少しばかりは融通が効くはずの雷門家の総力を持ってしても、である。結局彼女について分かったのは、イタリアの何処かから帰国してきたということと、彼女自身は今稲妻町で一人暮らしをしていること。そして、両親はいないということだけだった。
イタリアの何処から来たのか分からないがために以前住んでいた場所から情報を特定することもできないし、色々調べてみても神崎葵のことは全く分からない。彼女くらいのサッカー技術があれば、絶対に何処かで噂されても可笑しくない、否むしろ当然であるというのに。誰かが意図的に彼女の存在を隠しているのだと、雷門夏美が気づいたのも調べ始めてすぐのことであった。
彼女は再度、溜息を吐く。一体、神崎葵とは何者なのだろうか。



「……引き続き、彼女について調べて頂戴」
「了解いたしました」



頭に手をやりながらそう支持すれば、リムジンを運転しているバトラーが了承の意を示す。
その言葉に耳を傾けながら、自身がどんどんサッカー部を気にかけていることに気づいた雷門夏美は、再三深い溜息を吐いたのだった。






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