脱走羊と不運な子

 雨続きだった憂鬱な日々を切り裂いて、久しぶりの快晴に恵まれた今日。僕は最近流行っているアニメの「星辰が揃わぬ世界に」に出てくる大人気の主人公ナイアさんの限定フィギュアを買いに行く為、いつもの道を歩いていたんだけど――。

「餌、発見」

 何故か冒涜的危険生物に指定されているソウヒツジが道のど真ん中に居るんですけど。しかも餌発見とか言ってこっち見てるよ。涎垂らしまくりだよ。
 嗚呼、僕って付いてない。

「餌、餌」

 愛嬌のある顔に似合わない牙を剥き出しにしながら、緊迫した雰囲気を一切無視した「てちてち」という滑稽な足音を立てて、ソウヒツジがゆっくりと近付いてくる。
 逃げなきゃ。逃げなきゃ。そう思っているのに、恐怖で全く動けなかった。ソウヒツジがてちてち近付いてくる。もうてちてちという音が怖い。冒涜的てちてち。やばい怖い。
 恐怖と絶望に打ち拉がれる僕に、ソウヒツジが無情に襲い掛かった。ソウヒツジは後ろ脚二本で立ち上がり、僕の腹に前脚二本を叩き込む。僕は為す術無く仰向けに倒れ、背中を地面に打ち付けた。直ぐ目の前には口を大きく開けたソウヒツジが居て――もう駄目だ喰われる。さようなら現世、出来ることならナイアさんのフィギュアを買ってから逝きたかったよ。
 なんてことを考えて目を瞑っていたんだけど、一向に痛みがやって来ない。何か胸の辺りをごそごそしてるみたいなんだけど。
 不思議に思って目を開けてみると、ソウヒツジは僕の胸ポケットに入れていたコーラ味のガムを銜えていた。僕のガム――と言う前に、それはソウヒツジの口内へ吸い込まれていった。

「コーラ、美味イ」

 もぐもぐと口を動かして包装紙ごとガムを食べているソウヒツジをぼうっと見詰めていた僕だったけど、ふと我に返り、今なら逃げられるんじゃないか――と思ったけど、ソウヒツジにがっちり伸し掛かられていて逃げられなかった。絶望的だね。しかも何故か今日に限って通行人が居ない。久しぶりの快晴なんだから誰か散歩しようよ、ねえ。出て来てよ。
 などと近所の人達に祈りを捧げていると、ソウヒツジが突然ずいと顔を突き出してきて、僕の額に頭突きを食らわせてきた。頭蓋骨が恐ろしく硬いのか、軽く当たっただけなのに凄く痛い。泣きそう。

「餌、モット、餌」

 ソウヒツジはふんふんと鼻息を荒くしながら、僕の顔やら首やら肩やら胸やらに頭を擦り付け始めた。角がごりごり当たってとても痛いんだけど、これってもしかして甘えてるのかな。角がとっても痛いけど。
 でも、甘えられても困るんだよね。

「さ、さっきのガム以外食べ物は持ってないよ」

 無い袖は振れないもの。
 けれどソウヒツジにとって、そんなこと関係無い訳で――。

「ナラ、オ前、喰ウ」

 ですよねぇ。
 って、いや。いやいやいや! 困るよ、喰われたくないよ! 生きたいよ、逝きたくないよ!
 どうする、どうするんだ僕! このままだと本当に喰われてしまうよ! 考えろ、考えるんだ。現実から逃げちゃ駄目だ逃げちゃ駄目だ。
 ――そうだ!

「ち、ちょっと待ってソウヒツジ君! 今は食べ物の持ち合わせが無いけど、お金は有るから買ってあげるよ!」

 これならどうだ! 冒涜的羊はそれなりの知能が有るから、交渉も可能な筈! お願い届いて僕の意思!
 すると思いが通じたのか、ソウヒツジは耳をぱたぱたと動かし、嬉しそうな表情を浮かべて僕の上から退いてくれた。
 今なら逃げられる? と思ったけど、今思い出した。冒涜的羊――特にソウヒツジは脚が恐ろしく速いから、逃げても直ぐに捕まることを。
 逃げようとしなくて正解だったよ。心証を悪くしたら確実に喰われるしね。なので僕は逃げることを諦め、幽鬼のように起き上がった。

「じゃ、じゃあスーパーでも行こうか」

 機嫌を悪くしないよう細心の注意を払いながら声を掛けると、急にソウヒツジが脚に擦り寄ってきた。だから角痛いって、刺さる刺さる。

「な、何かな?」
「乗レ、楽チン」

 乗れって、このもふもふに?
 大丈夫なのかな。何かもふもふし過ぎて滑り落ちそうなんだけど。跳ね飛ばされないかな。

「早ク、喰ウゾ」
「はい判りました今直ぐ乗ります」

 脅しには勝てなかったよ。
 という訳でソウヒツジに跨がって腰を下ろしたんだけど――ふわあああっ、何これ柔らかい! すっごいもふもふ! 雲に乗ったこと無いけど、雲に乗ってるみたい!
 身は何か不定形っぽい固形物なんだけど、冒涜的な気配がするから気付かなかったことにするよ! 僕はもふもふだけ見て感じるね!

「行クゾ」

 そう言ってソウヒツジは、てっちてっちと足音を立てながら歩き始めた。うわあ、凄い乗り心地。中身が不定形――いや、もふもふが凄くもふもふしてるから、身体にフィットして快適な乗り心地だよ。高級ソファーも平伏すレベルだね。
 なんて具合にもふもふを堪能しながらソウヒツジに方向の指示を出し、僕はスーパーまでやって来た。道中色んな人が僕達を見ては悲鳴を上げて逃げていったけど、まあ些細なことだ。うん。
 というか正直気持ち良いから下りたくないんだけど、下りないとスーパーに行けないしねえ。流石にソウヒツジをスーパーの中に入れるのは、ねえ。

「ソウヒツジ君、君は此処で待っててくれるかな」
「行クゾ」

 あっ、僕の意見は完全無視ですかそうですか。
 ソウヒツジは僕を背に乗せたままスーパーへ突撃した。てちてちという冒涜的な足音を鳴らしながら。
 客も店員も僕達を見ている。中には顔面蒼白の人も居て、がたがた震えている。誰も悲鳴を上げたり逃げ出したりはしないけど、いつそうなってパニックが起こるか判らない。
 流石にそれは拙いので、僕が何とかしないと。

「だ、大丈夫ですよ。この子良い子なんで、人を襲ったりしませんし。ちょっと買い物に来ただけというか何というか、本当大丈夫なんで。あの、大丈夫ですよ。うん。なので皆さん買い物の続きをどうぞ。ねっ」
「五月蠅イ、喰ウゾ」

 君のフォローをしてあげてるんでしょおおおおおおおおっ!
 ソウヒツジが放った言葉の所為で、皆パニックに陥ってスーパー内が世紀末になってしまった。叫びながら逃げ惑う人、鉤爪で天井に貼り付いている喰屍鬼、謎の詠唱を始めているムーンビースト、その他色々な種族が色々な反応をしていて――もしかしなくても僕は厄介なことに巻き込まれてるのかなあと、今更なことに気付いたのだった。

「警備員さん、あれです! あれ!」

 そんな店員の声が聞こえたので其方を見てみると、屈強な肉体のビヤーキーが鉤爪を擦り合わせながら僕達を見据えていた。どうやらあのビヤーキーが警備員らしい。
 あんな警備員が居るなんて可笑しいよ。

「ちょっと君達、事務所に来て貰おうかねえ」

 鉤爪をちらつかせながら舌舐めずりをするビヤーキー相手に逆らえる程、僕は強くも何ともない訳で――僕は無言で何度も首を縦に振り続けた。
 ソウヒツジは状況が判っていないらしく、始終「腹減ッタ」と言っていたけど、警備員が差し出したペットボトルのコーラに釣られて温和しく事務所へやってきた。
 事務所に着いた僕は、警備員の促すままにソウヒツジから下りて椅子に座った。ソウヒツジは床に寝そべって貰ったコーラを器用に飲んでいる。仰向けでコーラ一気飲みとは冒涜的な。

「さて人間君、君はこのソウヒツジの飼い主なのかねえ?」

 警備員に聞かれ、僕は首を左右に振る。すると警備員は苦笑いを浮かべ、やっぱりねえ――と言ってソウヒツジを見た。ソウヒツジはまだコーラを仰向けで飲んでいる。

「飼い主だったらソウヒツジの危険性をよく知っているし、こんなことをしたら懲罰物だって知っているからねえ。普通はしないからねえ」

 ち、懲罰物?

「えっ、ぼ、ぼ、僕、つ、つつ捕まっ」
「ああ、大丈夫大丈夫。実質的な被害は無いし、それに被害が有ったとしても飼い主の責任だからねえ。ちゃんと管理出来てなかった飼い主が悪いんだよねえ」

 よ、良かった! まさかの前科持ちになってしまうのかと思ったよ!
 僕が安堵の溜息を漏らすと、警備員は思い出したようにソウヒツジに近付いた。ソウヒツジはコーラのペットボトルをガムのように噛み砕いて遊んでいる。怖い。

「ソウヒツジ君、ちょっとタグを見せて貰うねえ」

 そう言って警備員はソウヒツジの毛に手を突っ込んだ。ずぶずぶと奥まで入っている。ちょっと、腕が殆ど入ってるんですけど。何でそんなに貫通してるの。身体は何処なの、身体は。

「ん、有ったねえ」

 タグとやらを見付けたらしい警備員が、ずるりと腕を引き抜いた。警備員の手には丸く小さな板状の物が収まっている。
 何か妙な黒い液体が警備員の腕に付着しているけど、見なかったことにしよう。

「えっと、ふむふむ。ああ、やっぱりあの飼い主のソウヒツジだねえ」

 タグに飼い主情報が書いているのか、警備員は一人納得し、事務所の電話で何処かに電話を掛け始めた。あの飼い主ってことは、知り合いなのかな。
 なんて思っていると電話は直ぐに終わり、警備員は僕に「まだもうちょっと居てねえ」と言って笑った。
 まだ解放されないのか、当たり前だけどさ。ああ、ナイアさんのフィギュア買いに行こうとしただけなのに、何でこんな目に。
 そうして気拙い時間が流れていった――その時、事務所に誰かが入ってきた。見たところ人間の男性だから、多分人間なんだろう。その人はソウヒツジを見付けると、大袈裟なくらいどしんどしんと足を踏み鳴らしながらソウヒツジに向かっていった。

「おいこら馬鹿羊! まぁた勝手に脱走しやがって!」
「馬鹿羊、違ウ、ソウヒツジ」
「うっせぇバーカ! お前なんか馬鹿羊で充分――」
「喧嘩は帰ってからやって欲しいねえ」

 警備員の少し冷やかで棘のある言葉で我に返ったのか、その男性――多分飼い主――は警備員にこれ以上無いくらい頭を下げた。

「すんませんっしたぁっ! あの馬鹿羊を毎度々々脱走させてしまってすんませんっしたぁっ!」
「本当だよねえ。今回は被害無しだけど、本当困るねえ」
「いやぁ、本当すんません。俺の責任です、はい」
「本当だよねえ。あっ、この子がソウヒツジを拾った子でねえ」

 警備員が僕を飼い主に紹介した瞬間、飼い主は押し倒す勢いで僕の両肩をがしっと掴んできた。顔が近いっ、僕にはそんな趣味は無いよぉっ。

「大丈夫? あの馬鹿羊に怪我させられてない? 喰われてない? 大丈夫? ねえ大丈夫? 指ある? ちゃんと十本ある? 欠けてない?」

 がっくんがっくん揺さぶらないでぇっ。酔う、酔うっ。

「だ、大丈夫です。大丈夫からぁっ、揺さぶらないでぇっ」
「本当に? 嘘じゃないよね? 遠慮しなくても賠償金でも慰謝料でも払うからね? 警察とかに言うのは止めてね? 穏便にお願いね?」

 過去に何か遭ったのがよく判るなあ。

「いや本当に無傷ですから。寧ろもふもふさせて貰って、背中に乗らせて貰いましたからっ!」

 僕が其処まで言って漸く納得したのか、飼い主は僕の肩を揺さぶるのを止め、此方が申し訳なるくらい頭を何度も下げて謝ってきた。
 それから警備員からのきつい注意を受け、飼い主はソウヒツジと共に事務所を出て行った。事務所を出る寸前、ソウヒツジが「マタナ」と僕に言ってきたのが怖いような嬉しいような。
 まあ、そんなこんなで僕もやっと解放された訳で。ああ、自由って良いなあ。何だかとても疲れたし、家に帰ろうかな――ん? 何か忘れているような。何だったっけ。


 あっ、ナイアさんの限定フィギュア。


 急いで買いに行ったけど、案の定売り切れていて僕は落胆した。絶望的だね。本当、僕って付いてない。
 ああでも、極上のもふもふを味わえたのは良かったかな。ソウヒツジに乗れるなんて経験、普通の人生を歩んでいたら出来ないしね。じゃあ僕は付いているのかな、うん。
 なんて考えながら僕はコンビニでコーラ味のガムを買い、胸ポケットに入れた。また会った時の為に、ね。

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